2014年8月18日月曜日

フランスに捧げるサンバ

デルフィーヌ・クーラン『フランスに捧げるサンバ』
Delphine Coulin "Samba pour la France"

 2011年発表の小説で、今では「新刊」とは呼べないかもしれません。読む動機となったのは、2014年10月公開予定の映画で、エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ監督の最新作『サンバ』(主演:オマール・スィ、シャルロット・ゲンズブール)の原作であるということでした。トレダノ&ナカッシュ監督の作品は当ブログでは2008年の『テルマン・プロッシュ』と2011年の『アントゥーシャブル』について取り上げていて、地球規模で大ヒットした後者も全面的に支持していました。こういう作品を創ってしまったからには、世の人々の次作への期待は並大抵のものではないでしょう。
 そういうコンテクストでこの小説を読み始めたわけですが、読み始めからこれは何か違うのではないかと当惑してしまいます。これをトレダノ&ナカッシュがどうやって「コメディー映画」にするのか、という戸惑いです。これまでトレダノ&ナカッシュは、(社会階層的な理由、文化的な理由、世代的な理由などで)出会えそうにない異種の人間たちの邂逅と衝突と和解というストーリーを極上のコメディーとして作り上げるということをしてきたわけです。この小説を原作としてそれが可能か、という予めの疑問が読み進めるうちにどんどん深まっていきます。この時点で言っておきます。おそらくトレダノ&ナカッシュ映画『サンバ』は笑いが少なめの作品になるはずである、と。
 小説はアフリカからフランスにやってきたアフリカ人青年サンバの物語です。マリ出身のこの男は、命がけの密航を繰り返し、数度の失敗でその地獄を見ながらも、希望を失わず地中海を渡ってヨーロッパ大陸にやってきます。 パリに住む叔父のラムーナのところに身を寄せ、老朽アパルトマンの地下一階のラムーナの住居に、できるだけ目立たぬように生きています。最初の仮滞在許可証から数えて10年の日々が経ちます。「10年連続的にフランスに居住することを証明できる外国人は10年有効の居住者カード(carte de résident)を取得することができる」 ー フランスで大統領と内務大臣が代わるたびにころころ変わる移民法にあっても、この条項は手つかずだったはず。サンバは意気揚々と10年カードの申請手続きをすませたのですが、待っても待っても役所からその返事が来ない。しびれを切らして担当警察署まで出向いていったサンバは、書類不備などないのにその申請を拒否され、即座に強制送還処分を喰らい、ヴァンセンヌの不法滞在者収容センターに収監されてしまいます。
 状況背景の説明が必要です。ニコラ・サルコジ(2005年〜2007年内務大臣、2007年〜2012年大統領)は選択的移民政策(つまり職種などを限定して必要な移民だけ選んで導入する)を打ち出し、不必要な移民(特にサン・パピエと呼ばれる「不法滞在者」)の出身国への強制送還の件数を目標数字(2005年には2万、年々増えて、サルコジ大統領在位最終年の2012年には4万)を示して遂行するということになりました。普通の企業のように、サルコジ下の警察は何が何でも目標達成という仕事を余儀なくされ(達成しなければ降格・左遷なのですから)、この不法移民強制送還の数字達成は、往々にして(もの言わぬ)移民という弱い立場を強引かつ理不尽に悪用してしか実現不可能なのでした。このサンバの例も、珍しいことではなく、理由なく国外追放される外国人がたくさんいました。
 このような不当な「移民狩り」に抗議し、移民たちの人権を守るために活動している市民団体のひとつが CIMADE(シマド Comité Inter Mouvements Auprès des Evacués避難民擁護運動連絡委員会)で、この小説の話者「私」はこのシマドのボランティアとして活動していて、そのサン・パピエ支援活動の中で「私」はヴァンセンヌ収容センターでサンバに出会っています(冒頭で述べたトレダノ+ナカッシュ映画『サンバ』では、このボランティア女性アリスの役をシャルロット・ゲンズブールが演じています)。
 枝葉末節ですが、そのイントロで彼女は交際していた男性と破局していて、それが彼が2007年大統領選挙でサルコジに投票するという言葉を聞いたから、ということになっています。2007年頃というのは、それまで信じられていた人道的な価値観というのが、サルコジという政治アニマルの天下取りで説得力を失ってしまい、「移民=社会悪」というロジックが多数派に通用するようになった時期です。当然サン・パピエ支援活動など、ごく少数派の運動と見なされるようになっていたのです。
 小説はその前史のようにサンバがマリを出発して、砂漠を北上してアルジェリアに入り、モロッコからスペインという欧州共同体(EU)の入口にたどり着くまでの、たくさんの死にゆく同行者たちを見ながらの極端に悲惨な密航のディテールが記述されていますが、フランスにたどり着いたことがすべてを解決してくれるわけではない。むしろその前史よりも不条理で不可解で過酷なことがフランスで始まってしまうのです。上に述べた「10年カード申請」が移民減らしのためのワナになっていることや、収容センターでの人権ゼロの拘置状態など、小説では多くの行数を割いてリアルに描写されています。たとえば収容センターで強制送還を拒否するトルコ人が最後の抵抗でカミソリを飲み込むシーンなど。
 人権宣言の発祥国にありながら、移民たちの人権ははげしく踏みにじられているわけですが、それを暴露・告発するだけでは文学作品になりません。デルフィーヌ・クーランはその罠にはまることなく、サンバという30代のアフリカ青年がどういう奮闘をして、希望を常に失わないでいられるか、という試練・苦行・求道のようなストーリーを持ってきます。
 なんとか収容センターから釈放されたサンバですが、それからは文字通りのサン・パピエ(滞在許可証を持たぬ者)となって隠れて生きなければなりません。隠れるとは警察による身分証明コントロールを逃れるということに他なりませんが、叔父ラムーナは身なりや生活素行によって社会に溶け込みカムフラージュするテクニックを伝授します。いかに目立たなく生きるか、ということです。町の風景の一部として透明になっていく。しかもアクティヴであり続けながら。なぜならサンバは金を稼いて叔父ラムーナとシェアする家賃を払わなければならないし、自分の生活費を出しマリの家族への仕送りもしなければならない。ここでサンバはモグリ労働(フランス語では travail au noir = 闇労働)をするわけではありません。他人の身分証明書(滞在・労働許可書)を持っていき、その人間になりすまして「正規労働」をするわけです。建築工事、選別ゴミ処理場の選別係、高層ビルのガラス拭き、低賃金で危険で人が嫌がる仕事はいくらでもあり、サンバはそこに自分の身分を偽って職を得て、ボロボロになって働いてわずかな賃金を得ます。
 叔父が教えてくれた目立たずに生きるという処世術の延長のように、サンバは他人の身分を働くことで、自分のアイデンティティーをどんどん希薄にしていきます。叔父ラムーナの身分証明書を使い、次いで建築現場の監督(黒人)の身分証明書を盗み出して使い、最後には酔った末の口論の挙げ句冬の運河に落ちて死んだ親友ジョナスの身分証明書を身につけて生き続けるのです。そんなふうにサンバはサンバでなくなっても、生きていかなくてはいけないのか。
 登場する人物たちはどれも複雑ですが、人間的な濃さがあります。叔父のラムーナは貧乏でこそあれダンディーであり、食通であり、哲学が薫ります。高層ビルのガラス拭きでペアを組むようになって親友となった南米(コロンビア)人ウィルソンは、ここがダメなら別のところへ、というノマド的楽天主義があります。アフリカからの密航の時にサンバと生死を共にしたジョナスは、理想が高いのかここでの生活に不満が絶えず、我慢強く穏健なサンバとやがて対立するようになります。その対立の大きな原因でもあるジョナスの(元)恋人グラシューズは、バルベス(パリ18区)で美容院を営みながら、サン・パピエのために無償の食事をふるまう力強い天使型の女性。サンバは親友の恋人と知りながら、この女性に恋い焦がれてしまいます。そして最も魅力的な人物はジョルジェットと名乗るフランス人老女で、彼女はスーパーマーケットのゴミ箱から賞味期限切れの食品を集めてきて、ベルヴィル(パリ20区)の路上市で市価の半値で売っていますが、特に生活に困っているわけではなく、少ない受給年金の足しに、と趣味でやっているのです。この小銭稼ぎの方法をサンバはこの老女から教わり、下町気質で乱暴な言葉使いのジョルジェットと奇妙な友情を培っていきます。読む者はこの女性に(今ななき)古いフランスの人情とレジスタンス魂のようなものを感じるはずです。
 このパリ下町に隠れて生きるサン・パピエ群像を作者はすばらしい筆致で描き出します。そしてデルフィーヌ・クーランは、空飛ぶ渡り鳥の視点からこの現象を表現する文をインターリュードとして挿入します。空を渡る鳥、海を渡る蝶、食べ物を求めて季節に追われて大移動する動物たち、これらを自然は止めることができないのです。人間たちはその自然の一部なのです。大きな自然の流れに従って、私たちも動いているのです。
 
 不満だらけの男ジョナス、グラシューズとカップルであるジョナス、サンバの友情に翳りが出始めているジョナス、この男にある日(ほとんどあきらめかけていた頃に)滞在許可が出ます。仲間たちが集まって、ジョナスの祝いの席が設けられます。依然サン・パピエのままであるサンバは嫉妬の情を隠して、一緒にこの祝いの酒を飲みます。杯を重ねる毎にサンバとジョナスの間のテンションが高まっていきます。二人は夜の街をさまよい、あと一軒、もうあと一軒とアルコール度を極限まで増やしていきます。人に言えぬ過去のこと、グラシューズとのこと、ジョナスは溜まりに溜ったことを一挙にサンバにぶちまけます。冬の運河ベリ、二人の激しく興奮した口論は、警察のサイレンを呼び、ジョナスは氷点近い水温の運河に転落し...。

 ディテールはもう書きませんが、サンバはこうして生き残っていくのです。ジョナス・ビロンボという名前になって。フランスの移民政策が巻き起こした悲劇、などという次元の読み方は全くできなくなります。この結末でもアイデンティティーは完全に消滅してしまわないのです。「サンバ!」と叫べば、それは自分のことであっても、周りの人たちは「こいつはブラジルのダンスを踊りたいんだな」という程度のことしか思わないのだから。強烈な最終ページでした。

カストール爺の採点:★★★☆☆

DELPHINE COULIN "SAMBA POUR LA FRANCE"
スイユ刊 2011年 306ページ 19ユーロ 
 
(↓)デルフィーヌ・クーラン、TV5(2011年2月)で自著『フランスに捧げるサンバ』を語る。
 

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