2018年1月29日月曜日

Ta douleur efface ta faute

"La Douleur"
『苦悩』

2017年制作フランス映画
監督:エマニュエル・フィンキエル
原作:マルグリット・デュラス
主演:メラニー・ティエリー、ブノワ・マジメル、バンジャマン・ビオレー
フランス公開:2018年1月24日

 が痛くなるシークエンス多し。撮影技術のことはよくわからないが、たぶん望遠レンズで近くに焦点を合わせると背景はボケボケになるという効果だろうと思う。焦点の合ったところだけしか見えないが、人間の目って見えないところを見ようとして、そのボケボケの外周や背景に「自分の目で」焦点を合わせようとするんですね。ところがそれはそう作られた映像なので、ボケボケはボケボケのまま。無駄な努力を何度も試みた私の目は痛くなってしまう。
 として不透明な部分の多い映像。そしてサラウンドで取り巻く(雑音を含む)すべての音がどんどん入ってくる音響効果。だからいろんなことが気になって仕方がない。観客席に座っているだけで不安になる。「デュラスですから」と言って済むことではないんでは。
 デュラス『苦悩』は1944年から46年にかけての自身のノートをベースにした6編の短編集で40年後の1985年に発表され、その中心的作品で表題作でもある「苦悩」は、ナチス占領下のパリで政治犯として捕らえられ強制収容所に送られた夫、ロベール・アンテルムの生還を信じて待ち、人間として生きる姿をほとんど留めない状態で帰ってきたロベールを長い月日をかけて献身的な介護で人間の姿に戻してやり、そして別れを告げるという話。
 時代も場所も不透明なナチス占領下のパリで、夫と共に地下レジスタンス運動に関わっていたマルグリット(演メラニー・ティエリー)。捕らわれた夫はフランス国内の監獄にいるはずなのだが、情報がなく、監獄宛の手紙や小包にも返事がない。その差し入れを届けに行った占領軍役所で、マルグリットは夫ロベールを逮捕したゲシュタポのフランス人刑事ラビエ(演ブノワ・マジメル)と出会う。ラビエは文学に精通した男でマルグリットとロベールが何者であるかも知っていて、彼女の才能を評価していて、彼女のためにロベールに差し入れを届けることはもちろん、ロベールの現在の状況を教える、と言う。ラビエはその日から毎日のようにマルグリットを呼び出し、ロベールの情報を提供する見返りに、マルグリットからレジスタンス組織の情報を聞き出そうとする。
 モルラン(演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)というコード名の人物(実はフランソワ・ミッテラン)に指導された地下レジスタンス組織には、ロベールの親友にしてマルグリットの愛人でもあるディオニス・マスコロ(演バンジャマン・ビオレー)がいて、ゲシュタポのラビエがマルグリットに接近してくるのを危険視するが、リーダーのモルランはラビエからナチスの情報が得られるという利用すべきチャンスとして、マルグリットの諜報活動を指示する。
 ゲシュタポだからという目で見るからかもしれないがラビエは面妖なキャラクターであり、文学的であり、ナチスは人類の未来であると自ら飛び込んで行った純な右翼青年であり、十分に誘惑的でもある。複雑な誘いの手で何度も密会に呼び出される度にマルグリットは、この男の蛇のような性格に屈してはならないと身構える。
 一方の愛人ディオニスも、マルグリットを彼なりに支えようとするのだが、映画はその「愛人性」を極力隠そうとしているような描き方に見えた。ここでディオニスがロベールの生還を望まないようなそぶりでも見せたら、映画はさぞチープなものになったろう。バンジャマン・ビオレーは良い役者だ。「裏切らない愛人 」というのは難しい/ほとんど困難な役ではないか。
 しかし、最も大切なことは、マルグリットにとっても映画にとっても「ロベールの生還」なのである。そのしょっぱなからマルグリットにはその生還に確信があったし、ロベールが「私が待っていることを知っている」ことにも疑いの余地がないのである。だが、いつなのか、そしてどんな状態で還ってくるのか。この「待ち」の長さが、計り知れない苦悩となるのである。
 1944年から45年、戦況は変わり、ラビエと対独協力ブルジョワ女たちが優雅にレストランで昼食していると、空襲警報のサイレンが鳴り、マルグリットはラビエたちの敗北が近いことを知り、勝ち誇ったように「誘惑者」ラビエに接吻する。そして赤いセーターを着たマルグリットがたった一人自転車で無人のコンコルド広場をぐるりと回るという、なんとも言えぬ美しいシーンがあるのですよ。
 ドイツ軍の敗走、連合軍の入城、パリ解放。われわれがナチスがいかに残虐であったかを知るのはその後なのだ。待てど暮らせど消息のしれないロベール。その間に駅に次々に帰ってくる生存兵たちや収容所生存者たち。特に後者は、ガスで痛めつけられ、激しい栄養失調で骨と皮になり、かの悪名高き収容所のパジャマ姿でそのまま汽車から降りてくる。映画はたとえエキストラとは言え、よくぞここまで衰弱した姿の人々を集めたものだと、観る者の正視を妨げるほどである。
 映画はこの後半の耐え難い「待つこと」の深みで窒息しそうになる。ギリギリのところでマルグリットは自問する「これ以上の苦悩が来れば、私は存在できない」。なぜロベールを待たねばならないのか、なぜ他の人であってはいけないのか。そういう苦悩の頂点に、愛人ディオニスは残酷にもこう言うのだ。
A qui êtes-vous le plus attaché ? (あなたが何に最も執着しているのですか?)
A Robert Antelme ou à votre douleur ? (ロベール・アンテルムにですか?それともあなたの苦悩にですか?)

激昂したマルグリットはディオニスに激しい平手打ちを喰らわし、"Salaud(卑劣漢)!”と罵る。映画はその夜、この二人が性交したことを間接的にほのめかす。そしてその朝に二人は「ロベール生存」の知らせを受け取るのである。
 もはやロベール・アンテルムと誰も認知できぬほど衰弱していた、ということを映画は映し出さない。前述のボケボケ映像効果で、ジャコメッティ彫刻のような(あるいはSF映画の異星人のような)デフォルメされた姿が漠然と現れる...。この映画が「映画化不可能」と言われ続けてきたこのデュラス作品を、驚嘆すべき映像作品として完成させた最大の功績は、このボヤボヤ映像であろう。人命の極限、人類の残虐性の極限、私たちは何も知らないかもしれないが、それを文字化(文学化)したり映像化したり、ということに立ち会うことはできる。そしてそのあとで冷静に考えると、私たちはどうしようもなく不透明であり、苦悩は不透明さを少しでも晴らすために受け入れなければならないものなのだと思う。
 マルグリットは、腐敗物のように変わり果てたロベールを献身的な努力で年月をかけて元通りの健康体に戻してやり、再びロベールに笑顔が出るようになった頃、ディオニスの子を宿したことを理由に別れを告げるのである...。上映時間2時間の苦悩。満たされた苦悩だと私は思う。

カストール爺の採点:★★★★☆

↓『苦悩』予告編


↓2019年2月日本公開(日本上映題『あなたはまだ帰ってこない』)の予告編



↓記事タイトルの出展はヴェロニク・サンソン1974年作品"Le Maudit"(呪われ者)
Ta douleur efface ta faute (あなたの苦悩はあなたの誤りを消す)
(1976年ライヴ映像)



2018年1月19日金曜日

裸々ランド

ブリジット『ニュ』
Brigitte "Nues"

 Viens on pleure on pissera moins.
さあ来て、泣くのよ、そしたらオシッコの量が少なくなるわ。
("Palladium") 
女の人たちって、そういう親密な仲になったらこんな話をしているんだろうなぁ、って思う。それを歌にできるかって言うと、そういうわけにもいかないんだろうど、この二人ならできる。ブリジットはデビュー時から「女ウケ」のするアーチストだという印象がある。それも姉御肌。同年代より少し上の頼もしい人。
 80年代にそれをやっていたのが、故フランス・ギャルだったと思う。ミッシェル・ベルジェの詞曲とは言え、そのメッセージは姉御のそれで、
Résiste(抵抗するの)
Prouve que tu existes (自分が存在するってことを証明するの)
Cherche ton bonheur partout, va (自分の幸せを至るところで探すの)
Refuse ce monde égoïste(このエゴイストな世界を拒否するの)
Résiste (抵抗するの)
Suis ton cœur qui insiste (こだわる自分の心に従うの)
Ce monde n'est pas le tien, viens (この世界は自分のとは違う)
Bats-toi, signe et persiste(戦うのよ、自分の名で、頑固に)
Résiste (抵抗するの)
(フランス・ギャル "Résiste"  1981年 詞曲ミッシェル・ベルジェ)
なんて言われて、元気づいた女性たちは多かったと思う。図らずも、21世紀の今、その役をやっているのがブリジットの二人だろう("Battez-vous"とかそういう歌の数々)。  デビューして10年。ギター・フォークから出てきた百戦錬磨。シリヴィー・ウワロー(1970年生、47歳)+オーレリー・サアダ(1978年生、39歳)、双子姉妹(メタファーですよ。「ロッシュフォールの恋人」と同じほどに)のように見えて、実は8歳も歳が離れている不思議。女同士っていいなと思うのは、このペア感覚が歳が関係ないっていうところ。男はそうはいかなくて、年上はどうしたって「先輩」なの。この二人、一緒に泣きあったり、笑いあったり、喧嘩しあったり、が同等=フェアーなのがよくわかるし、ベッタリな時とそうでない時のバランスもはっきりしている。よくある女同士の関係なのかもしれないけれど、実にうらやましい。女の人たちにとってもうらやましいのだと思う。だから良き姉御なんだろう。
 ”Nues"(女性形・複数形の"裸"。つまり複数の女性の"裸”)。「女同士の裸って、そんなに自慢できるもんじゃなくて、素(す)の姿で、見せ合ってホッとするもの」だそう。 いいなぁ。
あなたが泣いてる時もあなたはきれいよ
あなたはエレガントな憂いがあるし、ブルースでもウキウキするようなの
あの男が外に行ってしまったなんて、そいつは目と耳が不自由なのよ
ポーズをとる必要なんかないわ、だって私たちは大人物じゃないんだから
さあここに来て一緒に泣こう、そしたらオシッコの量が少なくなるわ
いつもと同じことよ、過ぎ去ってしまえば何でもないわ
来て、また去っていくのよ
2年も経ったら、笑い話になるわ、あなたも私も
来て、「パラディウム」(※)に連れてってあげるわよ
ロックンロールと一緒に飲もう、くだらない古いヒット曲に乗って
(※註:ジョニー・アリディ、エディー・ミッチェル等にも登竜門だった60年代からのパリのロックンロールの殿堂 Bus Palladium
わおっ。お姐さんたちは、こうやってアホだった恋を葬ってくれるんだ。 素晴らしい。こういう歌は、そういう場面になってもならなくても、女子たちに歌い継がれますよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Palladium
2. Sauver ma peau
3. La morsure
4. Le goût du sel de tes larmes
5. Mon intime étranger
6. Zelda
7. Tomboy manqué
8. Paris
9. La Baby Doll de mon idole
10. Insomniaque
11. Carnivore

BRIGITTE "NUES"
CD/LP Boulou Records / Columbia / Sony Music
フランスでのリリース:2017年11月17日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓ "Palladium"オフィシャル・クリップ)

(↓ "Palladium" 国営TVフランス5の番組 C à Vous でのライヴ)


2018年1月16日火曜日

逃げてきた民に何の区別があるのか(ル・クレジオ)

ランスは人権宣言の発祥国であり、内外に「人権の国」と自負してきた。しかし事情はその自慢に反することも少なくないし、それは完全不可欠な国とは誰にも言えないフランスの「人間的」な面として、仕方ないことのようにも思われた。しかし昨今のはひどいと思わせるものがある。事情は2015-2016年からのシリア、イラク、アフガニスタン、アフリカの戦乱国からヨーロッパ大陸に押し寄せてきた何百万という難民の受け入れをめぐって大きく変わってきた。
フランスのMigrants(ミグラン=移動民)受け入れは、アンゲラ・メルケルのドイツのそれに比すればやや消極的ではあるが、それでも...。しかし選挙のたびにこれは2015年前までの「移民問題」の数倍の重さを持って、票の駆け引きの材料になっている。極右には格好の票取り材料で、治安と失業とフランス的アイデンティティーの問題をすべてこのミグラン襲来をタネにすればよく、票も随分伸ばした時期があった。
極右のマリーヌ・ル・ペンを破って2017年5月に大統領になったエマニュエル・マクロンは、積極的なミグラン受け入れ論者ではない。保守&左派の寄り集まりの新政党(大統領派)LREMは移民政策もどっちつかず。
元社会党で元リヨン市長であるジェラール・コロン内務大臣は、2012-2017年のオランド社会党政権時のどちらかと言えば寛容的とも見えた移民政策を継続するつもりは全くない。マクロンの意向でこの春に上程予定の新移民法の骨子は、2007−2012年のサルコジ時代とも似た選択的移民政策で、国に有益な外国人労働力をのみ選択的に滞在を許したいという考え方。現在の問題は、フランスに入国する前にそういう選別をしたいということではなく、現在入国してしまっているミグランたちをどうするかということ。ジェラール・コロンは、国の管理するミグラン収容センターや、ミグラン支援NGO団体がケアするキャンプ村などに、警察の調査官を送り込んで、いわゆる「戦争難民」なのか「経済難民」なのかを識別したい、などとものすごい「経済難民」締め出し策を考えている。これには一斉に反発の声が上がった。一体「人権の国」は どこに行ってしまったのか?(↑)の週刊誌ロプス(L'OBS)2018年1月11号は、マクロンの顔に鉄条網を巻きつけて、『ミグラン : 人権の国へようこそ』と題されたマクロンとコロンの人権無視の移民政策を特集。その中に特別寄稿で、2008年ノーベル文学賞作家、ジャン=マリー=ギュスターヴ・ル・クレジオの怒りの一文「耐えがたい人間性の否定」を掲載。「冷血な怪物」(Monstre froid)、「下司の極み」(Dégueulasse)など激しい言葉で語られる素晴らしいトリビューンなので、無断で全文訳して紹介します。


耐えがたい人間性の否定
テクスト:J-M-G ル・クレジオ

 ミッシェル・ロカール(1989年首相時)の有名な言い回し「フランスは世界のすべての貧困を受け入れることはできない」ー 最近マクロン氏は経済的難民に対する強固な閉鎖政策を正当化するためにこの言い回しを再度援用した。レバノンやヨルダンのような小さな国が受け入れる避難民の数の割合を考えれば、これは全くのナンセンスである。そしてこれは何よりも耐えがたい人間性の否定である。どのようにして選別するのか? 政治的理由において、受け入れに値する人々とそうでない人々をどうやって見分けるのか? その国で彼らが被っている死の危険を理由に庇護を求める人たちと、経済的な理由でその国を逃れてきた人たちとの間にどんな違いがあるのか? 飢え、困窮、棄民によって死ぬことは、暴君の発砲によって死ぬことほど重要でないということか? 往々にしてそういう暴君たちをフランスは支持し、おべっかを使い、可愛がり、クーデターで失脚した時には寛容に国境を開いて暴君たちを迎えるが、彼らこそその国の最も貧しい民たちの命を脅かしているのではないか? フランスが長い間利益を得てきて、今日も利用し続けているこのシステムにおいて、フランスには責任がないのか?
 人は予算のことを言い、分配における限界を口にする。確かにそうだが、すべての技術面で明らかに進んでいて、穏やかな気候に恵まれ、賞賛すべき社会的平和がある非常に豊かな国が、その富の少しを、資源を探し直し、その力を回復し、子供達の未来を準備し、自らの傷を癒し、希望を取り戻す必要がある人たちのために捧げることを拒否する時、どこに分配と言えるものがあるのか?これこれの人々は尊重すべきで、かの人々は何の価値もない、という比較はどのようになされるのか?道に身を投げ出し、砂漠を横断し、命がけで筏に乗り込み、熱い国の衣装のまま冬の雪山を越えていく人々に選択の余地があったなどと平気で言い、それを信じ込ませることなどどうしてできようか?彼らが出発を決意したことは断腸の思いであったということをどうして理解できないのか?彼らが後に残してきたものはすべての人間にとって大切なもの、すなわち生まれた国、先祖たち、そして旅立つには小さすぎる子供たちではないのか?
 ここでは平易な感傷や憐憫はお門違いだ。この移動民たちを直視しましょう。船舶のデッキや地べたに横たわり、太陽に焼かれ、飢えと渇きで痩せけているこの人たちを直視しましょう。彼らは私たちにとって見知らぬ人たちではない。彼らは侵略者たちではない。彼らは私たちに似た人たちだ。彼らは私たちの家族ではないか。
かつて私の母が母方の祖父母と共に私と兄を連れて戦争から逃れるためにフランス中を横断した時、私も彼らのような移動民の一人だった。私たちは庇護の申請者ではなかった。庇護はなかったのだから。私たちはひたすら生き延びるための場所を探していた。私たちが逃げている戦争がこの先10年、20年あるいは100年続くのか私たちにはわからなかった。貧困と飢えが戦争の状態である。それらから逃げる人たちは難民でも亡命申請者でもない。彼らは逃亡者なのである。
 政治は冷血な怪物である。それは法と命令には従うが、人間感情は考慮に入れない。零下6度の寒さで天幕の下に眠っている移動民たちを追い出すために、警備員たちがそのテントを潰してしまうということを知ったとしても。路地にいる哀れな者を一斉検挙し、家族と切り離して隔離した後、その出身国と見なされる国へ飛行機で送り返すということを知ったとしても。この惨めな人たちを野良犬であるかのように追い回すということを知ったとしても。いやはや、これは下司の極み(dégueulasse)としか言いようがないではないか。
 明晰かつ現実的であろう、それが約束ごとだ。悲壮みあふれる言説はそれが役立とうとする大義を邪魔するばかりだ。コミュニケーションと知識と他者の承認によって結ばれているということは私たちの現代社会の素晴らしさである。しかし気をつけよう、この素晴らしさは壊れやすいものであり、私たちには義務のようなものではなく、一つの特権のように作用することもある。私たちの周りに心理的な国境を築かないように注意しよう。それは政治的国境よりもずっと不当なものであるから。まさに「世界のすべての貧困」という言い回しに慣れっこにならないように注意しよう。それは私たちがあたかも不可侵の完璧なる島に住んでいて、気の毒な対岸の住民たちが同士討ちの戦いの末、その不幸の中に圧死していくのを、遠くから昆虫学者のような冷徹な目で眺めるようなものだから。この悲惨に関して目と耳を閉ざさないように気をつけよう。私たちの軍隊と判事たちと立法官たちのまやかしの保護に逃げ込まないように気をつけよう。もしもそれが富の分配やヒューマニズムの問題でないとしたら、それは戦略の問題であればいい。歴史的に不正と奴隷制と侮蔑によって成り立った帝国の数々は長続きしたためしがない。それらは金で堕落したがゆえに内部から腐敗していった。
 行動を起こすには遅すぎることはない。それはさほど複雑なことではない。理屈をひっくり返し、脅迫感にかられた行動をやめるだけでいいのだ。この分配とは受け入れのことだけではなく、未来を準備することでもある。すなわち支援と変化の両方だ。世界中で戦争道具を増やすために使われるありえない額の予算の一部、ほんのひとかけだけでも、危機に瀕した国の市民たちを助けるために、飲料水、教育、医療、企業創立、平衡と公正のためにあてがわれんことを。
(L’OBS 2018年1月11号)
(↓ YouTubeアマチュア投稿による、L'OBS上 ル・クレジオ寄稿の断片コラージュ)



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2018年4月1日追記
ル・クレジオ4月1日JDD紙上で再びマクロンの難民政策批判
(向風三郎FBの4月1日タイムラインに書いたものの転載です)

月1日付日曜週刊紙ジュルナル・デュ・ディマンシュ紙上のインタヴューで、ル・クレジオが再びマクロンの難民政策を批判している。
1月にル・クレジオがロプス(L'Obs)誌に寄せたトリビューンで「耐え難い人間性の否定」とマクロンを糾弾したのに対して、マクロンは「知識人たちの"偽善的好意 faux bons sentiments"」と揶揄するコメントを出している。カレーなど現地での難民/移動民へのフランス内務省指示による非人道的な冷遇は改善の兆しがない。
ル・クレジオは「マクロンどの、Améliorez-vous!」と呼びかける。

****(JDD紙4月1日号部分訳)****

JDD ー あなたは2018年1月ロプス(L’Obs)誌上の論壇でエマニュエル・マクロンの避難民に関する政策を激しく非難しました。
ル・クレジオ「私はエマニュエル・マクロンの政敵ではないし、そのロプス誌の(マクロンの顔を鉄条網で包んだ)表紙にはショックを受けた。私は避難民の問題に関する自分の意見を表明したかっただけで、(党派や運動の)スポークスマンをしたかったわけではない。私は今でも内務省の指令による避難民の取り扱い方に憤激している。それは毅然とした方策であることをうたっているが、現地では毅然をはるかに通り越した強硬策になっている。彼らは無防備な人々に対して手酷い扱いをし続けている。国境を閉ざすか開くかは、ひとつの問題として議論の余地があるが、ひとたびこの人々がフランスの地にいるかぎり、彼らにひどい処遇を課すことは容認できない。私は国境の開放に賛成する。私は理想主義的にすぎるのか? 世界中のいたるところで、私たちは恐怖に支配されることに甘んじている。バラク・オバマは天使の慈愛に満ちたような大統領ではではなかった。不法移民の強制追放の件数が最も多かったのは、オバマ在任中であった。私はエマニュエル・マクロンが大統領選挙でマリーヌ・ル・ペンを退けたことには感謝しているが、マクロンはもっと不遇な状態にある人々のことを考慮に入れるべきだ。私はその大統領の役目においてエマニュエル・マクロンに失望はしていないが、彼には修正しなければならないことがたくさんある。マクロンさん、もっと良くおなりなさい!(Améliorez-vous, monsieur Macron !)」
JDD ー エマニュエル・マクロンは避難民に対する知識人たちの「偽善的好意」という言葉で語っていますが。
ル・クレジオ「私は自分のナイーヴさを指摘されることには慣れているし、私は子供の時からナイーヴな人間扱いされてきた。私はモーリシャス島的環境で育てられたし、ニースにあっても私は乞食に食べ物を運んでやるのはごく当然のことだと思っていたが、学校仲間たちは乞食に石を投げつけていた。私は植民地の自由も擁護していたのだから、私は群れの中にはいない習慣があったということだ。私はナイーヴではない。私は単に物ごとを違うように見ているだけだ。私は政治家よりも芸術家を好む。しかし私は論戦から逃げたりしないし、しっかりと自分の立場を守る。私の家系的な過去、それはブルターニュとモーリシャスに起源をもつもので、その血は私に分配/共有を優先するよう私を導いている。だから、必要とあらば、私は避難民の冷遇に抗議するトリビューンを新たに書くことになろう。

2018年1月13日土曜日

生まれついての「豚」

「男はみんな狼」という表現と似てはいるのだが、今や「男はみんな豚」と見なされる傾向が現れている。それは例のハーヴェイ・ワインスタイン事件以来のことなのであるが、傷ついた女性たちが勇気を持って一斉に声を挙げるようになったこと、それは革命的な変化であり、女性の二人に一人が性暴力やセクハラの被害に遭っている現状では、徹底的に変えるべきことにようやく動き出した人間たち(女性たち+男性たち)を私は応援する。その動きにやや反して、男はみんな豚というわけではないでしょう、とか、女性たちだって誘惑されて嬉しいでしょう、とかそういう水を差すような論を立てる人たちもいる。1月9日にル・モンド紙上に掲載された100人の女性たちによるトリビューン『私たちは性の自由に不可欠な「口説き」の自由を擁護する』がそれであり、その旗手的な役割を果たしたのが作家・美術評論家・複数自由恋愛実践者のカトリーヌ・ミエ、女優・文筆家・BDSMイヴェントの主宰者のカトリーヌ・ロブ=グリエ(ヌーヴォー・ロマンの旗手であった故アラン・ロブ=グリエの未亡人)、保守系タカ派のジャーナリストで月刊誌Causeurの創刊者/編集長のエリザベート・レヴィで、あろうことか国民的女優・世界的銀幕のスターであるカトリーヌ・ドヌーヴが賛同署名したことで大いに話題になった。
 上に「口説き」と訳した、このトリビューンのキーワードは "Importuner"(アンポルチュネ)という動詞で、この100人の女性たちは、男が女に"アンポルチュネ”する権利と自由を擁護すると言っているのである。手持ちのスタンダード仏和辞典には、こういう訳語が出ている。
(人の)迷惑(邪魔)になる。(を)うるさがらせる、悩ます。(女性に)しつこく言い寄る。
つまり、少しくらい女性に誘惑的で、執拗につきまとったり、愛の言葉を繰り返したりというのは「セクハラ」に当たらないのではないか、むしろ男女関係に不可欠なアプローチではないか、というような論法なのだ。
 この反動的な切り返しに対して、それまでの #BalanceTonPorc (#豚を告発せよ)、#MeTooのムーヴメントに関わったり賛同してきた人たちは大反論している。

 1月12日、2016年度ゴンクール賞作家のレイラ・スリマニは、リベラシオン紙への投稿で「私は"アンポルチュネ”されない権利を求める」と論じています。その中で、男性たちはすべてが生れながらにしての「豚」であるわけがない、とも言及しています。この「生れながらの"豚”」という表現を
”Un porc, tu nais"(アン・ポール、チュ・ネ)
と綴っていて、"importuner"(アンポルチュネ)と地口にしている、というところがミソ。
 ではレイラ・スリマニの素晴らしいトリビューンを全文訳してみます。シャポー!

《 Un porc, tu nais ? 》
 テクスト:レイラ・スリマニ
通りを歩く。夜にメトロに乗る。ミニスカート、デコルテ、ハイヒールを身につける。ダンスフロアーでひとりで踊る。誰にもわからないような厚化粧をする。少し酔っ払った状態でタクシーに乗る。ヒッチハイクをする。深夜運行のバスに乗る。ひとりで旅をする。カフェテラスでひとりで一杯飲む。誰もいない小道を走る。ベンチに座って人を待つ。男を誘惑し、気が変わって、家に帰る。RER(高速郊外路線)の混雑の中に身を置く。深夜働く。公衆の場で自分の子に授乳する。賃上げを要求する。毎日のことであり、ありふれたことであるこのような生活の様々な瞬間に、私は ne pas être importnée 「しつこく言い寄られない」権利を要求する。これまで考えもしなかったような権利である。私は人に私の態度、私の衣服、私の歩き方、私のお尻の形、私のバストのサイズについてつべこべ言わせない自由の権利を要求する。私は静穏でいること、孤独でいること、恐れることなく自分を前に進めることの権利を要求する。私がこれが単に内なる自由にとどまることを望まない。私は外で自由に空気を吸って生きる自由が欲しいし、その世界は少しは私のものでもあるのだから。

私はかよわいこわれものではない。私は保護されることを求めてはいないが、私の権利が保障され尊重される価値のあるものにしたいのである。男性たちはすべて豚ではない。全くそんなことはない。この数週間、(セクハラ糾弾の動きに関して)今起こっていることを理解する能力において、どれほど多くの男性たちが私を驚嘆させ、歓喜させたことか? 彼らの共犯者であるまいという意思。世界を変えたいという意思、そして彼ら自身がこのような男性世界の慣習から解放されたいという意思に私はどれだけ心動かされたことか? いわゆる「しつこく言い寄る自由」の背後に隠されているのは、男性に関する恐ろしいほど断言的な観点、すなわち「男は生まれながらにして豚である」という見方である。私を囲む男性たちは、私に罵りの言葉を浴びせる男たちに強く抗議し、怒りを表明する。朝の8時に私の外套に射精する男たちに。私が昇進するために何をしなければならないのかを理解させようとする社長たちに。研修の代価にフェラチオを要求する教授たちに。通りすがりに私に「あんたおまんこする?」と聞き、しまいには私を「色気違い」扱いする男たちに。私が知っている男性たちはこのような時代に逆行する男性精力のヴィジョンに対して著しく嫌悪している。私の息子は、自由な男になるだろうし、私はそれを強く望んでいる。自由であるということは、女にしつこく付きまとう自由ではなく、制御不可能な性衝動に憑かれた女性の天敵と自分を定義しない自由を持つということである。私たちを魅惑する男性たちが持っている何千もの素晴らしい魅惑の方法を知る男になってほしい。

私は被害者ではない、しかし何百万もの女性たちは被害者である。これは道徳的判断でも女性たちの本質化でもなく、一つの事実なのである。そして私の中では、世界中の何千もの都市の街々でこうべを垂れて歩くすべての女性たちの恐怖と同じ、早い心臓の鼓動を感じている。男たちに追われ、脅され、暴行され、罵しりを浴びせられる女たち、公衆の場所で闖入者のように扱われる女たち。私の耳には地面にひれ伏す女たち、恥じ入る女たち、名誉を汚したという理由で道に投げ出される卑賤の女たちの叫びが反響している。その肉体がしつこく誘惑されたいという誘いである可能性があるという理由で長く黒いヴェールに身を隠すことを余儀なくされた女たち。カイロ、ニューデリー、リマ、モスール、キンシャサ、カサブランカの通りで、女たちが誘惑されたりちやほやされたりしなくなるのではないかという心配のためにデモ行進するであろうか?この女たちは男を誘惑したり、選んだり、しつこく言い寄ったりする権利があるのだろうか?

私はいつの日か私の娘がミニスカートとデコルテを身にまとって夜の街を歩けるようになるよう願っている。一人で世界旅行をし、恐怖することもなく、そんなこと頓着することもなく真夜中に地下鉄に乗ることができるようになることを。すなわち私の娘が生きるであろう世界はピューリタンな世界であってはならない。私が確信しているのは、その世界は今よりも公正で、愛情の領域では、快楽や誘惑のゲームがより美しく、より豊富であるはずなのだ。現時点で想像すらできないほどの水準で。
(リベラシオン紙2018年1月12日)

追記(2018年1月14日)
人は豚に生まれるのではない、豚になるのである。
(↓ 1月14日国営テレビFrance 5の政治討論番組 "C politique”に出演したレイラ・スリマニ。)
「女である私たちは、働き、戦い、男たちと同じ抑圧の下に置かれ、男たちと同じ義務を課せられていて、税金を払い、子供たちを育てる。しかし私たちは男たちと同じ給料をもらっていないし、同じように重視されてもいない。そして世界の大部分のところで、女たちは男たちと同等の権利もない。」
「私たちは男たちよりもずっと多くの経済的不安定の被害者であり、ずっと多くの暴力の被害者である。私たちは世界における私たちの均等で公正な分け前を要求したいだけなのである。私たちは最も大きな誇りのうちに安全に外に出て暮らしたい。」
「私はジェンダー間の戦争は望まない。私はみんなが共に生きることを望んでいる。」「私は人々が愛し合い、狂おしいまでに愛し合うことを望んでいる。しかし平等という条件で。相互の尊重の上に。各々の人格の尊重の上に。」
「人は"豚”に生まれるのではなく、"豚”になるのである。私たちの子供たちが生きていく世界を変えることはできる。性的関係における捕食と暴力を一掃できた日には、人はもはや欲望を空にする必要もなく、禁欲的な世界に生きることもない。人はより良く愛し合えるはずだし、もっと良くセックスすることができるはず。そして一緒に生きるということをもっと幸福に営めるはず。それゆえに私はこの暴力と戦わなければならないと考える。一人一人がお互いにより良く生きるために。」

2018年1月12日金曜日

Tout pour la musique !

ランス・ギャルの死(2018年1月7日)から数日間、テレビの特番や新聞雑誌の特集ページに目を奪われておりました。追悼記事では爺ブログの別ページで紹介したテレラマ誌ヴァレリー・ルウーのものの他に、レ・ザンロキュプティーブル誌1月10日号のクリストフ・コントによる「永遠のフランス(France Eternelle)」と題されたオマージュ(やはりほとんどゲンズブール絡み。独特の視点)と、パリ・マッチ誌1月11日号(←)の40ページ追悼特集の中の、ヤン・モワックスによる「フランス人たちのかわいいフィアンセ」と題されたオマージュが最も興味を引きました。
 ヤン・モワックス(↓)は1959年生まれの作家(2013年度ルノードー賞受賞)、映画監督(2004年クロード・フランソワのモノマネ芸人を描いた『ポディオム、俺がスターだ』)である他に、国営テレビFrance 2の人気トークショー番組 "On n'est pas couché"の常任パネリストとして毒舌を振るっています。
このオマージュ、フランス・ギャルが私たちに愛されたのは「フツーだったから」というイントロを持ってきます。私たちの70-80年代のフツーの日常にフツーに耳にした彼女の歌が、どれだけ私たちの日々に染み入っていたかを思い起こさせてくれます。そしてその80年代は、フランスにいた私たちの最後の無邪気な日々だったことも。私の和訳でどこまでエモーションが伝わるかわかりませんが、これまで読んだ最高のオマージュです。

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フランス人たちの可愛いフィアンセ
(ヤン・モワックス)

フランスを去ることには慣れているが、フランスに去られることはめったにない。彼女が「フランス」という名前をもらったのは良い偶然だった。彼女はこの国によく似ていた:ちょっと気難しい美しさ、シックな気まぐれ、ふてくされた仏頂面。はっきりした個性、気の強さ。フランス・ギャルはスターになりえないすべての素質を持っていた。すなわち彼女はフツーの子だった。そしてこのフツーさこそ私たちが好きだったものだ。スニーカーを履いた気のいいガールフレンド、同じ学部の学友、週末に壁のペンキ塗り替えに手伝いに来てくれるような。一緒にキャンプ場でヴァカンスを過ごしたいような、一緒にヒッチハイク旅行をしたいような。1960年代、70年代、80年代:「シャルルマーニュ大王」からニューヨークまで成功の渦に包まれた「スターマニア」を経由して「レジスト」まで。ヴェロニク・サンソン、フランソワーズ・アルディと共に彼女はわが国の女声版サウンドトラックであった。彼女はいつもそこにいたし、未来にもいつもそこにいるはずなのだ。永遠のフランス、それが彼女だった。最初はベビードールだったが、様々な出来事が彼女を追い越していった。純真な心で「夢みるシャンソン人形」を歌って1965年のユーロヴィジョンの優勝を勝ち取ったが、次いで彼女はニンフと同時に性悪女になり、男たちをてんてこ舞いさせたり、その心を打ち砕いたりできるようになる。その小さな体躯にもかかわらず、彼女のディメンションはゆっくりと大きくなっていく。「コム・ダビチュード(マイ・ウェイ)」という普遍のモニュメントは彼女に捧げられたものであるし。この点は少しミウ・ミウと似ていて、彼女はいわゆる「小柄で可愛い女」に属しながら、ハイヒールの恐るべきヴァンプたちよりもファム・ファタルたりうるものを持っていたのである。それに続いて「サロペット」時代がやってくる。すなわちミッシェル・ベルジェとの音楽/情熱両方のデュエットを組んだ時期で、ベルジェはまだ塞がらぬ傷を癒すために彼女を選び、彼女を守り通すために偉大な作曲家になっていく。

フランス・ギャルは生涯を通じて、相手の男に(彼女のせいで、彼女によって、彼女のために)自分の実力以上の力を出させるという西壁があったようだ。男が彼女との恋に落ちる時、男は狂おしいまでの讃歌を彼女に捧げ、彼女から別れられると、男は絶望的な鎮魂歌を作った。クロクロ(クロード・フランソワ)はこの喪失から二度と立ち上がることはなかったが、その復讐のために彼は自分の運命を切り拓いたのだ。フランスはそんなそぶりを見せなかったが、その間違いによって才能が開花してしまった男が、彼女に最低限の愛情と最大数の歌を捧げにやってくるのを待っていた。彼女はエンジンとしても燃料としても大したものではなかった。そのスタイルは? それは揺するのだ。腰を揺すり、両足の小さなサイドステップで揺らし、首を縦揺りさせるやり方はまるで地面を注視しながら頭で釘を打つようで、同時に指を鳴らし、それらは大いなる才能を持ったこの小さな体にうってつけのコレグラフィーをかたち作った。フランスは「リズミック」だ。「サンバ・マンボ」、「ババカール」、「すべては音楽のために(Tout pour la musique)」は体を動かすために作られた曲だ。汗をかくためだ。しかしメランコリーも彼女にはよく似合う。”Si maman si”,“Bébé, comme la vie”,  “Cézanne peint ”のような曲。彼女の最良のアルバムは議論の余地なく『パリ、フランス』(1980)であり、”Ii jouait du piano debout(彼はピアノを立って弾いていた)をはじめとして収められた曲は全て傑作である。イエイエの中でイエイエによって生まれたフランス・ギャルは、70年代から80年代に差し掛かるカーヴを永遠に記録するアーチストである。その時代は、ある種、私たちが無邪気でいられた最後の時であった。

 私にとって彼女の最も偉大な曲は永遠に”Viens, je t’emmène(来て、あなたを連れていくわ)であり続ける。この歌のはっきりとした行き先はわからなかったが、私たちは即座にフランスについていった。彼女は真に世界に興味を持っていた。アフリカや人道活動について彼女の語る言葉は決して空虚なものや見せかけではなかった。他の多くの歌手たちのように、彼女は20年かけて10回の引退ツアーなどせずに、意欲が失せた時にきっぱりと引退した。彼女の生涯の伴侶ミッシェル・ベルジェが1992年テニスの試合の最中に心筋梗塞で命を失ったことは、まだ続けていこうという気力を与えもしたが、嚢胞性肺繊維症に冒された娘ポーリーヌの死は、彼女のゴチャマゼのスウィング踊りを二度と見せなくさせたのである。希望と夢が宿っているのは未来であり、彼女はその中で残りの人生を過ごそうと決めた。音楽、録音スタジオ、ステージは彼女にとってあまりにも死んだ年月、黒々とした瞬間の数々、消えていった人たちを思い出させるものでしかなかった。彼女は一度はガンを克服したのである。しかしこのガンが、カーテンコールのように呼び戻され、最後のアンコールの1曲のように復活した。電気仕掛けのリスのようにかわいい顔、丸い栗色の目は死神ばばあの手に奪われてしまったが、このクソばばあには、私たちの青春が記憶する彼女の歌のリフレインは絶対に渡さない。フランス・ギャルの歌が聞かれ続ける限り、私たちの過去の夏は生き続けるだろう。私たちと、自転車に乗って、田園を駆け抜けていったあの夏は。 すべては音楽のために(Tout pour la musique)。

(↓ヤン・モワックス最愛の歌として挙げられた "Viens, je t'emmène" 1978年)



(↓ヤン・モワックスのオマージュの結語として引用された "Tout pour la musique" 1982年)

2018年1月10日水曜日

フランス・ギャルとアフリカ

「La Française la plus Sénégalaise(最もセネガル的なフランス女性)」と現地の人たちに慕われたフランス・ギャル(1947 - 2018)。死のニュースの翌日の1月8日、ウェブ版ル・モンド (Le Monde . fr)に掲載された、フランス・ギャルとアフリカの親密な関係をまとめた記事を紹介します。「燃えるようなアフリカ = L'Afrique flamboyante」を愛し、人道的活動に身を投じ、夫と娘の死に翻弄された心に「真の平静」を再び見出すことができた島(ンゴール島)での穏やかな日々...。
 1987年のヒット曲「ババカール」についてはこの記事も軽く紹介してありますが、重要なので補足します。セネガルの路地で出会ったファトゥーという名の若いシングルマザーは、自分は貧しく職もないのでこの赤ん坊男児ババカールを差し上げると言ったのですね。衝撃を受けたフランス・ギャルは最初この子を養子としてギャル/ベルジェ家に迎え入れることを考えます。セネガルからパリに帰ってこのことを夫のミッシェルに話したところ、この子の文化的ルーツも母子の関係も絶つことはこの子にとって不幸な結果になると二人は結論します。彼らにとってできることは何か。それはファトゥーにこの子を自分で育てられるような生活力を得られるよう援助することだ、と。ファトゥーに職業技術を身につけるよう学校に行く費用を与え、その職業に必要な道具(裁縫ミシン)を買い与えます。並行して、ババカールのような貧しい子たちにも開かれた学校を建設し、村になかった医療施設も開設します。1曲のヒット曲にとどまっていたわけではない、具体的で長期的な「行動」が背景にあったのです。
以下ル・モンド紙による「フランス・ギャルとアフリカ」の記事の全文翻訳です。

フランス・ギャルと「燃え上がるような」アフリカ
ある特恵な関係

ウェブ版ル・モンド紙2018年1月8日
(文:Le Monde . fr とダカール駐在記者マテオ・マイヤール)

1月7日日曜日、フランス・ギャルの他界した日、セネガルのニュースサイト「ダガーラクチュ Dakaractu」のトップは「最もセネガル人的なフランス女性が亡くなった」と題された記事が飾り、このアフリカ西海岸の小さな国への彼女の「愛」をしのばせた。1980年代以来、その後の生涯を通じてフランス・ギャルはアフリカ全体そしてとりわけセネガルと特別な関係を築いてきた。
1985年、当時エチオピアを襲っていたききんの被害者たちを救済するために結団された音楽家団体「国境なき歌手たち(Chanteurs sans frontières)」に彼女は身を投じた。この団体は当時「国境なき医師団 Médecins sans frontières」の代表だったロニー・ブローマンに率いられたもので、フランス・ギャルはそのチャリティー・アルバム「SOS エチピニア (SOS Ethiopie)」の制作に参加し、アルバムは100万枚を越すセールスを記録した。
その同じ年、彼女は、夫であるミッシェル・ベルジェ、ダニエル・バラヴォワーヌ(歌手)、リオネル・ロカージュ(ジャーナリスト)、リシャール・ベリー(俳優)と共に、「アクシオン・エコール」と称した人道的行動の発起人となった。フランス全土で中学・高校などの教育機関の中で数千に及ぶ小委員会が立ち上げられ、アフリカの学校建設や水供給設備などのプロジェクトの資金援助をするための募金活動が行われた。

セネガルの魅力にとりつかれ、フランス・ギャルとミッシェル・ベルジェ夫妻は、首都ダカールに近い、キャップ・ヴェール半島の沖にあるンゴール島に家を買った。1990年代に夫妻は島の向かいにある漁村に小学校を建設し、現在もその学校は存在している。1月8日、フランス・ギャルの死の翌日、「生徒たちは歌で彼女にオマージュを捧げた」と、村のガイドで漁師でもあるサンバ・ディオップは伝えている。
この土地で撮影された2012年ケーブルTV局PLANETE+ の番組でヤン・アルチュス=ベルトランとの対談でフランス・ギャルは「アフリカを含む今日の世界で起こりうる数々の問題に自覚的であること」を訴えた。

そしてその地で彼女はババカールと出会っていて、それは1987年に、彼女の芸歴上最も代表的な楽曲の一つの主人公になった。その当時フランス・ギャルは「アクシオン・エコール」の活動のためにセネガルにいた。ある夜彼女がある村を通っていると、「暗闇の中に」「小さな赤ん坊が眠っている」のを見た。彼女はその母親に「あんたの赤ちゃんきれいだね」と言うと、母親は「欲しかったらあげるわよ、持って行って」と答えた。
「パリに戻って、私はこのことをミッシェルに語った。6ヶ月後、彼はこの歌”ババカール”を私に差し出した」と今から数年前彼女はラジオRTLのインタヴューで語った。
この歌のヴィデオクリップを撮影するために現地に戻った彼女はババカールと再会し、その母親に「職業につけるようになるための教育訓練のためのお金」を援助することを決めたのだった。「良い結末の美しい物語」。

1997年、娘のポーリーヌの死後、フランス・ギャルは生活をフランスとセネガルの半々で過ごすことを決めた。前述のヤン・アルチュス・ベルトランとの対談で彼女は「この国で私は平和と真の晴朗さを見出した」と述懐している。

現地での彼女は目立たないものであったが、フランス・ギャルはダカールの半島の漁師たちの集団であるレブーと呼ばれる人たちと親密な関係を結んでいた。ンゴール島の村で、裸足で浜辺や丸木の釣り舟だまりを散歩する彼女のことを懐かしむ人々は多い。サンバ・ディオップはこう回想する。
「彼女が若かった頃、よく私たちと海に出たもんだ。セネガルにやってきたらすぐに私たちに会いに来た。乳がんの知らせを受けて、彼女は私たちの聖なるバオバブの木にやってきてその治癒を祈っていた。その場所はジェラール・ドパルデューら彼女の友人たちも一緒にやってきて、一種の巡礼地となった。私たちはみんな彼女ととても親しい関係だったから、その死去をみんなとても悲しんでいる。私たちは村の老人たちと、どうやって彼女の名誉を讃えようかと話し合っているところだ。」

彼女の死のニュースに、多くのアーチストたちも彼女にオマージュを捧げたが。その中にセネガルの名高い自作自演歌手であるユッスー・ンドゥールもいた。
「彼女はセネガルにあって私たちの姉だった。私たちの国を愛する気持ち、とりわけダカール市とンゴール島への愛着を表現して証明もした人物だったのだから。」

数年前フランス・ギャルはあるドキュメンタリーの中で、アフリカに関して、「あらゆる存在の美しさが、誰の目にも明らかだ」と説明していて、「私が伝えたいこの大陸のイメージ、それは燃えるようなアフリカだ。」と結んでいる。

(↓)テレビ FRANCE24のコラージュ映像「フランス・ギャルとアフリカ」(1月8日 YouTubeにアップされたもの)





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追記:
1月7日のウェブ版パリジアン紙に掲載されたユッスー・ンドゥールのフランス・ギャルへのオマージュ。向風三郎のFB上で翻訳紹介された全文をそのまま再録します。

ユッスー・ンドゥール:フランス・ギャルはフランス人で最もセネガル的な女性だった

フランス・ギャルはフランス人の中で最もセネガル人的な女性だった。」
その母国セネガルにおけるフランス・ギャルという人物が象徴するものについて、ユッスー・ンドゥールはこう要約した。アフリカ大陸で最も有名なアーチストの一人であるンドゥールは、フランス・ギャルの死去による心の動揺を本紙に告白した。数十年前から1年の数ヶ月をこの国で過ごしている彼女の死のニュースは、すぐさまこの国のニュースサイトの一面を飾った。
「彼女はセネガルと自分の住むンゴール島(ダカールから丸木舟で数分のところにある)への類稀な愛情を示したフランスのアーチストである。私たちはその島で彼女が仕事に取り組んでいる姿を見た。彼女はダカールの人々とまさに一体化していた。彼女の私の国への愛は疑いの余地がない。私はンゴール島の対岸にあるレストランが並ぶ海岸道であるアルマディー街で、隣接する店屋の中でフランスと出会った。彼女はセネガル女そのものだった。彼女はそこの常連で、とても活き活きと人々と接触していた。彼女がここの地で自由に振舞っているというのがよく感じられた。今日、私たちは大きな悲しみに包まれている。彼女のセネガルとのストーリーは非常に深いものだった。この地で彼女には全てがあった。彼女の好きだった場所、友だち。彼女は何度も行き来したけれど、とても多くの時間をかけていたのだ。」
ンゴール島で、フランス・ギャルは海辺のハーフティンバー様式のヴィラに住んでいた。彼女は密かに島の一軒のレストランを買い取り、学校を建設した。
「今日、住民の悲しみは目に見えて感知でき、みんなそのことばかり語り合っている。このニュースはプレスの一面になったし、人々は深く悲しんでいる。ここは”テランガ”(ウォロフ語でもてなしの意)の地であり、セネガルとアフリカを深く愛する人には必ず自分の居心地の良い場所が見つかる。彼女はそういうわれわれの家族の一人だった。私たちの旗印は、"もてなし”である。彼女はそれを体現していた。彼女のおかげで多くの彼女の友だちがダカールを発見することができたのだ。」
1987年、フランス・ギャルは「ババカール」と題する歌を発表したが、この歌はまさにこの国のためのものだった。この歌の中で彼女はダカールの路地で一人の母親が彼女に赤ん坊を贈り物として差し出した話を描いているが、それによってセネガルの首都の路地で生まれた子たちの厳しい生存環境を明るみに出したのである。
「セネガル人たちはこの『ババカール』という歌にとても感銘を受けたし、彼らはこの歌を大変好んでいる。それが彼女の子供たちへの慈善活動へのオマージュである。ここにはババカールのような子供たちがたくさんいる。この歌が多くのセネガル人たちの心に響いたのは、この子供たちを守る闘いにおいて、われわれは孤立していないということがわかったからなのだ。この地にいない人たちもこの問題に目を向けてくれるようになったと感じたからなのだ。この歌によって彼女はその関心を高めてくれたし、私たちの興奮は絶大なものだった。音楽は力であり、音楽は人々の意識を高めることができる。」
「彼女は私たちにとって姉である。その業績を称えなければならない。」

2018年1月9日火曜日

80年代を象徴する顔 Une figure majeure des années 1980

2018年1月7日(日)に70歳で亡くなったフランス・ギャルに関して、私の敬愛するシャンソン評論家でテレラマ誌ジャーナリストのヴァレリー・ルウーが、その死んだ当日にテレラマのウェブ版上で公開した、フランス・ギャルへの超辛口のオマージュです。当日のラジオ/テレビ/ネットメディアなどはもちろんフランス・ギャルの死を悼み、その生涯を絶賛するものばかりでしたし、翌日(月)の大手新聞も第一面をフランス・ギャルで飾り、1ヶ月前のジョニー・アリデイ没の時の規模には及ばないにしても、国民的な哀悼ムードでした。ですから、このルウーの辛口の調子は非常に特異なものに感じられました。しかし、他のオマージュからは聞かれない、なぜ50歳で歌手を引退したのか、ヒット曲の多さと裏腹のギャル=ベルジェのスタイルの微妙なバランスなど、私から見てもうなずけることが多く、全文を訳してみました。私はこんなに辛口にはなれません。私も今「オマージュ稿」を用意していますが、ルウーのテクストとは真逆の湿度の高いものになるはずです。
(以下翻訳はじめ)
 France Gall, une figure française
(フランス・ギャル、あるフランスの顔)

この1月7日の日曜日、70歳でこの世を去ったフランス・ギャルは、ミッシェル・ベルジェやセルジュ・ゲンズブール等によってつくられた、数え切れぬほどのヒット曲を残した。フランスという国は1960年代に少女時代の彼女を見出した。私たちには彼女が大人になっていった印象はあるが、彼女が歳とって老いたという印象はまずない。

公式には彼女は今から20年前に歌手活動から退いた。1997年のこと。娘のポーリーヌが嚢胞性肺繊維症で亡くなったあと。それは夫であり良き指導者であり、驚くべきヒット曲メーカーだったミッシェル・ベルジェの死の5年後だった。「私は老いた女歌手にはなりたくない」とフランス・ギャルは断言した。もう随分昔に彼女は歌えと言われればそのもたらす結果がどんなものかを考えることもなく歌っていたシクスティーズの無邪気で単純な可愛こちゃんをやめてしまっていた。それどころか、ショービズ界の事情通は、彼女のしっかりした性格、そのプラグマティズムと明晰さをよく口にした。しかしなぜ50歳の若さで歌うのをやめてしまったのか?それはベルジェなしではその未来は前ほどに明るくないということを予感していたからにちがいない。いずれにせよ、彼女はその約束を守った。一度だけ、2000年夏、オランピア劇場でジョニー・アリデイの傍で一緒にデュエットで「テネシー」(ミッシェル・ベルジェ詞曲)を歌うという時だけ、こっそりと現れたが。今から2年前、ベルジェ(と彼女自身)へのオマージュのミュージカル作品「レジスト(Résiste)」の制作に関して、近い距離からそれを注視していただろうか? よくよく見ると、フランス・ギャルはその芸歴をベテランの船の舵取り航海士のように操ってきた、ということが検証される。彼女は自らを傷つけない方法を知っていて、永遠の若さを体現できていた。フランスの人々は60年代半ばに、子供時代から抜け出したばかりの彼女を発見し、大きくなるのを見届けてきたが、年老いたことは全く知らない。

そしてそこには言うまでもなく歌の力があった。どうでもいいような歌ではない。驚異的な数のヒット曲、それは大衆的なレパートリーのパワーによって変動してきたものだが、それは世界を変えることを求めているのではなく、世界を楽しくさせ、少しだけ優しくすることを追求していた。今日彼女のディスコグラフィーを辿ってみると、めまいを起こしそうになる。ギャル+ベルジェのペアは1970年代そしてとりわけ1980年代の私たちのBGMの大部分を形成してきたのだ。それは全く最悪のやり方ではないのである。確かにこのペアの数々の歌は、かのアラン・スーションのような個に親密で社会構成的な繊細さはないだろう。しかしそれらの歌は人々がすぐに忘れてしまうような多くの状況刹那的なヒット曲に比すればずっとエレガントなものである。ギャル+ベルジェペアの流行歌はシックなものである。人が口ずさむことに恥じらいのないような。それは偉大な先人たちの詩的な作品群やかのヴェロニク・サンソンのような斬新で思い切った創作により大きな評価を与える人たちにあってもである。はっきり言うと、ミッシェル・ベルジェはそういった人々に通用する錬金術を見つけたのである。彼はフランス・ギャルのために平易な詞の上に強力なメロディーを彫り込んでいったのである。その詞は平易なものではあるが単純なものではない。それはもちろん永遠のテーマたる恋愛の前に屈することもあるが(”La déclaration d’amour”, “Besoin d’amour”)、政治囚というテーマに及ぶこともあり(”Diego libre dans sa tête”)、世紀の大芸術家に敬意を評することもあり(”Cézanne peint”, “Ella, elle l’a” = エラ・フィッツジェラルドへのオマージュ)、生き延びるための頼もしい𠮟咤の声を上げたり(”Résiste”, “Débranche”)、落語者たちの行く末を身を屈めて見つめたり(”Babacar”)、人の弔いをめぐってその不在の深さを歌ったり(”Evidemment”)。もしもそのレパートリーに、音楽的あるいはテーマ的なモチーフがかなり重複していたら、ギャル+ベルジェは一つのスタイルを確立できただろう。そうしたら誰もがそれに飽き飽きしてくるはずだ。

このようにして、フランス・ギャルは幾千人と存在する流行歌の歌い手の一人として、一線を画すことに成功したのだ。しかしそれは前もって決められていたことではない。ベルジェ期の前、彼女は違う歌手の道を歩んでいたのだし、それはイエイエ時代の終焉と共に(多分その少し前にでも)消え去るはずだった。確かにこの娘は中産階級の出ではなく、アーチストの家(父はアズナヴールの作詞家だった)の出で、その”Sacré Charlemagne”(「シャルルマーニュ大王」1964年)をはちきれる肺活量で歌って、わずか16歳で成功を収めた。確かに彼女が続けざまに当時の最も優秀な書き手たちによるオリジナル曲を与えられたのに対して、当時の大部分の歌手たちは英米のレパートリーのカヴァーで満足しなければならなかった。そしてもちろん彼女にはその18歳の年にセルジュ・ゲンズブール作の”Poupée de cire, poupée de son”(「夢みるシャンソン人形」)でユーロヴィジョンで優勝した。しかしその当のゲンズブールが彼女にもう数曲の刺激的なポップの宝石(”Nous ne sommes pas des anges”)を練り上げたのに、彼はフランス・ギャルの青臭い天真爛漫さをややもてあそびすぎた。”Les Sucettes”(「アニーとボンボン」)の不透明なダブルミーニングはこの少女のイメージをひどく傷つけた。彼女の全ての歌にかけられた疑惑を全て消し去るまでは。まだまだ貞淑ぶっていた1966年のフランスにあって、彼女はそれから立ちあがってくるのは不可能だったろう。

もっとも、彼女が第一線に戻ってきて、1997年の引退まで継続的にトップシーンにい続けるためには、10年近くの待ち時間を要したのだから。しかし間違ってはいけない、その仕掛け人がゲンズブールやベルジェという名前であろうとなかろうと、彼女の人気を作ったのは彼らだけではない。年月の流れと共にこの女性は強固なものになった。メディアで話題となった彼女の人道的行動(とりわけアフリカへの支援)、少しずつ露呈していった彼女の過去のアヴァンチュールの数々(クロード・フランソワ、ジュリアン・クレール)、ヴェロニク・サンソン(ベルジェのもう一人の熱愛者)との有名な小競り合い、その理想化された結婚劇、それらのことが彼女を単なる大衆的人気歌手ではないもっともっと大きなものにしてしまったのだ。すなわち1980年代を象徴する大人物に。それは希望とその後来る失望の10年間だった。それは確かに私たちが今日生きている10年間よりは気苦労の少ないものだった。それもあって、私たちは今日彼女の死に泣いているのである。
ヴァレリー・ルウー Valérie Lehoux (テレラマ)
(翻訳終わり)

註:テレラマ記事(Web版)にはテクストの外に以下の楽曲のクリップ(YouTube)が挿入されています。
- "Quelque chose de Tennessee" (ジョニー・アリディとのデュエット、 2000年)
- "La Déclaration d'amour" (1974年)
- "Ella, elle l'a" (1987年)
- "Résiste" (1981年)
- "Babacar" (1987年)
- "Evidemment" (1988年)
- "Sacré Charlemagne" (1964年)
- "Poupée de cire, poupée de son" (1965年)
- "Les sucettes" (1966年)

 (↓)1997年の引退後、一度だけ公式の場に上がって歌った「最後のステージ」。ジョニー・アリデイのオランピア公演中、ミッシェル・ベルジェ作詞作曲でジョニー・アリデイの代表曲の一つになった「テネシー・ウィリアムスのなにかしら(Quelque Chose de Tennessee)」

2018年1月5日金曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2017

2017年は不死身のジョニー・Hも亡くなったし...

 例になりました「レトロスペクティヴ」です。2017年は爺ブログが10周年を迎えましたし、記事数も53という近年にない多さでした。総ビュー数の統計も60万を超え、ぐ〜んと認知度が高まっているようです。背景には2016年12月に始まった病気との闘いがあり、そのために2017年前半で閉社を余儀なくされた21年間続いたYTT社の最後がありましたし、副作用の厳しいハードな治療の連続がありました。8月半ばですべての治療が中断され、その後は比較的平静な「毎日が日曜日」の年金生活者となって今日に至っています。平日午前中に映画が観れる、混まない時間にFNACで本を探せる、愛犬と遠くまで散歩に行ける、ラジオRTL "GROSSES TETES"'(16時〜18時)をほぼ毎日聞く、そういう生活になりました。そりゃあ、記事数も増えて当たり前ですね。
ル・ペンを退け、マクロンが大統領になった年です。このレトロスペクティヴは現在(2018年1月5日)の時点の統計によって、2017年に掲載した53の記事のビュー数が多い順でランクしたTOP 10です。新刊書の紹介が少なく、書きかけでやめているル・クレジオとモディアノの2017年新刊など、ちょっと残念です。掲載しなくてゴメンなさいですが、個人的に2017年のベスト新刊は、ルノードー賞を受賞したオリヴィエ・ゲーズ著『ヨーゼフ・メンゲレの死』(ナチス将校でアウシュヴィッツ収容所の人体実験の責任者の南米逃亡の記録)でした。ベスト新譜アルバムは圧倒的にオレルサン『お祭りはおしまい』でした。新作映画では文句なしに『120 BPM』(ロバン・カンピーヨ監督。2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)でした。

1. 『ウーエルベックから見た大統領選2017(2017年5月9日掲載)
トランプ大統領誕生、ブレグジットと続いたポピュリズムの大波はフランスの大統領選にどう響くか。予言的な小説を発表し続けてきた作家ミッシェル・ウーエルベックが、マクロンという奇妙な大統領を登場させたフランスの選択を分析する。その中で作家は、マクロンの選挙運動は「集団的セラピー」であると言っています。マリーヌ・ル・ペンが選挙戦半ばで「器の小ささ」を露呈した結果負けたのだと私は思っていますが、マクロンの「器」は今のところそれほどボロは出ていないようです。比較的平穏な治世が進んでいる印象がありますが、あの熱狂を求めた支持者たちは一体どこに行ったのでしょうか。

2. 『ヒロシマじゃけん(2017年8月20日掲載)
ジャン=ガブリエル・ペリオ監督の初長編フィクション映画。広島を舞台に、フランスのテレビ局から送られてきた在仏日本人映画人アキヒロと、被爆して死んだ若い看護婦ミチコの幽霊が、お盆の時期に出会ってしまう24時間の物語。「ヒロシマ」+「24時間」と言うとすぐにあのデュラス+レネ映画を思ってしまうかもしれないが、それとは全く違う、この救いも優しさも恩寵もある映画、本当に大好きだった。折しもお盆の時期に観たからかもしれない。出演者の方からのコメントまでいただいた稀有で貴重な記事です。


3. 『平和の番人(2017年4月26日掲載)
4月20日、パリ、シャンゼリゼ大通りでテロリストによって射殺された警官グザヴィエ・ジュジュレ(37歳)。ホモセクシュアル。4年前からパートナーとして生活を共にしていたエチエンヌ・カルディル(外務省勤務の外交官)による、追悼式典での弔辞をほぼ全訳した記事。訳しながら、泣けて泣けてしかたがなかった。「平和の番人 Gardien de la paix」という職業の誇り、エチエンヌの結びの「ジュ・テーム」という言葉、どれも胸に突き刺さる。ありがとう。





4. 『1976年のジュリー・ラヴ(2017年7月21日掲載)
沢田研二は私と同じ誕生日(6月25日)ということで、以前から何かの縁を感じているアーチストである。沢田がフランスで活躍し、フランス語で歌っていた70年代半ば。フランスもいよいよテレビ全盛時代に突入し、音楽アーチストも見てくれの良さやフリのうまさが優先するようになった頃で、美しい沢田はフランスのテレビのニーズにドンピシャだったのだろう。もっと良い曲提供者がいれば、と悔やまれるフランスでの2枚のアルバム。それでもこの夏、このLPはわがターンテーブルをずっと占領していた。


5. 『ニースよ永遠に(2017年7月15日掲載)
2016年7月14日革命記念日、ニースのビーチ沿いの遊歩道にジハーディストの暴走トラックが突っ込み86人の死者を出したテロ事件の1年後の追悼式典で、ニースにゆかりのある8人のアーチストによって朗読された、ニース出身のノーベル賞作家ル・クレジオのテクスト全文の日本語訳。結語部で「日本人が言うように、魂が海と空の間に浮かんでいる」と表現しているが、年に一度お盆の時期に冥界から降りてくる死者の魂というイメージ、美しいニースの「天使の湾 baie des anges」と相まって、悲しみを新たにする。

6. 『I wanna Djam it with you(2017年8月13日掲載)
トニー・ガトリフの最新映画『ジャム』は、ギリシャのレスボス島からトルコ沿岸の町へ向かう野生的な娘ジャムの往復の旅。ギリシャとトルコにまたがる越境と亡命の音楽レベティコを歌い、踊るジャムの美しさだけで値千金の映画。加えてギリシャの財政破綻、地中海を渡ってくる難民、ジハード戦士に合流しかけて戻ってくる不安定なフランス娘など、この地域で起こっている時事的な事柄もたくさん混入されているロード・ムーヴィー。ジャムを演じたダフネ・パタキアという新人女優、今後がおおいに期待できます。


7. 『お先マクロン?(2017年4月22日掲載)
 2017年大統領選挙の第一次投票と第二次決選投票の間に書いた記事です。エマニュエル・マクロン vs マリーヌ・ル・ペンという組み合わせが決まった時点で、フランスはアメリカともイギリスとも違うポピュリズムが台頭していると感じました。マクロンは勝ってもリベラル経済政策を、日和見オランド以上に推進するのは目に見えている。われわれを長年苦しめているのは「リベラル」であるということを問題にしない選挙になってしまったのです。

8. 『ガバリと寒い海がある(2017年10月3日掲載)
イニアテュス・ジェローム・ルッソーは地味ながらコツコツと曲者アルバムを発表してきたけど、自主制作&自主流通で出たこの最新アルバム(6枚目)が、テレラマ誌で「ffff」評価で、私も慌てて入手した。電子系が縦横無尽に導入されても、優しく情緒あふれる前衛で、副業(?)で発表している俳句の数々(すごい量)も、レ・ゾブジェ(1991-1994)の頃から変わらない含蓄と諧謔の世界。変わらないっていうことはいいことだと思う。いつかイニアテュスの句集を日本語で出してみたいというアイディアもある。


9. 『Run away turn away run away turn away (2017年9月3日掲載)
2017年、最も強烈だった映画『120 BPM』に関しては、雑誌ラティーナ(2017年10月号)に長い紹介記事を書いた。だから爺ブログには映画紹介の記事がない。で、爺ブログにはテーマ音楽的に使われてとても印象的だったブロンスキー・ビートの「スモール・タウン・ボーイ」(1984年版と、映画で使われた2017年アルノー・ルボティニ・リミックス版)について書いている。以来、ジミー・ソマーヴィルの声、聴くたびに泣きそうになる。私自身闘病中に観た映画だったからかもしれない。2018年3月24日から日本公開です。絶対に観てください。



10.『黙っとらんベルトラン(2017年10月13日掲載)
ベルトラン・カンタ(元ノワール・デジール)の初ソロ名義アルバムが出るというので、レ・ザンロキュプティーブル誌が表紙にしてロングインタヴューを掲載したら、フェミニスト団体や同業メディアから大非難。今日の日本語では「炎上」と言うのだろうか。折しもハーヴェイ・ワインスタイン事件と重なり、女性への暴力やセクハラがかつてない勢いで糾弾され始めた時期。フランスを代表する女性誌「エル」の対抗論説も追加で全文訳して載せた。12月にリリースされたベルトラン・カンタのソロアルバム "AMOR FATI"は買って愛聴している。これも強烈な作品。だが、爺ブログには紹介記事を載せるべきではないと自粛した。