2020年10月29日木曜日

夢のアルジェリア

"ADN"
『DNA』

2020年フランス映画
監督:マイウェン
主演:マイウェン、ファニー・アルダン、ルイ・ガレル
フランスでの公開:2020年10月28日


いろいろ問題多い。
マチュー・ドミー(ジャック・ドミー&アニェス・ヴァルダの息子)との共同シナリオとあるが、映画のベースになっているのはマイウェンの"自分史"である。
映画は主人公ネージュ(40歳代、離婚し、3人の子の母、職業不詳。演マイウェン)の母方の祖父エミール・フェラー(演オマール・マルワン)の老人施設での最後の日々から始まる。アルジェリア独立に重要な役割を果たした共産党員であり、独立後新政府のさまざまな要職の座にあった後フランスに移住(この理由は映画では明らかにされない)。エミールの娘二人がフランスで家庭を持ち、たくさんの孫、ひ孫ができる。この複数の家族の集合体はじつにバラバラでお互いに特別仲が良いわけではないが、この祖父エミールが要となってなんとか親族の絆を保つことができてきたし、このエミールが亡くなったら崩壊してしまうだろうことを窺わせる描き方。ネージュが友人のジャーナリストと組んでアルジェリア独立の立役者のひとりだったエミールのフォトバイオグラフィー本(アルバム大の大判)を自費出版し、記憶が薄くなってしまったエミールの存命中に完成する。エミールの(最後の)誕生日に印刷された本が到着し、老人施設に集まった親族たちに配られ、古い写真の数々に遠いアルジェリアに想いをはせるという美しいシーンがあるが、それを心良く思っていないのがネージュの母親のキャロリーヌ(演ファニー・アルダン)だった。
 しかしてエミールの死はやってくる。ここからにわかに映画は”擬似”コメディー展開になり、葬式の形式やら、棺桶の材質やら、葬衣の色やら、あらゆることで家族がもめはじめる。イスラム教徒ではなかったのに、最晩年に日々の合間にコーランの唄句を吟じていたということから、モスク葬が選ばれるが、それに反対する孫のひとりが葬儀中の送辞に"アーメン"と祈祷するとか。そしてネージュが送辞をする番になり、かのバイオグラフィー本の著者のメッセージを読み上げようとすると、乱暴に母のキャロリーヌがマイクを取り上げ、ネージュに一言も言わさずに自分の送辞をひとしきりぶち上げてしまう...。
 火葬した後の遺灰を管理することになったネージュに、母キャロリーヌが遺灰を手渡す段になって、この娘と母の関係が長年にわたってきわめて険悪であったことが、この映画上では初めて表面化するのであるが、事情通でマイウェンの個人史を知る者ならよく理解できる図である。マイウェンの母で女優のカトリーヌ・ベルコジャは娘を「スター」に育てることに固執し、厳しく半ば暴力的な養成方法を用いるが、娘がオーディションに落ちるなどの失態を見せると強烈な折檻が待ち受けていた。この映画では40歳を過ぎても母親の「おまえのためにこれだけしてやっても、おまえは出来の悪い娘」という叱責を受け続け、それを常に怖がっている娘、という極端な母娘関係が描かれる。ファニー・アルダンが演じる執念の塊りとなって悪魔的に意地の悪い言葉を吐き続ける女のさまは、監督マイウェンが望んだ通りの姿だったろう。
 そして映画には鬼の母親の他に、母親と別れて別居している父親ピエール(演アラン・フランソン)も登場する。マイウェンの個人史では、父親(ブルターニュ人とベトナム人の混血)も母親同様の言葉と身体的な暴力を娘に行使していたことが知られているが、この映画でも冷笑的で毒舌的で偏屈なインテリ隠居者のように描かれている。
 重要なのはこのネージュは父母の愛とは無縁に育ち、その両親との絶対的な不和関係をずっと維持しているということ。この母と父がサイテーだからこそ、この映画ではネージュは心の拠り所の「隔世遺伝」を求めるのである。それがエミールの"アルジェリア”なのだ。
 その自分の"アルジェリア度"の濃さを確認したくて、ネージュはインターネットで見つけた(アメリカのサイトらしい)有料のDNA鑑定を試してみる。民族的ルーツをパーセンテージで表すその検査では、北欧やイタリアや南欧のパーセンテージが高く、北アフリカ(マグレブ、アルジェリア)は18%ほどしかない。この数字に落胆しながらも、もっとルーツについて詳しく知りたくなり、父親ピエールにDNA鑑定を求めるが頭ごなしに断られ(おまけに、俺は生粋”フランス人”であることに揺るぎない誇りがあり、前の選挙ではFNに投票した、という余計なことまで知らされる)、その後の夢の中で父親を呪うシーンが見もの(詳しくは言わない)。
 そのルーツ的アイデンティティー的な揺らめきの中で、ネージュはアルジェリア大使館に"国籍取得”を申請し、多くの書籍や映像ドキュメントを漁ってアルジェリア漬けになる。その極端で無理やりな”自分探し”は精神を蝕み、拒食症におち入り、「1971年10月17日の虐殺」(パリの独立派アルジェリア人デモ隊数万人に対してのフランス警察機動隊の過剰警備によって死者不明者数百人を出した事件)のセーヌ川溺死者慰霊石板のある橋の上で気を失い、病院に収容される。長い眠りからさめると、アルジェリア大使館から電話が入り、無事アルジェリア国籍が認可されたことを知る...。
 映画クライマックスは病院を(点滴管を抜きちぎって)抜け出し、新パスポートを持って、(古式に則って)鉄道と船をつかってアルジェリアに渡るネージュの"解放された”姿なのだ。そしてそのアルジェリアはかの2019年民主化要求の大運動の只中にあり、そのデモ隊の中に混じって、若いこの国の人々に迎えられて恍惚とした表情のネージュなのである。夢のアルジェリアに抱かれて再生した女のように。
 
 問題はこう立てられていると思う。父母に愛されなかった娘。このどうしようもない父母から生まれた不幸。私の不幸は父母によって決定されているのか。私のアイデンティティーを形づくるものはそれを超えたなにかがあるはずだ。綿々と流れるDNAに刻まれたもの。このような秘伝伝授的な探究の末に見つかったものがアルジェリアだった、と。これはかなりはしょってませんか?短絡ではありませんか? ー というのが私の疑問。なぜにアルジェリア?という問いにはもっと深くわからせてくれる映像作品でなければならないでしょう。アルジェリアの独立の惨劇のドキュメント映像をモンタージュ導入して、自分の側の苦悩にしてしまうだけでは説明不足でしょう。映画終盤、アルジェリアの人々の波に身を沈め「私はこの民と一緒」と言わんばかりのカタルシスに浸る図、そのために作った映画なのですか?
 そのアルジェリアは大地なのか、民なのか、国なのか。私は個人的に国旗はためく光景というのにアレルギーがあり、たとえそれがトリコロールでも日の丸でも、そういうナショナリズム象徴へのありがたがりに拒否反応を起こしてしまうタチである。この映画でアルジェリア国旗はおおいにはためくのだが、それをマイウェンは例えばアルジェリア系人のフランスでの結婚式に市役所前にはためいてしまうアルジェリア国旗(=これは極右政党から攻撃の的になっている)や、アルジェリアでの民主化要求デモの時にはためいてしまうアルジェリア国旗のように、あたかも民衆の側のシンボルのように映そうとするのだ。どうなんだろうか。私はどうしてもこの旗は「民衆」ではなく「国=国家」ではないかと思ってしまう。
 そして主人公ネージュの長かったアイデンティティー障害と拒食症の苦しみを一挙に解消して救済してしまうのが国籍=パスポートである、というシナリオにも私はついていけない。なぜなら彼女を救済したのは DNAに象徴される個人史の豊かさや奥深さではなく、"国”だということなのだから。国に救われ国に愛されたと彼女は感じたのだろうか。あなたがどんなに国を愛しても、国はあなたを愛することなどない。ここがこの映画のマイウェンと私を分つところだ。このブログも高く評価していた映画人だったので残念。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

↓『DNA』予告編。


マイウェンの監督作品では以下の2作が爺ブログで紹介されています。めちゃくちゃ高く評価しています。
『ポリス(Polisse)』(2011年)
モン・ロワ(Mon Roi)』(2015年)

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