2019年12月24日火曜日

2019年のアルバム: オアジス・イズ・グード

イヴァン・ティルシオー『オアジス』
Ivan Tirtiaux "L'Oasis"
Oasis is good mais tu peux pas comprendre.

ルギーのインディー・シーンの人。もう42歳なのにこれがまだセカンド・アルバム。ファーストアルバム『飛翔(L’Envol)』(2014年)に関しては、2016年3月15日号のOVNI紙上でレビューしたので、読んでみてください。
 ブラジル寄りの変則コード進行と、ニック・ドレイク or ディック・アネガルンを想わせる複雑なアコースティック・ギター奏法、そして深みのあるヴォーカル、イヴァン・ティルシオーはそれだけでも十分な魅力があるが、私がファーストアルバムで評価したのはそういう職人的で丁寧な曲作りと、ジョルジュ・ムスタキに近いゆったり余裕ある浮遊感であった。このセカンドアルバムではそういう余裕とか"遊び”とかがスパっと削がれて、厳しい意匠心で作られたような純度の高さがある。曲数もファーストが11曲と少なめだったのに、新作はさらに少なく8曲になった。短くなったというわけではない。5分を越す長い曲が3曲。そしてその8曲のうち、2曲がカヴァーである。その1曲はジョルジュ・ブラッサンスの「哀れなマルタン(Pauvre Martin)」。一生不平も言わず畑を耕し続けた農夫マルタンが、最後に自分の墓を自分で掘って、人に迷惑をかけまいと死んでいく、それだけの凄絶な歌なのだが、ティルシオーはブラッサンス のように淡々と処理せずに、農夫の肖像画を描くようにデリケートに展開していく。このヴァージョンは良い。もう1曲は1934年ジャック・ドヴァル作の劇『マリー・ギャラント』の挿入曲で、パリ亡命中のクルト・ワイルが作曲した「大怪物リュスチュクリュ(Le Grand Lustucru)」。夜眠らない子供たちを食べてしまう怪物リュスチュクリュをテーマにした子供を寝かしつけるための伝承歌からインスパイアされたが、1934年の怪物アドルフ・ヒトラーをあてこすった抵抗歌である。美しくも退廃的なキャバレー音楽をティルシオーはトム・ウェイツモードでニュアンスたっぷりに歌っている。

この2つの良質なカヴァーに刺激されるかのように、残り6曲のオリジナル(今回は作詞作曲イヴァン・ティルシオー)も素晴らしい。
 アルバム冒頭の「石(Caillou)」は"愛の砂漠”のようなテーマだが、二人の関係がもうどうなっているのかわからなくなった恋の終わりの永遠化に、この男は石と化し、砂と化し、石橋の石となり、歴史を引き伸ばそうとしている。悲しい苔の蒸すまで。エフェクトの効いたサイバー・フォークのサウンドも悲しい。

 続くアルバムタイトル曲「オアジス(L'Oasis)」は、ティルシオーの原点/巣とも言える「フェルム・ド・マルタンルー」(シャルルロワの郊外の農家を改造して、芸術家一家の祖父、父、母などが1975年に立ち上げた劇場・演劇・造形工房)の周辺の(失われつつある or 失われた)楽園的環境を歌った作品。
僕のはるか遠くの記憶
真夏8月のただなかの子供の遊び
僕のおじいさんの影が
マルタンローの小森を散歩している
(....)
僕たちは老人に会いにいく

アプリコット、柑橘、カルダモン、
幾千もの香りが平土間と庭を包んでいる
そのオアジスに


 アルバムで最も印象に残った曲が5曲めの「浜辺(La plage)」。貯蓄を全部はたいて、10歳の子供と妻を連れて旅に出た男、何日もの野宿の末、海が見え、通りかかった舟に俺の3年分の給料をすべておまえにやるから、と満員の舟に乗り込み、オレンジ色の救命着をつけ... 気がついたら浜辺に横たわっていた、それもヴァカンス地の浜辺... 「他の人にはない幸運」と歌う難民フォーク・ブルース。21世紀の悲劇を短編アニメ映画のような視点で皮肉なハッピーエンドで包むストーリーが胸にせまる。


 そして、アルバムを閉じる8曲めの「目覚め (Réveil)」は、植物的な時の流れに生きることの覚醒を宣言するマニフェスト的な歌。樹皮の中に、枝の中に、葉の中に「私は生きている」と歌う。
Je suis vivant  私は生きている
Je le sens dans les feuilles 私は葉の中にそれを感じる
Je suis vivant 私は生きている
J'ai le vent dans les feuilles 葉の中に風があり
L'amour, amouragon 愛、愛嵐
Et les feuilles dans le vent  そして風の中に葉がある


 世にもオーガニックな1枚のアルバムを閉じるにふさわしい自然との交感。『オアジス』は深い憩いを与えてくれる。

<<< トラックリスト >>>
1. Caillou
2. L'Oasis
3. Dans la poitrine
4. Pauvre Martin
5. La plage
6. La ruade
7. Le grand Lustucru
8. Réveil

Ivan Tirtiaux "L'Oasis"
LP/CD/MP3 Le Furieux Music
フランスでのリリース:2019年5月

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)イヴァン・ティルシオー、ブラッサンス「哀れなマルタン」を歌う

2019年12月22日日曜日

Born Toulouse

Jean-Paul Dubois "Tous les hommes n'habitent pas le monde de la même façon"
ジャン=ポール・デュボワ『すべての人間が同じように世界に生きているのではない』
 

2019年度ゴンクール賞作品

者ポール・ハンセン(フランス風には"アンセン"かもしれない)は1955年2月20日にトゥールーズで生まれている。その五十数年後、ポールは北米ケベックの監獄の中にいる。小説はモンレアル(モントリオール)のボルドー刑務所の6平米の二人房に収監されているポールの日常描写から始まる。パトリック・オルトンと名乗る同居人は、ヘルス・エンジェルスのリーダー格で、警察と通じているという疑いからグループからリンチ殺害されたバイカー殺人事件への関与の廉で獄入り、筋肉隆々のタトゥー男で気性が激しくふた言めには「八つ裂きにするぞ」(原文は 「"en deux" = 二つ裂き」)とすごむ益荒男(ますらお)。戯画化されたハーレイ・ライダーだがいいキャラ。この同居囚との悲喜劇的獄中エピソードの連続の合間に、小説はポールの波乱の生涯(まだ終わっていない)をクロノロジカルに展開していく。
 ルーツはデンマークにあり。デンマークのユトランド半島の最北端の漁村スケーエン(Skagen)、海へ漁に出るか、陸地で魚加工品をつくるか、それしかない社会で生まれた父ヨハネス・ハンセンは、少年の日に村の海際に15世紀に建立され教会が時と共に海から砂風に抗することができず砂に埋れてしまい鐘だけになった廃墟を見て強烈な衝撃を受け(よくわからない神の啓示であるが)、聖職者(プロテスタント牧師)の道へ進む。そこから2420キロ南に位置するフランス、トゥールーズで、町の小さな映画館を営む家の娘アンナ・マドレーヌが恋に落ち、このポールが生まれたわけだが、二人がどのようにして?はポール自身にも定かではない。ヨハネスはトゥールーズの小さなプロテスタント教会で小さな信者コミュニティーの中で慕われる静かな牧師におさまるが、全くキリスト教的信心を持たぬアンナは、幼い頃から培われた映画的感性によってどんどん先端的な(+美しい)女性になっていく。映画館をまかされて以来、彼女のプログラムは「作家主義」に傾き、映画が最もプログレッシヴだった時代を観客と共に謳歌し、小さな映画館は”68年5月”には闘争の討論会場にもなった。解放の闘士アンナはその流れ(性の解放=社会革命)で、1972年(夫ヨハネスに相談することなく!)『ディープ・スロート』の南西フランス最初の上映館として大成功を果たすのである。このことがプロテスタント教会上層部に知れ、ヨハネスはトゥールーズの教会牧師を解任される。闘士アンナはその志を曲げようとせず、二人は離婚し、ヨハネスは断腸の思いでトゥールーズを去る。
 話は前後するがこの途中で少し魅力的なオブジェが登場するので紹介しておくと、ドイツNSU社製のロータリー・エンジンのセダン車 "RO80”というハンセン家の自家用車で、ヨハネス、アンナ、ポールの3人はこれに乗ってトゥールーズ→スケーエン(デンマーク)のとてもサイケデリックなロードトリップをする。時の自動車業界の技術革命のはずだったロータリー・エンジン車R080はトラブル続きでいつ故障するかわからない”ほぼ”欠陥車だが、それなりに”人間的な味(あじ)"がある。当時マツダのロータリーエンジン車を知っている諸先輩には覚えがあるはず。
 さて、トゥールーズを追われたプロテスタント牧師は、回り回って北米ケベックのアスベスト鉱山の町(すなわちかの発がん性鉱物による汚染に100年以上晒されてきた町)セトフォード・マインズの小さなプロテスタント教会の牧師に再就職した。この町には大きく豪奢な純欧風(!)カトリック教会があり、勢力的にもカトリックが圧倒的に強い地盤だが、ヨハネスの小さな木造の新教教会には、なんと「ハモンドB3」という、ジャジーでソウルフルでファンキーでグルーヴィーなオルガンが備え付けてあり(小説中に3ページにわたって発明者ローレンス・ハモンドとその楽器の驚嘆の歴史に関する記述あり)、その演奏者ジェラール・ルブロンは(隠れた)稀代のハモンド・マスターで、厳かな典礼曲もジェラールの両手・両足にかかれば、ジミー・スミス、ローダ・スコットもかくや、というサウンドが教会をヴァイブさせてしまう。当然熱心なファンたちが多く、説教や祈祷は二の次でジェラールの出演する日曜集会は立ち見が出る盛況であった。アンナとの革命的な破局に深く傷ついていたヨハネスであったが、ここでも職業的には静かな牧師だった。
 ポールはトゥールーズで学業を終え、自らの意志で父のいるケベックへ移住し、セトフォード・マインズで土木建築関係の仕事を見つけ、何も基礎などなかったのにその現場叩き上げの修行でいつしか何でも直せる便利屋に変身している。傷心の父を支え、北米でフツー人になりかけていたのだが...。生まれながらの清廉な禁欲者のようだったヨハネスを破滅に導くのはギャンブルなのであった。そのゆっくりと長い地獄への道は、ちょっとした"大勝ち"に始まり、いくら負け続けても抜けられなくなり、気がつけばプロテスタント教会団体から回ってくる教会運営費をすべて使い込み、翌年度分も前借りしてしまっている。その結果、ヨハネスは教会団体から負債の全額返済を命じられた上、牧師職を奪われる。その教会での信者たちを前にした最後の説教が(↓)これである。
「私がセトフォード・マインズにやってきたのは、その前の町が私をもう望まなくなったからです。それと同じ理由で私はこの町を去って行きます。二度も私は過ちを冒したのです。みなさんは私について実に不愉快なことを知ることになりましょうが、すべて真実です。今回も私には自分を弁護できる一言もないのです。しかし、私がここで過ごしたすべての年月の間、私は誠実で献身的な奉公人のように振る舞ってきたことをお忘れなく。誠実で献身的とは今や的外れな表現かもしれませんが。もうずいぶん前から私には信仰心が無くなっていて、祈ることすら私には不可能なものになっていたとしても。しばらくしたらみなさんは、四六時中私を咎め、断罪するようになりましょう。私が今みなさんにお願いするのは、今から申し上げるこの単純で平易な言葉を心に留めておいていただきたいということです。それは私の父から受け継いだもので、父はおのおのの過ちを軽減するために言っていました。『すべての人間が同じように世界に生きているのではない』、神がみなさんをごらんになったら、祝福を与えられますように。」
(p134)
こう言ったあと、ヨハネスは祭壇から崩れ落ちて倒れ、そのまま息絶える。遺体を収めた棺は空輸でデンマークまで送られ、スケーエンまでの葬送の旅にポールとスイスに住んでいる前妻アンナも同行する。再会した母と子は語る言葉も少なく、母もスケーエンのハンセン家も故人が2年間のギャンブル狂いで身を滅ぼしたことを知らない。その母も数年後にスイスで自殺する。
 ポールはヨハネスの死後、モンレアルに移住し、豪華客船のような裕福層向け退職者用レジデンス「エクセルシオール」の住み込み管理人となる。豪華プールやスポーツジムを持つこの老人マンションは、夫婦もの、独り者を合わせて70世帯が住み、ポールは庭やプールの手入れ、電気水道ガスの管理、各レジデンスのちょっとした修繕、動きの鈍くなった老人たちの移動の手伝い、老未亡人たちの悩み事相談... すべてを請け負うスーパーコンシエルジュとして忙しく働く。ほぼ休みなし。はじめは充実の毎日だが、年月と共に早く衰え、消耗していく老人たちと同じリズムで、ストレスやメランコリーも増えていく。そこに現れた水上飛行機ビーバーの操縦パイロット、北米先住民族アルゴンキン族の父とアイリッシュの母から生まれた混血の女性ウィノナとの電撃的な恋(+ウィノナの拾ってきた牝犬ヌーク)は、ポールを救済し、解放し、夢のような別天地(アルゴンキン族が何百年も何千年も共に生きてきた自然界)へとポールを誘う。このいにしえの叡智を受け継いだ野生的なウィノナのエピソードは皆美しく、この小説で最も幸せになれる部分だろう(そのうち、ウィノナが語るアルゴンキン族の叔父ナトロードの物語は、このブログの別記事として訳してあるので参照のこと)。このフロートをつけた軽飛行機ビーバーの飛ぶシーンは、やはり宮崎駿『紅の豚』を想ってしまうし、悲しいかな、そのビーバーが行方不明になり、数日間の捜索の末、機体がウィノナの遺体と共に発見されるくだりになると、「あの子の命はヒコーキ雲〜」と脳内にメロディーが流れてしまうのだなぁ。悲しい日本人老人。
 そう、ポールの幸せは本当に儚い数年間のこと。高級老人マンション「エクセルシオール」の仕事では既にウィノナが生きていた頃から始まっていた住民管理委員会からのパワハラが極端に激しくなり、ポールの経費の節減、一般管理費の縮小、外注業者を締め出しポールに全部仕事を振る、などなど...。ここに20世紀末/21世紀のネオリベラルな合理化/生産性向上/ブラック企業体質の縮図を見る思いがする。この部分の小説の描写は年と共にこれでもかこれでもかと劣悪になっていく労働条件を、牧師の息子が殉教のように耐え凌いでいるようだ。パワハラの主はマンション住民管理委員会の長だが、住民総会の選挙で選ばれるこの長は、その選挙の時「合理化/管理負担費の軽減」を主張して当選した冷徹な「数字読み」の男。できないノルマを課せられ、休日を削られ、住民老人たちとの直接のコンタクトを止めさせられ、愛犬ヌークの敷地内での散歩を禁止され...。限界は地球温暖化に伴う季節の変調と共にやってきた(思えばウィノナの飛行機墜落事故もそのせいとしか考えられない)。2008年冬、積雪2メートル50がひと季節続き「エクセルシオール」のあらゆる機械施設がボロボロになったあと、来た夏は温度湿度とも呼吸するのが難しくなるほどの超ハイレベルで、住民老人に死者が出てもおかしくはない。ここで働いて20年になるポールは、こんなふうに一日中働いても夜眠ることができない暑さにどうしようもなく、深夜2時、照明もつけず、あの豪華プールに忍び込み、思う存分泳ぐのである。これですべては終わったと感じながら。翌朝、さっそく住民管理委員長が乗り込んできて、昨夜の防犯カメラにプールで泳いでいる男の姿が写っていた、と。従業員のおまえには禁止されているというのはわかっているんだろう。ー ポールは即刻解雇を言い渡される。
 その男を本能まかせに猛獣の勢いで半殺しにするシーンは、読む者の望むところなのだが、6人の大の男が取り押さえなければ止められなかった極端な猛攻は、小説の冒頭の刑務所の扉を開くことになるのである...。

 250ページ。いい話がたくさん詰まっている。文章はすべてにくいほどの名調子。刑務所もデンマークも68年のトゥールーズもケベックも、みないい話が詰まっている。いろんなものを失っていくメランコリーに、心打たれる瞬間が何度もある。牧師の父、マジックな妻ウィノナ、愛犬ヌーク、この死んだ3つの魂が、寝静まった監獄に降りてきて、2年の禁固刑は自暴自棄になることなく、平静なうちに満期を迎える。すべては失われたのだけれど、またポールは60歳を過ぎて旅に出る。円環を閉じるように、行先はデンマーク、ユトランド半島、スケーエン。「俺はヨハネス・ハンセンの息子だよ」と言えば、迎えてくれる世界がそこにあるはず。完。

カストール爺の採点:2019年の小説

Jean-Paul Dubois "Tous les hommes n'habitent pas le monde de la même façon"
Editions l'Olivier 刊 2019年8月、250ページ 19ユーロ


(↓)ゴンクール賞受賞の前、10月27日、国営の地方TV局フランス3オクシタニーでのインタヴュー。イントロ部で「22作めの小説」と言ってあるけど、経歴の長い老作家。文体の名人芸がよく伝わる、穏やかで明晰な語り口。


2019年12月14日土曜日

ナトロード伯父さんの冒険

11月4日、トゥールーズ出身の老作家(69歳!)ジャン=ポール・デュボワが、2019年ゴンクール賞決選投票でアメリー・ノトンブ『乾き(Soif)』を破って同賞を獲得した小説『すべての人間が同じように世界に生きているのではない』、私は受賞直後に購入したのだけれど、詠み終わるのに1ヶ月以上かかってしまった。素晴らしい作品なので、近日中に当ブログで作品紹介します。そのイントロとして、主人公・話者のポール・ハンセン(デンマーク人プロテスタント牧師とフランス人女性の間にトゥールーズで生まれ、両親離婚後、父の住むケベックに移住してきた)の妻ウィノナ(北米先住民族アルゴンキン族の父とアイリッシュの母から生まれた混血)が語る、彼女の叔父ナトロード(アルゴンキン族子孫)の驚嘆の一生を以下に訳しておきます。
彼女は私にその叔父ナトロードの信じられない話も語ってくれた。その名は彼らの言語では「小さな雷、大地の息子」を意味する。みんな彼のことをナットと呼んでいた。奥まった地方に住み、結婚して三人の子供の父親になった。家族を養うためには、仕事のあるところまで出て行って働くしかなかった。まずユーコンで鉱夫になり、ついでタバコ畑の刈り取り夫、50ヘクタールの土地を借りて耕し家畜も育てたが、それだけでは十分ではなかった。そこでトロントとヴァンクーヴァーを結ぶ輸送会社のトラック運転手になった。その行程は4日以内に終えねばならず、休む時間はほとんどなかった。 退職の時が来て、彼はそのマックの鍵を会社に返納し、家族のもとへ帰っていった。彼は年老いたことを感じ、先が長くなく残された日々の貴重さを思った。そしてある朝、その時は来たと悟った。
 ウィノナの声は、この物語のたくさんの扉をゆっくりとひとつひとつ開いていった。
「私の伯父さんは家族全員を集めてこう言った『わしは常におまえたちのために働いてきた。それは当たり前のことだ。だが今やわしは年老いた男であり、わしは今日わしのために、わしひとりのためにあることをしようと決心した。わしはわしのポンコツのトラクターに乗って太平洋から大西洋までカナダを横断することにした。8000キロをわしのポンコツのジョン・ディアでな。それは要するだけの時間をかけてな』。そしてナトロードは、友だちに頼んで彼のトラクターをヴァンクーヴァーに近いホースシュー・ベイまで運んでもらった。そこで彼はその機械を水打ち際まで後退させ、後部車輪を太平洋に漬けさせた。そして東めがけて出発した。4ヶ月間、時速10〜15キロで、天候にかかわらず、彼はこんなふうに進んでいった。『この国の道と人間たちがどんなものなのか見たくてね。それとわしが死ぬ前に、誰もやったことのない何かをしたくてね』と彼は言っていた。この行程の間じゅう、彼はあらゆる種類の幸運と災難を体験した。もうひとつの世界の果て、ニューファンドランドのセント・ジョンズで、その前車輪を大西洋に浸らせる直前に、私の伯父さんは機械をストップさせた。彼は驚くべきことを思いついた。彼はいつの日にか彼の言葉に疑いを抱く人が出てくることを避けるために、彼は証人を立て、彼がしたことを証文にして日付を入れ、署名してもらうことにしたのだ。その重要性は相対的なものではあるけれど、この証文は彼の一生で最も記念すべきものであり、最も貴重なものとなった。そして彼は私にその高名な証人であるハウトシング氏のことをしょっちゅう語ってくれたから、私はその名前をしっかり記憶している。その何年かあと、彼は私を彼の道連れだったジョン・ディア・トラクターを置いてある車庫に連れていき、その棚にかけてあったカバーシートを持ち上げ、中から水の詰まった2本の容器を取り出した。ひとつには大きな文字で"太平洋”と書かれ、もうひとつには"大西洋"と。彼は私にこの2本のジェリカンを見せて『この国のふたつの端っこで、わしがこの水を汲んだのさ』と言い、彼の目は涙で膨らんでいったのだった。これが私のナット伯父さんの旅の物語よ。」
親が子供たちがいい夢を見るように読んでやる不思議物語の書かれた大きな絵本をウィノナが閉じたような印象を私は受けたが、まちがいなくこの物語は私がそれまでに聞いたどんな物語よりも心に響き感動的でためになるものだった。
「伯父さんの埋葬の日、何が起こったか想像できる? 彼が生前頼んでいたことに従って、彼の棺が地中に下されたとき、彼の子供たちが墓穴に近寄り、2本のジェリカン容器の中身をぶちまけたのよ。」

(Jean-Paul Dubois "Tous les hommes n'habitent pas le monde de la même façon" p215 - 216)

(↓)ジャン=ポール・デュボワ (TV5モンド11月14日のインタヴュー)


2019年12月11日水曜日

ジエルオアールアイエイ!

『グロリア・ムンディ』
"Gloria Mundi"

2019年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ジェラール・メイラン
2019年ヴェネツィア映画祭主演女優賞(アリアーヌ・アスカリード)
フランスでの公開:2019年11月27日

 ーガレット・サッチャー(1925 - 2013)という人がいて、もう「ゆりかごから墓場まで」国が面倒見てやる時代は終わった、ミルク代を自分で払えない人はもういない、などとのたもうて、ネオ・リベラリズムの時代に入ったのだよ。国営公営の企業は民営化され、社会保障は最小限に抑えられ、自由競争で生き残れる者は生き、死ぬのは敗者と切り捨てられるようになった。金持ちはいくら金持ちになってもいい、貧乏人はいくら貧乏になってもいい。自由主義の原則は、人間社会は競争によってより良いものになると子供たちを早くから競争に慣れさせようとした。隣の子を打ち負かして勝ち抜く強い子に。ー われわれは競い合い、蹴落とし合い、憎みあっている。愛し合わない、助け合わない。負かされ、敗れた子は自分が弱いからだめなんだ。社会から落伍する者は自分が弱いからだめなんだ。困っても助けを求めてはいけない。助けを求めるのは恥だ ー という世の中ができあがってきたのですよ。これはネオ・リベラリズム、スーパー資本主義、グローバリゼーションの30余年の"成果”なのである。
 マルセイユ人ロベール・ゲディギアンのこの新作の舞台はいつものようにマルセイユである。いつもならば(風光明媚とは違う)人情味と情緒あふれるマルセイユが背景にあるのだが、この映画のマルセイユはなんともはや醜い。2013年欧州文化首都(地中海文明博物館の建築等)となった頃から港湾地区に超高層ビルが建ち、その再開発地区のすべすべした外観の裏側に取り残された穢雑とした旧市街。これがネオ・リベラリズムの数少ない勝者と、圧倒的に多い敗者を象徴するような風景なのである。
 映画はマチルダ(演アナイス・ドムースティエ!) が女児を出産するシーンから始まる。この子の名前はグロリアと言う。いい名前ね、どっから取ったの?「アメリカのテレビ連ドラの登場人物からよ」ー 軽いと思うなかれ。神の栄光はなんびとをも照らす。
 この誕生に立ち会う家族たち。マチルダの母シルヴィー(派遣清掃婦、演アリアーヌ・アスカリード、この演技によってヴェネツィア映画祭女優賞)、義理の父リシャール(路線バス運転手、演ジャン=ピエール・ダルーサン)、マチルダの夫(グロリアの父)ニコラ(Uber運転手、演ロバンソン・ステヴナン)、マチルダの義理の妹(シルヴィーとリシャールの娘)オロール(現金リサイクルショップ店主、演ローラ・ネイマルク)とその内縁夫のブルーノ(現金リサイクルショップ共同経営者、演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)。ひとり足りない。それはマチルダの実の父/シルヴィーの前夫のダニエル(演ジェラール・メイラン)で、殺人犯として服役中。家族たちは長い間ダニエルと連絡を取っていないが、リシャール(一度もダニエルと面識がない)はこれはダニエルに知らせるべきだとシルヴィーに進言し、グロリアの写真を入れたシルヴィーの手紙が監獄の中に届く。
 このダニエルの犯罪について映画は詳細を明かさないが、他人を守ろうとして人を殺すはめになったのに情状は酌量されず最長刑期を喰らってしまう。幼子マチルダを連れたシルヴィーは露頭に迷い、売春までして子育てをしている(この事情は映画後半で明かされる)ところをリシャールに救われる。リシャールは我が子としてマチルダを迎え、次いでシルヴィーとの間に女児オロールが生まれる。マチルダは小さい頃から自分の父親はリシャールひとりと思っており、ダニエルのことは忘れた存在にしようとしていた。
 ダニエルは模範囚(獄中で”俳句詠み”詩人となる)として刑期を最後まで果たし、レンヌ(ブルターニュ地方)の監獄を出て、シルヴィーからもらった手紙の住所を頼りに、故郷のマルセイユに帰ってくる。目的は孫グロリアを一目見ることだけ。俳人になり穏やかな隠遁者のような佇まいのダニエルは、これから何をするでもなく、わずかな刑務終了者手当を受給しながら、極安ホテルの一室を借りて暮らしている。シルヴィーとリシャールはダニエルを暖かく迎えるのだが、若い世代はそうはいかない。特にマチルダはのうのうと「父親ヅラ」して戻ってきたダニエルに冷たい。
 そしてこれらの人々はみなネオ・リベラリズムの弱肉強食社会に打ち勝てていない。どんな仕事でも一応仕事さえしていればどうにか喰えた時代は終わってしまったのだ。親・兄弟、誰にも金はなく、誰にも頼れない。清掃婦とバス運転手の夫婦共働きであるシルヴィーとリシャールもキツキツで子供たちに何もしてやれない。派遣清掃婦は夜間のビルやホテルやマルセイユ港に停泊する豪華客船の船室清掃(短い停泊時間に最大数の船室清掃のノルマ!)、昼も夜もなく仕事を取って働く(この女性派遣清掃員の過酷な実情については2010年フローランス・オブナ著『ウィストレアム河岸』の爺ブログ紹介記事を参照してください)。マチルダは格安アパレル小売店の売り子をしているが店長からのパワハラはすさまじく、トイレに行く時間すら勤務時間から引かれる。夫のニコラは貯金を叩いてローンで高級乗用車を買い、Uber契約の "English spoken"のドライバーをしているが、ある夜、Uberを仇敵としているタクシー業者たちから殴る蹴るのリンチに遭い、左腕を砕かれ Uber営業ができなくなってしまう。
 そんな中で比較的うまくやっているのが、オロールとブルーノの現金リサイクルショップで、冷徹な「世の中ゼニでっせ」のリアリズムを絵に描いたような、弱者たちを搾取/利用して現金商売で成り上がってきた。ダーティな成金を象徴するようなコカイン常習者で、性欲にもモラルが一切ない。2000年代の大失業時代にその対策としてフランス政府が奨励したスタートアップ/極小自営業で、要領良く波に乗れたクチだが、これほど悪いことをしなければ成功は困難という典型例。
 彼らは助け合わない。貧乏人は貧乏人を蹴落としてしか、その日の糧を得られない。シルヴィーは派遣清掃員の仲間たちが待遇改善を団結して勝ち取ろう(ストをしよう)という誘いに真っ向から反対し、ストで1日の給料がなくなることがどれほど自分たちの生活にダメージを与えるか、という現実を訴える。ストなどできる余裕はないのだ、と。
 怪我で働けなくなったニコラとマチルダの夫婦はグロリアを託児所に預ける金もなくなり、危機は頂点に達し、義妹オロールに助けを求めるが、オロールとブルーノはマチルドとニコラをルーザーと決めつけ、そのSOSに応えようとはしない。ニコラはその怪我の状態を医師の診断書に「運転労働可能」と一筆書いてくれれば、すべては元どおりになると、働いて収入が得られるようになる、と藁にもすがる思いで担当女医に嘆願するが、女医は職業的デオントロジーでそれは絶対にできない、と。ニコラはストーカーのように女医自宅まで押し入り、嘆願を繰り返すが、応じない女医との押し問答の末、女医は転倒し負傷してしまう。傷害事件として立件可能(もしも女医が告訴すれば...)。ニコラの窮状はますます深場に陥ってしまう。
 ここがこの映画で最も「人間的」なシーン。シルヴィーがダニエルに頼んで同行を求めて、二人で女医宅を訪問する。シルヴィーは元殺人犯の刑務終了者ダニエルが自分の娘マチルダ(あなたを負傷させたニコラの妻)の父親であることを明かし、ダニエルの事件と刑務所行きのあと、幼子マチルダと自分がどれほどの悲惨を体験したかを語る。売春して生活費と養育費を得たことも。「私がなぜあなたにそれを告白したかわかりますか? 私はマチルダが同じことをしなければならなくなるのを知っているからです」ー ニコラを告訴しないでください。はい、わかりました告訴しません。
 世界はまだ捨てたもんじゃないぞ、と一息つくが、映画はさらにマチルダとニコラに試練をつきつけ...。

 今から30年前には、底辺者になっていくわけのなかった人々がそのまま(ちゃんと働いて)生きていったら、自分も周りもみんな底辺者になっていた。底辺者は生きていくために底辺者を欺き、裏切る。映画はマルセイユを舞台にネオ・リベラリズム経済がもたらしたあらゆる悪のアスペクトを開陳しながら、その最悪のことが、この家族すらも分断してしまう貧困の連鎖であることを浮き彫りにする。マチルダは抜け出すために、最悪の狡猾成金男のブルーノ(義妹の情夫)に何度も肉体も差し出すのですよ(おまけにここに何の情感も罪悪感もない、目的のためならしかたない)。ネット・ポルノと現実の区別もなく、誰もが自撮りセックステープを公開する...。
 前作『ラ・ヴィッラ』(2017年)が家族の連帯が復活し、難民保護に連帯する未来に開かれたオプティミスティックな映画だったのに、今回のゲディギアンは無情で分断された民衆の救われなさが支配的だ。いったいどうしてここまで貧乏は人間の心を貧しくするのか。この人間たちの罪を償うために、神はその使者を地上に送ったのだよ(と、私はキリスト者のようにこの映画を解釈した)。この映画ではそれが監獄上がりのダニエルであり、映画の最後に、やはり人間たちの罪を被って、救済者として再び獄中に消えていく。その最後の希望の神々しさに、この映画はUber化された現代社会にも一条の光を見出すように結語するのだが、世界の栄光はもう終わりなのかもしれない。
Sic Transit Gloria Mundi (世界の栄光はかくのごとく過ぎさりぬ)

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)『グロリア・ムンディ』予告編


(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! ヴァン・モリソン&ゼム(1964年)

(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! パティ・スミス(1976年)


(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! ジョニー・サンダース+キヨシロー(1991年 川崎チッタ)


2019年12月6日金曜日

聖アニェスのために

ニェス・Bの最新刊2冊、『アニェス・Bとのそぞろ歩き(Je chemine avec Agnès B)』(Seuil 2019年11月)と『わたしは魂を信じる(Je crois en l'âme)』(Bayard 2019年10月)をもとに、月刊ラティーナ2020年1月号にアニェス・Bの"生活と意見”みたいな記事を書いた。"モード(流行)"という言葉が嫌いな、流行を超越したスティリスト。シンプルで着やすく飽きがこない長持ちする服を作ってきた人。何年も何十年も擦り切れるまで着て欲しいと彼女は言う。人が長く着ること、メーカーが少なく生産すること、それが環境にとってどれほど優しいことか。常に最新ものに買い替えを強要しようとするファッション業界では稀なポリシーと哲学を持っている人。そしてすべてにエシカル(フランス語では éthique エチック、倫理的であること)であることをアニェスは会社に徹底させていて、製造はフランスか、さもなくば環境と労働に関して条件が適正である国と決めていて、商業宣伝広告は一切行わない。社会運動家、人道活動家としても第一線で行動している。音楽/芸術のクリエーターたちをサポートするメセナ(庇護者、資金援助者)、コンテンポラリー・アートのコレクター兼ギャラリー運営者、21歳で離婚したためカトリック教会から破門されているにもかかわらず敬虔なキリスト教徒であり続ける....。この素晴らしい女性について書くことができたことに、私自身とても幸せなものを感じている。記事読んでみてください。
 この記事作成のために読んだ上述の2冊の本の断片を、向風三郎のFBタイムライン上で4回に分けて訳して公開した。それを以下に再録して、爺ブログ記事として保存します。

(ソフィー・リュイリエ:私たちの中に眠っている好奇心はどうやって呼び覚ますのですか?)
アニェス・B「まず自分が何に一番興味があるのかを知ること。この問題をちょっと掘り下げましょう。あなたがヒップホップが好きなら、ヒップホップについて見識を深めることができる。その音楽をよく知り、アーチストたちを知ることができる。でも商標(マーク/ブランド)やルックスにばかりとらわれないで。今日という時代はそのことを過度に重要視しているのよ。わたしが15歳だった時、わたしにはほとんど着るものがなかったし、そのほとんどが姉のお下がりだったけど、わたしは不幸ではなかったわ。」
(ソフィー・L:あなたがそれを言うんですか!)
アニェス・B「そうよ。マークやブランドやルックスが大きな場所を占めすぎているの。こんな狂った状態にしたのは広告のせいでもあるわ。広告はフラストレーションを生み出す。人々はこのブランドのこの靴を何が何でも欲しがる。なぜ?自分がそれを持っていないと、愚か者に見られてしまうから。これはバカげたことでしょ。個性を持たなければ。自分が身につけて心地よいと感じるものを見つけなければ。この基準に従って身につけるものを選ぶことが大切で、それはその時のトップブランドである必要はない。その上そのトップブランドのものはすぐ時代遅れになるのよ。それは別のものに取って代られ、結局それはとても高い買い物になるの。人は騙されたと感じるわね。こういう理由から、わたしは広告を一切しないのよ。広告は人を騙し操るものだと思う。わたしは広告を打たなくても「成功」できるという生きた証拠であることにとても満足よ。」
(ソフィー・L:それはそうですけど、簡単なことではないし、多くの努力を必要としますよね)
アニェス・B「そうだけど、少なくともわたしはわたし自身に忠実だということで、わたしはそれだけで満足よ。自分自身に忠実であることは掛け値のないものよ。それをわからなければいけない。わたしはそうでなければ生きられないでしょう。かつてわたしは "b. yourself."と書かれたTシャツをつくったことがある。含蓄する意味は「他の人を気にしない、他の人もリスペクトしよう」ということ。わたしは常にこの教えを従うよう努力してきた。AからZまで。この基本の道徳をわたしはごく小さい頃に教え込まれたし、今でもわたしを導いている。他人へのリスペクトと、分かち合いの気持ち。人と分かちあえるということはまさにこの地上の幸福よ。わたしがお金がなかった時、人とパスタを分け合って食べた。今日、わたしはもっとたくさんのものを人と分かち合えるのよ。」
Sophie Lhuillier + Agnès B "JE CHEMINE AVEC... AGNES B"(Seuil刊 2019年11月)(p69〜70)

(ソフィー・リュイリエ:ひとつの企業という尺度からすれば、非の打ちどころのない倫理性とは生やさしいことではありません。現代社会の競争のシステムは私たちを倫理へと向かわせません。この競争と倫理を両立させることはできますか?)
アニェス・B「わたしは一度も広告を出したことがない。わたしはそれはまやかし操作だと思っているし、好きではないのよ。わたしはとても頑固よ。今日わたしはそのことのさまざまな結果を被っている。わたしはデビューしてすぐに報道プレスに支持されて、それは30年間も続いた。プレスはわたしの仕事にこれまでと何か違うものがあると認めてくれた。けれど今から10年前頃から状況は変わった。ジャーナリストたちはそのメディアでもはやわたしのことを報道することができないと知るや、ファッションショーにも顔を出さなくなった。その新聞雑誌の多くは広告主たちの団体に牛耳られているから。わたしはそのシステムに属していないので、記者たちはわたしの記事を書く必要がなくなったのね。わたしの服を身につけたわたしの友人の俳優がある雑誌のために写真を撮る時に『だめだよ、アニェス・Bの服着てちゃ』と言われた、という話まであるのよ。すごいでしょ。だからわたしは広告システムの犠牲者なんだけど、しかたないわね。エチエンヌ(註アニェスの長男、アニェス・B社社長)が広告をやろうと言い出しても、わたしは抵抗するわよ。わたしは代表取締役社長(PDG)だけど、いろんな時にわたしはアニェス・B社のスティリストでしかないと思うことがある。なぜなら社長とわたしはいつもいつも同意見ではないから。でも彼にはたくさんの管理すべきことがあり、わたしはそれがたいへんなことだとわかっているわ。
世の道徳(モラル)は変わったわ。わたしがELLE誌でエレーヌ・ラザレフ(註ジャーナリスト/編集者 1909-1988、1945年ELLE誌の創刊者)の下でデビューした頃は、ジャーナリストがメーカーから贈り物を受けとることは一切禁止という鉄則があった。とても厳格だったわ。今日それは完全に消えたわね。このことはもっと語られていいはずよ。」
Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p45-46


(ソフィー・リュイリエ:あなたの政治的な目覚めはいつどんなふうに起こったのですか?)
アニェス・B「ギュフレ校(註:アニェスが通っていたヴェルサイユの私立学校)の最終学年(註:日本の高校3年に相当)の時、クラスに17歳で結婚した友だちがいて、その若い夫は23歳でアルジェリア戦争に招集された。彼女は学校を卒業するために授業に戻ってきたけど、身を黒い衣装で包んでいた(あの当時は誰も黒いものなんか着なかったわ)。彼女は夫を失い喪に服していた上、妊娠もしていて、このことはわたしを動顛させた。わたしはアルジェリア戦争とは何かを深く知ろうと調べ始めた。わたしの両親は頑固な右派だった。わたしの祖父は将校だったけどド・ゴールには全く賛成していなかった。そしてわたしは理解したの、アルジェリアが求めていたものは自治独立だったということを。わたしは理解したの、フランスの若者たちは悪い理由で殺されるはめになったし、それはアルジェリアの若者たちも同じ理由で殺された、と。こんなことがあっていいわけがない。この”フランスのアルジェリア”は”アルジェリアのフランス人”たちにもアルジェリア人民たちにも同じほどのたくさんの苦しみをもたらしたのよ。」
(Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p71)

(ソフィー・L:68年5月革命の時、あなたはこの事件をどのように生きていましたか?)
アニェス・B「あの頃、わたしは毛沢東を崇拝していたわ。ジャン=リュック・ゴダールが『中国女』をつくった頃ね。わたしはまさに左翼だったし、デモの時は街頭で左手の拳を高くかかげてたわ。わたしはその前からデモによく参加してたし、アルジェリア戦争終結の頃はしゅっちゅう行進してた。地下鉄シャロンヌ駅で9人のデモ参加者が死んだ(註:1962年2月1日、アルジェリア戦争反対デモに対する警官隊の過剰暴力事件)ときもわたしは現場にいたし、ピエール・オヴェルネイ(註:ルノー自動車工員で左翼プロレタリア運動(毛沢東主義系)活動家、1972年ルノー工場の警備員に殺害された)の葬儀にも参列したし、わたしは常にわたしの主義主張で抗議活動していた。すなわち、わたしは事件の真ん中にいたのよ。わたしは真剣にこの消費社会を変えるために闘っていたし、社会をもっと平等なものにするために行動していた。いろいろなアイディアが迸り出てきて、雰囲気は喜びに満ちていたわ。でもね、わたしは自分の車で何人も負傷者を運んだこともあるのよ...」
(Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p74)

サラエボハート(Le Coeur de Sarajevo)欧州大陸で、第二次世界大戦後、最も多くの死者(10万人)と難民(200万人)を出した内戦「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」(1992-1995)の時の人道支援について。 アニェス・B「20世紀の終わりの頃にヨーロッパのある都市が、中世の出来事のように敵国に攻囲されたの。つまり住民は水もなく、くべる木もなく、食べるものもなくなった。それは怪物じみたことだったし、ありえないことだった。わたしには5人の子供がいる。養わなければならない子供がいるのに、なにも子供に食べさせるものがない、水さえもない、なんて考えただけで...。わたしは食べ物をつくるとき、台所もなく家族に食べ物を与えることもできない女性たちのことを思うと、今でも心が張り裂けそうになる。
そこでわたしは怒りにまかせてハサミを使って角ばったハートを描き、それをメタルにして2サイズつくって、それぞれ当時の値段で30フランと50フランで売ってサラエボ市民支援金にした。それからわたしのブティックで働いていた青年ロドルフの発案で「プルミエール・ユルジャンス(最緊急)」という名のNGOを創設した。オランダで1箱35フランのケースを買い、ケースの中にはコンビーフ、パスタ、歯ブラシ、ロウソクなどを詰めた。それは最低限必要なものばかりだったのに、セルビア人たちは途中でケース総量の30%も没収したのよ。何台ものトラックがケースを山と積んでパリからサラエボへと向かった。彼らは非常に長い行程を進まなければならなかったけど、みんな素晴らしい人たちだった。わたしはパリに戻ってきて、ボスニア紛争反対のデモ行進をした。50人のデモだった。ある日、わたしはコンコルド広場の真ん中を横切ろうとしていたら、ミロシェヴィッチ(註:スロボダン・ミロシェヴィッチ1941-2006。1987年から2000年までセルビア大統領。戦争犯罪人)が歩いているのが見えた。わたしはたったひとりで彼の前に行き、拳をこんな風に振り上げたの。わたしはミロシェヴィッチと彼がやったすべてのこと、彼が犯したすべての犯罪を心底から憎悪していたのよ。
このサラエボハートを何種類もつくって売ったし、今でもサラエヴォの教育復興のために売り続けている....。
(Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p75 - 76)