その"L'Enfer"が初めて公に発表されたのが、フランス最大の民放テレビTF1の20時ニュースであった。ニュースにゲストとして招かれ、キャスターのアンヌ=クレール・クードレーの質問に答える形式で進行した十数分のインタヴューの終盤、クードレーが「あなたの歌には孤独を主題にしたものが多くありますが、音楽はあなたを孤独から解放する手助けになったのですか?」と尋ね、ストロマエ一瞬の沈黙のあと(あたかもライヴのように)"L'Enfer"を歌い始める、というクサ〜い演出を(↓2分5秒め)。
これはたちまち轟々の論争沙汰となるのだが、ニュース報道にこのようなプロモーション演出が許されるのか、ジャーナリズムのデオントロジーに抵触するものではないか、と。ニュースに偽装商業広告が混じってもなんともなくなったご時世なのに。まあ、ストロマエの狙い通りと言うべきか、この論争で願ってもない話題騒然現象が生まれたのだから、プロモーションは成功したということにしよう。(テレラマインタヴューでもこのことは触れられているのだが、"演出”のどこがいけないの?というアーチスト様の反応なので、訳さないでおく)
(…)
テレラマ:このアルバムによってあなたは解放されましたか?
ストロマエ「解放されるって?僕が何から解放されなければならなかったのかな?」
テレラマ:病気から...ス「誰でも不調の時期を避けて通れるわけではないよ。僕は明らかに過剰な仕事による困難な時期を過ごしていた。解放された?むしろアルバムを完成させたことで重荷は降ろせたと言うことはできる。このアルバムを僕はごく個人的でひとり仕事のようなやり方で作ったわけではない。他のアーチストの音楽を聴く時、僕はその人の人生を知る必要はないし、その人についてとやかく言われていることには興味がない。そうじゃなくて僕はその人の詞の中に自分を見つけ出したいんだ。僕はそれまでの自分の回想録を作るつもりは全くなかった。もちろん扱われる主題は僕が体験したことと交差するけど。だからこのアルバムは僕自身であるけれど、全部が全部そうだというわけでもないんだ。言葉遊びやはぐらかしの部分はアルバムをフィクションの方面に引っ張っていく。」
テレラマ:あなたには世界を目指すというはっきりした野心があるように思うのですが…
テレラマ:あなたのアルバムとオレルサンのアルバムは似ているところはないとは言え、さまざまな共通点を共有していると思いますが?
ス「つい先週、ある人が僕は彼と同じように話すとまで言ったんだよ。彼のアルバムで僕が一番好きなのは”Jour Meilleur(よりよい日)”という消沈している友だちの生気を取り戻そうとする歌なのだけど、僕の”L’Enfer(地獄)”や”Mauvaise journée(悪い一日)”と呼応しあっているような歌だ。僕たちはしょっちゅうは会わないけれど、お互いのアルバムを作る時は連絡し合う。僕と彼では曲の作り方のプロセスがまるで違う。例えば彼は主題に触れるすべてのことについてキリがないほどノートに書いていくんだ。僕もするけど、彼ほど片っ端からというほどではない…。彼のアルバムが『シヴィリザシオン』というタイトルだと知った時、あとになってちょっと怖くなったんだ、僕のアルバムもこのタイトルになっていたかもしれないって。本当に。そうだったら僕はドン底まで突き落とされるところだったろう。たしかに僕と彼は世界を同じ尺度で見ている、その見方は地球規模からローカルにまで。僕の場合僕をインスパイアしたフォルクロールという概念はここから来ている。このタームは文明、民族、文化、伝統まで包含している。そこから最終的にはちょっと距離を置くことになったのは、クリップやヴィジュアルの音楽的方向性、ダンス、衣装などにそれを全部詰め込むのはちょっと重すぎることになると思ったからなんだ。」
ス「アルバム『ラシーヌ・カレ』以来、僕は世界のいたるところで聞かれることを目指していたけど、それはうまく行ったんだ。初めてアメリカの聴衆を相手にした時のことを僕はよく覚えている。全世界でレコードが配給されるように僕はメジャーレコード会社と契約を交わした。ビヨンセやリアーナと比較するわけではないが、僕はレコード会社の戦略がどうなっているのか確かめていた。世界中で配給されると言っても地区によってはあまり仕事してくれていないところもあるから。僕はバスケットプレイヤーのマイケル・ジョーダンをアイドルとして大きくなった。アメリカは世界で最も多くの音楽を産出している国だ。最近では韓国やラテンアメリカによって少し事情は変わっているが。確かにそれは複雑なことだが、僕にはそれは挑戦としてやってみてもいいんじゃないかと思っている。もしも僕が失敗してもそれは悲劇にはならないことだし。僕は以前よりもずっと軽めにやってみようと思っている。僕の人生はその野望を中心に回っているわけではない。いずれにしても午後5時になったら僕はウチに帰るんだから…。」
(…)
テレラマ:あなたの国(ベルギー)で今やあなたは多くの若いアーチストたちにとって続くべき見本となっていますが、それはうれしいことですか?
ス「もちろんうれしいことだけど、僕だけが見本だったわけではない。僕の前にはジャック・ブレルやたくさんの先人たちがいた。最近では映画のような違う分野でブノワ・ポールヴールドやフランソワ・ダミアンのような人たちも出てきた...。多分僕たちはそれまで人がよく言っていたような障壁を打ち破り、リミットなんてないということを証明したんだ。僕がデビューした頃、ベルギーの音楽シーンではローカルな支援などまったくなかったし、誰も僕たちのことに期待していなかった。当時の僕の目標というのはフランス語圏で知られるようになることだった。”Alors on danse”がドイツでもヒットしたと聞いた時、僕はどんなところでも評価されうるのだということを理解したんだ。僕たち自身だって理解しなくても英語の音楽を聴いていたんだ。その逆も可能なんだってことを僕は繰り返し言っている。」
テレラマ:ツアーの最初のショーはブリュッセルですよね。そこで始めるというのは大事なことでしょう?
ス「もちろんそうだよ、その点で僕はとても緊張している。だって僕はとても長いことステージに立っていないから。ロボットや(ピクサーやドリームワークス並みの)3Dアニメーションを駆使している。それはとても斬新なショーになるけど、僕の残る心配というのは歌詞の度忘れなんだ。誰にでも怖いものはある...。演出もアクションもあるけれど、ハードで高度なダンスは減らしている。僕自身が楽しみたいし、ショーの最後にグロッキーになることは少なめにしたいんだ。前のショーはたいへんな試練だったし、その時の肉体を僕はもう保っていない。もうすぐ37歳になるんだよ。」
(テレラマ誌2022年2月9日号 p.4 - 10)
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