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2022年7月19日火曜日

無罪!無罪!

”Zaï zaï zaï zaï"
『ザイザイザイザイ』


2020年フランス映画
監督:フランソワ・ドザニャ
原作:ファブカロ
主演:ジャン=ポール・ルーヴ、ジュリー・ドパルデュー、ラムジー・ベディア、ジュリー・ガイエ、ヨランド・モロー
フランス劇場公開:2022年2月23日
フランスDVD発売 : 2022年6月29日


場公開がコロナ禍で延び延びになり、他の多くの公開待ち(大作)映画と共に2022年2月に封切られたものの、話題も客も取れず...。
 原作は本ブログでも紹介した2015年発表のファブカロ作のカルト的人気BD『ザイザイザイザイ』。スーパーマーケットでレジ会計の時、ポイントカード(フランス語のCarte de fidélitéなのだが、日本語で何と言う?)を忘れてきたという”大罪”を咎められ、ネギを武器にして抵抗し、警備マンを振り払って逃走、警察によって全国に指名手配され、フランス最深部(電話電波もテレビもラジオも通らない)"ロゼール”という地までヒッチハイクと徒歩で逃げていく、作者ファブカロがいみじくも「ロードムーヴィー」と副題した原作BD。「ロードムーヴィー」の映画化はおのずとロードムーヴィーになるか、というと、それほど単純ではない。映画化が"原作に忠実”なのを期待する人は映画なんか観なくて原作で満足したらいい。フツーはね、映画化がどれほど原作にないファクターを取り込めるか、それが原作の持ち味をどれほど増幅できるか、みたいな興味で映画化作品を観るのですよ。
 まず苦言。主役のジャン=ポール・ルーヴ。この頃映画に出過ぎ。とりわけブロックバスター連作コメディー映画『テュッシュ家の人々(Les Tuche)』(オリヴィエ・バルー監督)(2011年から2021年まで4作、いずれも集客ン百万人超え)の中心人物ジェフ・テュッシュ(フランス最深部の失業者がロト宝くじで10億ユーロをあて、モナコに移住、ついでアメリカへ、さらにフランス共和国大統領就任...)役のイメージは、この男をダメにしたと思いますよ。これしかできない俳優になってしまった感おおいにあり。2005年トレダノ&ナカッシュ映画『Nos jours heureux (われらが幸福の日々)』は当時11歳だった娘のカルトDVDになって私も何度も一緒に観たが、問題ある子供たちと問題あるアニマトゥール(引率員)たちで繰り広げられるヴァカンス・コロニー(林間キャンプ)の(問題ある)責任者役で主演した若き日のジャン=ポール・ルーヴにすっかり魅了された私としてはですね、昨今の厚みのない”道化化(どうけか)"は残念でしかないのですよ。というわけで、この映画『ザイザイザイザイ』を2022年的現在で観た人々は、"ジェフ・テュッシュ”ジャン=ポール・ルーヴ像と同質の過度な(単純)ドタバタを求めていたのかもしれない。原作『ザイザイザイザイ』はドタバタではなく不条理ユーモアなので、その点でもジャン=ポール・ルーヴはミスキャストの可能性。
 ストーリー的には(前半は)原作にかなり沿ってはいるが、まず主人公ファブリス(演
ジャン=ポール・ルーヴ)が原作ではBD作家なのにこの映画ではコミック俳優という設定。主に喜劇映画に出演する男優。ジャン=ポール・ルーヴの素性に近づけた脚色。これが原作ではファブリスの孤軍奮闘逃亡劇だったところを、この映画では後半に喜劇映画関係者(俳優その他)や音楽アーチストやアンテルミッタン・デュ・スペクタクル(非常勤芸能従事労働者)らが、ファブリス救済のために立ち上がるという、非常に素敵なエピソードを盛り込む土台となっている。”凶悪犯”ファブリスの逃走中、その主演映画の上映館前で市民団体が映画ボイコットのデモをしたり(もちろん原作にはない)。
 もうひとつ原作にない重要な登場人物がファブリスの妻のファビエンヌ(演ジュリー・ドパルデュー)。不条理ストーリーにつじつまの合うエピソードを加えたかったのだろうか。コミック俳優の妻ながら、フツーそうな在宅主婦(小学男児つき)で、今や最悪の凶悪犯として逃走中のファブリスを心で支えながらも、芸能界の早技でこの事件を映画化しようという企画で主人公ファブリス役を演じることになったコミック俳優バンジャマン(演ラムジー・ベディア、exエリック&ラムジー)と恋に落ち、芸能ゴシップ誌の表紙を飾り(このニュースは逃亡中のファブリスにも伝わる)一躍時の人となったり...。最後にはファブリスと元の鞘に収まるハッピーエンドなのだが、このジュリー・ドパルデューとラムジー・ベディア絡みの挿話のシナリオは非常に弱い。ファブカロの世界とあまりシンクロしてないようだし、要らないんじゃないですかぁ?
 それから私も大好きな大女優ヨランド・モローが、退役後も非常勤でときどき現職を続けている(アルコール中毒の)老警視として特捜本部のトップに駆り出される、という役。これも原作にはない。まあ、ヨランド・モローだから許しますけど、挙動が戯画化されたジェラール・ドパルデューのようで笑える。 
 逃亡をめぐる原作BDの挿話の数々はほぼ忠実に再現されているし、原作どおり"最果ての地”ロゼールにたどり着き、リセ時代の同級生ソフィー・ガリベールとまさかの再会を果たし(この部分爺ブログ記事『野ばらのひと』にある部分訳参照してください。この長広舌、全部映画で再現されてます)、警官隊に包囲されたソフィー・ガリベール宅から逃走する途中、つまづいて転び、身柄を拘束される。原作はこの直後、簡単で不条理な裁判があり、カラオケで「野ばらのひと(ザイザイザイザイ)」を歌わされるという刑でエンディングとなる。ところがこの映画はその結末を踏襲しない。映画が俄然面白くなるのはここから後で、公判裁判抗争のやりとりはこの映画の白眉である。捜査官立会による犯行再現シーンもすばらしい(警備ガードマンの再現演技がまったく真実味がない、と苛立つ女性捜査官が、ファブリスに「あんた役者だろう?なんとかしろ」と命じ、ファブリスがガードマンにセリフ発音などの演技指導をするところ、本当にすばらしい)。
 たぶんこの映画が原作BDの意表をついた突飛な演出で最も笑えるのは、ファブリスの同僚たる映画人、俳優、音楽家、アンテルミッタンたちが、獄中のファブリス支援のために"We Are The World”型のチャリティーソングを録音、というシーンである。歌のタイトルは"De Meilleurs Lendemains(よりよき明日)"、作詞作曲はバンジャマン・ビオレー(!!)、歌い出しっぺはピアノ弾きながらのバンジャマン・ビオレーその人。続くソロおよび合唱はファブリス支援委員会:アリー・エルマレー、エレナ・ヌーゲラ、フランソワ=グザヴィエ・デメゾン、ニコル・フェローニ、MCソラールポーリーヌ・エチエンヌ、カド・メラード、リオネル・アベランスキー....。この歌、YouTubeにアップされていないのが、本当に残念。
 こういった映画終盤でどんどんよくなる映画の大団円は、裁判長による判決文読み上げが、誰にも理解できない.... と。裁きは終わって司法的決着はつき、裁判関係者も報道陣もみな仕事は終わり、不可解は不可解のままで、被告警護官たちはこの被告を牢獄に戻すのか釈放するのかもわからない。来るはずもない責任者の指示を待ちながら幾時間、被告警護官はお腹が空いてくる...。背に腹は替えられず、勝手に無罪無罪無罪無罪...というエンディング。

 BD『ザイザイザイザイ』は基本的に絵よりも言葉がものを言う作品である。絵がまさる映画というフォーマットでこれがどうなるか。このBDの幾多のエピソードがこの映画になって成功したものも冴えないものも。半々くらいでしょうか。ただ映画終盤の(映画独自)展開は、その冴えない部分をずいぶん挽回していると思いますよ。
 ちなみに原作者ファブカロ(ファブリス・カロ)自身もちょい役で出演していて、事件現場にいた当事者(警備ガードマン、レジ女性)たちの証言をもとに、犯人のモンタージュ似顔絵を描く司法似顔絵師の役(原作BDにはないエピソード)。左利きの絵師だったのですね。証人たちの眉毛がどうの、頬のこけがどうの、という言葉にしたがって描いていくと、ジョージ・クルーニーになってしまうというギャグ。笑えます。

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)映画『ザイザイザイザイ』予告編

2019年4月27日土曜日

首尾は上々シュビュテックス

テレビ連ドラ『ヴェルノン・シュビュテックス(シーズン1)』
Série TV "Vernon Subutex - Saison 1"

制作:カナル・プリュス
監督 : カティー・ヴェルネー
主演: ロマン・デュリス、セリーヌ・サレット、フローラ・フィッシュバック
原作:ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス 1 & 2』
テレビ放映:2019年4月9日から35分 x 9回
DVD発売:2019年4月24日 

 ヴィルジニー・デパント作の大河小説『ヴェルノン・シュビュテックス』(2015 - 2017、3巻、総ページ数1200)の第1巻と第2巻を原作としたテレビ連続ドラマで、2019年4月にカナル・プリュスで放映された35分 x 9エピソード = 315分(5時間15分)を2本のDVDにまとめたもの。ワクワクものなので一気に見れます。
 デパントの小説に関しては爺ブログではなく、ラティーナ2015年10月号(1巻と2巻)と同2017年7月号(3巻)に熱い賞賛の紹介記事を書いてますが、一向に日本語版出版の動きはないようで残念なことです。90年代パリのレピュブリック広場近くにあったレコードショップ「リヴォルヴァー」の店主ヴェルノン・シュビュテックス(演ロマン・デュリス)は、21世紀に入ってレコード/CDが売れなくなり店が倒産し、自分のアパルトマンの家賃も払えなくなって、立ち退きを余儀なくされ、路頭に迷うようになる。その追い出された夜に、「リヴォルヴァー」時代の常連で、ヴェルノンから買ったレコードで音楽に開眼してロックアーチストとして成功し、兄弟のような親友関係になっているアレックス・ブリーチ(演アタヤ・モコンジ)のバタクランでのコンサートがあり、VIPインビテとして招待されたヴェルノンは、コンサート後ひとりブリーチ宅に招かれ、二人は旧交を深めながら多量のアルコールとドラッグを摂取する。翌朝ヴェルノンが気づくとブリーチはオーヴァードーズで息絶えている。おぼろげな記憶の中でその夜ブリーチが遺言と称して、携帯ヴィデオカメラとヴェルノンに向かって長々と何かを言っていたのを覚えているが、途中で眠ってしまっている。死亡現場からヴェルノンはブリーチが録画したミニヴィデオカセット3本を持ち出す。
 小説だとここから、この遺言ヴィデオをめぐって大人数による追跡と逃走の大狂騒サスペンスとなっていくわけですが、この(編集して)5時間の完成ドラマで、どこまでそのディテールが込められているかが興味深いところです。小説評で高く評価された「バルザック人間喜劇」的な、ひと時代を共有する多種多様な人間群像(ブルジョワ、貧乏人、ヘテロ、ホモ、トランス、凡人、芸術家、映画人、大学教授、ポルノ俳優、極左、極右、成金トレーダー、ホームレス、 ロックライター、刺青師、硬派イスラム教徒...)は、このテレビ映画ではだいぶ半径が狭まれた感じがします。
複雑な人間模様を単純化して、このテレビ化作品でははっきりした「悪人」はたったひとりです。それはローラン・ドパレ(演ローラン・リュカ)という映画制作会社社長であり、芸能界の大物プロデューサーとして自らの帝国を築き、逆らう者やライヴァルを「消せる」権力がある卑劣漢です。これがブリーチの遺言の中に自分に絶対的に不利な証言が含まれているという確信があり、何が何でもそのヴィデオカセットを奪って消滅させよ、と手を尽くします。その最尖兵として雇われたのが女産業スパイのコードネーム"イエーヌ"(↑写真。ハイエナの意。演セリーヌ・サレット。こっちの方が主役じゃないかと思えるほど重要な役どころ、かつこの事件の全容を知りうる唯ひとりの人物)で、ドパレに高報酬で雇われておきながら、いつでもドパレを裏切ることができそうな不透明さ。
 時は2010年代、シュビュテックスは47歳。「リヴォルヴァー」がロックレコードファンたちの溜まり場として毎夜大盛況だった頃から15〜20年が経過しています。無宿となったヴェルノンがその夜の居候先を探す時、この時代なのでSNS(フェイスブック)が大変重宝になります。ヴェルノンの書き込みに呼応してくれるかつての「リヴォルヴァー」常連がひとり、またひとりと現れてきますが、かつて若かったこの旧友たちも今現在はそれぞれの問題を抱えていて関係の再構築は簡単ではありません。こうしてSNSを頼りに一夜の宿を探していきますが、長続きすることなくヴェルノンは21世紀的パリでホームレスに転落していきます。そこでも新しい人間関係はできていくのですが。
 小説と違って映像ではこのSNSの介在というのが画面としてリアルである分、とても邪魔くさいですね。SNSさえあれば即席に過去関係が再生されるというロジックはないと思いますよ。後半部では逃走するシュビュテックスを追う多くの人物たちが、SNSでその「捜索網」を共有してコネクト数が飛躍的に増加し、シュビュテックス追跡が共有ゲームのような態になってしまいます。
 かの遺言ヴィデオカセットの件は真剣に追っている人の数はごく少ない(ドパレとイエーヌほか)はずなのに、いつの間にか多くの人々がヴェルノンを追いかけるようになるのはどうしてなのか。ヴェルノンはなぜ追われるのか。ここがもっと魔術的なものがあるはずなんですよ。小説ではもっとはっきりしていると思う。それは、みんなヴェルノンという人物に魅せられて、惹かれてしまう、ということなのですよ。この男には何かがあるという何かなのですよ。そこがこのロマン・デュリスという俳優に出せるのか、この作品のカギはここですよね。
 そして小説では見事に文章で表現されていた音楽の力。ヴェルノンが「リヴォルヴァー」の時代に人々を惹き寄せられたのは、彼が毎夜人に聞かせる「おすすめレコード」の魅力のおかげなんです。この店に来れば絶対に素敵な音楽と出会えると思わせるセレクト/選曲/発掘力があったということなんです。ここですよ、デパントが小説で強調していたのは。レコード屋は人に素敵な音楽を与えられるから、自分にだけ「こんな音楽があるんだぜ」と一枚出してくれるから、その音楽で人生が変わることもあるから。そういうレコード屋のマジカル・パワー、ここんところが、このテレビ映画ではすっぱり抜けちゃってるんですね。小説ではこのマジカル・パワーがホームレスとなったヴェルノンに再び宿ってきて、そのミックスする音楽で人々を「ドラッグなしで」究極のトランス状態まで導いていく、それがいわば宗教的な体験として語り継がれ、いつしかヴェルノンはグールーとして崇められていく、という展開になるのです(小説では第2巻終わりから第3巻はじめ。だからこのテレビ映画ではまだその段階ではありません)。
ですから、小説を読んだ人ならば、もっともっと音楽がものを言う映像作品であることを期待したと思うのです。で、入念にセレクトされたと言われる(ヴィルジニー・デパントにもチャックしてもらったと言われる)サントラ盤があります。ジョナサン・リッチマン、ソニック・ユース、ニュー・オーダー、ジーザス&メアリー・チェイン、ドッグス、ダニエル・ダルク、ジャニス・ジョプリン...。実際に映像の中に挿入されるのは、すべて断片ですし、音楽で泣くという映像作品ではありません。ただ「フンイキ」にしちゃってるのがちょっと残念ですし、小説の「音楽の力」は望むべくもないのです。
 アレックス・ブリーチの遺言ヴィデオで聞かれる無機的な発信音のリピートで構成された断片があります。これを死ぬ前にブリーチは最良/極上の繰り返し音であると断言するのですが、即座にヴェルノンはわかりません。ところがこの音を音楽に融合させると、聞く者は奇跡的な快感を感得できるのです。このマジックをヴェルノンは偶然手に入れるのです。これは小説では文章で描写できるでしょうが、実際の音楽(つまりこの映像作品のサントラ)で再現するのは... 不可能ですわね。このテレビ映画にここまでのマジックを要求するのは酷です。しかし、音楽の力はもっともっと丁寧に扱って欲しかったな、と思っています。
 ロマン・デュリス? 掛け値なしに素晴らしい演技です。
  "SAISON 2"(ヴェルノンが聖人となっていきます)おおいに期待しましょう。

SERIE TV "VERNON SUBUTEX  SAISON 1"
2DVD (35min x 9 Episodes)
STUDIOCANAL EDV1392/831848-5   19 EUROS

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)カナル・プリュス『ヴェルノン・シュビュテックス』ティーザー
彼には女も妻も家族もスマホもスタートアップ企業も貯蓄も家屋も別荘もスイス銀行口座も出会い系サイトも電動サイクルもない。だが彼にはこの髪と皮ジャンとロックがある。誰もが彼のとりこになる。世界は変わったが彼は変わらない。 - 俺が死んだら人類は滅亡だ。- 

2016年1月17日日曜日

デルペッシュ・モード

『レール・ド・リヤン』
"L'air de rien"
2011年制作フランス映画
監督:グレゴリー・マーニュ&ステファヌ・ヴィアール

主演:グレゴリー・モンテル(執行吏グレゴリー・モレル)、ミッシェル・デルペッシュ(himself)、クリストフ・ミオセック(himself)
フランス劇場封切:2012年11月7日
フランスDVD発売:2013年3月27日

   2016年1月2日に69歳でこの世を去ったミッシェル・デルペッシュが、「落ちぶれた元人気歌手ミッシェル・デルペッシュ」という役で主演していた喜劇映画です。グレゴリー・マーニュ&ステファヌ・ヴィアール監督の初長編映画で、劇場公開時はあまり目立っていなかったと思います。今、デルペッシュが亡くなってから、こういう映画があったんだ、と再発見している人たちの方が多いのではないでしょうか。
 本人の名前で本人を演じているとは言え、クロノロジー的には実際のデルペッシュ経歴とは大いに異なるフィクションです。現実には90年代末頃から若い世代のアーチストたちに支持されてカムバックは事実化していたし、2004年のアルバム "Comme vous"の時のツアーは夏の大きなフェスティヴァル(フランコフォリー、ヴィエイユ・シャリュー)の看板にもなってましたし、2006年のデュエット・アルバム"Michel Delpech &"はアルバムチャートの1位に輝いた、といった具合。それに対して、この映画の中のデルペッシュは「かつてのスター歌手」であり、30年間人前に出ずに、人知れず田舎の一軒家で一人暮らしをしている、いわば隠遁者です。ところが金回りが良かった頃とあまり生活消費のリズムを変えていないため、税金・罰金の滞納、未支払いの請求書は溜まっていくばかり。
 映画の主人公は、グレゴリーという名の30代の男で、職業は法廷執行吏(ユイシエ・ド・ジュスティス)です。これは、裁判所の決定に従って罰金・税金・不支払い金などの徴収を強制的に執行する役人のことで、その取り立てに居留守を使ったりトンズラ不在にしている家のドアを壊して、家具や家屋を差し押さえたりするので、市民にはとても怖い役人です。まあ、並の神経の人にはできない職業です。執行日にはたとえ相手が病気入院中でも取り立てに行きます(そういうシーン出てきます)。情状酌量なし。弱者・貧者の事情など聞く耳を持たない。とにかく取り立てを執行する、という役人です。このグレゴリーはフランスの地方部で長年の友人で執行吏のマックスをパートナーにして、二人でユイシエ事務所を運営しています。マックスの方が先輩格で、シニカルで冷徹で陰険で、仕事現場では高圧的でサディスト的ですらある絵に描いたようなユイシエ。ところが、駆け出しのグレゴリーの方は明らかにこの仕事に向いていない温情派で、いろいろと仕事上のストレスを溜めています。
 こういう好きでもない仕事で生きている冴えない男が、ある日を境に、活き活きとした男に変身してしまう。タイトルの "L'air de rien"は、「気がつかないようななんでもない風情の」もの/人のことで、それが逆のことになる(逆のことをする)というつながりがある時に使われ、「見かけによらず」「何気ないふりをして」といった意味になります。冴えない男は、極端に冴えない男になって莫大な負債を抱えている元スター歌手に出会って、一大奮起してあの手この手でミッシェル・デルペッシュ復活を実現させてしまう、というストーリーです。
 そのあの手この手というのがクセモノで、彼のユイシエ事務所に裁判所から取り立て執行依頼が来ているファイルの中から、騒音法や風営法やその他で「客」となっているディスコやバーやコンサートホールなどを抜き出して、その追求の手をゆるめるからという柔和策、あるいはその逆でその追求を倍にすることだってできるんだぞというオドシという強攻策を使って、無理矢理それらのハコを使って、その地方一円でミッシェル・デルペッシュ・コンサートツアーをオーガナイズしてしまうのです。ここから映画はフランス最深部を行くロードムーヴィーとなります。まさにデルペッシュ往年のヒット曲「ロワール・エ・シェール県」の絵です。田園の真ん中のディスコ、地方巡業モーターサーキットの余興スタンド、倉庫街の端っこのロフトライヴ小屋...。 デルペッシュは最初半信半疑なのですが、それでも(たとえカラオケでも)マイクを持たせたら花形歌手、人は徐々に集まってくるのです。特に年配のご婦人方ではありますが...。
 ユイシエの事務所に週半分も出勤せずに、隠れてデルペッシュ・ツアーのマネージメントをしているグレゴリーの実態をマックスは見破ってしまいます。 そしてユイシエという裁判所直属の公務執行人という職業的デオントロジー(あ、難しいこと言いますが、要するに役人の杓子定規ということです)から、グレゴリーを告発して、この職業から追放してしまうというエンディングです。しかしグレゴリーには後悔はないのです、当たり前ですけど。

 デルペッシュのいいシーンたくさんあります。ある町のコンサートの終わりに、サイン会をしていたら、遠い過去にこの町に巡業にやってきたデルペッシュと一夜を共にしたらしい女性が現れます。「近くに来ることがあったら、必ず連絡するって言ってくれたのに。私ずっと待っていたのよ」と真顔で話す美しいクーガー女性。デルペッシュはもちろん憶えているはずもなく、相槌も呆然としていて、遠い遠い目になってしまいます(すごくいい顔)。
 またツアーが調子に乗り始めたら、グレゴリーと逗留した地方ホテルの美しい女性従業員に目をつけ、グレゴリーに「こういうのはツアーにつきものなんだら、誰もなんとも思わないよ。この町にもう二度と来ることだってないだろうし。なあ、あの娘チャーミングだから口説いて来いよ」なんていうセリフを言うのですよ。芸能界が少しずつデルペッシュに戻っていくのです。
 そしてこの映画の白眉です。某町で、同じ日にミオセックのコンサートとバッティングしてしまうのです。90年代ヌーヴェル・シャンソン・フランセーズの騎手のひとりで、全国に熱心なファンを持つ現役の野生派(酔漢)アーチストです。グレゴリーとデルペッシュはそのミオセックのコンサートを告げるポスターを見るや「こりゃあ、今夜は客ひとりも来ないなぁ...」と不戦敗を予想していました。ところがその夜、デルペッシュのコンサートのポスターを見たミオセックが、「俺、昔からファンでさぁ...」という顔でお忍びでやってくる。そして飛び入りでデルペッシュのステージで「ル・シャスール(猟師)」をデュエットで歌ってしまうのです。その夜 "アフター"で、デルペッシュとミオセックは意気投合の至福の酒で、シャンパーニュの瓶がボンボン開き、コンサート売上を全部飲み干してしまい...。

 世間知らずの元花形歌手という惚け役で始まり(アマチュア無線が趣味という渋い設定も)、だんだん大物感が戻ってくる不思議なキャラクター。自己パロディーとは言え、その懐の深さでグレゴリーも引っ張られていく、現役田舎人デルペッシュの怪演。撮影は2011年ということなので、まだ発病していなかった頃でしょう。何気ない演技に(l'air de rien)、デルペッシュからにじみ出る深い慈愛のようなものを見ない人はいないでしょう。

カストール爺の採点:★★★★☆ 


(↓ 映画『レール・ド・リヤン』予告編)



追記(2016年1月18日)

これがデルペッシュの事実上の「白鳥の歌」。
2014年4月発表の子供向け(キリスト教聖書)音楽劇『ドリー・ビブル(Dolly Bibble)』(ナターシャ・サン・ピエール、アモリー・ヴァシリー、ユーグ・オーフレイ、フィリップ・ラヴィル、デイヴ...)の中の一曲 "LA FIN DU CHEMIN(道の果て)"。これは旧約聖書の主なエピソードを子供にわかりやすい音楽劇にしたもので、デルペッシュはその中でアブラハム(最初の預言 者)の役で出ていて、この歌はアブラハムの死を歌ったものだが、この1月2日以降は、デルペッシュが自らの死を歌った最後の歌のように聞かれるようになっ たものです。録音は2013年秋。

さあこれが私の地球上での
道の終わり
私はあなたのもの
私を迎えたまえ
我が父よ
さあこれが私の魂
兄弟たちよ
涙を乾かしなさい
私は光り輝くところへと
去って行く

親愛なる皇帝よ
両腕を開いて迎えておくれ
私はもうすぐ到着する
私のことを思い
私を待っていておくれ
私はもうすぐ到着する

さあこれが私の地球上での
道の終わり
私はあなたのもの
私を迎えたまえ
我が父よ

さらば人生よ
私は私の幸運を
祝福する
真実と
永遠が始まる

始まる
始まる

真実と
永遠が始まる
(さようなら、良い旅路を)

(↓) "La fin du chemin 道の果て” 

2013年11月24日日曜日

ゲンズブール映画と思ってもらったら困る

『パリは実在しない』
1969年フランス映画
"Paris n'existe pas"
 監督:ロベール・ベナユーン
主演:リシャール・ルデュック、ダニエル・ゴーベール、セルジュ・ゲンズブール


 寺山修司の1974年の映画『田園に死す』 で、バーで飲みながら木村功が菅貫太郎にこんなことを言います:
ボルヘスは言ってるじゃないか。5日前に無くした銀貨と、今日見つけたその銀貨とは、同じじゃないって。ましてやその銀貨が、一昨日も昨日も存在し続けたと考えることなんて、どうしてできるんだい?

  おいおいおい、このボルヘスって誰なんですか? 映画は逆に「おまえはボルヘスも知らないのかい?」と観る者を試すようなところもあります。寺山のこの映画でこのシーンがどれほどの重みを持っているのかは別として、こういう引用や衒学的なレトリックは私はとても苦手です。画面が見れずに下に流れる字幕だけについていかなければならないような映画に似ています。おまけに私は字幕を読むのが遅く、読み終わる前に字幕が消えてしまうのです。ちょっと話がそれました。ロベール・ベナユーンの『パリは実在しない』 は、映画の最後に、ジェネリック(クレジット・タイトルのスクロール)の前に、文字でこういう4行が映し出されます。

時間は私を構成する要素である。
時間は私を連れ去っていく流れであるが、私は時間である。
それは私を咬み千切る虎であるが、私は虎である。
それは私を焼き尽す火であるが、私は火である。
      ー ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 わお、またボルヘスですか? これは私たちフランスにいる人間たちには、バカロレア(大学入学資格試験)の哲学の試験問題のようだ、と頭が痛くなるような引用文に見えます。しかし、よく読むとそれほど難しいことを言っているわけではない。人間は時間と共に生きることを余儀なくされているわけですが、時間によって翻弄されようが、時間によってひどい目にあおうが、時間は自分の外にある見えざる力なのではなく、自分に内在するものなのだ、ということでしょう。他人と同じ時間を共有していると錯覚してはいけない。時間は自分だけのものなのです。自分が死んで無くなった時に、時間もまた無くなってしまうのです。 
 この時間は自分だけのもの、と思ってしまったら、ひょっとしてこれは自分の五体と同じように自分でコントロールできるのではないか、なんてことを考えるようになります。つまり時間を一定の速度の一方向への流れであることをやめさせて、過去・現在・未来を自由に統御できないものだろうか、という願望ですね。このテーマは古くから多くのSF小説やSF映画を生み出してきました。『ふしぎな少年』(手塚治虫 1961年)、『時をかける少女』(筒井康隆 1967年)など挙げたらきりがありません。
 映画『パリは実在しない』 は、インスピレーション枯渇期にある若い画家シモン(リシャール・ルデュック)が、ある夜のパーティーで知らずに喫った幻覚剤がもとで、過去と未来を視覚化する能力を得てしまう、という話です。制作年が68年です。このような設定の映画では、私たちはSF映画などで後年、特撮やCGなどを駆使した「見えないものが見える」ファンタスティックな映画表現をたくさん見ることになるわけですが、68年の低予算独立映画の表現では、え?っと驚くようなシンプルな描かれ方(例えば、柱時計の針がぐるぐる逆にまわる)です。それはともかく、シモンは現在にありながら、人には見えない過去と未来が見えてしまうようになります。最初は当惑していたシモンも、次第にこの能力をコントロールできるようになり、混乱状態で現れていた過去と未来の「幻視」を、自由に見たい時点の過去と未来を視覚化するまでに至ります。ところが、現実の「現在」の世界にいる恋人アンジェラ(ダニエル・ゴーベール)と親友のローラン(セルジュ・ゲンズブール)は、このシモンの状態を「幻覚」「幻視」またはスランプ時期のノイローゼのように見なし、早く現実の世界に復帰せよと諭そうとします。現実の世界と人々との溝は深まっていきます。
 さてここでこの映画におけるセルジュ・ゲンズブールのポジションです。一言で言うならばディレッタント・ダンディーです。ブリティッシュなテイラード・スーツ、手には(あるいは口には)いつもシガレット・パイプ、隣りには美女、上からの目線で芸術論をよどみなく語る趣味人、そんな感じです。フリルつきのシャツで出て来るシーンもあります。観念的で衒学的で引用の多い語り口です。だから、ローランとシモンのダイアローグに私はほとんどついていけないのです。「なんだボルヘスも知らないのか」と言われているような気分になります。
 ロベール・ベナユーン(1926-1996)は40年代からシュールレアリスム運動の渦中にいた人で、作家・脚本家・文芸評論家・映画評論家・映画俳優でもあり、映画監督としてはこの『パリは実在しない』(1969年)と"Sérieux comme le plaisir"(1975年。あえて訳すと『快楽のように真剣』。ジェーン・バーキン、リシャール・ルデュック主演。音楽がミッシェル・ベルジェ)の2作しか発表していません。バイオグラフィーを読む限りでは、シュールレアリスム的審美観の論客として評論活動がこの人の本領であるようなので、わかりやすい映画など作るわけがない、というのは了解できます。この映画ではそのダンディー的な部分を俳優セルジュ・ゲンズブールが体現していたと言えるのでしょうが、私には言っていることがよくわからん、というイライラがあります。
 さて映画はシモンが視覚的な「過去へのトリップ」を自由に操れるようになり、シモンが住んでいるアパルトマンの1940年代にタイムリープし、そこに住んでいた麗しい婦人フェリシエンヌ(モニック・ルジューヌ)にほのかな恋心を抱く、というところまで行ってしまいます。恋人アンジェラは遠くまで行き過ぎたシモンをなんとか引き戻そうとするのですが...。
 では『パリは実在しない』 というタイトルはこの映画では何なのでしょうか?映画の1時間13分めにシモンがアンジェラにこう言います:
すばらしいことさ。
(何がすばらしいの?)
パリは実在しないんだ。
(どういうこと?)
きみと僕は継続的に存在する。だけどパリはその背景でしかなく、いつも姿を変えている。だけど僕らは永遠なんだ。僕らの周りで世界はバラバラになろうが、僕らは動かない。僕らは僕らの道を断念しない。
おわかりかな? 常に姿を変えてばかりいるもの、それは実在しないのです。われわれは動かない。だから実在するのです。だんだん禅問答っぽくなってきました。そして1時間28分めにローラン(=ゲンズブール)が、「ある有名なイギリスの詩人がこう言ったんだ」と前置きしてこう言います。
時は過ぎ行く、というのは間違いだ。
時は留まり、われわれが過ぎ行くのだ。
こんなこと言われましても、ねえ...。

 68-69年という動乱の時期でもあり、私はこの映画を観る前になにかその時代の空気をこの映画に期待していたと思います。旧時代の秩序や道徳と異なるもの、反抗的なもの、サイケデリックなもの、例えばバルベ・シュローダーの『モア』(1969年)みたいな。ところが、『パリは実在しない』はシュールレアリスティックでスタイリッシュで観念論的な映画でありました。サイケデリックという点では、セルジュ・ゲンズブール(作曲)+ジャン=クロード・ヴァニエ(編曲)というコンビによる音楽はその期待に十分応えてくれます。このコンビの初の共同作業だそうですが、この3年後、このコンビは大傑作『メロディー・ネルソンの物語』を制作することになるのですよ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

Paris n'existe pas (un film de Robert Benayoun 1969)
DVD 93分 (+ ボーナス 30分)

言語:フランス語
DVD XIII Bis Music EDV2567
フランスでのDVD発売:2013年11月


(↓『パリは実在しない』予告編)


2013年8月14日水曜日

風の中の4人 (Quatre garçons dans le vent)

"Les Fils du Vent"
『風の息子たち』


2012年フランス映画(ドキュメンタリー)
監督:ブルーノ・ル・ジャン
出演:ニニン・ガルシア、チャヴォロ・シュミット、アンジェロ・ドバール、モレノ

フランス公開:2012年10月
DVD発売:2013年8月26日

 月8月、フランスの高速道路上では、多くのキャンピングカーが移動して行くさまを見ることができるのですが、この人たちは「ヴァカンシエ(vacanciers)」と呼ばれる一般市民のヴァカンス旅行者たちです。彼らは「キャンピング(camping)」と呼ばれる水・電気・衛生施設・遊戯施設などの設備の整った有料のキャンプ場に停まり、快適なヴァカンスを過ごします。ところが、その同じ時期の7月と8月、私たちはテレビの報道番組で「ロマの不法キャンプの強制立ち退き」や「不法滞在ロマの集団検挙」のようなニュースを見ることになります。一方の市民たちには許される「旅」が、これらの人々には許されない。
 第二次大戦時にナチスによってユダヤ人と同性愛者と同じように強制収容〜ガス室送りの対象とされていたロマの人々を、戦後になって保護するためのさまざまな法律が作られ、フランスでも人口3万人以上の地方公共団体に水道と電気の設備のある野営キャンプ地の確保が義務づけられています。しかしその法律があっても、市町村はなかなかそのキャンプ地の設置や確保に積極的ではなく、市民団体がその設置に反対行動を起こすところもあります。定住住民たちとのトラブルは、(何十年たっても何百年たっても同じ偏見で)「治安上」と「衛生上」の問題に集中します。
 2013年7月、西フランス、メーヌ・エ・ロワール県ショレ市の市長にして国会議員のジル・ブールドゥーレックスなる男が、「ヒトラーは十分な数のロマを殺さなかった」と発言、たいへんなスキャンダルとなり、同議員は「人道に対する犯罪への賛美」の廉で訴追され、所属党(中道派UDI)を除名されました。 日本の人たちにはなかなか理解してもらえないので、強調して言いますが、これは「言論の自由」の範疇ではないのです。フランスでは人種差別や人種憎悪を表現したり唆したりすることは法律で禁止されていて、立件すれば罰金刑・禁固刑に処されるのです。こういう法律は必要なのです。なぜ日本にこれに相当する法律がないのか不思議でなりません。
 イントロがちょっと固くなりました。このドキュメンタリー映画は、それぞれ特色のあるマヌーシュ・ギターのマエストロ4人、ニニン・ガルシア、チャヴォロ・シュミット、アンジェロ・ドバール、(リュシアン・)モレノのそれぞれの道程をブルーノ・ル・ジャン監督が8年間に渡って追い続けて撮影されたものです。2012年に劇場公開され(私は見逃しました)、このDVDジャケに貼られたスティッカーによるといろいろなドキュメンタリー映画祭で賞を取ったようです。で、1年後にめでたくもフレモオ&アソシエ社からDVD化です。フレモオ社のありがたいところは同社のDVDはすべてNTSC方式なので、日本でそのまま(パソコンじゃなくてもDVDプレイヤーで)見ることができるのです。
 マヌーシュ・ギターの開祖は言うまでもなくジャンゴ・レナール(1910-1953。日本ではどうしてもジャンゴ・ラインハルトというカタカナ表記になりますね)です。 その死後60年になる今日、ジャンゴの後継者たちは継承だけではなく、さまざまな新傾向を融合させて、マヌーシュ・ギターをますますメジャーなアートに成長させて、世界にファン層を拡大させています。毎年6月にはジャンゴ終生の地サモワ・シュル・セーヌで世界屈指のギター祭り「ジャンゴ・フェスティヴァル」が開かれますが、この映画にもそのシーンが登場します。この4人は今日のジャズ・マヌーシュを代表するギタリストであることに違いないのですが、米国の一流ジャズミュージシャンのような「大ホール」「派手な世界ツアー」「メジャーレーベルでの豪華録音」などとはあまり縁がありません。長年のキャラバン生活から足を洗ってパリのアパルトマンに定住してしまったリュシアン・モレノを例外として、3人はずっと家族とキャラバン移動の生活様式を続けています。アンジェロ・ドバールがその野営地に着くまでの運転中に「こんな自然の中で暮らす以上の幸せがあるものか」と語ります。この映画でだんだんわかってくるのは、彼らはさまざまな(社会的な)やっかい事があっても、移動生活を愛してやまないし、音楽は空気のように必要なものだし、彼らは「職業」として音楽を奏でるのではなく、彼らにとっては旅と音楽がそのまま「生きること」であるということです。うらやましいです。こういう人たちは21世紀の西欧社会で生きていけないのではないか、という愚かな疑問をこの映画ははっきり否定してくれます。
 思えば「演出された劇映画」としてはトニー・ガトリフ監督の諸作品がありますし、その『ラッチョ・ドローム』 (1993年)にもドラード・シュミットやチャヴォロ・シュミットが出ていましたし、『スウィング』(2002年)ではチャヴォロ・シュミットが主演俳優としても大活躍していました。ところが、マヌーシュ・ギターを題材にしたドキュメンタリー作品というのはあまり例がない。ブルーノ・ル・ジャンはその理由を「この内側は撮りづらいのだ」と説明します。アンジェロ・ドバールは自分をキャラバンで撮影するのは自由だが、その他のキャンプ野営民を撮影するのは絶対許さない、という条件をつけたそうです。しかしそれよりも何よりも、彼らの行動は予測ができず、待っているところにいてくれるわけではない。彼らは自由に動き回る。そういう人間たち4人を、ル・ジャン監督は8年間も辛抱強く追い続けたのです。
 また、この映画にはジャンゴの非常に珍しい映像が挿入されています。あれほどの数のレコード録音があるジャンゴでも映像は稀で、しかも映像と音声が同期したものは、全部で3分間しか記録保存されていないのだそうで、その一部が紹介されています。
 彼ら4人はそれぞれ違うところから出ています。ニニンは先祖が南方から来たらしいから「ジタン」と呼び、モレノは東方のようだから「ツィガーヌ」と呼びます。北方から来れば「マヌーシュ」。 そういった違いは言葉の訛りや生活様式や音楽にもはっきりとこの映画で出てきます。
 パリの北郊外サン・トゥーアン、クリニャンクールののみの市の真ん中にあるビストロ「ラ・ショップ・デ・ピュス」は今やマヌーシュ・ギターの殿堂となっていますが、そこを開いたのがモンディーヌ・ガルシア(この映画は「モンディーヌに捧ぐ」という文字でエンディングします)で、ニニンの父親。ニニンはそこで30年間に渡って(のみの市のある)土曜&日曜のステージをつとめてきましたが、今はその息子ロッキー・ガルシアが跡を継いでいます。
 モーゼル地方生れのモレノは、南仏ジタンの聖地サント・マリー・ド・ラ・メールとアルザス地方との往復の旅の中で育ち、チャヴォロ・シュミット、マニタス・デ・プラタなどの影響で腕を上げてきた人。クリミア(ウクライナ)出身のツィガーヌ女性歌手マリナ(この映画でも歌っています)と結婚。音楽的にも東欧ツィガーヌの要素を大きく取り入れます。上に述べたように、キャラバン移動生活をやめ、パリのアパルトマンで定住生活を始めますが、そのいきさつも映画の中で説明しています(警察に夜中に叩き起こされることがトラウマとなってしまったのです)。
 この映画で私(おそらく多くのマヌーシュ・ギターのファンたちも)の興味は、チャヴォロ・シュミットとアンジェロ・ドバールに集中します。チャヴォロはその激しいプレイとは裏腹に、温厚で言葉少なく、しかし詩人のように語ります。ブルターニュの海を相手に、その波の音にコード(和声)を探して、一緒に歌うシーンなど、本当に感動的です。
 それとは対照的にアンジェロは天才肌で、言葉は鋭く、はっきりした哲学を感じ取ることができます。またロマの現状に対する政治的な意見も明白に語っています。キャラバンのために発電機を回したり(当たり前ですが、めちゃくちゃ図にはまっている)、野営地に水道がないので道ばたの消防水道栓から水を失敬して、水がなければ人は生きられないのに水を取るなと決める西欧社会に皮肉を一言、なんていうシーンは「硬派な男」をよく感じさせてくれます。この4人の中で、旅と自然と音楽を最もピュアーに体現している人間に見えます。
 あとはマヌーシュ音楽を十分に楽しんでください。こんな人たちだからできる音楽、ということは(フランス語分からずとも、英語字幕読まずとも)何の説明もいらないでしょう。

カストール爺の採点:★★★★★

Les Fils du Vent (Un film de Bruno Le Jean)
DVD 96分(+ボーナス)
言語:フランス語(英語字幕)
DVD Frémeaux & Associés  FA4024
フランスでのDVD発売:2013年8月26日

(↓)"LES FILS DU VENT" 劇場上映時の予告編

2013年1月30日水曜日

アイ・アム・セイリグ、アイ・アム・セイリグ....

"INDIA SONG"
『インディア・ソング』

監督マルグリット・デュラス
1974年制作フランス映画
主演:デルフィーヌ・セイリグ、ミカエル・ロンスダル、マチュー・カリエール、クロード・マン
音楽:カルロス・ダレッシオ

 ずかしながら、初めて観ました。これで若い頃デュラスの読者でなかったことがバレてしまいますが、若い時に映画館で体験すべきだったと後悔しています。体力も注意力も緊張感も要りますよ。作品には失礼ですけど、一気にノンストップで最後までというのができませんでした。ホームシネマは観る者を甘やかせます。5、6回は"pause"しました。眠くもなりました。2時間映画ですが、3時間余りかけて観通しました。
 まず、ここで言う「インド 」なんですが、フランス語では複数形なんです。"Les Indes"、なぜ複数かと言うと「インド諸国」という意味なのです。インドが1国だけでなく何国もあったという意味ではありません。これは植民地時代の呼称で、南アジアと東南アジアを指して言ったものです。パキスタン、インド連邦、ネパール、ブータンなどのインド亜大陸の地域から、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムのインドシナ半島、フィリピン、ブルネイ、シンガポール、インドネシアなどまでに至る非常に広い地域のことです。この作品の時代は1930年代で、この広い地域はほとんど欧州列国の植民地だったのです。そしてこの映画に出てくる人物たちは、すべて広大な植民地で倦怠の時を過ごしている外交官たちなのです。
 マルグリット・デュラス(1914-1996)はその複数形の「インド」で生れ育ち(生まれたのは仏領インドシナのサイゴン)、後年の小説のインスピレーションの多くをアジアでの若き日々に因っています。最も有名なのが1984年のゴンクール賞作品『愛人(L'Amant)』ですが、その20年前、デュラスは『ラホールの副領事』(1965年)というインドのカルカッタを舞台にした小説を発表していて、その小説のヴァリエーションのような形で、戯曲、映画脚本、朗読テクストのいずれにも当てはまるような当てはまらないような作品『インディア・ソング』(1973年)を発表していて、それをデュラス自身が監督して映画化したのがこの長編劇映画『インディア・ソング』(1975年)です。
 映画はたしかにこの『ラホールの副領事』 やその前年発表の小説『ロル・V・シュタインの歓び』(1964年)を読んでいたら、了解できる部分がたくさんあるんでしょうが、知らなくたって平気。デュラスがこの作品の解説の冒頭に"C'est l'histoire d'un amour"(これはある恋の物語である)と書いてあるのですが、映画を観てこれが「恋の物語」であることに気づかない人だっているでしょう。あるいは観終わって数日、数ヶ月、数年たってから、そうか「恋の物語」だったのか、と気づく人だっているでしょう。それくらい、観る者は何にも説明されていない状態で2時間この映画につきあうわけですから。
 まず、映画は複数の語り手(それが誰なのかはよくわからない場合が多い)によって、物語や状況が説明されていくように思うのですが、その語りと映像はほとんど一致していません。また稀に登場人物のダイアローグがあるのですが、音声はあっても登場人物の口は一切動きません。シンクロしていないだけでなく、今そこで語られているのか、過去に語られたことなのか、また語られずに思考だけが対話せずに音声化されてあるのか、よくわからないのです。登場人物も情景もほとんど動きません。固定カメラがじっとその動きを待ってるわけです。その動きのなさを語りが代行していると思うのですが、語りは意地悪くも全く解説になっていないのです。少なくとも、ここに物語があるとすれば、それは映像の上ではほとんど展開されず、語りを注意深く聞いていないと、何が何やらさっぱりわからなくなります。
 映画の冒頭で語られる話は、ラオスに生まれ、17歳で父知らずの子を妊娠して生んだという理由で家を追われ、放浪のあげく、インドのカルカッタまで流れ着いた乞食女のことです。この女は気が狂っていて、いつも同じ歌を歌って物乞いをするのですが、この映画の舞台である在印フランス大使館の城館の敷地内にまで入ってきて、その歌を歌うのです。映像はその乞食女を映しません。その歌だけが窓から聞こえてくるのです。
 その大使館の城館には大使夫人アンヌ=マリー・ストレテール(演デルフィーヌ・セイリグ)がいて(語りでは既に自殺してカルカッタのイギリス人墓地に埋葬されたことになっています )、欧州から外交官などのハイソサエティーに属するボーイ・フレンドたちと情欲の日々を送っていることになっていますが、映像ではそんなシーンなど現れません。ただ(この映画で最も有名なショットでしょうが)、ボーイフレンド二人と川の寺になって着衣のまま床に仰向けに寝そべっている大使夫人のドレスから乳房が露出しているという静止映像が映し出されるということで、ああ、そうか、と思うことになるんですね。
 大使館主催の夜会(カルカッタのハイソサエティーが一同に会する大パーティーのはずですが、それは音声でのみ描写され、映像は閑散としていて、わずかに大使夫人とダンスするタキシード姿の男たちが入れ替わるのみ)で、招待されたのかされないのかわからない男が城館の庭園にいます。それがラホールにあるフランス領事館の元副領事(演ミカエル・ロンスダル)で、彼は在職中に発砲事件を起こして職を解任され、カルカッタのフランス大使(すなわちアンヌ=マリーの夫)から違う任地での職に任命されるのを待っているのです。
 ダンスの宴になって、私たちはカルロス・ダレッシオの美しいダンス音楽(ワルツ、ルンバ...)を聞くことになりますが、映像の寒々しさにも関わらず、この音楽だけで私たちは宴の陶酔を感じることができます。それほどこの音楽は重要なのです。アンヌ=マリーはそのダンスのパートナーを、ひとり、またひとりと代えていきます。彼女とパートナーの間で語られるのは「インド」のハイソサエティーの退屈と倦怠であり、この閉ざされた世界の外にはレプラの蔓延にひしがれる極端に貧しいインドがあります。彼らはそこから出ることはない。その中で、ひとりだけその外に出た男がラホールの副領事なのです。
 元副領事はずっとアンヌ=マリーのダンスするさまを凝視しています。その凝視しているさまは映像には映りません。「凝視している」と語り手によって描写されるだけです。するとダンスするアンヌ=マリーの映像を見ている私たちが、副領事の視線になってしまうのですね。私たちは副領事のようにデルフィーヌ・セイリグの美しさに抗しがたくなり、そのダンスへの誘いは私たちに向けられているように思ってしまい、ダレッシオの音楽はそれをどんどん煽っていきます。思惑通り、凝視されていることを知っているアンヌ・マリーの前に、遂に副領事が姿を現します。鏡のトリックで向き合っているのか、すれ違っているのか、背を向け合っているのか、と観る者を惑わしたあげく、二人は出会い、向かい合い、見つめ合い、口を動かすことなくVoix Off(ヴォイス・オーヴァー)で語り始めます。
 「私はインディア・ソングに惹かれてインドまでやってきた」と副領事の声は言います。「その歌は私に"envie d'aimer" (愛することへの欲望)をもたらす」とも。映画中で「インディア・ソング」という言葉が発語されるのは、この副領事の声だけです。ここがまあ、核心のような部分に見えますよ。それは映画を観たあと数日後に私も思ってしまったことですけど、この「インディア・ソング」とは何か、ということですね。音楽と言えるものがこの映画にあるとすれば、カルロス・ダレッシオの美しい旋律がまず支配的なわけですが、実はその他に映画全般を通して繰り返される乞食女=狂女の歌とも囃子詞ともつかないプリミティヴな旋律があります。ふたつのインディア・ソング。城館内のアンヌ=マリーらの属する世界のインディア・ソングと、城館外の副領事と乞食女の属する世界のインディア・ソングというわけです。
 副領事はアンヌ=マリーに"envie d'aimer"(愛することへの欲望)を抱いてしまったことも、アンヌ=マリーがこの哀れな副領事に急激に惹かれてしまったことも明白なのですが、その先はないのです。副領事はアンヌ=マリーにこう告げます「あなたと私がこれ以上先に進むことはまったく意味がない。恋物語はあなたは他の男たちとすればよい。私たちにはそんなものは必要ないのだ」。
 副領事の姿は画面から消え、しばらくして、この映画の最大の「アクション」(しかし映像画面の外の音声としてのみ介入する)シーンがやってきます。それは副領事が狂ったように叫びわめきたてるのです。夜会はこのスキャンダルで騒然となり、使用人たちが副領事を取り押さえて城館外に追い出そうとします。叫びは止みません。外に追い出されてもその叫びは延々と続くのです。乞食女の歌のように、その音を遮断することなどできず城館内に入ってくるのです。その叫び声をアンヌ=マリーは何喰わぬ顔をする努力をしながら耐え忍ばなければならない。
 「城館に残してくれ」「私はここに留まりたい」「お願いだ」、その叫びはそんなことを訴えているのですが、その中に「アンナ・マリア・グアルディ!」という名前が差し挟まれます。それは大使夫人アンヌ=マリー・ストレテール の旧名で、彼女が結婚前にヴェネツィアに住んでいた時の名前なのです。なぜそんなことを副領事が知っているのか。映画はそんなこと知ったことではありません。マルグリット・デュラスですから、という説明で済んでしまいそうなディテールです。
 延々と続く副領事/ミカエル・ロンスダルの叫び、その間に映し出されるアンヌ=マリー/デルフィーヌ・セイリグの悲しみと苦悶と諦めの入り交じった顔。これが愛のストーリーですか? このDVDを観終わった時には、やっぱりこれは一体何なのですか、と思いましたとも。 しかし、その数日後、私はデルフィーヌ・セイリグの顔を思い、これは(そのシーンは映画の中になくても)死に至る愛のストーリーであることに気づいたのです。

 城館の中には倦怠があり、老いたヨーロッパがあり、無為な愛があります。城館の外にはレプラの蔓延する貧しいインドがあり、乞食女がいて、狂った副領事の叫びがあります。この両世界での愛は狂わずには越境できないのでしょう。

 なおこの映画はカルカッタを舞台にしていますが、実際の撮影は、わが町ブーローニュ・ビヤンクールにあるエドモン・ド・ロッチルド宮殿をロケ場所にして行われています。マロニエの大木に覆われた宮殿というのが、カルカッタの在印フランス大使館になっていて奇妙な雰囲気は免れません。2013年の現在、わが家の近くにあるこの宮殿はブーローニュ市の公園の一角をなしていますが、保存の状態が悪く、廃墟のような佇まいです。ここから叫び声やインド狂女の歌が聞こえてきても不思議のないような悲しい廃れ方です。

(↓)マルグリット・デュラス映画『インディア・ソング』予告編


(↓)マルグリット・デュラス映画『インディア・ソング』 断片


(↓)カルロス・ダレッシオ『インディア・ソング』(オーケストラ版) 


(↓)カルロス・ダレッシオ『インディア・ソング』(ピアノ版)

2011年7月23日土曜日

クラヴィックとレ・プリムデュフの25年



LES PRIMITIFS DU FUTUR "CONCERT AU NEW MORNING DIMANCHE 8 NOVEMBRE 2009"
レ・プリミティフ・デュ・フュチュール『2009年11月8日(日)ニュー・モーニングでのコンサート』


 ステファヌ・サンセヴリノがドキュメンタリーの中で「レ・プリミティフ・デュ・フュチュールの略称は les Primdufs レ・プリムデュフ」と言ってますけど,この略称は今の今まで聞いたことがありませんでした。版元のUniversal Music Franceから来たこのDVDの業者向け資料にも《レ・プリムデュフ》とカッコ入りで記載されてあり,そうか,通は「プリムデュフ」と呼ぶのだな,と納得した次第。
 レ・プリムデュフの初DVDです。2009年11月8日ニュー・モーニングでのコンサートは私も行ってまして、その模様は少しだけこのブログで紹介しています。これは2008年発表のレ・プリムデュフの4枚目のアルバム『トリバル・ミュゼット』のほとんど全レパートリーをライヴで披露するというコンサートで、そのスタジオアルバムについても拙ブログのここで紹介してますし、ラティーナ誌2008年6月号ではドミニク・クラヴィックのインタヴューを含む、レ・プリムデュフ総合案内の記事を書きました。
 アルバム『トリバル・ミュゼット』はレ・プリムデュフの7人に加えて、ゲストアーチストの数が52人という大所帯セッションだったのですが、それを2009年11月8日にほぼ再現してしまおう、という一夜限りの大企画でした。ニュー・モーニングはこの入れ替わり立ち替わりの大人数のステージ登場のために,ホールの半分が舞台になってしまったようでした。出番のない人たちも楽屋に入らず,ステージ脇にいてコーラスやかけ声手拍子や踊りで応援。なにかオーディエンスよりも自分たちが一番このスペクタクルを楽しんでいるようでもありました。
 こんな凄い仲間たちと25年も続けられるなんて,俺はなんと果報者なのか,というのがクラヴィックの正直な述懐です。逆にここにいるのはクラヴィックと一緒にやれるということにこの上ない喜びを感じている人たちばかり。ゲストたちも,クラヴィックに誘われたら二つ返事で飛んで来る人ばかり。ピエール・バルー,アラン・ルプレスト,ジャン=ジャック・ミルトー,ラウール・バルボーサ,フランシス・ヴァリス,ミエコ・ミヤザキ....。一般的な知名度こそないが,ミュージシャンでクラヴィックを知らない者はまずないでしょう。そういう典型的なミュージシャンズ・ミュージシャンであるクラヴィックがなぜアーチストたちを引きつけるのか,という秘密は,DVDのボーナスであるドキュメンタリー(52分)でうかがい知ることができます。
 レ・プリムデュフはそこで語られているように,クラヴィックの二つの出会いから始まっています。ひとつはギタリスト(シャンソン,ミュゼット,ブルース...)のディディエ・ルーサンとの出会い,もうひとつは米国アンダーグラウンド・コミック作家ロバート・クラムとの出会い。距離的には近いけれどもその背景や音楽歴などがまるで違っていたから引かれ合ったルーサンとクラヴィック,距離的には遠いけれどブルースとミュゼットの嗜好(ブルース好きなフランス人とミュゼット好きのアメリカ人)で引かれ合ったクラムとクラヴィック,こういうふうに空間的な距離も音楽的な距離も問題にしない密度の濃い出会いの連続が,クラヴィックをいつの間にか多岐な関係の中心人物にしてしまったのですね。
 そして重要なのは冗談好きであること。この関係を円滑にしているのが面白半分の精神で,気がつくと周りはほとんど冗談ぽい人たちになっている(それでいて凄腕のミュージシャンばかりなのに)。クラヴィックはステージでは昔から笑いのないニヒルな二枚目を演じようとしていますが,話し始めたら面白い話ばかり。しかもシャンソン,ミュゼット,ジャズ,ブルース,ブラジル音楽に関しては博士的な知識を持つ文化人。クラヴィックがベースにしている1930年代のパリというのは,「クラヴィックの想像上の」と但し書きをつけてもいいものでしょうが,その想像を現実の音楽にしてくれるのはこの冗談好きな仲間たちで,クラヴィックはその仮の総監督をしているわけですね。「フュージョン(融合)は好まない,なぜなら虹の七色のペンキを混ぜてかきまわしたら,灰色になってしまうんだ。混ぜずに色のまま保持しないといけないんだ」とこのドキュメンタリーでも言っています。人が出す色彩や味わいをそのまま活かす,これがクラヴィック式編曲の極意なんですね。
(ドキュメンタリーの部分は日本語字幕つき)

DOMINIQUE CRAVIC & LES PRIMITIFS DU FUTUR "CONCERT AU NEW MORNING" (+ DOCUMENTAIRE "LES PRIMITIFS DU FUTUR"
DVD UNIVERSAL JAZZ (UNIVERSAL MUSIC FRANCE) 2779844
フランスでのリリース:2011年9月5日


(↓故ディディエ・ルーサンの捧げられた『最後のジャヴァ』)

Les primitifs du futur "Java Viennoise"

2009年8月19日水曜日

やせっぽちのことを日本語で「えんぴつ」という



Amélie-Les-Crayons "A l'Ouest, je te plumerai la tête"
アメリー・レ・クレヨン『ライヴ2009』


 2001年ジャン=ピエール・ジュネ映画『アメリー・プーランの華麗な運命』(邦題は題も名前も短縮して『アメリ』)以来,アメリーという名の人物は周囲の人々に惜しみなく幸福をばらまく太陽のような少女,というイメージがついてしまいました。われらがアメリー・レ・クレヨンがこの芸名でリヨンで活動を開始したのは2002年のことで、アメリー人気のご利益狙いと思われたのはしかたありません。しかし、こちらのアメリーもその演劇的で物語的なスペクタクルが噂を呼び、観る者に必ず幸せな気持ちで家路につけるマジックな少女として、フランス全土で年間90日間ステージをつとめる努力が認められて、テレビやFMと縁のない「オン・ザ・ロード」の実力派女性歌手として評価を固めていきました。この辺の事情はジュリエット・ヌーレディンヌと良く似ています。
 アメリー・レ・クレヨンの「クレヨン」は日本語のクレヨンではなく,「えんぴつ」という意味です。たくさんのえんぴつを持った少女アメリーというわけです。
 自主制作の6曲入りアルバム『ひなげしの歌 Le chant des coquelicots』(2002年)に続いて,初フルアルバム『なぜにエンピツ? Et pourquoi les crayons?』(2004年)とCDは発表していますが,このアーチストはたぶんCDを売るということにあまりこだわっていないように思えます。彼女の歌とピアノと腕達者な3人の男性ミュージシャンで構成される,4人の旅芸人一座によるスペクタクルがCDよりも重要であるようなのです。彼女の歌を聞くのはいろいろな町でそのスペクタルを見に来る人たちであって,部屋でCDプレイヤーで聞く人たちは少なくてもいい。なぜならそのスペクタクルはCDよりもずっといいからなのです。
 400人のホールで始まった『ひなげしの歌』のスペクタクルを立ち上げてから,それはやがてフランス全土に広がり,1時間半の演し物は2時間になり,ツアー中に新しい曲が追加され,観客との丁々発止のインプロヴィゼーションで毎晩その様相は変わっていき,日々成長と変容を続けて行って,3年後には毎夜ソールドアウトで公演数200回を越してしまうのです。
 その記録は既に2005年にDVD化されていて,『ひなげしの歌』の総決算的な2時間のスペクタルを収録した "LE TOUR DE LA QUESTION 2005"は,それに先立つCD『なぜにエンピツ?』では見えづらかったこの女性とその一座のサーカス的で視覚的で劇的な展開がやっと見えた感じがしました。これを目の当たりに見たなら,誰もが納得するでしょう。
 そしてそのサイクルに一旦終止符を打ち,2007年に新しいアルバム『ラ・ポルト・プリュム(羽根の扉)』を発表し,さまざまなキャラクターの登場する絵本(32ページ)の体裁をした15曲アルバムから,また新しいスペクタクルが創作されます。2007年4月から始まったスペクタクル『ラ・ポルト・プリュム』のツアーの総集編的DVDがこれです。言わなくてもいいようなことを言いますが,今回もCDよりもずっといいのです。
 本編のコンサートライヴ90分の他に,ツアードキュメンタリー風の短編映画(ロード・ムーヴィーと副題されています)"A L'OUEST JE TE PLUMERAI"(童謡「アルエット=ひばり」のもじりで,西に着いたらおまえの羽根をむしってしまうぞ,といった意味でしょうか)が収録されていて,アメリーと3人の男たちの旅路が描かれます。この短編で,彼らの旅することの意味,スペクタクルと人生の関係などが,本人たちの口から語られます。言葉少ないながらも繊細さを感じさせるアメリーは,「アメリー・レ・クレヨン」は自分のことではなく,プロジェクトの名前であり,それを共同でつくりあげている人々の集合体であることをほのめかします。ミュージシャンたちは途中で招集されたわけではなく,最初の図面引きのときから参画しています。この一座の苦労と喜びがたった30分の短編で本当によく見えてきます。リヨンから始まったツアーが,西へ西へと向かい,フランスの大西洋岸の町サーブル・ドロンヌに着いた時,彼らは波打ち際でスペクタクル最初の曲「ラ・メグルレット(やせっぽち女)」を(もちろんアンプラグドで)歌います。この時アメリーが感極まって,頬に涙がつたっていくのをカメラは捉えます。--- この人たちはこういう旅をしているのだ。だから止められないのだ。旅を肥やしにしてスペクタクルを育てている人たちなのだ。---そんなことを考えました。

Amélie-les-crayons DVD "A L'OUEST, JE TE PLUMERAI LA TETE"
★ LA PORTE PLUME (90分コンサートライヴ映像)
1. Intro
2. La Maigrelette
3. Calées sur la lune
4. Depuis
5. La derniere des filles du monde
6. Chamelet
7. Le Train Trois
8. Les Pissotieres
9. De nous non
10. Mon docteur
11. Le citronnier
12. L'Errant
13. Le linge de nos meres
14. Les manteaux
15. La garde robe d'Elisabeth
16. Marchons
17. La fève
18. Le gros costaud
19. Ta p'tite flamme
★ Road Movie "A L'OUEST" (30分ドキュメンタリー)
★ Les Maigrelettes (10分の"La Maigrelette"のアンプラグド映像集)

DVD L'autre distribution AD1546V
フランスでのリリース:2009年8月17日


Amelie-les-crayons : DVD A L'Ouest (bande annonce)

2009年6月10日水曜日

びゅ〜んと飛んでく哲人



Michel Onfray "Philosophe, ici et mantenant"
ミッシェル・オンフレイ『ここと現在の哲学者』
(エリザベート・カプニスト監督映像ドキュメンタリーDVD)


 ミッシェル・オンフレイは1959年元旦にノルマンディーの田舎町アルジャンタンに生まれ、現在も同じ町に住んでいます。このDVDでは「私はヌーヴォー・フラン(通貨)とキューバ・カストロ政権と共に生まれた」と自分の生年を紹介しています。このドキュメンタリーはドイツ車オープンカーで田園風景の中をびゅんびゅん飛ばすオンフレイの姿から始まりますが、これはちょっと目には「スター哲学者」のスター性と成金趣味のひけらかしのように見えます。が、DVDはその後でオンフレイの生い立ちが紹介され、貧しい環境と孤児院での体験が語られ、1週間に1度しかシャワーを浴びることが許されなかった垢まみれで臭い少年期こそが彼の思想的出発点であることが明かされます。逃げ場所は読書しかなかった。最初に衝撃を受けた本はヘミングウェイの『老人と海』だったそうです。孤児院寄宿舎のむせるように体臭がただよう部屋の中で、この本を開けたら「海の匂いがした」と言います。片っ端から本を読み、アルジャンタンの本屋が彼のワンダーランドになります。
 その本屋もこのドキュメンタリーに登場して、本屋のおかみさんが、13歳頃のオンフレイをよく覚えていて「店に入ったら必ず入口横の暖房ラジエターの上に学生カバンを置く子だった。それは自分が万引きするために来たのではないというのを示すためだった」という話をします。高校を終えて、町の国鉄駅に雇ってもらおうとしましたが断られ、しかたなく大学へ行き、哲学を勉強します。博士号を取得して、地元ノルマンディーの職業リセで教鞭を取っておりましたが、2002年にある事件が起こり、彼は教職公務員であることをやめてしまいます。
 それは大統領選挙の第一次選挙で社会党ジョスパンが落選し、第二次選挙で保守シラクと極右ル・ペンの対決となった時、左翼系を含む中央の知識人たちがこぞってシラクに投票することを訴える、という事態に深い絶望を感じたからです。この権力におもねる中央知識人たちに反対するたったひとりのレジスタンスをオンフレイは始めるのです。その小さなレジスタンスとは、Université Populaire(民衆大学、"UP"、"U-pop"とも略されたりします)であり、バス・ノルマンディー県の主邑カーンで、彼は完全無料の「民衆大学哲学講座」を開設します。哲学史を彼は市民と共に解釈し直し、太古より権力におもねる哲学者たちとそうでない哲学者たちの歴史があること、神のある哲学の影に神のない哲学の歴史もあることなどを説き、「正史」と対抗する「反史」= CONTRE-HISTOIRE DE LA PHILOSOPHIE(哲学反史)を展開します。この民衆大学哲学講座は、前半が講義、後半が討論会という構成で、若き哲人は文字通り民衆によくわかる名人芸的な話術/説法で、多くの市民の心を掴んでいきます。この講座は文字化もされ、国営ラジオ・フランスの電波にも乗り、フレモオ社からボックスセットのレクチャーCD(毎巻12-15枚組でパリの敷石のような態。現在11巻まで)でも刊行されています。中央に出ることなく、地方から中央を撃つ態度も、多くの地方市民たちの好感を抱かせました。それまでは、フランスの知の中心はサン・ジェルマン・デ・プレだったのですから。
 このDVDではオンフレイの哲学カード遊びが紹介されていて、カードめくりで偶然に出た4つの主題(「愛」「死」「自由」...その他たくさん)と、哲学者や歴史上の人物のカード(プラトン、ニーチェ、ド・ゴール、モンテーニュなど)1枚で、落語の三題噺ならぬ五題噺で、その5枚に関連した即興学説をつくってしまいます。その中で、彼は"Immanence"(イマナンス=内在性)と"Transcendance"(トランサンダンス=超越性)の説明をしますが、そこで彼は雷の例を出します。雷が鳴りました。イマナンスの側は、気圧や湿度などの天候状態で空中のプラスの電極とマイナスの電極が云々、ということで、実際にそこにあるものから説明します。トランサンダンスの側の説明というのは、そこにないものからそれについて言うことで、例えば人々のあまりの愚行に神様がお怒りになって、みたいなものです。なんて分かりやすい!こう説明されたら、誰もが納得するじゃないですか。
 DVDでは断片的にしか出てきませんが、スピノザ、ニーチェ、古代ギリシャ(ソクラテス以前)の電子論者デモクリトス(「笑う人」と称されたデモクリトスに関するコンフェランス全編65分がボーナス映像で見れます)が、オンフレイの口から説明されると、分かりやすいわれわれの同時代人のように活き活きした姿で描かれます。
 私を含めて人々は往々にして専門外だからという理由で、こういう「インテリ」ものをハナから敬遠しますが、なんだ、こういうことだったのか、という食わず嫌いの突破口を開いてくれるには、こういう人が必要なんですね。現代哲学の「スター」のように言われてますが、このスター性は、アテネの広場で人々に話してその関心を集められるスター性なのだ、と私は納得しています。これまで一冊もオンフレイを読んだことがないので、夏に読んでみますよ。

MICHEL ONFRAY "PHILOSOPHE, ICI ET MAINTENANT"
(DVD directed by ELISABETH KAPNIST)
1. "Michel Onfray, Philosophe, ici et maintenant" (52 min)
2. Compléments, le jeu de cartes (24 min)
3. "Le Rire de Démocrite" conférence intégrale (65 min)
DVD Frémeaux & Associés FA4018
フランスでのリリース:2009年6月


(↓このヴィデオはDVDとは関係ありませんが、国営テレビFRANCE 3で放映されたオンフレイの「民衆大学哲学講座」を紹介した番組のものです)

2009年3月31日火曜日

しらんぷり


『グランプリ』1966年アメリカ映画
監督:ジョン・フランケンハイマー

主演:ジェームス・ガーナー,イヴ・モンタン,エヴァ・メリーセイント,ブライアン・ベッドフォード,三船敏郎,ジェシカ・ウォルター,フランソワーズ・アルディ 音楽:モーリス・ジャール


 フランソワーズ・アルディ漬けの日々で,DVDを3本見ました。1本はニック・ドレイクのドキュメンタリーで,これはフランスでは英語のみ(仏語字幕なし)でとても辛い思いをした結果,フランソワーズ・アルディに関するところはほとんど収穫なしでした。2本目はジャン=リュク・ゴダール『男性・女性』(1966年)で,フランソワーズ・アルディ登場の部分は「映画館内に爆笑を起こす」という効果目的で入れられたらしいです。ミニスカートが超似合う長身のお人形あつかいですね。
 さて3本目がこの『グランプリ』で,多分爺は遠い昔に日本の劇場で見ていたのでしょうが,それは小学6年か中学1年の頃なので,もっぱら興味はF1レースで映画の筋なんかどうでもよかったんですね。フランソワーズ・アルディなど知る由もなく,ジェームス・ガーナーもイヴ・モンタンも覚えてないですが,「世界の三船」は記憶に残っています。と言うか,あの頃日本ではこの映画は「三船敏郎主演映画」のように見られていたキライがあります。日本用に別ヴァージョンがあったんではないですか?ホンダのサクセスストーリーみたいな...。
 しかし音楽は覚えてましたね。軍楽ブラスバンドみたいな響きです。すごいなあ,このメロディー覚えていたなあ,と思ってクレジットを見たら,作曲モーリス・ジャールでした。DVDを見た次の日に,モーリス・ジャールが84歳で亡くなったニュースが流れました。昨日FIPもずっとジャールへのオマージュのプログラムで「ドクトル・ジバゴ」「アラビアのロレンス」「パリは燃えているか」なんかが一日中かかってましたが,「グランプリ」は聞こえてこなかったので,これはジャールのメジャー作品ではないのですかね。
 「9回のレース,4人のレーサー,1人のチャンピオン」というフランス語の叩き文句です。フェラーリには常勝イヴ・モンタンがいて,その2番手レーサー役がアントニオ・サバートで,フランソワーズ・アルディはこのサバートのガール・フレンド役で登場です。レーサーのグルーピー役ですね。しかしミニスカートとロングブーツで,これほどサマになるシルエットはありましょうか。それでセリフはほとんどないのに,口をとんがらせて情感の欠落した顔をして,トランジスターラジオを耳にあてて聞いてるわけです。いい絵ですねえ。最後には,やたらと女の子たちに囲まれるのが好きな(典型的な)イタリア人レーサーに背を向けて去っていく,というただそれだけの役ですが,元祖アンニュイ・ガールの面目躍如という感じです。
 この映画の撮影中に,フランケンハイマーから特別許可をもらって,フランソワーズ・アルディはパリに戻り,オランピア劇場でボブ・ディランのコンサートを見るのです。伝説の「楽屋面会」です。(ディランが第一部が終わって,時間になっても第二部を始めない。人が説得したら,フランソワーズ・アルディをここに連れてきてくれなければ,俺は絶対にステージに出ない,とゴネた,という実話です)。
 さて映画の方は,勝てないレーサー,ジェームス・ガーナーが,モナコ・グランプリでチームメイトのブライアン・ベッドフォードに優先権を譲らず,事故を起こして瀕死の重症を負わせます。ガーナーはチームから解雇され,TVレポーターに身をやつし,ベッドフォードはリハビリの結果奇跡のカムバックを果たし,常勝イヴ・モンタンに再び挑んでいきます。この男たちの闘いに加わることができずにショボンとしていると,三船敏郎が「これこれ,うちに来なはれ」とF1新参戦の日本のチーム「イムラ」にスカウトします。
 映画は男たちの闘いと平行して,男女関係もソープオペラ風に挿入されますが,一方で二人の女に愛された男(イヴ・モンタン)は命を落とし,他方では一人の女(ジェシカ・ウォーカー)を愛した二人の男(ガーナーとベッドフォード)は和解する,という...あほらしいシナリオです。
 高度成長時代の映画です。この大恐慌の状況から見ると,本当に夢みたいな時代だったんですね。男は死をかけて闘うし,女はみんな美しいし,日本のテクノロジーは世界を制覇しつつあったし...。

(↓ こちらはアメリカ版の予告編)


(↓ こちらはモーリス・ジャールの美しい音楽を聞いていただきたくて...)