2026年7月29日水曜日

1976年の夏・Castor Tape

Castor Tape
Summer 1976
1976年夏
爺のミックステープ


前記事に続く)

1976年夏、大旱魃と猛暑の中、低ノルマンディー地方カルヴァドス県の首邑カーンの大学キャンパス内学生寮の一室で、ひとりで、あるいは部屋にドリンクやツマミを持ってやってきた友人たち(日本人および非日本人)と一緒に聞いていた(カセット)音楽、現地ラジオから流れてきた音楽...  50年後、込み上げるノスタルジー感で涙を禁じえない音楽の数々。これを読む同志たちにはエモーションを共有できることはないと思うが、年寄りのセンチメンタリズム、付き合ってくれたまへ。

鈴木慶一とムーンライダース「すかんぴん」
日本の友人が送ってくれたカセットから。アルバム『火の玉ボーイ』(1976年)の中の1曲。もうどうしようもなくアルコールにマッチする名曲。寮の部屋に冷蔵庫さえあればなぁ...と何度思ったことか。(冷蔵庫の要らない)安い赤ワインばかり飲んでいたなぁ。


James Taylor "Don't be sad 'cause your sun is down"
これも友人の送ってくれたカセットから。そのカセットにはJTの2枚のアルバム『ゴリラ』(1975年)と『イン・ザ・ポケット』(1976年)がコピーされていて、どっちも聴き込んだけど後者が好き。前記事でも引用した「シャワー・ザ・ピープル」も至福の名曲。この"Don't be sad..."はスティーヴィー・ワンダーとの共作の歌で、スティーヴィーのハーモニカも入っている。スティーヴィーが大好きだった時期だったんだなぁ。「太陽が沈んでも悲しまないで」ー 私のいた学生寮の南側の窓からは、サマータイムのフランスのいつまで経っても沈まない太陽がよく見えた。そして21時過ぎてやっと沈んでいく太陽の最後の光が消えても世間様はまだまだ明るくて。なかなか終わらない一日、その暮れ方が好きだった。歌詞の最後の But especially today I'm feeling blueもジーンと来る暮れ方だった。


Peter Frampton "Do you feel like we do"
1976年の全米No.1アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ !』は、市内の百貨店ヌーヴェル・ギャルリーのレコード売場でカセットを買った。フランスでオーディオカセット、ミュージックカセットが、"K7"(アルファベットの"K"と数字の"7=sept" 、カ・セットと読む)と表記されるようになったのは1970年代だそうである。当時私は気がつかなかったが、後年音楽業界で働くようになってから、日本の同業者に、この”K7"って何なの?とよく聞かれた。それはそれ。ダブルアルバムで所収時間が80分のロングプレイカセット、聞くのは1曲だけ、最後の14分15秒の大曲「ドゥ〜ユ〜フィ〜〜ル...」これしか聞かない。これはわが部屋に来た連中が喜ぶんだぁ。14分間おごそかに聞いているわけではない。あの当時"エア・ギター”なる言葉は存在しなかったのに、みんなやっちゃうんだね、弾き真似を!そしてあのトークボックスの音の口真似!盛り上がったなぁ、楽しかったなぁ...


Marie-Paule Belle "La Parisienne"
前記事を書いている最中に、マリー=ポール・ベルの訃報(2026年7月25日没)が飛び込んできた。80歳だった。合掌。とは言っても私もこの「ラ・パリジエンヌ」という歌しか知らない。多くのフランス人もそうだろう。”一発屋”と言うのだろうか。派手なショービズ界とは距離を置いたシャンソニエ/キャバレー/ミュージックホール出身の正系のピアノ弾き語り”シャンソン”歌手で、ヒット曲と縁がなくなってもずっとそういう小屋で歌い続けていた生涯現役人。で、私がこの歌を知ったのは、76年大学夏季講座の上級者向け一般教養クラスで、ちょっとコケットなフランス人女性教師(私、大好きだった🖤)が、当時フランスで一番受けている大衆芸能として、コリューシュのスタンダップ芸(当時はスタンダップなる言葉はなかったのでいわゆる漫談)と、マリー=ポール・ベルの「ラ・パリジエンヌ」をカセットで聞かせたのね。私はどっちもさっぱり理解できなかったのに、クラス内でゲラゲラ笑う学生たちもいて...(悔しかった)。「ラ・パリジエンヌ」は後日テレビのヴァリエテ番組で見ることができて、あ、この人、京唄子に似てる!と思った。このいかにもレトロなベル・エポックのオペレッタ風(オッフェンバック、フレンチカンカン)は、田舎から首都に出てきた娘がファムファタルになりたいのだけれど、当世風パリジエンヌのようにアルコールもドラッグも嗜まないし、何のコンプレックス(都会女性ならではの複雑な悩み)もないし、パリジエンヌでないってことは実に困ったことだ(ça me gêne, ça me gêne サムジェヌ、サムジェヌ)と歌っているのね(当時はわからなかったけど)。レズ、色情狂、精神分析医通い.... さまざまな”尖んがった”最先端女性たちの生態を列挙して、こりゃかなわんけど、ファムファタルになるためには頑張らなくちゃ、という早送りシネマのようなコミカルソングだけど、根には70年代型フェミニズム礼賛というしっかりとした思想がある(と思う)。時間をかけて好きになっていった歌。こういうシャンソンというのはもうどこにもないと思うよ。もう一度マリー=ポール・ベルの冥福を祈る🙏


Véronique Sanson "Sad Limousine"
あの夏だけではなく、私の一生涯通して最も多い回数聴いてきたアルバム『ヴァンクーヴァー』に関しては、この3月に2つの記事で詳説したので読んでみてください。そしてこの「サッド・リムジーン」という歌に関しても歌詞解題込みで「ここ」に書いてある。You drove me to the airport, in a sad sad limousine. 1976年6月29日東京、私にも出発空港まで見送ってくれた人あり。それはリムジーンではなく、羽田モノレールだったけれど。ああこの人は遠くまで行ってしまうんだ、とその人は思ったに違いない。
So bye... bye my friend goodbye (さらば わが友 さらば)
I must face the road alone (私は一人で道に向かわなければならない)
But I'll make it, I'll make it (でも私はその道を)
I'll make it on my own (自分の道にしてみせるわ)

そんなつもりで飛行機に乗ったわけではないよ、私は。 だけど私はその時「大きな別れ」をしたのだ、と50年後の今になって思う。1977年から79年という2年間のブランクというか中休みというか執行猶予期間みたいな東京(大学卒業&就職)滞在期間はあったけれど、私はその「大きな別れ」の時から体内時計も生活地盤もフランスになってしまったのだと思う。成功だったの?失敗だったの? ー 今さら何を!



Banzaï et les Clodettes "Viva America"
これはその秋からカーン市内で私と同じ下宿に住むことになる、仙台から来たブミ君が大好きだったのね。クロード・フランソワのバックダンサーチーム、レ・クロデット(Les Clodettes)のために親分クロード・フランソワがでっち上げたデタラメなラテン・ディスコもの。「嘆きのビンボー」(1974年)、「ブラジリア・カルナバル」(1975年)と同パターンの3匹目のドジョウだけど。ブミ君はあの頃日本人海外旅行者がみんな持ってた手帳サイズの「実用5カ国旅行会話集」をいつも持っていて、そのスペイン語のところから引いて、「Tengo fiebre ! (熱があります)」とか「¡Lléveme al hospital, por favor! (病院へ連れて行ってください)」とかデタラメにスペイン語をがなり立てて、「ああ ビバ・アメリカ! ああ ビバ・アメリカ!」と歌いつなげて、寮から学食までの道々、くりかえしくりかえし「ビバ・アメリカ!」を歌い、(スペイン語を)がなり、踊りながら行進するという芸当でウケていた。今思い出しても笑ってしまう。
- Ven ? conmigo a cantar "Viva America"
- Ah aïe !
- Venga ! Venga ! Ah aïe !
- Asi ! ven cantado ! ven cantado!
- Ah ah !
- Aïe! Un, dos ! Un, dos ! Un dos ! Un dos, un dos ! pero, que tanto !
- Ah ah ! Ahora ! Ahora ! Ah !
Ah Viva America !
- Viva America !
Ah Viva America !
Ah Viva America !


Boz Scaggs "Harbor lights"
ボズ・スキャッグスの大ヒットアルバム『シルク・ディグリーズ』もサンソン『ヴァンクーヴァー』と競るほどたくさん聴いた。カーンの位置はノルマンディー海岸まで18キロの距離がある内陸である。一番近い大きな港はウィストレアムで英仏海峡フェリー船も発着するが、ウィストレアムからカーンまで運河が通っていて、カーンの町にも内港があってクルーザーやヨットが停泊している。その内港の岸にはシーフード・レストランや釣具店やバーが並んでいて、ちょっとしたヨットハーバーの風情がある。その内港のある運河(バッサン・サン=ピエール)の岸の広場(クルトンヌ広場)に毎日曜日、大きな市が立つ。いろんなものが売ってあって、その中に古本屋もあったのだ。私はそこでなんと”和英辞典”を見つけて(この町は昔から日本人学生が多かったのだなぁ)、値段は忘れたがとても安価で買ったのを覚えている。 ー パソコンもスマホもなかった時代、人が読み書きするのを最も助けてくれるのは辞書だった。仏和と和仏の辞書がなければそこで生きていけないと思ったほどだ。その夏、私はたくさんものを書いていたのだ(ボールペンで)。自分用に、勉強用に、他人用に。フランス語、日本語。手紙もたくさん書いていた。で、漢字がわからなくて書けなくなって、ああ、何で国語辞典を持って来なかったんだろう、と悔やんだ。ー 恋と言えるのだろうか、その夏、オーストラリアから来た娘に猛烈に恋慕していて、夏期講座のセッションを終えて、彼女はカーンを後にした。22歳の私は真剣に彼女の後を追って行こうと考えたり...。フランス語の下手な彼女は私とは英語でコミュニケーションしようとしていた。ところが私も英語は苦手だったのだよ。スマホもケータイもなかった時代、私と彼女の交信は”手紙”だけになった。運河沿いの市の古本屋で買った古い和英辞典がどれだけ役に立ったか。『シルク・ディグリーズ』は彼女も好きで、何度も一緒に聴いた。"Harbor lights"の出だしの "Son of a Tokyo Rose" (東京ローズの息子)って、あなたのことみたい、と言われた。日本人だから?そうじゃない。What does it mean ?  ー 東京ローズというのは第二次大戦中、米軍が日本国民にプロパガンダ放送を流すために雇った女性日本語アナウンサー、複数いたが全員”東京ローズ”を名乗っていた。転じて匿名の女という意味になったらしい。名も知らぬ母から生まれた名も知らぬ子は、風来坊・流謫の身に甘んじるのが運命、ロンサムトラヴェラー、あなたもそうやって日本から流れて来たんだわ ー みたいな説明をされたと思う。英語だから理解できたんだかどうかもわからない。東京ローズの息子、結構じゃないの。素敵じゃないか。 .......  という思い出。たくさん手紙は書いたけど、返事はほとんどなかった。That brings me back to you my love, to you my love, to you my love...

Alain Souchon "Bidon"
1976年夏、フランスのラジオから最も頻繁に流れていた歌は3曲あって、ひとつ目はボブ・ディラン「ハリケーン」(! しかし全曲かからず、いつも半分で切られる)、二番目はイングランド人マレー・ヘッドの"Say it ain't so, Joe"(これはフランスで日本の時計メーカーSEIKO提供の民放ラジオの時報の音楽に使われ、フランスで局地的な大ヒットに)、そして三番目がアラン・スーションの「ビドン」。アルミ缶やポリ缶などの容器のことだが、転じて見かけだけで中身のないもの(あるいは人)という意味。2007年に向風三郎がその著『ポップ・フランセーズの40年』で、「自転車乗り用のズボンばさみ」と題してこの歌を取り上げていて、すごくうまいこと書いてる。老いた私にはもうこんな機知と含蓄と諧謔に富んだ文章は書けっこないので、全文そのまま引用する。
フランスでも自転車はロードレースのためだけにあるのではなく、生活上の移動手段としても使われている。1970年代中頃は裾広の(ラッパ、ベルボトム)ズボンを着用したりするから、自転車を漕ぎながらズボンの裾がチェーンに絡まったりする。その防止のために、フランスでは自転車乗り用のズボン裾クリップがあり、これを "pince à vélo"(パンサヴェロ)と言う。しかしこれはどう見ても格好悪いものなのだ。
アラン・スーション(1944 - )は自らの歌でしばしば告白されているように、環境順応の難しい子供だった。学校の成績は悪く、バカロレアは3回うけてことごとく失敗している。英国に18ヶ月暮らしている間に作詞作曲を始め、帰仏してレコード会社パテ・マルコーニと契約して3枚のシングル盤を発表するがどれも不発。その間に結婚して子持ちになっている。1973年、移籍したレコード会社RCAのディレクター、ボブ・ソッケに注目され、翌年ソッケの紹介でローラン・ヴールズィ(1948 - )と出会う。当時のスーションの弱点であった作曲をヴールズィが補うというソッケのアイディアはまんまと図に当たって、スーション+ヴールズィはフランスの大衆音楽を大きく変えてしまうソングライター/コンポーザー/シンガーのペアチームになっていくのである。1974年スーション+ヴールズィは歌手スーションの最初のヒット曲となる”J'ai dix ans(僕は10歳)”を世に送り出す。
不安定でなよなよした男の叙情を皮肉とユーモアで綴るスーションの詞と、ビートルズ(マッカートニー)フリークのポップなメロディーセンスのヴールズィの曲。このコンビは、格好悪さとポップさを武器にして新しい世代の共感を得ていく。来るべき21世紀のベナバールやヴァンサン・ドレルムといったシャンソン新世代の30年前の手本がここにあった。
スーション+ヴールズィによるスーション2枚目のアルバム『ビドン(Bidon)』(1976年)は二人の才能と人気を決定づけた作品で、タイトル曲「ビドン」は、見かけだけの中身のない男が、映画スターやレーサーや人気歌手を気取っても、女の前ですぐにメッキが剥がれて、自転車乗りのズボン裾クリップをつけてすごすごと去って行く、という内容が歌われている。キーワードはこのズボンクリップ(パンサヴェロ)で、男の格好悪さが強烈にこの一点に集中する自虐ユーモアが、多くの婦女子の皆さんの母性本能的シンパシーを得てしまうのである。弱い男、女々しい男、おセンチな男、見かけだけの男たちが、歌の世界でも映画の世界でも大きく露出度を増して市民権を獲得していった1970年代であった。アラン・スーションはこのポジションで変わらず今日まで生き続ける愛すべきヤワ男である。

こんなこと書いていたのか。ま、そんなに間違いはないか。あれから50年、アラン・スーションはよく老い、スタイリッシュな好々爺の現役(大御所)音楽アーティストである。実によく老いた。熟成した。ああ、こんな風に老いることができてたらなぁ...。


Rolling Stones "Memory Motel"
メモリーという言葉。私たちが若かった頃とどんどんかけ離れた意味に変容していった。情報工学用語が一般化していって、メモリーはある量的単位の意味ばかりが日常に定着した。メモリー容量、メモリー不足、メモリー共有、外付けメモリー...。メモリーは数値で表すことができるのだ。私たちが若かった頃、メモリーはそんなものではなかった。ロボットだったダフト・パンクがその最後に『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)というタイトルの彼らの最も”人間的”なアルバムを発表したが、ここでの”メモリーズ”は半導体メモリーのことではなく、人間のメモリーだったのだよ、だからエモーショナルな最後だったわけじゃないか。ダフト・パンクは(昭和天皇のように)人間宣言をして、活動に終止符を打ったのだよ。メモリーを人間の手(心)に戻したかのように。
私たちが若かった頃、メモリーは心の中にあったのだよ。Do you remember ? メモリーは時々動き出して、心をちくちく責める。情報工学のメモリーと違って、消去することができないものなのだよ。人間のメモリーは切ない。
1976年ザ・ローリング・ストーンズは5人だった(ミック・テイラーが去り、ロン・ウッドが加入した)。アルバム『ブラック&ブルー』のカセットは夏の終わり(夏期講座は終わっていて、寮を追い出されて、市中の一般家庭の貸し部屋に入った頃)にヌーヴェル・ギャルリーで買った。それこそ夏のメモリーで心がグジャグジャになっていた頃だった。家主はいいご夫婦だったけれど、大きな音が嫌いで、私のラジカセは何度も苦情を受け(たぶん家主の音楽趣味とはかなり異なっていたんだろう)、挙句にイヤホン(ヘッドホンじゃないよ、昔ながらのイヤホン↑写真)で聞くことを強制された。これにも相当ムッと来たんだな。象徴的に夏の終わりを思わせる出来事だった。
『ブラック&ブルー』はもっぱら2曲しか聴いていない。「Fool to cry(愚か者の涙)」とこの「メモリー・モーテル」だけ。どっちもジャガーの涙まみれバラードである。つい数日前までみんないたのに、夏が終わり、みんなカーンを去って行った。早々とこの夏はメモリーになってしまったのだよ。センチメンタルでメランコリックな季節の始まり。夏の間中、私は夢を見ていたのか。それはとりもなおさず夏に出会った一人の娘のメモリーのことなのだけど。歌の中でハナという名の女性が”俺”のギターを取って歌い出す:
She took my guitar and she began to play
She sang a song to me
Stuck right in my brain
You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー)
That used to be(いつもと同じ)
You're just a memory of a love(あんたはただの愛のメモリー)
That used to mean so much to me(いつもだけどそれはとっても意味あるのよ)
するとすかさずキース・リチャーズが茶々を入れる
She got a mind of her own(あれは自我のしっかりした娘だ)
And she use it well(それでうまく立ち回っている)
1976年夏の終わり、私がいつまでもぐじぐじと未練たらしく塞いでいると、「あの娘はキミと違って一人で上手くやってるよ」と言ってくれたダチはいたかな? ー いなかった。あんたはただの愛のメモリー。彼女は私にとって just a 愛のメモリー、だけどそれは mean so much to me。こんな曲をなんで7分の長さで続けてくれるんだよ?なんてセンチメンタルなメモリーなんだ。このメモリーはこの歌と共に絶対消去できないものなのよ。
Sha la laa la
Sha la laa la
Sha la laa la
Sha la laa la

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