2020年2月22日土曜日

持ってけボレロー

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2006年3月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Jean Echenoz "Ravel"
ジャン・エシュノーズ『ラヴェル』


(2006年2月刊)

2006年2月、冬季オリンピック・トリノ大会のフィギュア・スケート競技の音楽として何度聞いたことか。ラヴェルの「ボレロ」である。たしかにおれはフィギュア・スケートに合う音楽である。機械的な繰り返しで果てしなくクレッシェンドする尻上がり曲である。クラシック音楽愛好者を別にすれば、多くの人々にとってモーリス・ラヴェルは「ボレロ」一曲で記憶されている。この曲は発表当時、今日で言うポップソングのような大衆的成功を得たそうだ。この小説の中でこの曲は、イル・ド・フランス、イヴリーヌ県ル・ヴェジネの工場の機械音にインスパイアされたことになっている。工場の繰り返しのリズムなのである。 
 ジャン・エシュノーズの小説『ラヴェル』は、20世紀フランスの作曲家モーリス・ラヴェル(1875 -1937)の伝記ではない。ポートレイトである。それはテレラマ誌のミッシェル・ガジエが見事に比較しているように「ピカソという巨匠のシンプルな筆で描かれたドラ・マールやジャクリーヌの肖像画のように、エシュノーズの筆が描き出した人物像」なのである。
 ラヴェルは体躯の小さな人物であった。それは競馬騎手のサイズであり、その小ささにもめげず第一次大戦の時には軍に志願して、その軽さは航空機部隊に理想的であろうと軍を説得しようとしたが、聞き入れられず、あらゆる軍務から免除された。それでも執拗に軍入りを希望したので、重軍用車の運転手として配属された。そしてある日人々はシャンゼリゼ大通りを下ってくる巨大な軍用トラックでその太いハンドルになんとかしがみつこうとしている青い布切れのような形状をしたラヴェルを目にすることになるのである。
 小説はこの小さな身体をした男が、浴槽に深々と身を浸し、その生暖かい湯とシャボンの泡の中の自堕落な時間をもったいなく惜しみながら、もう出なければならない、もう出なければならない、とぐずぐずしているところから始まる。できることならば出たくない。しかし用事があるのだから出なければならない。
 このぐずぐずと生温い快感の時間を引き延ばしたいという気持ちを抱く者は誰か。それはあなたであり、私である。小説はラヴェルがどうのこうのという話が始まる前に、どこにでもいるあなたや私に近い人間の話として始まってしまう。ああ、いやだ、いやだ。だが行かなければならない。この男は浴槽を出て、きちんと用意された衣服を身につけ、郊外の家からパリ・サン・ラザール駅に向かい、そこからル・アーヴル港までの汽車に乗り、ついで同港から北大西洋航路の豪華客船フランス号に乗船してアメリカに行くのである。
 この小説ではこの男は妻も子もないように描かれていて身内の者も登場しない。音楽出版社やエージェントやらがわずかにこの旅の見送りに来るが、この男はどうもそういうつきあいが不得意なようなのだ。当時のフランスを代表する大作曲家にして指揮者である彼は、このフランス号でも船長から、特別に船上コンサートをお願いできませんか、と依頼される。それをこのラヴェルは儀礼的に形式的になんとか難なくこなすことはできる。喝采があればアンコールで応え、サインを求められれば機械的にサインもする。この日常的で無感動な20世紀的仕事観であたりさわりのない対応でものごとをこなすということは、あなたもしていることであり、私もしていることなのだ。このフツーに無難で個性のとんがりのないラヴェルとは一体誰なのか。
 エシュノーズは冒頭の浴槽から出ていく瞬間から、1937年に62歳で亡くなるまでの、晩年10年間のラヴェルの人物像を描いていく。それは多分浴槽という羊水から出て行って、麻痺した肉塊となって死ぬまでの、小説の誕生から死までの時間のことなのだろう。豪華客船の旅、アメリカでのレセプション、コンサート、移動、レセプション、コンサート、移動の繰り返し。ガーシュウィン、大陸横断列車、カーネギー・ホール... それは良くもなく悪くもなく、可もなく不可もないアメリカ、退屈なアメリカなのであった。赤い肉しか食べないこのフランス人は、英語がうまく話せないもどかしさとアメリカ料理にいらいらしたりしながらも、なんとかそつなくアメリカ滞在をこなしてしまうのである。小説の前半の60ページは、このアメリカでの行状に費やされるが、ラヴェルの人物像はほとんど浮き彫りにされないままで、著名作曲家でなければ恐ろしく凡庸な小人物ではないか、という反ロマン的憂鬱さが匂ってくる。
 けだしこの人物は憂鬱なのである。その憂鬱の第一の問題が眠れないことである、より正確には眠りに入れないということ。読書や睡眠薬やいろいろ試してみるのだがうまくいかない。小説の中で眠りに入るための3つのテクニックが紹介されていて、その1「物語を作り、ごく細部にまでこだわって舞台演出を考えること」、その2「ベッドの上で何度も体を動かしてみて、筋肉の弛緩と平静な呼吸に理想的なポジションを探すこと」、その3「子供の頃から寝たことのあるベッドをひとつひとつ思い出していき、その数を数えること」といった、われわれ凡百の小市民が不眠の夜に試してみるようなことを真剣にやってみるのである。その結果は言うまでもなく未明まで眠れっこない。
 郊外の町モンフォール・ラルモリーの小さな一軒家にひとりで暮らすラヴェルは、その家の中でほとんどの時間を過ごし、ヴァカンスには生まれ故郷のバスク地方サン・ジャン・ド・ルースに滞在する。浴槽からなかなか出たがらない人間であるから仕事は遅い。眠りに入るのに時間がかかるのと同じほどに、仕事のとりかかりに時間がかかる。そして楽譜出版社や、楽曲を依頼した楽団などからしょっちゅう催促される。催促に追われて仕事するからラヴェルは当然ストレスをたくさんためることになる。このあたりが大作曲家のイメージとは遠く、普通の現代人と何ら変わりがなく、孤独でいらいらするその佇まいは隣のおじさん的とも言える。
 彼の大きないらいらは自分の作品「ボレロ」の不可解な大成功であり、自分ではこれは単純に工場のリズムで作曲された「音楽の抜け殻」であると思い込んでいる。この曲をアルトゥーロ・トスカニーニが指揮者自身の解釈で譜面の倍の早さで演奏したコンサートの幕後、ラヴェルは憤然としてトスカニーニに「これは私の示した速度ではない」と抗議する。長身のトスカニーニは自分の顎のところにあるラヴェルの額に向かって「あなたの指定の速度で演奏すればこれな何の味もなくなってしまう」と言い返した。ラヴェルは「よろしい、ならばそれを演奏しないことだ」と応えた。するとトスカニーニは「あなたはご自分の音楽を理解していない。私のやり方でなければあなたの音楽は通用しない」と断言した。ここまで言うか? 読む者はこの可哀そうな小さな男に加担して、むっとなってしまうではないか。
 そのいらいらの最たる例として小説に登場するのが、パウル・ヴィトゲンシュタインとの確執である。オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの実の兄であるこのピアニストは、戦争で右腕を失いながらも、左手だけでヴィルツオーゾのピアニストとして成功していた。その男がラヴェルに「左手のためのピアノ協奏曲」を依頼したのだが、書き上がってきた作品にヴィトゲンシュタインは満足しない。作品を不服として作曲者に突き返すというのなら話はわかる。ところがこの片腕ピアニストは作品を作品として受け取り、ラヴェルが書いたピアノ譜にその超絶テクニックで何倍もの装飾譜を加えて演奏するのである。ラヴェルは作曲者として最高度にいらいらする。これは私の曲ではなくなってしまっている、と。私の書いた通りに演奏するのが演奏者の義務ではないか、と。

  小さな体、ひとり者、職業作曲家、テクニックを欠くピアニスト、不眠症...この小説の3分の2までで描かれるラヴェルはとても普通な憂鬱人であるが、1932年10月交通事故で頭部を負傷して以来、その5年後に亡くなるまでの喪失と錯乱の日々は悲惨である。自分の記憶が消えていくのと、人々の記憶から自分が消されていくことが同時に進行する。曲を書くこと、ピアノを弾くことといったことがひとつひとつ消えていく。自分が書いた音楽が演奏されると、これが誰が書いた何という名曲なのですか、と人に尋ねる。

 「彼は遺言も、その姿の映像も、その声の録音も一切残さなかった」とこの小説は終わる。エシュノーズはその68年後にラヴェルの見事なポートレイトを残した。これは小説の仕事である。

Jean Echenoz "Ravel"
Editions de Minuit刊 2006年1月 124頁

(↓)2006年国営テレビFrance 3で小説『ラヴェル』について語るジャン・エシュノーズ


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