2024年2月27日火曜日

善悪宇宙帝国ウォーズ in パ・ド・カレー

"L'Empire"
『帝国』

2023年フランス映画
監督:ブルーノ・デュモン
主演:ブランダン・ヴリエーグ、ファブリス・ルキーニ、カミーユ・コタン、アナマリア・ヴァルトロメイ、リナ・クードリ
フランス公開:2024年2月21日

2024年ベルリン映画祭・銀熊賞(審査員賞)


またのブロックバスター映画は善と悪との戦いで善が勝利するものと決まっている。大衆娯楽性はその逆は絶対に求めていない。そういう世界では悪が破れ、ハッピーエンドが待っているのだが、映画館を出ると目の前はそういうわけではない。ブロックバスターの嘘はみんな知っているのだが、それが人々を惹きつけるのは善の勝利という要素よりも、戦いに勝つ快感ではないか。勝つ戦争が好きなのだね。ひいては戦争が好きなのかもしれない。
 ブルーノ・デュモンの最新長編映画(13作め)は”スター・ウォーズもどき”である。北フランス、パ・ド・カレー県、オパール海岸(Côte d'Opaleご)の砂丘と漁村住宅街を舞台としていて、この北フランスの一帯の砂丘はブルーノ・デュモン映画のほとんどに背景として登場するが、デュモンの映画で映されるとなんとも言えず美しい。こういう局地的と言うべき地球の片隅で、善 vs 悪の宇宙戦争が展開されるのである。日本のテレビ特撮シリーズ(スーパー戦隊もの)をも想わせるスケールの小ささもあるが、CG大仕掛けを使った擬似ブロックバスターこけおどしもある。"女王 La Reine"と呼ばれる善の宇宙帝国の元首(演カミーユ・コタン) が居城としているのがゴティック・フランボワイヤン様式の大伽藍(の宇宙船)で、悪の宇宙帝国の皇帝であるベルゼビュート(演ファブリス・ルキーニ)が住む宇宙宮殿がヴェルサイユのかたちをしているというのも、スペースオペラのわかりやすい”フランス化”のようで微笑ましい。
 このオパール海岸の小さな町が両帝国の地球侵略の最前線であり、両陣営が人間の形をした(たぶん帝国人と人間のミュータント)実行部隊を送り込んでいて、善の女王側にはジェーン(演アナマリア・ヴァルトロメイ、ほぼララ・クロフトのパロディー)とその部下のリュディ(演ジュリアン・マニエ←ノンプロ俳優、ほぼ’猿の惑星’あるいはチューバッカのパロディー)、悪のベルゼビュート側にはジョニー(演ブランドン・ヴリエーグ←ノンプロ俳優、人間生活での職業は半農業/半漁業の労働者)と映画の冒頭でジョニーの念力で部下にさせられたリン(演リナ・クードリ、私の大好きな女優なのだがこの映画では目立った役ではない)。
 悪の地上隊長ジョニーにはフレディーという名の赤ん坊がいるが、その子が悪の帝国から次代の悪神の使者と名指され、この子によって地球は悪が支配する星になるはずだった。地上での両陣営の衝突はこの子の争奪戦であり、ジェーンとリュディはジョニーのもとから赤ん坊を誘拐する。ジェーンとリュディの武器がスターウォーズゆずりのライトセーバーであることもこの映画の”本気”を窺わせる。善の兵士たるジェーンとリュディのやり方は善とは名ばかりのかなり手荒なやり方で、フレディーの母(ジョニーの妻ということになるのかな?定かではない)がフレディーをベビーシートに乗せて運転する車に横転事故を起こさせ、その女をライトセーバーで斬首したり...。この猿の惑星型戦士リュディはおつむが弱い上に凶暴。それに立ち向かう悪の戦士たちがジョニーを隊長とする十数人の白馬の騎兵隊(と言っていいのかな?農作業着の馬乗りたち←全部ノンプロ俳優たち)で、武器は持っていないように見えた。まあ、地上ではそういう不条理なシーンが多いが、ブルーノ・デュモンの映画なので...。
 その善悪宇宙帝国戦争をやっているという事情を知らないフランス、パ・ド・カレー県の警察(正確には憲兵 gendarme)は、自動車事故事件や女性斬首殺害事件を捜査するのだが、担当の二人の警官(←ノンプロ俳優)はブルーノ・デュモンの2014年のTV連ドラ"P"tit Quinquin"(2シーズン/全8回)でかなり有名なおとぼけ警官コンビだそう(私は知らなかった)。このダメ警官を、悪の帝国の代理人ジョニーは徹底的にバカにしている。これはひいては人間総体をバカにしていることなのだが、善の帝国の女王カミーユ・コタンは(↑写真)「人間たちは魅力的だ、だから私は征服したいのよ」と立場の違いを明白に。この善の女王が人間の姿で町にいる時はこの町の町長であり、露天市で町民たちの困りごとを聞いてやっている、というのも可笑しい。
 さて、スターウォーズが十分に形而上学的側面を持っているように、この映画も上辺の奇想天外さの下にかなり哲学的含蓄を孕んでいる。そもそも、と言い出したくなる、善と悪の問題である。宇宙の彼方にかなりピュアーな状態で善と悪というのがあって、それは電極のプラスとマイナス、二進法のゼロと1(これは映画の中で登場する概念)のように明白な相反する二つの要素としてあったものが、地球の人類にたどり着いた時にその明白さが欠き曖昧になってしまう。人間界には純然たる善人も純然たる悪人もいない。良さそうな悪人、悪そうな善人、人間は曖昧で不透明である。この映画で善の女王の手先となっているジェーンとリュディは暴力的であり殺しもする。悪の帝王ベルゼビュートの手先ジョニーは家庭を愛し、子供フレディーを命かけて守ろうとする。これが”人間的”ということで、善悪の杓子定規からおおいに逸脱する。
 この善悪がおおいに混乱するのは、ジェーンとジョニーが恋に落ちてしまう、ということ。おまけのようにジョニーの部下になったセクシー・バンプのリン(←写真 この映画での女優リナ・クードリの存在感はここだけ)は真剣にこの恋に嫉妬してしまう。なんと人間的な!善悪を飛び越えてしまうのは愛なのであるよ、お立ち会い。
 しかし人類の未来は愛を選ばずに戦争を選ぶ。悪の帝王ベルゼビュートは最終戦争を宣言し、人類にアポカリプスの到来を高らかに告げる。善悪両陣営の軍帥たるジョニーとジェーンは双方の宇宙砦に戻り、それぞれ幾万の宇宙戦闘挺を従えて、銀河の関ヶ原へと進軍していく....。ブロックバスター映画的見せ場はここからになるであるが、それ風なCG映像はやはり観るものをわくわくさせてしまうのだよ。さて、善宇宙軍と悪宇宙軍、どちらが勝つのか?

 私は熱心にブルーノ・デュモン映画追っかけをしてこなかったが、『マ・ルート(Ma Loute)』(2016年)、『ジャンヌ』(2018年、爺ブログ紹介記事あり)、『フランス(France)』(2021年)、そしてこの『帝国』と続けて観て、その奇才(鬼才)ぶりとフランス映画界における特異なポジションはわかったような気がする。出身地である北フランス(パ・ド・カレー)にすべてが凝縮されているという宇宙観は一貫していて、これは「中央」から見る見方に慣れた私たちには刺激的だ。そして積極的なノンプロ俳優たちの起用は、その言葉が聞き取れなかったり、動作の意味がよくわからなかったり、というごつごつざわざわした手触りに戸惑ったりもした。映画監督になる前は哲学教師だったというデュモンの映画が投げかける問いかけは、やはりちょっと難しさがあるよ、私には。この『帝国』はブロックバスターのパロディーのような表向きをしながら、”善”と”悪”とその二つが吸い込まれて消えていくブラックホールという大団円は、驚きこそすれ笑うことはできない。映画をつくる側は、さぞ楽しかったろうな、と想像はできるのだけど。

 最後にこの映画の最初のキャスティングで主役(ジェーン役)と決まっていたアデル・エネルが途中で自分から降りてしまった件。(仏Huffpost 2月23日付けに記事あり)。2020年2月のセザール賞セレモニーで、ロマン・ポランスキー受賞に抗議して退場した事件以来、アデル・エネルは映画と訣別して左翼系フェミニスト活動家となっている。アデル・エネルによると最初この役を受諾したが、シナリオを読んで登場人物に有色人種がひとりもいない「白人だけ」の(レイシスト的性格の)映画であることについてブルーノ・デュモンに抗議し、シナリオの修正を要求した。その間にコロナ禍で制作が中断し、1年後に、ブルーノ・デュモンがアデル・エネルに修正シナリオを送った。しかしアデル・エネルの目には一切(レイシスト的性格の)修正がなされておらず、出演の辞退を決定した、と。わからないでもない話ではあるけれど...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『帝国』予告編  (予告編の方がずっとエンターテインメント性があると思う)

2024年2月22日木曜日

何もしないための地の果て(フィニステール)

Ann Scott "Les Insolents"
アン・スコット『横柄な人々』

2023年ルノードー賞


フィニステール(Finistère)、ブルターニュ半島の西端にある県、ここは字句通りの意味で「地の果てるところ fin de la terre」である。いい地名。この小説は40代半ばの女性アレックスが、長年住み慣れたパリ・マレー地区(まあ現在でもパリで最もアーティーでハイプな地区と言えるのだろう)を捨てて、フィニステールにひとり移住する物語である。
 アレックスはそこそこに名の通った映画音楽作曲家であり、サントラ盤の他に個人名義のアルバムも発表している。全く積極的ではないが、職業上のリリース告知などの必要性でSNSにもアカウントを持つが万単位のフォロワーがいて、ファンメッセージも送られてくる。いわゆる"マーベル映画”の音楽も手掛けていて、この仕事が入ると1年間生活できるほどのアドヴァンス収入がある。アレックスの移住を可能にしたのはそういう「まとまった金」の飛び込みのおかげでもあった。
 家探しはいとも無頓着で、インターネット上のオファー物件の写真や動画を見ただけで、希望する条件に合いそうなもの選び、家主にスカイプで交渉し、家主に会うことも現地で物件を直に見ることもなく、賃貸契約を交わした。完全に独立したまるまる一軒家が希望だったが、(車のないアレックスには必要ない)車庫と上階の部屋ひとつを家主が”物置”として使用するので、借家人アレックスには立ち入り禁止ゾーンとされ、この非賃貸ゾーンが小説の最後部でちょっとした問題になっていく。それはそれ。
 車がないこと、これがフランスの地方(それも奥まったところ)に住む上でどれほどのハンディキャップか。(よ〜く知ってます)ー しかしアレックスは単身パリ・モンパルナス駅からTGVで4時間かけてフィニステール(たぶん終着駅はブレスト)にやってくる。駅からタクシーで何もない集落へ。ヴァカンス期にはセカンドハウスとして使われているかもしれない一戸建ての家々はほとんどシャッターが下りている。どんなところか何も知らずにやってきたアレックスは、商店のある地区まで何キロ、大きなハイパーまで何キロ、(ほぼ一番の目的地である)3つの浜辺まで何キロ....という”現実”を知らされる。それでもアレックスは(遠方の大規模ハイパーでのまとめ買い物を除いて)この空間を徒歩で移動して用事を足し、それを苦とは思わない。小説は都会"ボボ bobo"が下野した”ネオリュロー Néoruraux(新田舎人)"現象とは全く違うものと読まれたい。あらゆる不便さ、秋冬の気候の厳しさ(独り住まい一軒家の暖房の難しさ)、住民づきあいゼロ.... にもかかわらず、アレックスはここがパラダイスだと感じている(強がりではなく)。
 パリのマレー地区でアレックスにはジャックとマルゴーという二人の大親友がいた。ジャックは60際すぎの画廊主でゲイ、マルゴーはアラサーの(おそらくファッション業界の)プレス担当。3人とも年齢も環境も異なるが、ハイプなマレー地区に長年住んでいそうなポジションのアクティヴな個性人だった。ジャックもマルゴーもおのおのが抱えてしまった人生の重荷だけで一編の小説になってしまいそうなヴォリュームなので、ここでは詳説しないが、共通しているのは二人とも若くして(尋常ではない)近親者の死というトラウマを引きずっている。特に少女マルゴーが体験した幼い弟の(両親の離婚に抗議しての)自殺、大人たちが捜索しても見つからなかったその死体を、弟との秘密の森で見つけそのまま埋葬してしまう、というエピソード、これは今日まで暴露されておらず、この抱えた秘密のせいでマルゴーにさまざまな行動障害が...。ジャックはそれを知っている。
 このジャックとマルゴーとの大親友関係は揺るぎないものとアレックスは思っていた。だから脱パリ/ブルターニュ移住しようが、連絡は絶やさないし、ジャックもマルゴーも気軽にブルターニュに会いに来てくれるだろう、と。ところがこれはそう単純なことではなく、この大親友たちとブルターニュで再会するには1年以上の月日を要したのである。
 たぶんアレックスを脱パリ/ブルターニュ移住に駆り立てたのは、(パリのアパルトマン環境では難しい)誰にも気兼ねなく音楽創造ができる空間と静寂が欲しかったことはあれど、それよりも近々に起こってしまった二つの関係の破綻ということが大きかったのではないか。ひとつは男との関係、もうひとつは女との関係、これが作家アン・スコット自身のアンビバレントなジェンダーの反映であろう。このアレックスも男たちがうるさくなるとレズを公言し、女たちがうるさくさるとヘテロと自称する。
 ジャンは音楽創造の最良のパートナーだった。第一線のミュージシャンであり碩学のギタリストであり、師匠であり、相談役であり、インスピレーションの共有者であり...。私はミュージシャンではないけれど、趣味+仕事で音楽のそばに何十年も生きていたので理解できると思うのだが、このパートナーとならばいくらでも音楽ができるという関係、何時間でも指から血が出るまでも一緒にギターを弾いていられる、それが喜びでしかない、という関係、同じ音楽を愛し、高めてくれる関係....。ジャンはそういう素晴らしい”相手役”だった。が、ある日ジャンは恋愛としてアレックスを愛し始めた。アレックスはその変化を受け入れられなかった。これをジャンはアレックスのエゴイズムであると謗り、非難罵倒の言葉をアレックスに投げるようになる。アレックスは過去の”最良の音楽パートナー”だったジャンを忘れることができない....。
 ルーはアレックスより20歳は若いかもしれない画家の卵である。アレックスと出会った時、既にルーには恋人/後見人/出資者/パトロンヌの女と同居していて、この女への操は絶対に守らなければならないと構えていた。しかしルーはアレックスの魅力に落ち、かの女に隠れて”浮気”を始める。ルーの画家的野心は(”模写”段階から脱して)自分の絵を描きたいと望んでいる。同じように若い頃にあがいた挙句音楽アーチストになることができたアレックスは、同じアーチストとしてこの画家の卵の芽を出してやりたいと思う。だがルーは画家として未知の海へ船出することができない。かの女と決別してアレックスの胸に飛び込むこともできない。ぬるま湯に漬かったどっちつかずの自分を嘆いて涙するが、結局この若い女はその場に立ちすくむことしかできない....。
 アレックスはジャンにもルーにも”すれ違うかもしれない”町に見切りをつけたのだ。

  (→写真:フィニステールに移住したアン・スコット)
 移住はゆっくり進行し、引越トラックがパリから家具・家財道具・楽器群・音響+録音機器などを届け、初めて住む一軒家(庭・サロン・キッチン・浴室+4部屋のヴォリューム)をひとりで少しずつ自分の空間にしていく。ミュージシャン衝動としては、ひと部屋に集めた楽器+機器を結線セッティングして、思いっきり大きな音で弾きまくりたい、と思うはずだったが、それもなく、作業はどれを優先するでもなくゆっくりと、新しい環境をひとつひとつ確かめるように時間をかかる。プロパンガスボンベや暖炉用の薪を買ったり、経験のないことにつまずく。暖炉の火を熾すなどということは簡単なことではない。だがこうしたことと一緒に生きていくしかない。どこから入ってきたのか、サロンに鎮座している大きなガマガエル、アレックスは最初パニックに陥りどうして追い出そうかとじたばたするのであるが、時間と共に一人暮らしの珍客として一緒に音楽を聴くのも悪くないとまで思うようになる。
 読者の余計なお世話であるが、どんなに小さくてもいいから車が一台あれば、この田舎生活のどれほど多くの問題を解決してくれるだろう、と思う。引越しで出た梱包廃棄物(段ボール等)は家から数キロ先の指定廃棄所まで自分で運んで行かなければならない。善良な借家人(+善良な住人)であろうとするアレックスはそれに従うのであるが、どうやって?
 アレックスは徒歩で移動する。日常的な買い物は数キロ先のコンビニのようなよろず(ミニ)スーパーですますが、そこにはパリでは見ることのない商標のついた食品や日用品が並んでいて(私もヴァカンス地の商店でよく経験する)チョイスがないのでそれを買うしかない。ヴァカンス期が過ぎたので人気(ひとけ)のない通り、人とすれ違うことはまれ、それでも身の危険を感じることなくアレックスは歩を進める。これが脱パリの具体的アスペクトである。孤独な散歩者はほぼ毎日のようにビーチ(砂浜)へと向かう。家から近い(3キロほどの距離)ビーチは3ヶ所あり、アレックスはその日の気分でビーチを選ぶ。どのビーチにも散歩者はいる。家族連れもカップルもいる。アレックスは誰とも交流しない。ヘッドフォンとタバコだけが道連れだ。このゆったりした時間がいい。小説はそれでもその道すがらに見えたものからの連想、スーパーのレジの待ち時間の考え事、そういう扉から失ったふたつの関係(ジャン、ルー)を繰り返し深々と反芻してしまうアレックスを描き、読者はそれがどんあものだったのかを知ることになる。この反芻する時間もブルターニュが与えてくれたものであるかのように。そしてアレックスはさまざまな”地方生活”の難しさや気候(寒さ)の厳しさや人間たちとの希薄な接触にもかかわらず、「ここは天国である」と独白する(小説中、何度も)。
 さて小説はこの地の果てフィニステールにパリからたどり着いたもう一人の人物を登場させる。レオはアラサーの若者であり、5年間ロサンゼルス、メンロー・パークのフェイスブック・キャンパスで次世代のエリート頭脳として養成されたのち、帰仏し、近く某多国籍コングロマリットの研究チームに配属されることになっていた。そのつなぎで日銭稼ぎでパリ東部のKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)店舗のバイトをしていて、ある夜、バイト先からパリ16区の自宅までメトロで帰る途中、トラブルで乗り換え駅トロカデロで降ろされてしまい、しかたなく徒歩で帰るべく外へ。レオの進行方向、人気(ひとけ)のない深夜の路地の街灯(あ、パリの薄暗いオレンジ色の街灯ですよ)の下に佇む男の影あり。よせばいいのに(あまりに将来有望な楽天性によるものか)レオはその男に近づいていく。レオが口を開く前に、最初のパンチの一撃が飛んでくる。それからあとは数分間に及ぶ超サディックな殴る蹴るの暴行となり、顔、胴体、四肢を破壊され、助けを呼ぶこともできず、路上に放置されたレオは翌未明に周りの建物のコンシエルジュがゴミ箱を出すために出てくるまで、誰にも気づかれず転がっていたのだった。医学というのはありがたいもので、数ヶ月かけてレオの肉体はほぼ元どおりに再生するのだが、この極端な暴行のトラウマはレオを「もと来た道」(すなわち超エリートの道)に戻すことなどできない。その男は誰なのか、その超過激な暴力はなぜなのか、レオは知りたい。母親に諭されて社会復帰のトレーニングを始めたものの、続かず、ある日衝動的にパリ・モンパルナス駅からTGVに乗り込み、フィニステールにたどり着く。そしてブルターニュ最果ての人気(ひとけ)のないビーチのあてどない散歩者になる。
 レオはこの暴行のことを誰かに語らなければならない、その誰かに理解してもらわなければならない、さもなければ自分は再生できない、と妄信している。さもなければ死だ、ということも。最果てのビーチで、ある日、タバコの火を貸して、と近寄り、そして去っていった女性あり。自分よりかなり年上かもしれない。レオは、この女性こそ、自分が暴行のことを語れる相手に違いない、と思い込んでしまう。その日からレオは毎日のようにこのビーチにやってきて、アレックスが現れるのを待つようになる...。

 ジャック、マルゴー、ジャン、ルー、そして近々接点を持つかもしれない幻の若者レオ、それぞれのヘヴィーな物語に囲まれながら、最果ての地で自分の時間の流れを感じ取っていくアレックス、それには1年を超える月日が必要だったし、それがこの小説の時間である。その時間の最中にコロナ禍パンデミックがやってくる。人々との接触が困難になった時期の前に、既に最果ての地に移住していたアレックスはそれを前もって準備していたかのように、静かに「病禍による終末の到来」にあわてふためく世界を見ている。私はパリに戻らない。街々からポエジーが吹き出ていたパリが還ってくるまで、私はパリに戻らない。そしてこの地で(音楽創造もしないで)ほぼ何もしないでいることのありがたみをかみしめる。掛け値なしの親友ジャックとマルゴーはこの気持ちを共有してはくれないのか。

 小説の終盤近くで、アレックスの独白のようなかたちでアン・スコットはインターネットとSNSの世界を長々と糾弾している。それによってミュージシャンとしてたぶん生きられなくなる末路も見えている。この部分(数ページ)だけでも、いつか日本語訳して紹介したいと思うほど説得力に満ちている(やりますよ、いつか)。

 レオの前に再びアレックスは現れ、レオが妄信したようにアレックスによってレオは救済されるのか。たぶんそれはない。レオは死ぬだろう。だが、小説は明るみを帯びて終わろうとする。脱パリ/ブルターニュ移住の1年超後、いつ来るかいつ来るかと待ちわびたジャックが突然最果ての地に現れる。ジャックはすべてを捨て、老後のためにブルターニュに大きな家を買うだろう。マルゴーはそれに付いてくるだろう。ユートピアのようなものが少し垣間見れるような「条件法現在(conditionnel présent)」形の文章が続く。フランス語では条件法はたいがいは裏切られる仮定であると理解しておいた方がいい。

 この書評を書くのに2ヶ月は要したと思う。小説は2度読み返し、2度目でだいぶうなずけるようになった。ルノードー賞受賞の時、多くのプレスは意外、想定外、ダークホースなどと評したが、それは『スーパースターズ』(2000年)の頃のパンクでテクノでデストロいでポップなイメージが強過ぎるからだと思う。アン・スコットは変わった。この登場人物たちのヘヴィーで厚いキャラクターだけでも、古典的なバルザックを想わせるものがある。コロナ禍をはさんだ時期を背景にしたこの小説は、メモワール・コレクティヴ(共有された記憶)として「あの頃」を見直す機会を読者たちに与えただろう。私は孤独と静寂のブルターニュがもたらす孤的な救済に心打たれた。2度読んでよかったとしみじみ思う。

Ann Scott "Les Insolents"
CALMANN LEVY刊 2023年8月 194ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ボルドーの書店 Librarie Mollat制作のアン・スコットによる作品紹介(ルノードー賞受賞後)

2024年2月10日土曜日

叱ってもらうわマイ・ダアアアアアアリ!

"Daaaaaalí !"
『ダアアアアアアリ !』


2024年フランス映画
監督:カンタン・デュピュー
主演:アナイス・ドムースティエ、エドゥアール・ベール、ジョナタン・コーエン、ジル・ルルーシュ、ロマン・デュリス、ピオ・マルマイ
音楽:トマ・バンガルテール
フランス公開:2024年2月7日


地球規模メガヒットのエレクトロ・アーチスト Mr Oizoが、映画監督カンタン・デュピューになって、2007年から矢継ぎ早の多作で12本、2024年だけで公開予定新作が3本ある。映画評価は世界的に高く、すでに奇想天外映画の巨匠として君臨してしまっている。
この新作は20世紀の天才芸術家サルバドール・ダリ(1904 - 1989)を題材にしているが、ありていな”バイオピック”であるはずがない。
映画の時代は1970年代、最初に現れるのが自称30歳の女性ジャーナリスト、ジュディット(演アナイス・ドムースティエ)で、イデタチもふるまいもフツーの街おんな風で、”ジャーナリスト”を想わせる鋭いインテリジェンスが欠落している。自己紹介的なモノローグで、自分はその前は薬剤師をしていたがあまりにもつまらないのでやめて、思いつきで雑誌ジャーナリストになった、とイージーなことを言う。その最初の大きな仕事がなんと20世紀屈指の奇才芸術家サルバドール・ダリのインタヴューなのである。古風でクラッシーなホテルのスイートルームを用意して、大芸術家のお出ましを待つ。階にエレベーターが着き、ダリはステッキをつきながら早足で(ドア前に出迎えで出ている)ジュディットの待つスイートルームへと長い廊下を歩いてくる。このシーンが素晴らしい。映画を見る者には目視で約20メートルほどと映るこの長い廊下、ダリが早足で歩けど歩けどなかなか部屋に着かないのである。その歩く時間の間に、ダリの指定した飲み物(炭酸水)が用意されていないのに気づき、あわててルームサービスで取り寄せる(ルームサービスの方が早く来て難なく解決する)が、ダリは歩き続けている。その間にジュディットが緊張のあまり小用を催してしまい、トイレに駆け込み用を足して戻ってくるが、ダリは歩き続けている。映画全般にちりばめられたシュールな笑いの仕掛けの第一弾。序盤のこれで観る者はデュピュー(+ダリ)の奇想ワールドに引き込まれることになる。この果てしない歩行の間、ダリはあのカタルーニャ語訛りの強い独特のフランス語でしゃべり続けている。ほぼダリの声帯模写のこの語り口がこの映画のギャグ武器であるが、この最初のシーンで登場するダリを演じるエドゥアール・ベールがこの「ダリ口調」においては群を抜いている。

 さて、この映画でサルバドール・ダリを演じる男優はひとりではない。6人いる。エドゥアール・ベール、ジョナタン・コーエン、ジル・ルルーシュ、ピオ・マルマイ、ディディエ・フラマン、ボリス・ジヨ。この6人によるダリということで、映画題の"Daaaaaalì !"の[a]が6つ並んでいるのだ、と。このうちボリス・ジヨのダリは1時間17分の上映時間中、たった4秒しか登場しないし、誰もあれがそうだったのかと記憶するものもない。ディディエ・フラマンのダリは、他のダリ(特にジョナタン・コーエンのダリ)が幻視してしまう超老体のダリで車椅子に乗り、間近にせまる死におののいている。同時代の"同体”のダリを4人(ベール、コーエン、ルルーシュ、マルマイ)が分担して演じるのだが、この分担にルールもロジックもない。同じパーソナリティがつながりもなく別男優にひょいひょい移っていく。このキテレツな演出は、おおシュールレアリスムだわ、と感心する反面、罠としてこの4人のうち誰が一番”ダリっぽい”か?というモノマネ比較にもなってしまう。で、私は上に書いたように、エドゥアール・ベールが他3人をはるかに上回って”ダリっぽい”と判定してしまったのですよ。ピオ・マルマイ?あんなのダリじゃねえよ、っていう否定的評価も。(↑写真:演ピオ・マルマイのダリ)

 さて冒頭のホテルの廊下シーンに戻り、(エドゥアール・ベールの)ダリは長時間の歩行の末、やっと指定ルームに到着する。あの時代の(雑誌)ジャーナリストのように、メモ手帳とボールペンを携えて、ジュディットがいざインタヴューを始めようとした時、写真班もビデオ撮影班もその場にいないと知った超誇大妄想ナルシストのダリは激怒し、映像イメージのないダリのインタヴューなどあり得ない!とそのまま踵を返して、また長い廊下をすたすたと歩いて姿を消す。失意の悲しき新米ジャーナリストのジュディットは、リベンジの念に燃え、必ずインタヴューを取ってやる、と。ジュディットの上司ジェローム(演ロマン・デュリス)は気前よく、予算のことなら心配するな、と大掛かりな撮影スタッフを用意してジュディットをバックアップしてやるのだが、このジェロームは女性&職業差別丸出しに「まあ、パン屋の娘にまともなジャーナリストインタヴューなどできるわけないな」というセリフを映画中で何度か繰り返している。なぜ”パン屋の娘”に例えられたのかはジュディットにもわからないのだが、このニュアンスそれとなくわかる(ということは私も職業差別者か)。それからジェロームとジュディットがちょっと高級そうなイタリアレストランでのランチミーティング中に、伊丹十三『タンポポ』(1985年)を想起させてしまうような、ジェロームがいとも下品にパスタをずるずる頬張るシーンがある。こういう効果的な細いギャグがすごくいい。(↑写真:アナイス・ドムースティエとロマン・デュリス
 映画はこの新米ジャーナリストの再度(再々度、
再々度...)のインタヴュー申し込みと、それを断るダリの追いかけごっこのように展開するが、そのシロート女のようなひたむきなアプローチが功を奏して、ただのインタヴューではなくドキュメンタリー映画巨編の態をなすプロジェクトとして進行する...。それに加えて映画はサルバドール・ダリのコート・ダジュールのヴィラの暮らしぶりも映し出す。ヴィラの使用人たちが巨匠を「サルバドール!」と呼び捨てにする(しかし敬意は込められている)ところがいい。その使用人のひとり庭師のジョルジュ(演ニコラ・ローラン)がある夜サルバドールとガラのダリ夫妻を自宅に夕食に招待する。出てくる料理が、ルイス・ブニュエル(+ダリ)映画『アンダルシアの犬』(1928年)のリファレンスか、蛆虫の入った煮込み料理で...。それはそれ。 この夕食会にもうひとり客がいて、ダリの対面に座っているのが村の司祭のジャック神父(演エリック・エジェール)。ジョルジュはこのジャック神父の話をダリに聞いてもらいたくてこの夕食会をセッティングしたのだった。というのは、神父が世にも奇怪な夢を見たというのだ。この夢は巨匠ダリにインスピレーションを与えるに違いない、と。(そしてそのインスピレーションでダリは素晴らしい作品を描くことになり、それは天文学的金額で売れ、その売り上げ金の半分がインスピレーション元の神父とその仲介の庭師ジョルジュに入る、というよからぬ陰謀)。ダリがダリ以外の人間からインスピレーションを受けることなどない!と巨匠は立腹してその場を立ち去ろうとするのだが、まあまあまあまあ....となだめて、神父の世にも奇怪な夢の話が展開される....。火炎地獄から一頭のロバに救出され、それに乗って旅していくと背後からカウボーイに射殺され....。荒唐無稽な不条理ストーリーが続き、「ここで私は目が覚めたのです」で結ぶ。このパターンは映画の進行中、あと数回使われ、ストーリーの山が来ると「ここで私は目が覚めたのです」と。そういう感じで神父の夢はさまざまな方向に枝分かれし、ジュディットのインタヴュー追いかけごっことも絡み合い、ダリ贋作事件にも発展し...。カンタン・デュピュー監督の果てしない想像力のこれでもか、これでもか、という映画に膨らんでいくのであった。

 この映画の魅力を引き立てているのが、トマ・バンガルテール(ex ダフト・パンク)のオトボケ哀愁フォルクロール音楽のようなキャッチーなメロディーのテーマ音楽(映画中繰り返し挿入される/↓にYouTube貼っておく)で、私は「モリコーネ級」と称賛したい。サントラ盤(←写真)7インチシングルは限定で2月9日にリリースになっているので、欲しい方は早めにアクションを(売切れ必至)。

 冒頭の繰り返しになるが、この映画はダリの"バイオピック”ではない。カンタン・デュピューの想像力は、巨匠ダリと同じほど奇想天外な「ダアアアアアアリ」なる人物を創り上げてしまった。この人物はダリのコピーでも贋作でもない。このオリジナル・ダアアアアアアリで勝負したのがいさぎよい、と高く評価しておこう。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ダアアアアアアリ!』予告編



(↓)『ダアアアアアアリ!』ティーザー、30秒版

(↓)トマ・バンガルテール『ダアアアアアアリ!』のテーマ

2024年2月1日木曜日

ホンキー・シャトーの伝説

2024年1月19日、国営テレビFrance 5が放映した1時間ドキュメンタリー「エルーヴィル城 - フランスのロックの狂気(Le Château d'Hérouville - La Folie Rock Française)」(クリストフ・コント監修)は、この伝説の城館録音スタジオの全容をよくまとめた優れものであり、これに刺激されて爺ブログは1976年にこの城で録音されたイギー・ポップの「チャイナ・ガール」に関する記事を書いた。
 エルーヴィル城に関しては(↓)に再録する2016年のラティーナ誌の記事のために、ずいぶん資料を読んだつもりだったが、上述のドキュメンタリーの内容は(「チャイナ・ガール」のエピソードを含めて)私が知らなかったことが多く、恐れ入った。このドキュメンタリー番組は国営放送FRANCE TELEVISIONSのウェブページで、2024年5月まで公開されているが、残念ながら放映権の関係で日本からの視聴はできない(フランスおよび欧州にいる人たちには見えます)。1972年にピンク・フロイドが『雲の影』をエルーヴィル城で録音しているのだが、当時のインタヴューで、どうしてここで録音することにしたのか、という質問にデイヴ・ギルモアが正直に「税金対策だよ」と答えている。そう、この時期に英国の大物たち(ボウイ、ストーンズ、T レックス、エルトン・ジョン...)がフランスで録音していたのは、おおかたが税金逃れのためだった。
(↓)の記事にも出てくるが、1971年6月、エルーヴィルの隣町オーヴェール・シュル・オワーズ(画家ゴッホの終生の地として有名)のロック・フェスティヴァルのためにフランスにやってきたグレートフル・デッドが、そのフェスが嵐で中止になり、避難してきたバンドにエルーヴィル城が緊急宿舎として使われ、その丁重なもてなしに感激したジェリー・ガルシアがお礼にこの城の庭園で無料コンサートを開いた。招待されたエルーヴィル村の住人や近くにいたファンたち約200人を前に徹夜の熱演。この模様はフランス国営テレビで中継されたようだ。件のドキュメンタリーで、グレートフル・デッドがLSDを持ち込んでいて、それを秘密裏に招待客に出す飲み物(シャンペン、ワイン...)に少量混入させていたということが証言されていて、(↓)記事で私が書いたことをはるかに上回る”ハイ”な光景が展開されたそうなのである。ロック・クリエイションの理想郷のような1970年代のエルーヴィル城の伝説は、その他にもさまざまある。
 その第一期黄金時代(1971〜73)のサウンド・エンジニアだったのがドミニク・ブラン=フランカール(1944 - )で、2016年ラティーナ誌8月号で私はこのフランス随一のサウンドクリエーターのことを書くつもりで書き始めたのだが、半分以上がエルーヴィル城スタジオの話になってしまった。以下に(若干修正して)全文再録します。

★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2016年8月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


サウンドエンジニア一代記
ドミニク・ブラン=フランカールとエルーヴィル城の日々

 ミニク・ブラン=フランカール(略称DBF)は1944年生れ(現在72歳)のサウンド・エンジニアである。裏方とは言え、この分野では当地の第一人者であり、フランスのレコードCDのクレジットで実に頻繁に見る名前である。この6月、そのキャリア50周年を記念して、彼が録音・編曲・制作をすべてを担当した企画盤『イッツ・ア・ティーンネイジャー・ドリーム』(フランソワーズ・アルディ、バンジャマン・ビオレー、アダモ、カルラ・ブルーニなど彼と重要な仕事をしてきたアーチストたちをヴォーカルに招いて2年がかりで作ったシクスティーズ・カヴァー集15曲)と、そのサウンド・エンジニアとしての仕事を網羅的に回想録にした300ページ強の厚い著作『イッツ・ア・ティーンネイジャー・ドリーム』を同時に発表した。また自ら音楽アーチストとして唯一発表した1972年作のプログレッシヴ・ロックアルバム『アイユール(外へ)』もLPで仏ユニバーサルから復刻され、この6月DBF氏は露出度が高くなっている。

 ブラン=フランカール家は父ジャン=マリーが国営ラジオ/テレビの技師で、兄パトリスは音楽ジャーナリスト/ラジオとテレビのディレクター、息子二人は第一線のミュージシャン(長男ユベールはエレクトロ・デュオのカシウス、次男マチューはサンクレールの芸名を持つ人気シンガー)であり、ゲンズブール+バーキン家のような芸能ダイナスティーを思わせるものを私は先入観として持っていた。特に1980年代の後半になって、フランスにTOP 50“なるチャートが出来てからレコード会社の第一存在理由が「ヒット曲を出すこと」のような風潮が顕著になり、DBF氏は演奏者・作詞作曲者・プロデューサーの陰にいながらも「ヒットを生むサウンド・エンジニア」として、メジャーヒットに大きく関係してくる。エチエンヌ・ダオ、ゲンズブール、フランソワーズ・アルディ、ジェーン・バーキン、イザベル・アジャーニ、ジャンヌ・マス。良くも悪くもヴァリエテ(テレビ向け流行歌とでも意訳できようか)ど真ん中の人、という印象。


 ところが今回初めて耳にした復刻LP『アイユール』(←写真1972年作)は、ヴァリエテっぽさなど微塵もないサイケデリック・プログレ作品で、ドラムスを除く全楽器・作詞作曲編曲ヴォーカルと録音ミックスまでDBFが一人で仕上げた音は私の印象をガラリと変えてしまった。このアルバムは当時DBFが専任エンジニアだったパリから50キロ離れたオワーズ地方の城館スタジオ、シャトー・エルーヴィルで録音されている。自伝本ではこのエルーヴィル・スタジオで過ごした71年から73年の日々が彼にとって最も重要な時期であったように記述されている。
 
 戦中生れのドミニクの世代は、第二次大戦が終ってもインドシナ戦争があり、次いでアルジェリア戦争があり、と戦争の脅威が続いていた。少年の頃、徴兵と戦地送りの恐怖は常にあり、少年たちはどうやって徴兵を避けるかということばかり考えていた。同時に彼らはティーンネイジャーでロックンロールの到来を体験した世代である。15歳でバンドを組み、18歳でバンドはプロデビューするが、リードシンガーを兵役で取られ,インストバンド(歌手のバックバンド)として1年ほど全国をツアーして解散。  

 1962
年アルジェリアが独立し、やっと戦地送りの恐怖は去り、1963年ドミニクは兵役に出かけるも精神病と偽り(精神病院に入院)3ヶ月で除隊を許可され、同じ年、パリ左岸の小さな録音スタジオETAにエンジニアとして就職する。朝8時から夜9時(往々にしてそれで終らない)まで、セッティングと録音の一切を任される過酷な修行時代。録音技術と機材が日進月歩で刷新されていた頃、ETAのような小さいスタジオはほとんどがデモ用の録音で、例えどんなに出来が良くても本録音の仕事は最新機材を備えた大きなスタジオに持っていかれる。またその頃はロックがテープ操作などのエフェクトで、奇怪な音を沢山発明していた頃で、その音はどうやって出すのかは同業者間では教え合わない。例えばレッド・ゼッペリンの「胸いっぱいの愛を」の音が右左ぐるぐる回る効果はどうやって作るのか、といったことは自分で探し出すしかないのだが、ドミニクは夢中でそれを解明し、クライアントが「ゼッペリン風に」と注文したらそれをやってしまい、その上自分が考案したエフェクトを提案することもあり、若いサウンドエンジニアは徐々に頭角を現していく。69年9月、新たに8トラック機を備えたETAスタジオで、25歳のDBFはデヴィッド・アレン&ゴングのアルバム『マジック・ブラザー』(↑写真)を録音している。そして71年、仏プログレの金字塔的作品、カタルシス『Masq』の録音を最後にETAスタジオを去リ、エルーヴィル城に移っている。


 エルーヴィル城スタジオ(
←写真、奥にミッシェル・マーニュ、手前にDBF)の創設者ミッシェル・マーニュ1930-1984)は作曲家で、実験的現代音楽でスキャンダルを巻き起こす一方、多くの大衆的映画音楽のヒットで財を築いた。この南北両翼を持つ18世紀建立の城館はマーニュが1962年に購入し、途中北翼を火事で焼失したものの、南翼の最上階を面積100平米、天井までの高さ6メートルの録音スタジオとして改装し、合わせて20の客室、厳選された酒蔵,フレンチグルメのレストラン、テラス、庭園、テニスコート、プールを備えた滞在型のレコーディング・レジデンスとして69年に開業した。人里離れた城館スタジオというコンセプトでは、ヴァージン創業者リチャード・ブランソンが英国オクスフォードシャーに開いたザ・マナー(1971年開業。マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』の録音で有名)が知られているが、やったのはマーニュが先。しかし最初の2年間は来るアーチストたちも少なく運営は難しかった。その好転を狙って補強した27歳の凄腕サウンド・エンジニアがDBFだったのだ。彼の城での最初の仕事がマグマのセカンドアルバム『摂氏1001度』だった。

 その数週間後の71年6月、城から遠くないヴァン・ゴッホ終生の地として知られるオーヴェール・シュル・オワーズで開かれる予定だった大規模なロック・フェスが豪雨のため中止になり、その目玉バンドだったグレートフル・デッドがローディーや家族たちを引き連れて城に滞在することになった。ジェリー・ガルシア(
→写真)とその一党はこの城の環境ともてなしにいたく感動して、城で働く人たちや村人たちに感謝したく、城の庭園で無料のプライヴェートコンサートを開くことになり、DBFがその音響全てを任された。約200人がこの幸福な宵を共有し、城はありったけのシャンパーニュを振る舞い、葉っぱはバンバン吸われ、コンサートは夜を徹して明け方近くまで続いた。こんな音楽今まで聞いたことがないという村人たちも乗りに乗って踊って騒いだ。村の警察は見て見ぬふりをし、村の消防隊だけがその場に出動を依頼されて、ラリっては着衣のままプールに飛び込む人たちを懸命に救出していた、という。その翌日、グレートフル・デッドとローディーたちと家族たちは総出で前夜の大狂乱で荒れ放題散らかし放題になった庭園を丁寧に掃除し、元の美しい庭園の姿に戻したのち、静かに立ち去って行った。夢のような人たちだったとDBFは回想している。


 以来デッドのメンバーたちはエルーヴィル城のことを言いふらし、それが大きなプロモーションとなって英米のトップアーチストたちが次々に城に滞在してアルバムを制作するようになる。ピンク・フロイド(『雲の影』)、T.レックス(『ザ・スライダー』)、MC。エルトン・ジョンはここで3枚のアルバムを録音しているが、その1作目の『ホンキー・シャトー』はその滞在中のエルトンのパリのショッピングをよく手伝ったというので城の秘書のカトリーヌという女性に捧げられている。かの『黄色のレンガ路』 (1973年)もこの城で録音された。

 300
ページのDBF自伝本の50ページがこのエルーヴィル城時代に割かれているが、DBFが居たのは3年にすぎない。城の赤字は続き、ミッシェル・マーニュが73年に経営権を譲ったイーヴ・シャンベルラン(パリ最高の録音スタジオ「ステュディオ・ダヴート」の創業者)はその経営を立て直すどころか、マーニュを個人破産にまで追い込み、マーニュは1984年に自殺してしまう。DBF7310月に城を去ってフリーランスとなるが、その後の城のこと(マーニュ/シャンベルランの抗争について)は自伝では触れていない。城はその後もデヴィッド・ボウイ(『ピンナップス』、『ロウ』)、フリートウッド・マック(『ミラージュ』)、ビー・ジーズ(『サタデーナイト・フィーバー』)など歴史的なアルバムを録音してきたが、遂に1985年にその門を閉ざす。

 史実として19世紀にはフレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの逢い引きの逗留先だったことから、DBFが在籍時に作った第二録音スタジオは「ショパン・スタジオ」と名付けられる。またこの自伝でも、古城にはつきものの幽霊もDBFの体験談が二つ。この城のことだけで軽々と一冊の本が書けるだろうし、この城のロック・ヒストリーにおける重要性はもっと知られてもいい。

 その後のDBF氏はフリーランスとしてフランスだけでなく英米からもお呼びがかかる売れっ子サウンドエンジニアとして活躍することになるのだが、メインストリームであり、メジャーであり、ヒットの人である。1995年にはブラン=フランカール家経営の録音スタジオ「ル・ラボマティック」を開業し、世界最新の機材を売り文句にして、息子二人を筆頭に新旧の大物アーチストたちの作品を録音して今日に至っている。この最新機材というのがまさに曲者で、サウンドエンジニアが「職人芸」であった時代からこの仕事をしているDBF氏にしてみれば、この細部の細部まで機械がやってくれる今、エンジニアの勘やセンスやエモーションの入る余地がごくごく小さくなっていると嘆く。

 71
年から73年、若きDBFは幽霊が出るような古城の中で、その場の妖力や自然環境を愛すべき影響として受け止めているアーチスト/ミュージシャン/プロデューサーたちと、勘とセンスとエモーションで一緒に音を作っていた。彼が最高の職人だった時期だろう。ロック史はこの時期のドミニク・ブラン=フランカールを決して忘れないだろう。


(ラティーナ誌2019年4月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


(
↓)グレートフル・デッド、エルーヴィル城での伝説のライヴ(1971年6月21日)フランス国営テレビAntenne 2が中継していた!