2023年1月31日火曜日

最後にアイヤ勝つ

Aya Nakamura "DNK"
アイヤ・ナカムラ『DNK』

ず、2022年8月に起こった当時の伴侶でプロデューサーのヴラディミール・ブートニコフとアイヤの相互DV暴行事件(両者とも警察に連行され一晩留置されている)は、現在裁判中で、このアルバムのリリース日(2023年1月27日)の前日の1月26日にボビニー裁判所(93県)に両者が出廷して、それぞれに罰金刑(アイヤに5000ユーロ、元伴侶に2000ユーロ)が求刑され、判決は2月23日に下される。ことは(よくある話で)ブートニコフが友人の結婚式に招かれ、それをアイヤに言わずにひとりで出席したことになっていたが実は元カノと一緒だった、というのがバレて、口論→暴力の応酬に発展したということなのだが、上の罰金額でわかるように暴力行為の質と量においてアイヤがはるかに上回っていたということなのだ。元水泳選手、体力ではその辺の男どもとは違うものがあるかもしれない。あのカラダだもの。
 これはアイヤ・ナカムラというポップ・アイコンを象徴的に露呈させた事件だと思う。ストリーミングの世界では、フランス語歌手では世界で最大のリスナー(Spotify で月間2000万)を誇るスーパースターであるが、ファンは95%女性たちである。彼女のヴィデオクリップでよく現れるように、取り巻きの若い娘たちを引き連れた郊外の姐御というキャラクターであり、その独自の価値観/遊び方/ファッション/男のあしらい方/ライフスタイルを娘たちが手本にするようなポジション。リーダー(インフルエンサーではなくリーダー)。それにはあの声とあのカラダとあのライム(郊外フランス語+アフリカ俗語)とあのグルーヴがあってこそなのである。不貞の男をコテンパンに伸す。これはアイヤ・ナカムラ流では正義であり、多くの郊外女性たちが喝采したであろうことは想像に難くない。

 さてアイヤ・ナカムラの4枚目のアルバムである。セカンド『ナカムラ』(2018年)、サード『アイヤ』(2020年)ときて、4枚目のアルバムタイトルは『DNK』。これはアイヤの本姓Danioko(ダニオコ)の子音3つを並べたものである。私はこれは一種の「脱ナカムラ化」を準備しているのではないかと思っている。8年前19歳の時に芸名にした「ナカムラ」は、5年も経たずに世界的ビッグネームになってしまったものの、”日本系”or”日系”というあらぬ誤解はそのイメージにマイナス効果しかもたらしていない。私の聞く限りでの話だが、日本での冷ややかな反応は”名前ゆえ”であり、ありがちなアフリカ系へのレイシズムに"名前”が拍車をかけている印象がある。一種の”大坂なおみ現象”。業界の人の「これは日本では売れませんよぉ」という声は2018年の世界的大ブレイクの時に聞いた。けっ。日本なんか相手にしなければいい。それはそれ。『DNK』というタイトルに、アイヤの脱皮願望を深読みするのは私だけかもしれない。
(←アイヤのツイッターアカウントで1月21日公開されたキリヤン・ンバッペとのツーショット)
 1月27日のBFM TVで放映されたアイヤ・ナカムラのインタヴューの中で、このアルバムの制作について「私は何も深く考えずにものごとができそうな瞬間を待っていたの。つまりスタジオに入ったらもう自問自答せずに好きなものだけをするということができる瞬間ね」と語っている。あれこれ考えずに勢いで作ってしまったのだろう。「仕事の上で私はナイーヴさこそポジティヴなものだと思うの。自分にそれがない時は良いものができない。ナイーヴさはものごとを計算なしですることを可能にするのよ」とも。計算なしで作られたアルバム、それは聞けばわかる。自分が好きな音だけ入れました、というシンプルさ。おどろくほど”金太郎飴”サウンドの(アフロ・ディジタル)ズークアルバムで、2曲(7曲め"Beleck" と9曲め"J'ai mal")を除いて、若干のテンポの違いこそあれ、ズーク、ズーク、ズークなのである。従来のアフロ・トラップ/R&Bが後退したわけではないが、シンプルにズーク主体でやってみました、という感じ。これが「深く考えずに」「計算なしで」ナイーヴに好きなものだけやってみましたという結果なのだろう。これがテレラマ誌やリベラシオン紙などのアルバム評が(概ね好意的に論じているものの)新しいことは何ひとつない、という失望まじりになる要素なのである。
Il veut câlin partout, partout (partout)
いつでもどこでも甘えん坊Veut cher-tou partout, partout (partout)
いろんなところをオサワリしたい
Affection et tout et tout
あれもこれも愛情よ
Entre nous, c'est trop dar (c'est trop dar)
二人の間ではこれ最高
Parce que j'suis sa baby (baby)
私は彼のベビー
Veut devenir mon daddy (daddy)
彼は私のダディーになりたいの
Hey, baby (baby)
ヘイ、ベビー
Veut devenir mon daddy (daddy, daddy)
私のダディーになりたいの
("Baby")


(↑)2曲め"Baby"。アイヤ・ナカムラにしてみれば、こういう曲は長年の手クセ足クセでいくらでもできるのであろうな。"C'est trop dar"という表現は初めて知ったが今日びの若い衆の言葉で"cool"や"super"と同じ意味なんだそうな。姐御肌のネエさんが、気の利いた言葉のひとつも吐かずにオサワリばかりしたがる男に説教するような歌のように聞こえる。アイヤ・ナカムラのひとつのスタイル。後半のオートチューン処理された高音裏声ヴォイスがね、なんとも...。
 こんなんばっか、というアルバムであり、必殺なリフレインとギミックだけ閃いたらいくらでもナカムラ節は続けられる(あ、郷里津軽には”アイヤ節”という民謡がある)。
C'est toi qui m'a dit que t'avais du temps
私なしではどこにも行けない時がある、とQue sans moi, tu pouvais aller nulle part
あなたは私に言ったのよ
Mais je crois qu'au final tu mentais
でも結局あなたはウソをついていた
Évidemment, j't'ai écouté
もちろん私はあなたの言ったことを聞いていた
Tu peux pas faire semblant (semblant)
あなたは事実を否定するふりができない人De nier les faits, en vrai, j'suis dedans (ouais)
だって私は当事者だもの
Quand j'entends ta voix, j'avoue, je fonds (je fonds)
あなたの声を聞いてしまうと、私は蕩けてしまう
C'est peut-être ça le problème, yeah
たぶんそれが問題なのね、イエー
Juste un SMS
SMS だけにしてSans lui, j'ai essayé (j'ai essayé)
それなしで生きようと私は試したの
Bébé, j'veux juste réessayer
ベベ、もう一度試させて
Sans toi, j'ai essayé
あなたなしで生きようと私は試したの
("SMS”)


(↑)4曲め "SMS"。カリブ海の夕凪、ズーク・ラヴ。Siwo siwoのパー。金太郎飴だけど文句のつけようがない。折しも1月6日に発表されたアイヤ・ナカムラ初のメガ・コンサート(註:前アルバム『アイヤ』と共に予定されていたメガツアーはコロナ禍で全部中止になった)、2023年5月26/27/28日、パリ・アコール・アレナ(旧名ベルシー総合室内運動場、キャパ17000人)3日間はたちまちソールドアウトになった。若い(郊外)娘さんたちで超満員のベルシーが、このいと甘美なズーク・ラヴで大揺れの波模様で踊る光景が目に浮かぶようだ。
 こんなんばっか...、と聴き進めていくとぶつかる9曲め、内省的バラード、リズム音なしの(機械プログラミングによる)”ギター弾き語り” or "ピアノ弾き語り”効果のインストルメンタルで仏R&Bの女王が静かに(エモーション)抑え気味に歌い出す。

Tu m'entends mais tu m'écoutes pas
あなたは私の言葉を聞くフリはしても何も聞いてはいない
Ton amour, j'le ressens plus
あなたの愛を私はもう感じることができない
J'pensais que toi t'étais loyal
私はあなたを誠実だと思っていた
Sale habitude, moi j'finis déçue
悪い習慣ね、最後にはがっかりしたわ
T'as vu ma peine, j'suis restée bloquée là
あなたは私の苦しみを知っている、私はここで動けなくなっている
Mais, toi t'as rien fait pour arranger les choses
でもあなたは全くことを納めようとはしなかった
C'que tu m'as fait, j'vais jamais l'oublier, non (Non)
あなたが私にしたことを私は絶対に忘れないわ
Non, j’arrive pas à t'sortir de ma tête (Et tu m'disais)
でも私の頭からあなたを消し去ることはできない
"Fais-moi confiance, fais-moi confiance"
「俺を信じろ、信用しろ」
"Moi, j't'aime à la folie"
「俺は狂うほどにおまえを愛している」
Tu s'ras où au final quand tout ça va finir ?
もうおしまいだというのに、あなたはどこへ行こうとするの?
"Fais-moi confiance, fais-moi confiance"
「俺を信じろ、信用しろ」
"Moi, j't'aime à la folie"
「俺は狂うほどにおまえを愛している」
Tu s'ras où au final quand tout ça va finir ?
もうおしまいだというのに、あなたはどこへ行こうとするの?

Mon cœur crie à l'aide (À l'aide), c'est pour ça que je t'appelle
私の心は助けを求めて叫んでいる、それであなたにコールしているのよ
Offr
е-moi ta main, elle me sеrvira d'attelle
あなたの手をちょうだい、私の副え木になるわ
Mon cœur crie à l'aide, tu vois pas que je t'appelle ?
私の心は助けを求めて叫んでいる、あなたを呼んでいるのがわからないの?
J'ai mal, j'ai mal
苦しいわ、苦しいわ
("J'ai mal")



(↑)9曲め "J'ai mal"。コンポーザー/ソングライターとしてのアイヤ・ナカムラの資質をどうこう言うつもりはない。やはりこの人は(機械エフェクトがどんなものであっても)ヴォーカリストなのだと思う。こういう息遣いがはっきり聞こえてくる時のアイヤの歌唱のわれわれの耳と心の琴線への波動が、たぶん人々を魅了するα(アルファ)波なのである。何も新しいことなどしなくてもいい。これがある限りアイヤは勝ち続けるのだ、と私は言ってしまってもいいよ。まだ27歳。

<<< トラックリスト >>>
1. Corazon
2. Baby
3. Daddy (feat. SDM)
4. SMS
5. Tous les jours
6. T'as peur
7. Beleck
8. Cadeau (feat. Tiakola)
9. J'ai Mal
10. Coller
11. Le goût
12. Chacun (feat. Kim)
13. Haut niveau
14. Bloqué
15. Fin

Aya Nakamura "DNK"
CD/LP/Digital REC118/Warner Music France
フランスでのリリース:2023年1月27日

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)フランス最大の音楽FMネットワーク、NRJでのインタヴューヴィデオ。このものの喋り方よ。

2023年1月19日木曜日

グラシエ小僧の恋煩い

Nelick "Vanille Fraise"
ネリック『いちごバニラうずまきソフト』


リ東郊外94(ヴァル・ド・マルヌ)県、シャンピニー・シュル・マルヌ出身、1997年生まれ、もうすぐ26歳。ネリック、またの名をキィウィバニー(Kiwibunny)。前歯がバッグスバニー状だったのと、リセの学食デザートで(バナナやリンゴではなく)必ずキィウィを取っていたからつけられたあだ名だった、と。なんか罪のない健全な若者だったようなエピソード。12歳でライムを書き始め、15歳でラッパーとしてデビュー、2017年にオリジナルEPを世に出すと同時に、このキィウィバニーのキャラでストリートウェアやグッズを展開する「実業家」に。ストロマエやオルレサンのようなビッグネームでなくても、今日びの”アーバン”系ミュージシャンの多くがアパレルやらキャラグッズやら自社企業展開するのですよ。総合イメージビジネス。いやだいやだ。オレルサンが弟を含む4人組で音楽制作/映像作品(劇場上映用とストリーミング長編”ドキュ”映画など+クリップ)/マーチャンダイジングなどをやってしまう企業体であるのと同じように、この若造ネリックも数人のダチで「ネリック/キィウィバニー」というブランドをあの手この手で”ビッグ”にしようとしている企業(名前はKiwibunny Corp)なのである。
 この『ヴァニーユ・フレーズ』は、ネリックの7枚目のEP(まだフルアルバム出していないようだけど、もうそういう"アルバム”フォーマットに頓着してないですよね、若い人たちは)で9トラック20分(うち2トラックはインタールード的音楽ギャグ寸劇)。一本のはっきりしたコンセプトはあって、季節バイトでアイスクリームで働くキィウィバニーの恋煩いのようなものを中心に展開する。若く青くクサくもある外見である。少なくとも1990年代初頭からフランスのラップを聴いている私のような老人には、この擬似”軟派”路線は一聴めにはかなり面食らうものではあるが、通して聴かせてしまうツボのようなものがあるのは、年寄りもうなずくオールドスクールなポップ仕掛けを入れ込んでいるからなのかもしれない。
 このEPとほぼ同時にYouTube公開されたショート連ドラ仕立てのアイスクリーム売り小僧キィウィ君の淡い恋物語『ヴァニーユ・フレーズ』(エピソード 1/2/3。6分 x 3編 = 18分)という動画があって、たぶん、EPの数曲のヴィデオクリップの撮影のついでに勢いで作ってしまったものだろうが、実にくだらない18分を最後まで見せるなにかがあるんだろう。いや、実にくだらない。
 EPの5トラックめに"Camion de glace"(フードトラックのアイスクリーム屋)という、アイスクリーム売りキィウィが、英語しゃべれないくせに、一目惚れの非仏語娘に英語で何か言おうとするダメ男ショートコント(1分34秒)があるのだが、それと同じ"Camion de glace"というタイトルで、アイスクリーム屋「ヴァニーユ・フレーズ」のイントロダクション動画が公開されている(↓)。


こういうお笑いキャラでウケを狙っているのね、このキィウイ氏は。フィリップ・カトリーヌがあのキャラを自分のものにするのに20年はかかったと思う。一朝一夕にはできるものではないけれど、キィウィ君は4年でまだ駆け出しのようなポジション。それがライムと音楽性とシンクロしてくれれば、爺さんは何も言うことないのだけれど。
 唐突に2トラックめにこういうの(↓)が来る。「マック・レスギー(Mac Lesggy)」

威勢のいいオールドスクールなポップ・ラップでしょう。タイトルの「マック・レスギー」とは90年代から民放テレビM6で科学一般(雑学)をわかりやすくかつ面白おかしく取り上げる長寿番組「E=M6」でホストをつとめる科学者の名。言わば科学知識を大衆化/通俗化することにたいへん功績のあったテレビ人であるが、俺はマック・レスギーのようにやるんだ、というラップ。何を?と言われても、ほとんど無内容の口から出るにまかせての韻踏みダジャレ/言葉遊び。まあ、こういうスタイルでラッパーの実力というのはわかることはわかる。何を?というのは多分アイスクリームを売り、恋を患うことなのだろう。
 続いて3つめのトラックはローファイなモコモコしたイントロに乗って始まるオールドスクールなハウス・ディスコ「プティブエルタ!(Putivuelta!)。

おおお。男ばかりのディスコの絵。季節バイトで一日中アイスクリームを売ったあとは、ディスコで恋人探し。”Putivuelta"とは21世紀にメキシコから世界に伝播した言葉だそうで、語源的には "puta"(娼婦、あばずれ)と"vuelta"(歩く)の合体語で、娼婦が客を求めてぐるぐる歩き回ることおよび客が娼婦を求めてぐるぐる歩き回ること、だったのが、転じて、ディスコ/クラブ/盛り場で女や男が一夜の(あるいは長続きしてもいい)パートナーを探し回るというのが今日的な用法。この歌ではキィウィ君が、きみを待ちながら一晩中踊ってるんだから、俺のことを見てくれよ、と。
 ところが、4トラックめ "Elle danse toute seule dans sa chambre"(彼女はたったひとり自分の部屋で踊っている)。まだ見ぬ恋人は(男だらけのディスコなど行かず)自分の部屋で踊っている。ドリーミーなソフトロック。ね、ここまでちゃんと一連のストーリーになってるでしょ。
 続く5トラックめ"Camion de glace"は上で少し触れたように、アイスクリーム屋に現れた理想の恋人がフランス語を解さず、キィウィ君しどろもどろの英語で話しかけていくのだが...。
 そしてこのEPの山場と言えるだろう6トラックめ "I LOVE U"は次の夏(すなわちサマー2023)の必殺のスローバラード(ヒット)になるポテンシャルを持った曲になるはずだったんだが...。(↓)

(↑)のクリップには姿を表さないが、ゲスト女性ヴォーカルはなんとアリエル・ドンバルである。完全にミスキャストだと思う。申し出る方も申し出る方だが、受ける方も受ける方。言ってはならんことではないので言うが、この女優/歌手/ダンサー/メディアコメンテーター/著述家(加えて哲学者ベルナール・アンリ=レヴィの伴侶)などマルチタレント女性は私(現在68歳)より年上である。この曲での設定は、5トラックめで登場するフランス語を解さない(夢の)恋人が、夢心地でいる若造キィウィ君に歳その他の真相がバレないように、フランス語をわからないふりをする、という....。(↓赤字部分アリエル・ドンバル)
Au lieu de bonjour je lui dis je t'aime elle comprend pas
(what do u mean?)
Girl all I want for me is you
(I have to leave I'm sorry)
Girl all I want for me is you
(...)
(Je lui dis que je parle pas français pour éviter de me faire coincer but it's too late for me)

あほらしくて翻訳もしませんが、クーガー女性アリエル・ドンバルのクサい演技にも関わらず妄想膨らませていくキィウィ君はあげくの果てに...。
 当然の帰結として、孤独の身に逆戻りする(英語では alone again naturallyと言う)キィウィ君の歌が7トラックめの"2 seul"(あ、tout seulと読んであげてね、つまりひとりぼっち)である。(↓)

冒頭で「もう大丈夫だ」と日本語セリフが導入されるが、こういう日本語入れ込みはネクフー(Nekfeu、ケンちゃん)やオレルサン(オーレリアンさん)がよくやる。まあ、このネリック君のスタイルはネクフー/オレルサンのライトなお笑い版と言えなくはない。だが、作品はもっと練らなければならないし、もっと深く掘ってほしい。
Quand je regarde le ciel
空を眺めると
J'sais que y'a quelqu'un qui pense à moi
これらの星のどこかに
Parmi toutes ces étoiles
僕のことを思っている誰かがいるはずなんだ
J'essaye d'oublier ce qui me fait du mal
そうして僕を苦しめるものを忘れようとしているんだ
おいおい、かりそめにもラッパーたるもの、こういうライムは書かないものだと思うよ。
というわけで8トラックめと9トラックめは割愛。

<<< トラックリスト >>>
1. Debout dans la cuisine
2. Mac Lesggy
3. Putivuelta !
4. Elle danse toute seule dans sa chambre (feat. Milèna Leblanc)
5. Camion de glace (feat. Le Sid & Anna Majidson)
6. I love U (feat. Arielle Dombasle)
7. 2 seul
8. Skiiit
9. Triple triple cheese

NELICK "VANILLE FRAISE"
LP/CD/Digital Entreprise/Kiwibunny Corp
フランスでのリリース:2022年10月

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ショート連ドラ『ヴァニーユ・フレーズ』エピソード1


!3月26日追加の動画!
(↓)国営FranceTVの音楽情報番組 Basique でのインタヴューとスタジオライブ3曲;
1. Putivuelta ! / 2.  Mac Lesgy  / 3. J'ai encore rêvé d'elle (Il était une fois のカヴァー)

2023年1月13日金曜日

カンツォーネだよ、人生は

"L'Immensità"
『リンメンシータ(無限)』

2022年イタリア映画
監督:エマヌエレ・クリアレーゼ
主演:ペネローペ・クルス、ルアーナ・ジュリアーニ
フランスでの公開:2023年1月11日


私がヨーロッパに移住するずっと前(1960/70年代)から、ほぼカリカチュアのようにイタリアは離婚が非常に難しいお国柄であるという話は聞いていた。1961年マルチェロ・マストロヤンニが主演した『イタリア式離婚(Divorzio all'italiana)』など、殺人まで企てて離婚を達成しようとする喜劇映画であったが、ローマ・カトリック教会の道徳観がイタリアに重く重くのしかかるのはその後もしばらく続くのである。この『リンメンシータ』という映画は1970年代のローマが舞台である。時代は変わりつつあったが、離婚は極めて難しい。あの頃離婚が普通にできていたなら、こんなイタリア映画は成立しない。もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら。すまん、手が止まらなくなってしまった。
 舞台は1970年代のローマであり、この家庭は小ブルジョワであり、近代的な広いアパルトマンに住み、夫婦はそれぞれ車を持ち、夫のはシトロエンDSカブリオレである。3人の子供たち(娘・息子・娘)は制服のあるカトリックの学校に通い(礼拝の義務あり)、就眠前にはお祈りを欠かさない。
 ローティーンの上の娘アドリ(アドリアンナの愛称)(演ルアーナ・ジュリアーニ、素晴らしい!)はずっと神に祈願していることがある。誰もいない建物の屋上に上り、横たわって空に向かって祈り異星からの信号が降りてくるのを待っている(冒頭シーン)。アドリは女に生まれたくなかった。女であることが本来の自分ではないと苦しんでいる。神に祈り、神が願いを聞きつけ男に変身させる兆候を与えてくれることをずっと待っている。学校の礼拝堂の戸棚から、キリストの肉体である聖パンを盗み出し、それをたくさん食べれば願いが叶うはず、と。これは今日では「性同一性障害」として診断されるケースだが、当時はそんな言葉すら存在しなかった。この幼少時から「女はいや、男になりたい」と主張してきた娘を、父親フェリーチェ(演ヴィンチェンゾ・アマート)はおまえの躾け/教育が悪いからだ、と責任を妻クララ(演ペネローペ・クルス)に押し付ける。
 権力も金も旺盛な性欲もあるこの夫は当時のイタリア(上流)社会では”並”にいたマッチョで強権的で暴力的で見栄っ張りな男であったが、信仰を尊び、マンマ(母上)を中心とする親類を含めた大家族(ラ・ファミリア)の繋がりを格別に大切にする。映画の中で夏のヴァカンスとクリスマスとこの大家族が2回集合するシーンが出てくるが、これが絵に描いたような(古き)イタリアブルジョワ大家族で...。この環境にそぐわないのが二人、すなわちクララとアドリであった。家父長権威を盾にとり、外で愛人と遊び、家で暴力を振るう男と別れたい、この当たり前の言い分を許さないのが当時のイタリアの法律とカトリック十全主義であった。
 クララとアドリの共通の現実逃避場所たるヴァーチャル空間が、テレビの歌謡ヴァラエティーショーやサンレモ音楽祭といった”モダンで今風な”カンツォーネの世界だった。これも映画の最初の方のシーンで、アパルトマンの食堂でレコードプレイヤーに針を落とし、調子の良い(イタリア語)ポップチューンが始まると、3人の子供たちと一緒に素晴らしいコレグラフィーで踊りながら皿や食器のテーブルセッティングをするミュージカル仕立ての場面、まるで『ラ・ラ・ランド』の一場面を見ているよう。ペネローペ・クルスのダンスが素晴らしすぎて、ちょっとびっくり。そしてクララとアドリの空想空間で、当時のイタリアのテレビのように”白黒”になって、歌謡ショーで歌ったり踊ったりする。サウンドトラック盤出てるかな?挿入曲はセヴンティーズ・イタリアン・ポップがほとんどのはず。とてもいい感じ。
 自分を「アンドレア」と男名前で名乗り、冒険と"悪さ”の好きなアドリは、親から行くことを禁じられている近所の空き地の一面に背の高い葦(あし)の生い茂った広大な茂みの向こうに、バラック野営の一群を見つける。"ジンガリ”(ロマ)か?と聞くと、季節労働者だと言う。その中の長い黒髪の美しい少女サラ(演ペネローペ・ニエト・コンティ)に電撃的な一目惚れをしてしまう。これが”男児”アンドレアの初恋であった。禁じられた場所での禁じられた恋。アドリはどんなに禁じられてもあの葦の茂みの向こうへ行き、”男児アンドレア”を好きになってしまったサラとの青い恋に心を焦がす。しかし...。
 一方クララはアドリの悩みよりもアドリの若さと自由が羨ましく、この世界に生き辛い二人はより親密な関係になり、二人の少女の親友同士のように一緒に”悪さ”をする楽しみを共有するのだが、それは刹那的なものでしかない。夫フェリーチェは自分の秘書に手を出し、妊娠させてしまう(あの頃のイタリアなので中絶などもってのほか)。クララの精神は病んでいき、それはアパルトマンの火事騒ぎを起こすほどに(この筋は、映画化もされたオリヴィエ・ブールドーの小説『ボージャングルスを待ちながら』にちょっと通じるものあり)。その結果フェリーチェはクララを精神療養施設に送り込んでしまう...。
 月日は経ち、アドリは母親クララとの約束を守って、葦の茂みの向こう側に行っていない。施設を退院し、生気を失って還ってきたクララにはまた同じ日常が待っている。そしてアドリはその間に葦の向こうのバラック野営集落がローマ市のブルドーザーで一掃されたことを知る...。
 唐突に続く白黒画面の歌謡ヴァラエティーショー、「さよならなんて絶対に言わない、愛は永遠だ」と(イタリア語で)熱唱するフランシス・レイ作曲の映画主題歌「ある愛の詩/ラブ・ストーリー」、それを歌っているのはは変声して”男声”になったアドリ...。

 国籍が違うとは言え、この映画のペネローペ・クルスはイタリア大女優ソフィア・ローレンを想わずにはいられない。華やかさ、グラムール、生活感、母親っぽさ、少女っぽさ...。アルモドバール映画では見せないものも、この映画では見えた気がする。稀代の大女優であることには異論の余地ない。
 不幸な母親と3人の子供たち、という設定はカルロス・サウラの大名作『カラスの飼育(Cria Cuervos)』(1976年)のことも頭をよぎる。この『リンメンシータ』もそのクラスの名画の風格がすでにあると思う。
 なお、監督のエマヌエレ・クリアレーゼはこの映画の初上映(2022年ヴェネツィア映画祭)の際に、この映画の性同一性障害の娘アドリは自分をモデルとしており、自らがトランスセクシュアルであることをカミングアウトしたのでした。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『リンメンシータ』予告編


(↓)クララと3人の子供たちがダイニングで踊りながら食卓テーブルセッティングをする”ミュージカル”シーン。曲はラファエラ・カラ(Raffaella Carra)「ルモーレ(Rumore)」(1979年)


(↓)挿入歌のひとつ、パティ・プラヴォ「ラヴ・ストーリー」(1971年)
 

2023年1月6日金曜日

せ(ね)がれを救う父

"Tirailleurs"
『セネガル歩兵連隊』

2022年フランス映画
監督:マチュー・ヴァドピエ
主演:オマール・スィ、アラサン・ジョング、ジョナス・ブロケ
音楽:アレクサンドル・デプラ
フランスでの公開:2023年1月4日


"tirailleur"とは私のスタンダード仏和辞典では
1,【軍】(本隊に先立って進む)狙撃兵、散兵、斥候兵
2. (昔の植民地の)現地人歩兵

という訳語が出てくる。この2番目の意味で使われる時、19世紀半ばからフランスがアフリカ大陸の植民地で組織した現地人(indigènes)兵連隊は、北アフリカ(マグレブ)の "Tirailleurs algériens(ティライユール・ザルジェリアン、アルジェリア歩兵団、アルジェリア人という意味ではない、現在のマグレグ3国に当たる地域の出身者による徴集兵団)"とサハラ砂漠以南の"Tirailleurs sénégalais(ティライユール・セネガレ、セネガル歩兵団、セネガル人という意味ではない、当時のアフリカ西部フランス領土の出身者による徴集兵団)"に大別され、後者は当時「黒の軍団」とも呼ばれたりした。この現地人兵団はフランス”正規”軍の指揮の下でフランスの軍事作戦の最前線に置かれ、最も危険な前衛、将棋の"歩”となる。1895年マダガスカル平定、そして第一次大戦(1914〜18年)、第二次大戦(1939〜45年)とフランス軍の最前衛として”祖国フランス”のために戦う。この映画は第一次大戦にヨーロッパ大陸(特にフランス東部)の戦場に送られたティライユール・セネガレの物語である。仏語ウィキペディアの記述によると、第一次大戦に参戦したセネガル歩兵団の兵士の数は20万人、そのうち13万5千人がヨーロッパ大陸に送られ、3万人が戦死している。
 フランスの歴史読み物や戦争映画などでは、このティライユール・セネガレをナイーヴに美談化し、フランスのために義勇で戦ってくれた英雄たちのように描くケースが多い。ところがこの映画は違う。冒頭シーンは強烈である。1917年、セネガルのサバンナで牛を放牧して育てている一家、父バカリ(演オマール・スィ)と17歳の息子チェルノ(演アラサン・ジョング)、そこへ「フランス人がやってくる」の報せ、バカリは息子に逃げるよう命じるが、多数の騎馬憲兵隊は逃走するチェルノを暴力的に捕らえ、強制連行する。これが当時の現地における”新兵狩り”であった。この若者たちが”祖国フランス”のために志願してヨーロッパ戦場に行くことなどあるわけがない。大戦後半、苦戦の続く最前線で盾となって死んでくれる”捨て駒”探しが急務だったのである。この映画はフランスの植民地主義的蛮行を糾弾するのが主眼ではないが、そういう視点はちゃんと示している。
 一家を支えてきたバカリは、頼りの男児チェルノがいなくなったら、一家の現在も未来もないことを見越している。そして戦場に連れて行かれた者は二度と帰ってこないことも現実として知っている。絶対にチェルノを戦地に送ってはならない。バカリは強制徴兵されたチェルノを追って、年齢を30歳と偽り(チェルノの父親という身分も隠し)ティライユールに志願して合格し、チェルノと同じ部隊の一兵卒として東部フランスの戦線に送られる。

 最初に重要なことを書くのを忘れていた。この作品はフランス映画としては初めてほとんどPeul(プール)語(フラニ語/ブラール語)だけで進行する映画である(もちろんフランスではフランス語字幕がつく)。西アフリカで広く話される言語で、バカリはプール語しか理解できないという設定で、オマール・スィは最初から最後までプール語セリフで通している。実生活で父親がセネガル出身、母親がモーリタニア出身で、幼少の頃は家の中でプール語が話されていたと言うから、オマール・スィにとってはある種”母語”のようなものではある。映画の中で、他の言語を解さないバカリは軍隊の中でしょっちゅう「プール語を話すやつはいないか」と探し回っていて、ひとり通訳を買って出た男の言葉に「俺はソンニケ語はしゃべらん、一緒にすな」と怒るシーンあり。これがバカリの大きなハンディキャップとなっている。
 それに対して息子のチェルノはフランス語がよく出来て、隊友たちのウケも良く、そしてフランス白人の部隊長のシャンブロー中尉(演ジョナス・ブロケ)にも気に入られ評価されている。このシャンブロー中尉というのが重要な役どころで、白人ひとりでこのティライユール歩兵隊をしっかりまとめあげるリーダーシップがあり、アフリカ兵たちと同じメシを一緒に食べ「生きるも死ぬも一緒だぞ」と檄を飛ばす熱血上官であり、絵に描いたような武勇の人なのである。この中尉とチェルノの間にある種のフィーリングが通じ合う。おお、そういう方向に行くのか、と観る者はうがってしまうのだが、最終的にそういう方向には行かない。しかし中尉はチェルノを高く評価し、大抜擢で伍長に昇格させ隊長補佐の地位を与えるのだった。
 一方バカリは隊の中で息子を前線に送らせない方法ばかり探している。給食班に配属されれば戦闘員にならなくてすむと、ワイロを使ってみたり。どこの世界も金でなんとかなるのであり、軍の中にも悪いやつはおって、巨額の謝礼金で脱走を手引きしてやるという話はあるのだが、バカリは十分な金を持っておらず... しかし、ある日戦場で、戦死した白人兵のポケットの中に丸めてあった札束を...。
 父と子の確執。子チェルノはこの部隊の中で重要人物になっていくにつれて、自分が子供ではなく大人になり、自己を実現していく充足感を増していく。バカな考えを捨てて、脱走してセネガルに帰ろうと迫る父バカリに対して、チェルノは愛する父の前で、自分は今やあなたの”上官”だ、あなたは僕の命令を聞かなければならない、と...。父親はおまえは俺の子であり、俺の言うことを聞く義務がある、と...。

 シャンブローは内密にチェルノとバカリが親子であることを見抜いていて、隊の士気を乱すバカリを別隊に移す考えもあることをチェルノに告げる。父と子はここで決別するかもしれない...。バカリはバカリで、シャンブローが敵陣の丘を制圧するために突撃先兵隊となる作戦を立てたのを知り、それが自殺行為に等しいことを察知して、なんとかチェルノを連れ出さなければと...。
 バカリの脱走計画とシャンブローの突撃作戦は同じ日。嫌がるチェルノを力ずくで脱走の偽装馬車に乗せ、別の脱走手配師の待つ中継地点まで来た時、バカリはチェルノが馬車から逃げ出し、シャンブローの部隊が突撃する戦場へ向かったことを知る。バカリは後を追って戦場に赴き、突撃隊は出撃した後の塹壕から、武器も持たず丸腰で敵陣の丘に向かっていく。そして傷ついた息子チェルノを見つけ、抱き抱えて塹壕に引き返そうとするのだが....。

 息子と家族のことだけを考える一途な父親、純朴で頭が悪く何が何でもやり通すことだけを考える頑固頑強な父親、これが今回のオマール・スィである。えへらえへら笑うオマール・スィに慣れた私たちはおおいに驚く。戦争はシリアスであり、冗談など何もない。植民地原住民というポジション、アフリカ黒人というポジション、これらに冗談などあるはずがない。そういう映画だから、フランス人には感動だけでなく(知らなかったことを)教えられることもたくさんあるだろう。映画にはそういうことを伝えるパワーもあるのだから。そして大俳優誕生の瞬間でもある。この映画の主演だけでなく、監督脚本のマチュー・ヴァドピエとの共同発案者でもあり、出資プロデューサーでもあるオマール・スィ、ありがとう。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"Tirailleurs"予告編


2023年1月2日月曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2022


戦争がすべてを変えてしまった年だったね

年頭恒例になりました爺ブログ2022年のレトロスペクティヴです。2022年2月24日に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻は、欧州に住む私たちの生活をがらりと変えてしまったし、今その直接的な影響としての電力/エネルギー不足の最初の冬を体験している。ウクライナの人々のことを思う。そして指導者たちの暴挙に翻弄されるロシアの人々のことを思う。一日も早く止めさせねば。
 爺ブログ2022年の総ビュー数は4万7千、2021年の5万8千から1万1千も減りました。これは2022年4月にYahoo Japan が私の住む欧州地区でのサービスから撤退し、わがブログの更新情報などがYahoo に全く反映されなくなったことが、大きく影響していると考えられます。(↓)下に紹介するビュー数上位10点が、すべて5月以前の記事になっているのは、そのせいとしか思えません。しかたありません。わがブログが紹介するカルチャー全般が前年に比べて極端に貧困になったとは思えないので。
 これまで爺ブログで高い評価を受けていたヴィルジニー・デパントレイラ・スリマニアメリー・ノトンブの2022年新作はいずれも大したビュー数を得ることができませんでした。ウーエルベックも5位につけておりますが、いつもはこんなものではないです。音楽では私も今年のベストだと思うバンジャマン・ビオレー新作もいつものような同志たちの賛意を集められなかったようです。でもめげませんよ。
 以下が2022年に発表した記事56本から、純粋にビュー数の多い順から上位10点です。例年とはちょっと傾向が違いますが、同志たちの評価は常にうれしいものです。2023年もよろしく。そして2023年の夏までに、おそらく2007年のブログ発足以来の総ビュー数が「1 000 000」(百万)を突破するはずです。これは一緒にお祝いしましょう。

(記事タイトルにリンクつけているので、クリックすると記事に飛べます)

1. 『埠頭の女たちと著述家のデオントロジー(2022年1月19日掲載)
ノルマンディー地方都市の劣悪な女性雇用事情の内部潜入レポート、フローランス・オブナのベストセラーノンフィクション『ウィストレアム埠頭』(2010年)を下敷きに、エマニュエル・カレールが脚本演出監督したフィクション映画『ウィストレアム』。身分を隠して現場に潜入するジャーナリストを演じたジュリエット・ビノッシュを除いて、パートの清掃労働者たちを演じた女性たちはすべてノルマンディー現地の素人の現役労働者をキャスティングで起用した。映画はその過酷な労働条件を描くことよりも、主人公のジャーナリストが本を書くために、さまざまな隠し事と偽りを行使して女性たちに接近して、ある種"偽装”の友情を築いていく、という後ろめたさ、そのウソが暴かれた時の大いなるカタストロフに重きをおいている。デオントロジーの問題。便所掃除をするジュリエット・ビノッシュ。オブナの本とは全く別物になってしまったが、それでいいのだと思う。

2. 『Leconte est bon(2022年2月26日掲載)
ロシアによるウクライナ侵攻が始まった日2月24日に劇場公開が始まった映画。主演のジェラール・ドパルデューがロシア大統領プーチンと”親友”関係にあり、それまでプーチン擁護発言をしていた(戦争勃発後は手のひらを返すごとく...)ことで封切時にはかなり風当たりが強かった。ヒット作の多い大衆的映画作家パトリス・ルコントが、シムノン『メグレと若い女の死』(1954年)を原作に、メグレ警視役に良くも悪くも大俳優のドパルデューを起用し、自ら証言しているように「ヒッチコック手法」で撮った映画。象のような塊りでしかないドパルデューが、動作も鈍く、口数も少ないが、その圧倒的な存在感で見せてしまう古風な作品。始終暗めセピア色の1950年代のパリも美しい。捜査も画風も最初から最後まで”クラシック”にこだわったのが正解。あらかじめ古典になってしまっている。

3. 『柔能く剛を制す(2022年3月6日掲載)

『メグレ』(↑)の1週間後の3月4日に公開されたドパルデュー主演映画『頑強(Robuste)』(コンスタンス・メイエール監督の初長編映画)。(ドパルデューが”地”でできそうな)どうにも手に負えない斜陽の元大映画俳優という役どころ。だが自虐ギャグのストーリーではない。ボディーガード/運転手/秘書から台本読み合わせまでよろずの世話をする付き人の休暇期間に臨時に雇われた25歳の黒人巨漢女性(アマチュアレスリング選手)、こんな娘に俺の付き人がつとまるわけがないと相手にしなかった大俳優が少しずつ心を開くためには、巨漢同士のぶつかり合いが必要だった。安易な友情物語ではなく、大俳優の複雑な孤独も、巨漢娘の複雑な孤独もかなり近くから描いているから、この刹那の触れ合いが心に響く。『メグレ』共々ドパルデュー再評価のきっかけとなった佳作。

4. 『だんだん良く鳴る法華のタンブール(2022年5月30日掲載)

大器晩成型。どんどん大物感を蓄えていっているベルトラン・ブラン(51歳)の7枚目のアルバム。アルバムを重ねるごとにさらに高踏的になり、俳句的ミニマル表現(サウンドと詞)になっていっているのに、ファンはこの味に毒されたように魅了されているようだ。しびれる低音はよくバシュングと比較されるが、私はエルヴィス的だと思って聞いている。そう、”難解なエルヴィス”と私は思う。ゲンズブール寄りを自認するバンジャマン・ビオレーとは違った道を歩んでいる。いずれにせよ、ビオレーとブランは21世紀的現在におけるポップ・フランセーズの最高峰の部分である、と私は断言できる。私はこの二人には着いていきますよ。

5. 『Dear Prudence(2022年1月29日掲載)

1月7日に発売されたウーエルベック7作目の長編小説『無化(Anéantir)』、凝ったハードカバードイツ装製本(栞紐つき)736ページ。2027年大統領選挙、超ハイテクのテロ事件、悪魔学、カトリック信仰、新宗教、老人医療、最先端ガン治療など縦横無尽の(雑学)博識に裏打ちされた大著ではあるが、読後感の薄っぺらさはウーエルベックには珍しい。それなりに売れてベストセラーにはなったし、メディアも相当騒いだわりに、急激な尻すぼみ状態で、春を待たずに誰も話題にしなくなったし、2022年年末の「今年のベスト小説」には全く顔を出していない。私のブログ記事は例外的に200行を超して、かなり詳細に内容について言及しているが、自分で読み返して「イヤんなる」レベル。あれから1年経ったが、日本語訳はまだ出ていないようだ。あまりおすすめはしない。

6. 『もう37歳になるんだよ(2022年2月11日掲載)
3月4日にリリースされたストロマエの9年ぶりのスタジオアルバム『ミュルティチュード(Multitude)』は遂に爺ブログ記事として紹介できなかった(今でも書きかけで未発表ストックしてある)。この記事は自分でもそのプレリュードのように、テレラマ誌のインタヴュー記事を下敷きにして書いたのだけど、既にスケジュールが決まっている2022年メガツアーの日程が迫ってきたから慌てて制作された”出し殻”のような非ポップアルバムへの言い訳のような印象がある。創造性(クレアティヴィテ)の枯渇。それはそれでいいのだけれど、言い訳はあまりして欲しくなかった。特に「もう以前のような肉体を保つことができないから、力を抜いて...」のような発言は。弟分のオレルサンは”渦中の人”であることから逃げていないよ。アルバムは本格的にジャック・ブレル流のシャンソンに脱皮しようという試みが明らか。それは良い方向だと私は思うよ。

7. 『A star is reborn(2022年4月6日掲載)
一貫して迷える若者像を撮り続ける万年青年監督セドリック・クラピッシュの最新作はプリマドンナ・バレリーナのマリオン・バルボーを主演させた”ダンス”映画。晴れの舞台で大転倒し、二度と踊れなくなるかもしれない怪我を負ったクラシックバレエのプリマドンナが、人生見つめ直しの旅でブルターニュに流れ着き、そこでコンテンポラリーダンスの一座の合宿と遭遇し、少しずつ踊りの世界に戻っていく。葛藤あり、友情あり、恋あり、そして全編にダンスあり。ああ、こういう跳躍できる肉体を持った若者たちは、なんて美しいのだ! それだけで幸せになれる映画。理屈なし。わかりやすく感動がまっすぐ。観た人はみなマリオン・バルボーのとりこ。他にもたくさんいい映画あった2022年なのだが、私的にはこれが一等賞と思ってます。記事はかなりベタ褒めです。

8. 『魅惑の美形シンガーの謎の死(2022年5月1日掲載)
年に何回かやってしまうラティーナ連載『それでもセーヌは流れる』(2008〜2020)記事の加筆再録。これはラティーナ2015年7月号に載ったマイク・ブラント(1947 - 1975)の記事。ひとこともフランス語を話せない状態で1970年単身フランスに上陸、驚異的なスピードでスターダムにのし上がり、その人気の絶頂で1975年にこの世を去っている。自殺か他殺か。今日まで諸説あり、未だに真相は明かされていない。まるで芸能雑誌の記事のように書いたものだが、それなりに面白いし、フランス芸能界の暗部も垣間見ることができる。沢田研二は「ポスト・マイク・ブラント」候補として1975年にフランスでスターになった。ブラントのようにフランス拠点の国際スーパースターになることも不可能ではなかったのだが、違う道を進んだ。後悔はしていないと思う。

9. 『ツイストびとのための鎮魂歌(2022年1月11日掲載)
マルセイユの(人情)映画監督ロベール・ゲディギアンが初めてアフリカで撮影した映画『ツイスト・ア・バマコ』。1962年、独立直後のマリが舞台で、厳格なソヴィエト型社会主義化を目指す独立体制派とツイストや欧米の流行に熱狂している若者たちとの確執を描く。ゲディギアンはマリでこの映画を撮りたかったのだが、昨今のマリの政情はまったくそのようなことができる状態ではなく、まだマリほど反フランス勢力の強くないセネガルで撮影した。ラストシーンで2015年老婆になったヒロインのララが、イスラム過激派が制圧した地区の中で、踊りながら(イスラム占領軍が強制したヒジャブ着用の義務を無視して)ヒジャブを脱ぎ捨てる。戯画的に見えるだろうか。2022年冬、イランで起こっていることとシンクロする、自由へのメッセージ。ツイストもロックンロールもそういうシンボルとして愛された時期/場所があったことを忘れてはならない。

10.  『(ぶり)じっと手を見る(2022年4月8日掲載)
これも(↑)マイク・ブラント記事と同じで、ラティーナ2013年11月号に載った「それでもセーヌは流れる」連載記事を加筆再録したもの。偉大なりブリジット・フォンテーヌ。私が初めてフォンテーヌに関してバイオグラフィーも含めてまとめて書いた記事だった。本人には会っていない。たぶん会っても話にならないだろうという恐れもある。昨今は何度も死亡説が流れ、コロナ禍でキャンセルが続いた「さよならコンサート」は、2022年4月「ブールジュの春」フェスティヴァル内で行われた。当日まで本人は現れないだろうという噂が立ったが。怪女であり怪詩人である。もう歌わなくてもいいから、長生きして"言葉”を放ち続けてください。