2020年4月19日日曜日

"福島”でも変わらなかった日本がコロナ禍で... ?

作小説『折れた魂柱(Ame brisée)』のプロモーションでフランスに滞在していた水林章氏から3月21日にメールが届いた。予定していた図書フェスティヴァルや書店イヴェント等がすべて中止になり、3月16日のマクロン大統領のテレビ演説を聞いて東京に戻るフライトがなくなる可能性を察して急遽22日の便で帰日することにした、と。
 新型コロナウィルス禍による緊急事態の真っ只中だったフランスから、若干の時差があってからその真っ只中に入っていく日本へ。仏ロプス誌ウェブ版4月18日付けに、東京の水林氏の長いインタヴューが掲載されていて、やむなく帰日した経緯から、日本でのコロナ禍状況、安倍政権による感染防止対策、"福島”の教訓が生かされたか、コロナ禍後の日本の展望などについて語っている。見出しは「水林章《このパンデミックがものごとの流れを変えるとは思わない... 福島をごらんなさい》」とペシミスティックなトーンである。以下、(無断で)部分訳したものです。

(....滞仏を中断して3月22日の便で東京に帰った経緯の説明に続いて....)

水林 ー  3月の前半を通してフランスの友人たちと共にしていた食事の時間が、今や遠い過去の思い出に思える。時間を捉える感覚が変わってしまった。フランス人の友人たち(そのうち何人かは感染していた)には、私たちは夏にはまたパリに帰ってくるから、と言っていた。しかしそう言いながら私は自分の言葉を疑った。その頃この世界がどんな状態になっているのか知っているのか?たった3週間で世界は顔を変えてしまった。突然、未来(avenir)はもはや存在しないものになってしまった。それは不確かなものになった。それは来るべき(à venir)ものだろうが、たぶん来ないかもしれない。この奇妙な感情が今日私から離れないのだ。

摩擦音が少ないから、飛び散るつばも少ない

ロプス ー 高齢化社会にもかかわらず日本は現時点において隣国のような厳しい政策を発動することなくCOVID-19禍の被害が比較的少ないように思われます。どのように説明できますか?

水林 ー それはフランスでのCOVID-19の爆発的感染を見て以来、私自身不思議に思っていることだ。確かに日本での数字はヨーロッパ諸国に比べればかなり低いものだ。しかしこの算定は本当に信用できるものなのか? ある専門家たちは日本の検査テスト件数が非常に少ないことに関係していると考えている。2012年ノーベル医学賞受賞者山中伸弥博士が指摘するように、限られた検査テスト件数は非常に警鐘的な事実を隠すものである可能性がある。COVID-19に起因する死者数は、実際の数をよく反映したものではない。コロナウィルスの犠牲者の数は、年間10万人とされる急性肺炎による死亡者数に混じっている可能性がある。数字統計上の差異から生じるこの疑義に加えて、もうひとつ政治的な支持によるものではないかという疑義がある。3月24日のオリンピック延期の決定の後に数字が急激に上昇し始めたことに気づいたのは私ひとりだけではない。その後突然に「ロックダウン」すなわち全面外出禁止令の可能性が語られだした。しかしその10日前まで、安倍晋三首相はオリンピックが予定通り7月に開催されることを望むと言明していた。
その論理上、首相はWHOに1億4千万ユーロを献金することまでして、テドロス・アダノム事務局長からCIOにオリンピックの予定通りの開催に肯定的な意見をもらおうとした。なんたる金の無駄遣い! この金を不安定な困窮状態にある労働者たちや中小企業を援助するために使うこともできたであろうに。こうした事柄から、私たちはこの世界最大のスポーツイベントの開催維持のために状況悪化把握を最小にしておく操作があったのではないかと疑うのである。出来事の重大さを矮小化すること、私たちは福島以来よく知っている。
さらにこの件に関する(非常に個人的で、ただの戯言と思われかねない)第三の考察を加えてみよう。もしも日本が隣国に比べて比較的被害が少ない(前に述べたように、統計数字の信用性が証明されなければならないが)とすれば、それは社会的儀礼あるいは習俗の特殊性が大きな役割を果たしているのではないか。私が言いたいのはヨーロッパ人からは考えられない習慣的礼儀が特徴的な日本人の社交性のことである。すなわち、接吻も抱擁も握手もせず、お辞儀、すなわち上半身を前に傾けることだけなのだ。
言い換えれば今日よく言われるようになったソーシャル・ディスタンシングがこの国ではごく自然に日常的に行われているのだ。それに加えて日本人に特に冬季に広く浸透しているマスク着用の習慣がある。また、その他の意外なファクターとして付け加えていいのではないかと思うのは、この国には討論・議論の文化が欠けているということだ(そもそもそれが日本の土壌に民主主義が根付くことが難しい原因なのだ)。もしも国別の熱弁の生産量(つまり飛び散る”唾液飛沫”の分泌量)を計測できるとすれば、フランスと日本を比較したら間違いなく激烈な差が出るはずなのだ。これは私の45年間にわたる東京・パリ往復からくる実感である。
なおこのことに関して注意と確認をお願いしたいのは、日本語を話す人たちにおいて、日本語の音声学的特徴(閉鎖音 "p, t, k, b, d, g"が少ない、摩擦音 "f, v, s, z, ʃ, ʒなど"が少ない... )によって飛び散る唾液飛沫の出る量は多くないということ。馬鹿げたことに思えるだろうと私も認めるが、このことは私の頭から離れないのだ。

死に至るネオリベラルの三段構え

ロプス ー  安倍晋三首相の政策をどう評価しますか?

水林 ー 本日は4月13日である。安倍晋三は3月13日の「2012年新型インフルエンザ等対策特別措置法」の改正法成立に基づいて(4月6日に)緊急事態宣言を発令した。しかしこの緊急事態宣言は厳しい外出規制を伴わない。政府はコロナウィルスの感染拡大を防ぐために国民に対して移動、商業・生産など職業上の活動を制限するよう要請する。この要請する(demander)という動詞に私は固執するが、それはお願いであり、罰則を伴わず、とりわけ補償の約束を伴わないお願いにすぎないのだ。
こういった要請があるにも関わらず、多くの人たちは仕事に行かねばならず、生活がかかっているから通常のように通常の業務活動をこなさなければならない。もしも政府が業務の停止によって生じるすべての損失の補償を約束したならば、人々は自宅にとどまることができただろうに。この政府の要請はそれ自体はもっともなことであり、職業活動の停止は伝染病との闘いを目的として公衆の厚生と国民の公益の回復を目指すものである。しかしこの首相とその政府にとっては、働く人たちと企業に対してその損失を補償することは問題にしておらず、私の目には言語道断のことに見える。国家がその市民たちを救うという義務を意図的に放棄するなら、それでもそれは国家なのだろうか?

 安倍晋三は2012年以来政府のトップにある。この国の歴史において首相の座にある最長記録の保持者である。彼が権力に就いてからというもの、日本の政治ははなはだしく悪化した。その民主主義を破壊し極端なネオリベラル政策を主唱する方向性、その悪しき決定事項の数々を私はここで長々と開陳するつもりはないが、その数は夥しい。
安倍晋三の日本政策は、死に至るネオリベラルの三段構えとして特徴づけられる:緊縮政策、度はずれな規制緩和、規制なき自由交易。2019年10月、彼の政府は消費税(VAT)を10%に上げ、その直後GDPの大幅な減少をもたらした。その悪い状況を取り繕うために、安倍晋三は外国人観光客を大挙して訪日させることを望んだ。特に中国人観光客を。この目的のために、在北京の日本大使館を通じて中国人たちに、中国新年の休暇を利用して日本発見の旅に来るよう大々的にキャンペーンを張ったが、その頃武漢市は隔離封鎖されていたのだ!
私たちは強権的であると同時にネオリベラルである政府の治世下にあり、スキャンダルに次ぐスキャンダル、汚職に次ぐ汚職、それは後世に記録として残すべき公文書を思いのままに改竄するという
法治国家のいしずえを崩壊させるところにまで至っている。日本の悲劇、それはこれほど問題多い政府が常に十分な支持率を確保していることと同時に、国民的スケールの反対運動が全く現れる気配がないことなのである。


ロプス ー あなたは軍事および民間の核利用にはっきりとした反対の立場を取っています。日本はこれまで広島、長崎、福島という三度の大きな核の惨事を経験しました。そのことはこのパンデミックの惨事を同じようなこととして捉えることができるのでしょうか?

水林 ー 私は国民的認識としてこのパンデミックと3つの核の惨事を等価のものと見なすかどうかはわからないと思う。私はむしろできないと言おう。これは二つの明白に異なった現象の範疇である。この恐ろしいパンデミックという事態を生きている今日の人たちが、そのことで2011年3月に体験したこと、そして私たちの祖父母たちと父母たちが1945年8月に体験したことを思い起こすということはないだろう。今日の日本人たちが、(時の)政府権力がこれらの事態を「管理」しようとする(あるいは管理しまいとする)やり方に類似性があるということを敏感に見てとることができるかどうかも定かではないと私は思う。福島からの避難者たちへの援助打ち切りと、富裕層と大資本を優先する経済的金融的な配慮を理由にパンデミック関連の不景気の被害者たちへの援助拒否を同じように認識できる鋭い目を彼らは持っているか? 私はないと思う。正常であれば、国家(公的権力あるいはルソーが定義するところの共和国、今日この用語は意味が廃れてしまったが)はそのためにあるのである。

福島は何も変えなかった 

ロプス ー 日本は規律正しい国という評判があります。現在進んでいる保安政策は近い将来公的な自由を少しずつ侵食していくのではないかという危惧はありませんか?

水林 ー 外出自粛、自宅隔離は移動する自由という自由の最も根本的なものを私たちから奪うものだが、それはさして重大なことではない。それは可動性の一時的な中断にすぎず、公共の利益という大義のためであれば私は喜んで受け入れる。私が恐れるのは、もしも私たちがあまり用心深くなくて、常時すきまない監視体制が敷かれた悪夢のような服従社会に私たちを落とし込むビッグブラザーが支配する世の中を到来させる危険を冒すかもしれないということ。しかしヨーロッパ人たち、そしてとりわけフランス人たちは決して(どんなことがあっても)忘れることがないだろうと私が切に願っているもの、それは1789年(フランス革命)発端の理念、”神聖にして不易の権利”として打ち立てられた根本的自由権、とりわけ思想の自由と良心の自由なのだ。
あなたが言うように、日本は規律正しい国である。権力当局が外出の自粛要請を発令するだけで渋谷繁華街はほぼ砂漠と化してしまう。1931年から45年という帝国絶対権力の時代の伝統がまだ精算されていない国にあって、人々は上からの命令にたやすく従い、自由権の要求や擁護は難しい課題となる。安倍晋三率いる自由民主党は2012年に既に憲法改正案を発表していて、その中に巧妙に独裁政府を成立させられる「緊急事態」に関する条項がある。
東京に生きる私は1789年の理念が私たちの明晰性を保護し、1933年のドイツ(ひとりの悪魔的に著名な独裁者が、全権委任の法に支えられ、議会の承認なし法律を公布できる権利を奪取した)にも似た状況の危険状態に直面している私たちの明晰性を保護し、私たちを導いてくれるものと硬く信じている。

ロプス ー この疫病禍の前と後では違いがあると思いますか?

水林 ー  私はこのパンデミックが物事の流れを変えるとは考えられない。福島のことを考えてみてください。福島は何も変えることができなかった。国土の半分を滅ぼすかもしれなかった核の大惨事でさえ、政治体制の根本的な仕組みを改善することができなかった。市政にすら無関心な”市民たち"に助けられて、国中を原発で溢れさせた政治権力は今も統治を続けている。
公共サービスから国の予算を削減し続けた歴代の政府の責任は、今はっきりと非難の対象になっている。作家アニー・エルノーが「大統領への手紙」(註:3月30日、エマニュエル・マクロンに宛てた公開書簡)の中でこう書いたのは全く正しい:「あなたは医学保健界の人々からの警鐘に耳を傾けなかった。その昨年11月のデモ行進の横断幕にはこう書かれていた "国が金ばかりを数えれば、われわれは死者の数を数えるだろう” ー 今日この言葉は悲しく反響している」。 フランス人たちは未来のためにこのことを教訓とするだろうか? 私はすると思う。では日本人は?

(後略)

翻訳はこの程度にしよう。
重い内容を水林氏はフランスの雑誌およびフランスの読者に説明した。だがこのことを一番聞かなければならないのは、日本人ではないの?


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4月21日追記
この"無断翻訳"記事、反響が大きく、アップして48時間で300ビューを超えました。読んでいただいてありがとうございます。感謝のしるしで、"ボーナストラック”として、同インタヴューの最終部分のQ&Aを以下に紹介します。

ロプス ― 貴著『よそから来たある言語(Une langue venue d’ailleurs)』の中で、あなたのフランス語への愛と、あなたが自分の母国語をいかに「外国人」のように話すかを学んだことが書かれています。今日、伝染病と孤独と死に立ち向かうために、読むべきおすすめの本はありますか?

水林 ― 本のおすすめをするのは遠慮するよ!なにしろ私自身、多くの死をもたらす伝染病によって生み出された重い現実を前にして、読書の悦びに身を委ねることなどできはしないのだから。ただ私は、好戦的な語彙で語気を荒げ、言論や思想の多様性を抑圧しようとする昨今の極端な情勢の中で明晰であり続けるために、モンテーニュの『エセー』のような重要な古典の書を再読したり、モーツァルトのオペラの合唱ポリフォニーやベートーヴェンの弦楽四重奏曲に耳を傾けることにしている。病みと老いがだいぶ進んでいる文明の中で生きている時、この文明の活き活きとした青春期に生まれた名作傑作の数々と共に生きることを学び直すことは有意義なことだよ。

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4月23日追記

(続報です)
水林章氏とメールのコンタクトが取れました。私が無断で翻訳しブログ転載したロプス誌のインタヴューに関して、咎めもせず黙認してくださったのですが、やはり権利を所有するロプス誌と問題になることを考慮して、今週末にはブログから削除することにしました。
そのメールの中で、水林氏はこれがフランスからのインタヴューであるため、言いたいことのすべてが言い切れていないと。それはフランス人よりも日本人に言いたいことで、日本国憲法の条項のことなど(フランス人には)たくさんの説明を要することなので、言い切れなかったことのようです。その部分をコピペします。

(引用はじめ)
とくに補償がともなわない休業要請は公権力による憲法違反だという視点をはっきり言えばよかったかなと思っています.もっとも,これはとくに日本人に必要な情報ですね.財産権にかんする憲法29条には「私有財産は,正当な補償の下に,これを公共のために用いることができる」と書かれています.疫病蔓延をふせぐために人々に労働の自粛を要請することは「公共の福祉」にかなっていますが,それには「正当な補償」をともなわなければならないのです.このことを政権を牛耳っている自民党の政治家たちも,悲しいかな国民の側も十分に理解していません.つまりどれほど憲法(これはぼく自身あちこちで書いていることですが,日本国憲法は89年の人権宣言と91年憲法と思想的につながっています)が日本国民の精神に内面化されていないか,生きられていないかを示すものだと思うのです.
(引用終わり)

「補償がともなわない休業要請は公権力による(日本国)憲法違反」、日本国憲法が1789年フランス革命の「人権宣言」と「フランス1791年憲法」と思想的につながっている、この2点、同志たち、心に留めましょう。

2020年4月18日土曜日

2020年のアルバム:ルイーズ・ヴェルヌイユ『黒い光』

Louise Verneuil "Lumière Noire"
ルイーズ・ヴェルヌイユ『黒い光』

2020年3-4-5月は後世に「コ禍外出禁止令の55日」として記憶されよう。この間にもレコード/CD新譜は発売され、この間にもアーチストたちは罹感したり死んだりした。テレラマ誌評「ffff」に輝いたルイーズ・ヴェルヌイユのデビューアルバム『黒い光』は資料では4月10日発売ということになっていたが、(コ禍ロックダウンでレコードCD店が全部閉まっているからしかたなく発注した)FNAC通販から発注後1週間かかって(不要不急の商品だからということではない。ロックダウン中通販は総じて遅配。事情はわかる)到着したのが4月20日だった。その間に4月16日にクリストフが亡くなったのだ。その週末17-18-19日、3枚のLP、5枚のCD、2枚のシングル盤というわがクリストフ・ディスクコレクションを引っ張り出して、リベラシオン紙の追悼特集記事(8ページ)読みながら、故人を偲んでいた。稀代のサウンド凝り性で、スタジオ篭りオタクだった青メガネのダンディーは、電子やらノイズやらの実験的な録音もままあったし、その歪みや残響が「クリストフ印」みたいな曲も多かった。私のように高級なオーディオ装置を持ったことのない人間でも、ヘッドフォンの奥でけったいな音が刺激的に蠢く感じがわかりましたとも。で、4月20日に届いたルイーズ・ヴェルヌイユを一聴した時、この人、クリストフの生まれ変わりではないかえ、と思うほどの...。
テレラマその他がフランソワーズ・アルディ、マリアンヌ・フェイスフル、ジェーン・バーキンなどを引き合いに出したのですが、私の印象はもっともっと野生的な感じ。一連のトニー・ガトリフ映画のヒロインたちに共通するダイヤモンド原石っぽさと言いましょうか。スペインとの国境にあるアリエージュ県に生まれ育ったルイーズは曽祖母がアンダルシアからやってきたヒターナだったと。その曽祖母にインスパイアされ、オマージュとして捧げられた歌が7曲目「エメレンシア Emerencia」:

エメレンシア
黒い鳩(パロマ・ネグラ)
夢の中で未来を見
コンドルの眼で人生を読み解く
月に祈る 不滅のオード
運任せの放浪を歌い
白熱する火の中に
苦しみを追いやる
70年代ヴィンテージ・シンセとストリングスに彩られた5分42秒の神々しい"プログレ"バラード。これなどはクリストフの2001年の傑作『地球が傾いたかのように(Comm'si la terre penchait)』を思わせるものがありますよ。
この凝り性の音作りの張本人は(→)サミー・オスタという男で、ラ・ファム(La Femme)、アリオシャ(Aliocha)、フ〜!シャタートン(Feu! Chatterton)、そしてル・クレジオの娘のバンド、ジュニオール(Juniore、私ずっと記事原稿書きかけ中)などを手がけてきたアレンジャー/プロデューサーです。2010年代の仏サーフ/サイケデリックの仕掛け人です。フ〜!シャタートン(1枚目)を絶賛した爺ブログの耳には、ルイーズ・ヴェルヌイユのドラマティックな展開の歌(例えば 4曲め"Fugitif"や8曲め"Lumière Noire")は、アルチュール・テブール(フ〜!シャタートン vo)がそのまま女性化したフ〜!シャタートン楽曲に聞こえてしまいますよ。
ルイーズ・ヴェルヌイユの個人的環境についてちょっと重要なことなので、特記しますと、英国シェフィールドから出た21世紀最重要ロックバンドのひとつ、ジ・アークティック・モンキーズのリーダー/ヴォーカリスト、アレックス・ターナーとカップルの関係にあります。それがどう影響しあっているのかは定かではありませんが、アレックス・ターナーは自他共に認めるゲンズブール・フリークであり、ジ・アークティック・モンキーズの2018年アルバム『トランクイリティ・ベース・ホテル・アンド・カジノ(Tranquility Base Hotel and Casino)』は『メロディー・ネルソン』を意識して制作されたと公言しています。
そしてこのルイーズ・"ヴェルヌイユ"という源氏名なんですが、セルジュ・ゲンズブール邸のあるパリ7区ヴェルヌイユ通り(5 bis Rue de Verneuil)から拝借しているのです。これを称して"ゲンズ名”と言います。
この女性がどれほど"ゲンズブール”か、という証明のような歌が(曲名からモロですが)6曲め"Nicotine(ニコチン)"です。

Oh nicotine
おお、ニコチン

Toxique au mal aiguisé comme une mine

爆薬のように鋭い痛みのある毒
On nicotine
おお、ニコチン
A nue ma langue mordue par tes canines assassines

おまえの凶暴な犬歯に噛まれてしまう私の舌
中毒者サイドから見れば、ひとつの人工の楽園、ゲンズ、ゲンズ、ゲンズ・ワールド。アルコールの歌も書くでしょうね。
そして、前述の曽祖母から受け継いだアンダルシア性がはっきり聞こえる歌が3曲め"L'Evadée-Belle(華麗なる逃走)"で、生ギターのアルペジオに始まり、スケールの大きなランドスケープが展開される地中海もの(マグレブ風パーカッションが効いてる)です。そのままトニー・ガトリフ映画のサントラに使えそう。


映画音楽と言えば、これなんか一連のジェームス・ボンド映画音楽(主題歌)とフランソワ・ド・ローベ型の凝り性サウンドが合体したような、究極の映画テーマのようなびっくりの佳曲が9曲め"Love Corail"(「愛のサンゴ礁」と訳せば、まさにそれふう)。


かと思えば、シックスティーズ・サイケデリック・ポップ・イエイエみたいな曲もあって、ミニスカートと花模様がぐるぐる回る世界、5曲め "Le Beau Monde"(美しき世界)。サミー・オスタは、ル・クレジオの娘のバンド、ジュニオールではできないこと(能天気ポップということですが)をこのルイーズ・ヴェルヌイユで実現してる感じがします。


だけど本領は情念の人なのだ、と激しく納得させられるのが、最終曲10曲め"A mort amant"(私はこれを「死ぬほど好きな人」と訳す)。ダミア〜バルバラ〜ラファエル・ラナデール直系の、恋人の不在が死に至る情慕となってしまうシャンソン・レアリスト。このナチュラルに震えるヴィブラート。死を口にする歌詞。6分7秒!

私のベッドにはまだあなたの愛撫のための場所がある
あなたの場所はこの上ない最悪の悲しみよりも冷たい

あなたの憎たらしい声が聞こえない目覚めなんて

あなたにわかる? 私にはあなたの欠乏症しか残っていない

帰ってきて、恋よ、恋人よ
欲望になって、ダイアモンドになって

晴れた時も、嵐の時も
帰ってきて、恋人、死ぬほど好きな人

間違いなく2020年春、最高のアルバムです。

<<< トラックリスト >>>
1. Désert

2. Blue Sunday
3. L'Evadée-Belle
4. Fugitif
5. Le Beau Monde
6. Nicotine
7. Emerencia

8. Lumière Noire
9. Love Corail
10. A mort Amant

LOUISE VERNEUIL "LUMIERE NOIRE"

CD/LP/Digital Mercury/Universal France
フランスでのリリース:2020年4月10日

カストール爺の採点:★★★★★
(↓)テレビCanal Plusの音楽番組 Jack のインタヴューで、デビューアルバムを語るルイーズ・ヴェルヌイユ。大物です。