2020年2月25日火曜日

アメリカ帝国主義は張り子のトラである

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2002年12月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Olivier Rolin "Tigre en papier"
オリヴィエ・ロラン『張り子のトラ』


(2002年9月刊)

2002年春の大統領選の時、立候補者のひとりで一時は最有力と目されていた社会党のリオネル・ジョスパンが、その過去においてトロツキスト党派の活動家であったことが暴露され、物議をかもしたことがある。68年5月革命の運動を多くのフランス人は肯定的に語るし、多くの68年世代が今日のフランスの表舞台で活躍しているのを日常的に見ていたため、私にはこの「トロツキストとしての過去」が今さらなぜスキャンダルとなるのか不思議に思えた。そして現在も活動するトロツキスト政党であるLCR(Ligue Communiste Révolutionnaire 革命的共産主義者同盟)とLO(Lutte Ouvrière 労働者闘争党)は地下政党ではなく、大統領選に5%の票を得る確かな地盤を持った政治団体となっている。トロツキストであることは今日何ら咎めを受けることではないのであるが、過去においてはそれはそれほど穏やかなものには見られていない。トロツキストとは70年代において、爆弾を使った武装闘争や、保守政治家および大資本家家族の誘拐や殺人などといった事件を起こす者というレッテルが貼られてしまっていたからだ。
 68年世代は、既成左翼(この場合は共産党、あの当時社会党は小さな勢力しかなかった)のスターリン主義化を批判し、大きく二派に分かれて新しい左翼の政治潮流となっていった。ひとつはトロ(トロツキスム)、もう一方はマオ(毛沢東主義)であった。新左翼はトロかマオだったのである。当時のジャン=リュック・ゴダールの映画を思えば了解できるだろうが、あの頃フランスのマオ派は大変おおきな勢力があった。
 さてこのオリヴィエ・ロランの小説はマオなのである。上に書いたように、トロはまだ現役であるのだが、2002年の今、誰がマオでありえるだろうか。マオは歴史的に否定されてしまったかのように、1976年の毛沢東の死後、すっかり鳴りをひそめてしまうのである。マオが地上から姿を消しつつあった頃、すなわち70年代前半という時期には、フランスでも日本でも、大多数の学生運動/新左翼運動の活動家たちがおおいに白け、その運動から離れていったのである。私はその当時の学生であるし、デモもよく行ったし、機動隊のジェラルミン盾の縁で背中を殴打されたこともある。新左翼系の新聞も買わされて読んでいたから、彼らの言語もわかっていた。しかし私の当時(73 - 77年)は、積極的な活動家だった友人たちが「内ゲバ」に消耗し、出口なしの状況に追い込まれていった時期だった。大部分が運動を捨てていく中で、敢えて地下活動に入っていく少数派がいたことも見ていた。
 オリヴィエ・ロランの小説は、二人称単数(tu = きみ)で書かれる主人公(マルタン)が、闘争を一緒にやってきた親友の死について、その親友の娘に彼がどのようにして死んだかを語る、というかたちで進行する。21世紀の今日に、マオ派の残党がその過去について語るのである。スタイリッシュなことに、それはシトロエン・DSというあの時代の高級車(走る応接間と呼ばれた)で、パリの環状道路(ペリフェリック)やパリ市内の小道を夜半から未明まで走りながら、その車中で語られるのである。同乗の娘マリーは20歳前後。活動家の通り名としてトレーズ(13)と呼ばれた男の娘であり、彼女は父親の記憶を持たずに育った。
 今日の子供たちに理解できるだろうか。インターネットが存在しなかった時代があったことを。携帯電話もケーブルテレビもウォークマンも留守番電話さえなかった時代があったことを。あの頃テレビは白黒であり、ド・ゴールがポンピドゥーに席を譲り渡し、ヴェトナムでは人民軍の勢力が米軍を退却させた。アメリカ帝国主義は張り子のトラであることが露呈してしまったのだ。チェ・ゲバラは革命の殉教者として一挙にヒーロー化し、そして中国は赤く、まっかに赤く、偉大なる指導者毛沢東は世界の進路を変えつつあった。革命の二文字がこれほどまでにリアリティーを持っていた時代があったことを、今、誰が信じることができようか。
 マルタンの回想は、マリーに対して、こういう信じられないような過去が歴史的に存在したことを理解しなければ、おまえの父の死についても何ひとつ理解できないのだ、と中年的なしつこさから、過剰なまでの説明を加えようとするのだが、説明しよう、理解させようとすればするほど、口が寒くなっていくような寂しさが去来する。それでもかまわない。マルタンは時折苛立ちを覚えながらも語り続ける。
 革命を信じた若者たちが毛沢東主義のセクト、ラ・コーズ(La Cause)に入党する。ラ・コーズとは原因、理由を意味する言葉であるが、中国文化大革命の有名なスローガン「造反有理」の「理」である。造反には理由がある。それは人民的理由(La Cause du Peuple)である。このセクトは60年代末から70年代初めにかけて、大衆運動化する方向を取らずに、過激化し、少人数の革命的精鋭による直接行動派となり、戦略的に地下組織となっていく。資金調達のために強盗もあれば、爆弾による破壊活動も、要人誘拐も、高級ヨットハーバーでの船舶施設破壊攻撃なども。人は今日、これらすべての暴力破壊行動を「テロリズム」と呼んでいるが、消極的ながらこのレッテル貼りに賛成しかねる心情的「過激派びいき」がまだ私には残っている。それはそれ、後日別の機会で書こう。
 さて、このような地下組織はどうやって活動資金を得ているか、というと、シンパからのカンパだけではなく、桁外れな億万長者からの寄付というのもあるのだ。ラ・コーズにはレバノンの富豪や、フランスの旧貴族などの支持者があって、その活動アジトにとてつもなく豪奢な城館が使われたりする。内部には偽パスポート作りのプロもいるし、高級乗用車盗みのエキスパートもいる。南米、中東、ヨーロッパ諸国の同系地下組織とのネットワーク、国際ルートがあり、その精鋭が人民抵抗の前線(例えばレバノン)に義勇軍として飛んだりするのだ。
 このラ・コーズの主要メンバーが、60年代の末、ブルターニュ地方のとある町で秘密会議を持つのだが、その時にこの種の活動家たちとしては稀なことに、海をバックに1枚の集合写真を撮っている。写真に映っているのは12人。写真に映っていない男、つまりカメラを持ってこの写真を撮った13番目の人物がトレーズ(13)であった。だから今日トレーズの写真は1枚も残されておらず、マルタンもその親友の顔の記憶が曖昧なまま語っている。この13人の革命の精鋭たちは、中国水滸伝の英雄たちのようにひとくせもふたくせもあり、プロの革命家たる資質を備えた者も備えていない者も、偉大なる指導者の下で革命に奉仕する。ならず者、香具師、詐欺師も革命に奉仕する。
 このあまり華々しくもない革命戦士たちの武勇伝は、もう今日となっては笑い話にしてもいいのか。飲み屋の暗がりの酒のサカナにしてもいいのか。今日ある者はジャーナリストとなり、ある者はバーのマスターになり、あの者は緑の党の活動家となって政治行動を続け、ある者は企業家として成功し、そして多くの者たちは音信不通となった。しかしマルタンはマリーに強調して言うのである「俺たちはなによりも俺たち(nous)であった」と。集団で生き、集団で考え、集団で決め、集団で行動する。私にはそういうユートピア・コミューンへのノスタルジーがある。あの時私は集団で何かを創っていたというノスタルジーである。Collectif(コレクティフ=集団的な、共有的な)、Collectivité(コレクティヴィテ=集団)といった言葉は私にとって今でもとてもポジティヴなものである。Création collective(クレアシオン・コレクティヴ=集団的創造)は私たちの目指すものであったし、その手本はジルベール・アルトマンのアーバン・サックスや、アリアーヌ・ムヌーシュキン太陽劇団であった。この"集団"であったことを誇らしげに語るマルタンは、私が同時代人であったあの時代のヴァリューを代弁するものであるが、実のところ私は集団ではなかった。私は嫉妬を禁じ得ないが、マルタンやトレーズはまさに集団であったのだ。
 小説はマルタンのラ・コーズ回想と平行して、インドシナ戦争でヴェトナムで命を落としたマルタンの父親のことも詳説されていて、マリーが父トレーズに一度も会ったことがないように、マルタンも一度も会ったことのない父親の死んだ場所に、50年の年月を隔てて訪問するというエピソードが挿入されている。志願兵であったマルタンの父は、メコンデルタをパトロールする哨戒艇の舵手として、ヴェトミンの銃撃を受けて死んでいる。多分に愛国者であったと言われているその父は、志願してこの闘いに参加し、この地で死んだ。自分は革命という理想にアンガージュマン(政治参加)し、闘士として地下活動をしてきた。ヴェトナムでこの父の死は敬われていないし、自分の闘士としての活動は何ら革命に近づくものではなかった。この虚しさが、ヴェトナムで父と子を和解させるのである。
東方紅、太陽昇
中國出了個毛澤東
他為人民謀幸福
呼爾海約、他是人民大救星
東方紅」は中華人民共和国の準国歌とされている毛沢東讃歌である。東方は紅にして、太陽は昇る。この歌をマルタンもトレーズも原詞を暗記して歌っていた。どん・ふぁん・あん・ぽん・たい・やん・あん・しぇん...。この歌を歌いながら、ある未明、マルタンとトレーズは、パリ6区、サン・シュルピス教会の柵を破り、その教会の塔へよじ登っていく。アポロ・カプセルに乗って月で革命を起こすために、あるいは「神」と出会うために。二人はこの子供じみた賭けのために、ロケットのような形をした鐘楼によじ登っていく。二人の問題というのははっきりしていた。小冊子毛沢東語録を誰も必要としなくなった今、われわれは何をなすべきか。鐘楼のてっぺんで、二人は東方のヴァンセンヌの森の動物園の猿山から真っ赤な太陽が昇ってくるのを見るのである。トレーズは怒鳴る口調でこう言う「ヴァンセンヌの猿たちもこの時間にはサングラスが必要だ」。そして彼は自分もサングラスを取り出し、鼻の上にかけ、鐘楼修理用に組まれていた足場の上を全速力で駆けていき、「毛主席は猿の王、人民の幸福、猿の人民の幸福を望んだ金の猿!」と叫んで、空中に身を投げる。ここで小説は終わる。

 彼らが数年の間に作った集団的現代史を、オリヴィエ・ロランはすでに2篇の小説で書き直している。アンケート世論調査が代理選挙を行なってしまう「新しい」民主主義の時代、世の中の第一の関心事として朝一番でラジオテレビで株式市況がアナウンスされる2002年的現在において、この失われた熱情の時代を回想することは、ノスタルジー以外の何を私たちに提出できるだろうか。この小説は2002年9月に刊行されて、大ベストセラーとなり、ゴンクール賞候補ともなった。ということは多くの人たちがあの時代の熱さを強烈に感じ取ったことには違いないが、それは今日において生きられる熱ではない。ここで書かれているのは、理想は死んだ、ということであり、革命は死んだ、ということである。おまえの父は革命と共に死んだのだ、とトレーズの娘に伝えているのである。それが犬死であったことを証明するような嘲笑的な今日の現実がある。これはやはり笑い話としてバーの暗がりの中でしか伝播できなかった現代史なのだろう。
 この小説の中で、B52爆撃機とジョニー・アリデイの相似性を語るくだりがある。 どちらも50年代後半のデビューで、今だに第一線で現役である。ヴェトナムで、湾岸戦争で、アフガニスタンで、あの空飛ぶ要塞は同じ顔で爆弾を投下していた。大統領が何代変わっても、アメリカ帝国主義の看板スターの顔は今日も変わっていない。アメリカに追随してフランスでロック王になった歌手ジョニー・アリデイは、今週もアルバムチャートの1位に輝いている。

Olivier Rolin "Tigre en papier"
Seuil刊 2002年9月 267ページ

(↓)2002年国営テレビFRANCE 3でオリヴィエ・ロラン自作『張り子のトラ』を語る。

2020年2月22日土曜日

持ってけボレロー

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2006年3月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Jean Echenoz "Ravel"
ジャン・エシュノーズ『ラヴェル』


(2006年2月刊)

2006年2月、冬季オリンピック・トリノ大会のフィギュア・スケート競技の音楽として何度聞いたことか。ラヴェルの「ボレロ」である。たしかにおれはフィギュア・スケートに合う音楽である。機械的な繰り返しで果てしなくクレッシェンドする尻上がり曲である。クラシック音楽愛好者を別にすれば、多くの人々にとってモーリス・ラヴェルは「ボレロ」一曲で記憶されている。この曲は発表当時、今日で言うポップソングのような大衆的成功を得たそうだ。この小説の中でこの曲は、イル・ド・フランス、イヴリーヌ県ル・ヴェジネの工場の機械音にインスパイアされたことになっている。工場の繰り返しのリズムなのである。 
 ジャン・エシュノーズの小説『ラヴェル』は、20世紀フランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875 -1937)の伝記ではない。ポートレイトである。それはテレラマ誌のミッシェル・ガジエが見事に比較しているように「ピカソという巨匠のシンプルな筆で描かれたドラ・マールやジャクリーヌの肖像画のように、エシュノーズの筆が描き出した人物像」なのである。
 ラヴェルは体躯の小さな人物であった。それは競馬騎手のサイズであり、その小ささにもめげず第一次大戦の時には軍に志願して、その軽さは航空機部隊に理想的であろうと軍を説得しようとしたが、聞き入れられず、あらゆる軍務から免除された。それでも執拗に軍入りを希望したので、重軍用車の運転手として配属された。そしてある日人々はシャンゼリゼ大通りを下ってくる巨大な軍用トラックでその太いハンドルになんとかしがみつこうとしている青い布切れのような形状をしたラヴェルを目にすることになるのである。
 小説はこの小さな身体をした男が、浴槽に深々と身を浸し、その生暖かい湯とシャボンの泡の中の自堕落な時間をもったいなく惜しみながら、もう出なければならない、もう出なければならない、とぐずぐずしているところから始まる。できることならば出たくない。しかし用事があるのだから出なければならない。
 このぐずぐずと生温い快感の時間を引き延ばしたいという気持ちを抱く者は誰か。それはあなたであり、私である。小説はラヴェルがどうのこうのという話が始まる前に、どこにでもいるあなたや私に近い人間の話として始まってしまう。ああ、いやだ、いやだ。だが行かなければならない。この男は浴槽を出て、きちんと用意された衣服を身につけ、郊外の家からパリ・サン・ラザール駅に向かい、そこからル・アーヴル港までの汽車に乗り、ついで同港から北大西洋航路の豪華客船フランス号に乗船してアメリカに行くのである。
 この小説ではこの男は妻も子もないように描かれていて身内の者も登場しない。音楽出版社やエージェントやらがわずかにこの旅の見送りに来るが、この男はどうもそういうつきあいが不得意なようなのだ。当時のフランスを代表する大作曲家にして指揮者である彼は、このフランス号でも船長から、特別に船上コンサートをお願いできませんか、と依頼される。それをこのラヴェルは儀礼的に形式的になんとか難なくこなすことはできる。喝采があればアンコールで応え、サインを求められれば機械的にサインもする。この日常的で無感動な20世紀的仕事観であたりさわりのない対応でものごとをこなすということは、あなたもしていることであり、私もしていることなのだ。このフツーに無難で個性のとんがりのないラヴェルとは一体誰なのか。
 エシュノーズは冒頭の浴槽から出ていく瞬間から、1937年に62歳で亡くなるまでの、晩年10年間のラヴェルの人物像を描いていく。それは多分浴槽という羊水から出て行って、麻痺した肉塊となって死ぬまでの、小説の誕生から死までの時間のことなのだろう。豪華客船の旅、アメリカでのレセプション、コンサート、移動、レセプション、コンサート、移動の繰り返し。ガーシュウィン、大陸横断列車、カーネギー・ホール... それは良くもなく悪くもなく、可もなく不可もないアメリカ、退屈なアメリカなのであった。赤い肉しか食べないこのフランス人は、英語がうまく話せないもどかしさとアメリカ料理にいらいらしたりしながらも、なんとかそつなくアメリカ滞在をこなしてしまうのである。小説の前半の60ページは、このアメリカでの行状に費やされるが、ラヴェルの人物像はほとんど浮き彫りにされないままで、著名作曲家でなければ恐ろしく凡庸な小人物ではないか、という反ロマン的憂鬱さが匂ってくる。
 けだしこの人物は憂鬱なのである。その憂鬱の第一の問題が眠れないことである、より正確には眠りに入れないということ。読書や睡眠薬やいろいろ試してみるのだがうまくいかない。小説の中で眠りに入るための3つのテクニックが紹介されていて、その1「物語を作り、ごく細部にまでこだわって舞台演出を考えること」、その2「ベッドの上で何度も体を動かしてみて、筋肉の弛緩と平静な呼吸に理想的なポジションを探すこと」、その3「子供の頃から寝たことのあるベッドをひとつひとつ思い出していき、その数を数えること」といった、われわれ凡百の小市民が不眠の夜に試してみるようなことを真剣にやってみるのである。その結果は言うまでもなく未明まで眠れっこない。
 郊外の町モンフォール・ラルモリーの小さな一軒家にひとりで暮らすラヴェルは、その家の中でほとんどの時間を過ごし、ヴァカンスには生まれ故郷のバスク地方サン・ジャン・ド・ルースに滞在する。浴槽からなかなか出たがらない人間であるから仕事は遅い。眠りに入るのに時間がかかるのと同じほどに、仕事のとりかかりに時間がかかる。そして楽譜出版社や、楽曲を依頼した楽団などからしょっちゅう催促される。催促に追われて仕事するからラヴェルは当然ストレスをたくさんためることになる。このあたりが大作曲家のイメージとは遠く、普通の現代人と何ら変わりがなく、孤独でいらいらするその佇まいは隣のおじさん的とも言える。
 彼の大きないらいらは自分の作品「ボレロ」の不可解な大成功であり、自分ではこれは単純に工場のリズムで作曲された「音楽の抜け殻」であると思い込んでいる。この曲をアルトゥーロ・トスカニーニが指揮者自身の解釈で譜面の倍の早さで演奏したコンサートの幕後、ラヴェルは憤然としてトスカニーニに「これは私の示した速度ではない」と抗議する。長身のトスカニーニは自分の顎のところにあるラヴェルの額に向かって「あなたの指定の速度で演奏すればこれな何の味もなくなってしまう」と言い返した。ラヴェルは「よろしい、ならばそれを演奏しないことだ」と応えた。するとトスカニーニは「あなたはご自分の音楽を理解していない。私のやり方でなければあなたの音楽は通用しない」と断言した。ここまで言うか? 読む者はこの可哀そうな小さな男に加担して、むっとなってしまうではないか。
 そのいらいらの最たる例として小説に登場するのが、パウル・ヴィトゲンシュタインとの確執である。オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの実の兄であるこのピアニストは、戦争で右腕を失いながらも、左手だけでヴィルツオーゾのピアニストとして成功していた。その男がラヴェルに「左手のためのピアノ協奏曲」を依頼したのだが、書き上がってきた作品にヴィトゲンシュタインは満足しない。作品を不服として作曲者に突き返すというのなら話はわかる。ところがこの片腕ピアニストは作品を作品として受け取り、ラヴェルが書いたピアノ譜にその超絶テクニックで何倍もの装飾譜を加えて演奏するのである。ラヴェルは作曲者として最高度にいらいらする。これは私の曲ではなくなってしまっている、と。私の書いた通りに演奏するのが演奏者の義務ではないか、と。

  小さな体、ひとり者、職業作曲家、テクニックを欠くピアニスト、不眠症...この小説の3分の2までで描かれるラヴェルはとても普通な憂鬱人であるが、1932年10月交通事故で頭部を負傷して以来、その5年後に亡くなるまでの喪失と錯乱の日々は悲惨である。自分の記憶が消えていくのと、人々の記憶から自分が消されていくことが同時に進行する。曲を書くこと、ピアノを弾くことといったことがひとつひとつ消えていく。自分が書いた音楽が演奏されると、これが誰が書いた何という名曲なのですか、と人に尋ねる。

 「彼は遺言も、その姿の映像も、その声の録音も一切残さなかった」とこの小説は終わる。エシュノーズはその68年後にラヴェルの見事なポートレイトを残した。これは小説の仕事である。

Jean Echenoz "Ravel"
Editions de Minuit刊 2006年1月 124頁

(↓)2006年国営テレビFrance 3で小説『ラヴェル』について語るジャン・エシュノーズ


2020年2月21日金曜日

お、ら、ら、ら...

C'est magnifique
セ・マニフィック
詞曲:コール・ポーター

1953年ブロードウェイ初演のミュージカル・コメディー『カン・カン』の中の1曲で作詞作曲はコール・ポーター(1891-1964)。 日本語版ウィキペディアではこのミュージカルは「19世紀のパリを舞台に、赴任してきたばかりの若くて真面目な判事とモンマルトルのダンスホール「バル・ドゥ・パラディ」を経営する勝ち気な女主人とが繰り広げる恋物語である」、とある。コール・ポーター作の偉大なスタンダードとなる「アイ・ラヴ・パリス」もこのミュージカルの中の曲である。「セ・マニフィック C'est magnifique」は後にジャン・サブロンやルイス・マリアノなどフランスの歌手たちもカヴァーしたので、"シャンソン”と思っていた人たちも多かろう。また 「セ(C'est)」で始まるということだけで混同されがちな、ほぼ同時代の 「セ・シ・ボン C'est si bon」(1948年)はルイ・アームストロングやディーン・マーティンで有名なのでメリケン曲だと思われるムキが多いのだが、れっきとしたシャンソン(詞アンドレ・ホルネ/曲アンリ・ベッティ、創唱ジャック・エリアン楽団 feat ジャン・マルコ)である。 それはそれ。コール・ポーター作「セ・マニフィック」はこんな歌詞である:
When love comes in and takes you for a spin,
Oo la la la, c'est magnifique
When every night, your loved one holds you tight,
Oo la la la, c'est magnifique
But when one day, your loved one drifts away,
Oo la la la, it is so tragique.
But when once more she whispers
"Je t'adore,: c'est magnifique.
1960年に映画化された『カン・カン』 の中でフランク・シナトラはこんな風に歌っている。

これをそのまま英語でカヴァーしたジャン・サブロンのヴァージョンの中で、サブロンは歌の間の語りで「この歌で "お、ら、ら、ら”ということばが何度も出てくるのにお気づきですか?これはヴェリー・フレンチな表現ですが、意味など全くないのです」と説明する。そうなのだ。われわれのような異邦人がフランスに初めて来て、ここの人たちが何を言ってるのかわからないのだが、この「お、ら、ら、ら」だけはやたら耳につく。感嘆の表現とはだいたいわかるのだが、さまざまな表情がある。驚いた時、嬉しい時、興味津々の時、がっかりな時、嘆かわしい時... 「お、ら、ら、ら」はさまざまにトーンを変えてフランス人の口から思わず出てしまうのだ。アメリカ人コール・ポーターの卓抜な観察眼が、この多様に雄弁なフレンチ「お、ら、ら、ら」を使って、フランス人にはできないソー・フレンチな歌を作ったのである。お見事(マニフィック)。
(↓)「お、ら、ら、ら」の妙の手本、ディーン・マーティンのヴァージョン。

 さて、フランス語カヴァーではオペレットの王者ルイス・マリアノの直球ベルカントで、「お、ら、ら、ら」の微妙なニュアンスなどぶっ飛んでしまいます。

それはフランス語詞の全肯定な愛情賛歌のせいで、マリアノ・ヴァージョンはコール・ポーター原曲の「お、ら、ら、ら」の半分を接吻音(チュチュチュチュ)にしてしまう。
La vie est là 人生が
Qui vous prend par le bras,  あなたの腕をひっぱっていく
oh là là là お、ら、ら、ら、
C'est magnifique 素晴らしいね
Des jours tout bleus 青々とした日々
Des baisers lumineux まばゆい接吻(チュチュチュチュ)
C'est magnifique 素晴らしいね
Donner son cœur 花束と共に
Avec un bouquet d'fleurs, 心を捧げる
oh là là là お、ら、ら、ら、
Mais c'est magnifique 素晴らしいね
Et faire un jour いつの日か
Un mariage d'amour 愛が実って結婚
C'est magnifique 素晴らしいね
Partir là-bas ハネムーンに
Lune de miel à Cuba, キューバに旅立ち
oh là là là お、ら、ら、ら、
C'est magnifique 素晴らしいね
Sous ce climat あの気候のもとでは
Les baisers sont comme ça 接吻はこんな(チュチュチュチュ)
C'est magnifique 素晴らしいね
Des nuits d'amour 愛しあう夜が
Qui durent 45 jours,  45日間も続く
oh là là là お、ら、ら、ら、
Mais c'est magnifique 素晴らしいね
Revoir Paris パリに戻って
Retrouver ses amis 友たちと再会
C'est magnifique 素晴らしいね
こんな身も蓋もないハッピーソングになってしまったら、コール・ポーターの美しいメロディーが、ちょっと、ね。と思っていたのですよ。
時代は飛んで2011年、バンジャマン・ビオレーが俳優として初の主演をとった映画"Pourquoi tu pleures ?(なぜ泣くの?)"(監督カティア・レウコヴィッツ、主演ビオレー、エマニュエル・ドヴォス、ニコル・ガルシア) というのがあって、私は観てないのだが、あまり話題にもならなかった。ビオレーは初主演ということだけではなくて、この映画にとても入れ込んでいたようで、映画音楽の一部を担当、その他に「この映画にインスパイアされた音楽」という13曲入りの半サントラアルバム "Pourquoi tu pleures ? (Musique et chansons inspirées du film)"を発表。そのアルバムの最終トラックとして "C'est magnifique"が入っていた。ルイス・マリアノのヴァージョンと同じフランス語歌詞。お、ら、ら、ら...、同じ詞でどうしてここまで違うのだそう。ダンディーなロマンティスムの極み。お、ら、ら、ら、の微妙なニュアンスのビオレー解釈なのだね。



さらに時は経ち、2019年、フランスで第4位(市場占有率15%)の規模を誇るハイパー/スーパー網であるアンテルマルシェ(Intermarché)が、創立50周年記念のキャンペーンとして3分間の長尺コマーシャルフィルム(ヴィデオクリップ)を制作し、その音楽としてバンジャマン・ビオレーヴァージョンの"C'est magnifique"(全編)を採用。キャンペーン・テーマは "On a tous une raison de mieux manger(誰でもよりおいしく食べたいわけがある)"。舞台はフランス西海岸(たぶんレ島かもしれない)、妻に死に別れ、家族と遠くひとり隠居ぐらしの男、子供・孫・友人たちともたまに楽しい時間もあるが、日常は古いレコードを聴き古い写真アルバムを眺めるひとり暮らし。そんな中で見つけた、亡き妻が残した手書きの料理レペルトワール(レシピ帳)。ここから、"妻の作ってくれたあの味をもう一度"、”失われたトマトソースを求めて”という老いた男の料理探究が始まり、自転車に乗ってアンテルマシェまで何度も足を運ぶ、というストーリー。妻の幻影や、偶然見たテレビのヒントや、アンテルマルシェの品揃えと店員の助言が男の料理をどんどん向上させていくのだが、まだひとつ足りない... しかしついに。この作品を監督したのが、前述の映画"Pourquoi tu pleures ?"のカティア・レウコヴィッツ。エモーショナル。私はこういう作品には本当に弱い。そしてバンジャマン・ビオレー音楽のハマリ方よ。セ・マニフィックとしか言いようがないではないか。

2020年2月17日月曜日

因縁のエルランジェ通り

ジャン・エシュノーズ『ジェラール・フュルマールの生涯』
Jean Echenoz "Vie de Gérard Fulmard"

ソ連の人工衛星が降ってくるという出だし。とっくの昔に役目を終え、老朽化して宇宙のゴミとなったものが、大気圏に突入する際燃え尽きずに、残骸破片が地上に落ちてくる。ごく稀ではあるが、それが人家を直撃する事態もある。小説はそれがパリ16区、オトゥイユ門付近を襲い、ハイパー・マーケット「カルフール」に店舗の一部を損壊する被害をもたらしただけでなく、破片のひとつがエルランジェ通りの某アパルトマンの窓を突き破り、住人の腹部を直撃して即死させている。被害者はこの界隈で数軒の賃貸アパルトマンを所有する大家であり、そのひとつのアパルトマンの間借り人が本小説の主人公ジェラール・フュルマールであった。この一件で、家賃支払いの遅れをうるさく請求してくることがしばらくなくなるのではないか、とフュルマールは他人の不幸にほくそ笑んでいる。なぜならフュルマールは失業中であり、収入は極めて不安定だからだ。
彼は航空会社のスチュワード(今日びの日本語では"CA"とか"客室乗務員"と呼ばれる)だったのだが、業務上(より正確にはパリ→チューリッヒ便)の過失を理由に解雇され、失職後の社会保障サポートで精神医のカウンセリングを受けている。パリ1区ルーヴル通りにあるその精神医ジャン=フランソワ・バルドーの診察所のすぐ近くに(実在する)有名なデュリュック私立探偵事務所(フランス最古の私立探偵事務所だそう)があり、カウンセリングの行き来にこの前を通るたびにフュルマールの霊感が刺激され、果てに(再就職せずに、その上その職業の経験も素養もないのに)自営の探偵事務所を開設することを思い立つ。エルランジェ通りのフュルマールのアパルトマンは「アシスタンス事務所」(漠然としているが、よろず援助・補佐業のようなイメージ)の看板を掲げ、地区のフリーペーパーに広告を載せ、引っかかってくる客を日がな一日待っている。
 キートン/チャップリン時代のおとぼけ探偵映画のような趣きであるが、この男は身長168センチ、体重89キロ、だからどうした、ということもないのだけれど、これだけはなく"向き”ではないことを仄めかす要素多数。それでも無気力失業者の傾向はなく、受動的(人にやらされるクチ)ながらも乗り掛かったら行動を惜しまない従順な小市民。
 舞台のパリ16区エルランジェ通りは、いろいろ因縁があり、最近では2019年2月4日から5日にかけての夜半に(放火による)大火災があり、10人が焼死した。小説中も詳説されているが、1975年4月25日、イスラエル出身のトップ人気歌手マイク・ブラントがエルランジェ通り6番地の6階のアパルトマンのバルコニーから転落して即死(自殺説が一般的だが、暗殺説も)。また日本では記憶されている方も多いであろう、1981年6月11日、エルランジェ通り10番地のアパルトマンで、日本人留学生佐川一政がオランダ人女学生を射殺し、その人肉を調理して食べたという事件が起こっている(この小説中 p146〜147にかなり詳しい犯行描写あり)。それから第二次大戦中、ナチス占領下、エルランジェという通りの名が19世紀のこの地区の大地主のドイツ系ユダヤ人に由来するという理由で、通りそのものに「黄色い星」をマークされかけた、というエピソードも。エシュノーズの筆はこういう細部を逃さない。この一冊の小説で読者はさまざまな分野の細かな雑学知識を大いに増やしてしまうことになる。ありがたいことだ。
 さて冒頭の旧ソ連人工衛星破片墜落事件に続いて、ニュースメディアは大々的緊急度(24時間ライヴ放送体制)で政界の要人の誘拐事件を報じる。FPI(Fédération Populaire Indépendante = 独立民衆連合)党の総書記であり、党創立者(現党首)の妻であるニコル・トゥルヌールが何者かに誘拐され、その監禁された姿を撮影した動画がメディアに公開された。フランス政界を震撼させる大事件。犯行声明はない。身代金狙いか?政治的背景は? ー  答えはない。小説はここから国を揺るがす事件に入っていくと思いきや、どうもそうではない。まずこのFPIなる政党は全国的な政治組織であるとは言え、国政選挙で2%前後の得票率しかない弱小政党であり、中央政治を揺るがすような勢力はまるでない。右でも左でも中道でもないお題目政党で、建前論ディスクールの立派さだけが取り柄。全国党大会を開いても演壇上幹部席が20席、壇下の参加党員がパイプ椅子で300席という程度。こういうFPI 党であっても、党首脳のひとりの身に災禍がふりかかったとなると、記者会見をし、党声明を発表し、事件に関する党の立場を公式に明らかにする。こういう政党メカニズムをこの小説は徹底的に揶揄するのである。こんな小政党でも、党設立者(フランク・テライユという名前)とその家族縁で固めた主流派(テライユの再婚妻ニコル・トゥルヌール総書記、その前夫との娘で党広報責任者ルイーズ・トゥルヌール)、次期党代表の地位を狙う何人かの幹部、次次期を狙う青年部、そして地方に拠点を持つ反主流派グループなど、普通の政党にありうるすべてが揃っている。
 ニコル・トゥルヌール誘拐事件は日も経たぬうちにメディアの話題から消え去り、党幹部たちは事件の成り行きを待たずにトゥルヌール総書記の死を確信し、テライユ党創立者の引退、次期総書記選出というシナリオで動き始めてしまう。ここに来て党内の亀裂がはっきりしてきて、派閥間での水面下工作があり、昨日までの同盟関係の裏切りがあったりリンチがあったりという、どこの政党でもあるようなことが起こる。その党外にありながら有力な黒幕があの精神医バルドーであり、そのバルドーが医者としての守秘義務あっち向けホイでさまざまな弱み(カウンセリングでの告白の細部)を握って、有無を言わさず絶対服従させられる患者がフュルマールだったというわけ。新米私立探偵は開業まもなくこのバルドーの手先となって、党内工作の実行犯となるのだが、素質が素質だけにヘマばかり。
 総書記亡き(と勝手に決めつけて)あとの空席をどうするかを討議する臨時党大会で、名誉党首フランク・テライユは次期総書記に、義理の娘で党広報責任者のルイーズ・トゥルヌールを推薦する(実は関係の冷めてしまった”故”妻ニコルの死をいいことに、その美貌の義理の娘と関係を持とうとしている)。しかし党内には次期総書記(すなわち党の最高権力者)を狙っている幹部が複数いて、このルイーズ選出を阻止したい幹部らが裏で談合し、過激にもフランク・テライユの暗殺まで企ててしまう。暗殺は政治的スキャンダルを避けるために、党の全くの部外者によって遂行されねばならない。誰かいいやつ知らないか?という問いに、精神医バルドーが挙手し、その結果フュルマールが動かざるをえなくなる。
 しかし小説終盤はカタストロフの連続で、読む方は脳内を狂騒曲が反復するようなテンポになる。まず誘拐され殺害されたはずと思われていたニコル・トゥルヌールが生還する。公にはしないが、弱小政党とその最高幹部(総書記)の話題性を一挙に千倍アップさせるための狂言誘拐事件であったのに、その目算は全く外れ、ニコル・トゥルヌール生還はメディアが全然大きなニュースとして扱わない。渦中の若き美貌の次期総書記候補ルイーズ・トゥルヌールはその騒動に巻き込まれまいと、隠密で南アジア海域のリゾート島にで雲隠れヴァカンスを過ごし、紺碧の南海で巨大ザメに喰われて死んでしまう。党首暗殺を企てた党幹部たちは、このラジカルな状況の変化に、暗殺計画を白紙に戻そうとするが、実行犯ジェラール・フュルマールはすでに行動を起こしている....。
 奇想天外、シュールで不条理な政治サスペンス小説だが、語り口は講談師の名調子のようにテンポが良い。名人芸である。状況を全く把握できない私立探偵は、その狭い視野で必死に動こうとし、なおかつその必死さの過程でもその場で出会う人間たちを観察できるような不思議な余裕がある。話者と作者と主人公(フュルマール)の三者がそれぞれ微妙な違いを見せながらも、余裕でさまざまな雑知識が挿入されるエクリチュールの妙。読み終わったあと、すごく利口になった気がする。
 弱小政党とは言え、金はどこから湧いてくるのか、幹部たちの俗物的豪奢な生活ぶりもよく描かれているし、老党首が枯れた性欲のうずきにまかせてピガールの色街をさまようエピソードも見事としか言いようがない。
 パリ15区の医学ラボラトリーにMRI検査にやってきたフランク・テライユ党首を、MRI検査台に拘束された丸腰状態でMRI検査の騒音に紛れ、誰にも邪魔されず確実に射殺できると踏んだジェラール・フュルマールは、やっと初めて依頼された仕事を遂行できるはずだった。しかし...。暗殺の寸前に党幹部らに阻止され、逆に腹部を撃ち抜かれたフュルマールはその場からタクシーで逃走し、雪降るミラボー橋で非情なタクシー運転手にタクシーから投げ出され、真っ白な雪を血で染めながら、橋の欄干につかまり身を起こし、橋の下を見ると、アポリネールの詩の文句通り、ミラボー橋の下にセーヌは流れているのだった。
突然弱気の虫が私を襲ってきたが、私は川の流れを見つめ続けた。すると一隻のクルーザーがゆっくりした速度で上流に向かっているのが見え、そのキャビンの屋根の上に2羽のカモメが止まっていた。そしてそのキャビンからひとりの女が出てきて、宣伝用の傘を開いたので、私はそれに何が書いてあるのか読もうとしたが、ちょっと遠すぎてあきらめ、私は目を閉じた。私は雪のひとひらが片目のまぶたに落ちたのを感じたが、それが溶けたのだろう、私のこめかみにひとしずくの水が流れ落ちた。(p235-236)
完。もう何にも言うことないです。

カストール爺の採点:★★★★☆

Jean Echenoz "Vie de Gérard Fulmard"
Editions de Minuit 刊 2020年1月 240ページ 18,50ユーロ 

(↓)国営ラジオFRANCE CULTURE、オリヴィア・ジェスベールの番組 La Grand Table Culture(2020年1月15日)にゲスト出演したジャン・エシュノーズ



2020年2月14日金曜日

Hasta てんきになれ

Futuro Pelo "A Bigger Splash"
フュチュロ・ペロ『ア・ビガー・スプラッシュ』


2月4日から8日間入院した。2ヶ月で体重が13キロも激減して、ももとふくろはぎの筋肉が細くなり、入院時は歩くのもたいへんだったが、入院治療の甲斐あって今はずいぶん回復した。個人的な病難もそうだが、この2月前半は新型コロナウィルスの世界的な病禍もあり、ヨーロッパ大陸的には大暴風「キアラ」「イネス」「デニス」の連続的な襲来もあった。自分の体の弱まりだけでなく、伝染病と暴風のせいでも、外出がしづらかった時期であった。今季は暖冬で春の花々が早くもたくさん咲き始めているのに、外に出られない、そういうフラストレーションが鬱積した2月前半だった。
 バンジャマン・スポルテスのソロ・プロジェクト「フュチュロ・ペロ」 のファーストアルバムは2月7日にリリースされた。これが病院のベッドにいた私をどれだけ癒してくれたことか。若返りの水を点滴されているようなセンセーション。
バンジャマン・スポルテスはもういいおっさん(50歳台)である。80年代半ば、パリでロカビリー/ガレージ系のバンド、ザ・ワンダラーズのドラマーとしてデビュー。あの頃のオルタナティヴ・シーンで、ロス・カラヨスマノ・ネグラヴァンパスらと同じサーキットにいた。それから十数年の時を経て、ヴァンパスのベーシストだったニコラ・カントロヴィッツと組んでエレクトロ・デュオ、スポルト・カンテス(Sporto Kantes)(1998 - 2012)として、エレクトロ・シーンでそこそこの知名度を得る。特に"Lee"(2007年)と "Whistle"(↓のクリップ)(2008年)は、テレビCMやサントラに使われたので、スポルト・カンテスの名は知らずとも曲は誰でも聞いたことがあるというレベルのポピュラリティーを獲得するのである。

 それからまた十年ほどの月日を経て、ひとりになったバンジャマン・スポルテスは、 自分が歩んだ80-90年代オルタナ・ロックと00年代エレクトロの軌跡をていねいにまとめあげたような、カラフルで折衷的でダンサブルで(中年ダンディーな)洒脱さにあふれた「歌もの」アルバムを創ってくれた。言語はフランス語、英語、スペイン語。あの時代のオルタナ・ロックとスペイン語の融合がもたらした、マノ・ネグラ→マニュ・チャオやセルジャン・ガルシア(ex Ludwig Von 88)の祝祭的フレンチ・ラティーノのノリへのノスタルジーに波長が合ってしまう。中高年向きかな? だがスポルテスの2020年型フレンチ・ラティーノはテリトリーなど軽々と超越した多様なパッチワークによる快感追求サウンド。アルバム中のスペイン語曲2曲は群を抜いている。
(↓)"Terror"

(↓)"Don"


だがしかし、アルバムはまず第1曲めでガツンと来る。「ファースト・オブ・メイ」、5月1日、労働者の祭日、幸福を運ぶスズランの花を贈る日、ビージーズ「若葉のころ」(1969年)の原題、そんなことはどうでもいいのであるが、ロカビリー流儀のひずんだリヴァーブ・ヴォーカル、ラテン・パーカッション、クラップ・マシーン、せわしないサックス、女の甲高い"I hate you"の叫び... テンポのいいロック失恋コメディーのような佳曲。軽めポップの体裁をしながら、歌詞は5月のウキウキとは裏腹の、愛の足りない青年の嘆き節。
僕には個性が足りないが
それは他人にはわからない
タバコを取り出し 吸うでもなくもてあそび
予定外の行動をする
僕には愛が足りないだけなんだ
美しい5月に、これはないよな、という若者像が描かれる。ソングライティングの才もはっきり。


カラフルでダンスフロアー向きな楽曲群の中に、突然こんな断腸の別れの歌(8曲め "Urt")も入っている。
お互いに足りないものなどほとんどなかった
お互いに傷つけ合った
息切れがするまで
小さな炎は燃え続けた
二人の目に映っていた
無邪気さはもはやない
静寂が必要だ
きみに別れを告げるために

これ、マニュ・チャオ "Je ne t'aime plus"を想わずにはいられないではないか。それにかこつけるわけではないが、このフュチュロ・ペロのアルバムは、2020年型の『クランデスティーノ』(マニュ・チャオ 1998年)と聞くことができると思いますよ。
 そういうマノ・ネグラ/マニュ・チャオのカラーが濃く感じられるのが9曲めの"Grey"。リフレインのハモり方とか、特に。


 入院中、本当に元気づけられた。ポジティヴなパワーと若返りのセンセーションもらった。ありがっとう! Muchas Gracias !

<<< トラックリスト >>>
1. 1st of May
2. Swamp
3. Nefertiti (feat, Neysa May)
4. Terror (feat. La Flaca)
5. Come down (feat. La Flaca)

6. Gala (feat. Mila Stanly)
7. Don (feat. La Flaca)
8. Urt

9. Grey
10. Samba
11. Burrito (feat. Anna Majidson)
12. Deal (feat. Neysa May)
13. Yard
14. Muppet

FUTURO PELO "A BIGGER SPLASH"
CD/LP/Digital PAIN SURPRISES/DELICIEUSES MUSIQUE
フランスでのリリース:2020年2月7日

カストール爺の採点:★★★★☆ 

(↓)Futuro Pelo "Swamp"