2015年7月27日月曜日

キャラメル、ボンボン、エ、ショコラ....

ルノー「ミストラル・ガニャン」
Renaud "Mistral Gagnant" (1985)
詞:ルノー・セシャン
曲:ルノー・セシャン/ジャン=フィリップ・グード

 2015年5月30日発表のフランス・テレヴィジョンのアンケート調査によると、全時代を通してフランス人が最も好きな歌のランキングで、ルノーの「ミストラル・ガニャン」(得票率25,7%)が、ジャック・ブレルの「行かないで」(25,2%)とバルバラの「黒いワシ」(22,5%)を抑えて1位になったのでした。
 ルノー(1952 - )はフランスで最もポピュラーなシンガー・ソングライターのひとりですが、日本にきちんと紹介されたことはありません。下町言葉、反骨、無頼、毒舌、プロテスト... といった傾向のアーチストですが、若い頃はシャタンの長髪の美青年で、その苛立ちとミスマッチなところも人気の理由だったでしょう。カフェやバーで歌うことからスタートしてして、同じように町寄席(カフェテアトル)出身の稀代のボードビリアン、コリューシュ(1944-1986)とは親友関係にありました。また、かのシャルリー・エブド誌の執筆者でもありました。
 ウィキペデイアの数字によると、23枚のアルバムを発表し、トータルで2千万枚のセールスを記録しているフランスでも有数の大物です。この苛立ちのアーチストは、多くの反骨・反権力の歌い手たちが姿勢として「テレビ・ラジオに出ない」(あるいは出してもらえない)という立場を取るわけですが、ちゃんと芸能番組に出てました。この「芸能人」としての立ち振る舞いが、本来ならばルノーのような左翼で反権力でという歌手をバックアップして当たり前の左翼日刊紙リベラシオンと奇妙な確執関係をつくっていて(これはジャン=ジャック・ゴールドマンへのリベラシオンの徹底した揶揄的態度と同じでしょうが)、同紙はルノーのアルバムに批判的で、おまけにその収入や私有財産にイチャモンをつけたりしました。80年代からフランスに住み始めた私は、最初の頃、ルノーがテレビの歌謡番組にスター扱いで出演したり、その歌がヒットチャートのトップになったりということが不思議でなりませんでした。それが、反骨で野卑でアナーキストだったジョルジュ・ブラッサンスを国民的歌手として愛したフランス・シャンソン界の伝統からすれば当然のことだった、と私が知るのはずいぶんあとのことです。ルノーは最も敬愛するシャンソン・アーチストとしてブラッサンスの名を挙げていますし、1996年にはルノーによるブラッサンスへのオマージュであるカヴァーアルバム『ルノー、ブラッサンスを歌う』を発表しています。
 ルノーがブラッサンスに匹敵する高みにあるか、という議論はありましょう。それでもそのダイレクトで個人的な全方位への物言いは、次世代たるフレンチ・ラップや90〜00年代のいわゆる「ヌーヴェル・セーヌ 」のアーチストたちに多大な影響を与え、ルノーの再評価はこの数年で著しく高まっています。2014年には、そのラップやロックやヌーヴェル・セーヌのアーチストたちによる全2集のルノー・トリビュートアルバム『ラ・バンド・ア・ルノー(La Bande à Renaud)』(参加:ベナバール、バンジャマン・ビオレー、ディジーズ、ルアーヌ、アルノー、オリヴィア・ルイーズ、ベルナール・ラヴィリエ、カロジェロ、クール・ド・ピラート、ノルウェン・ルロワ........、カルラ・ブルーニ=サルコジ....)も出ました。
 このオマージュ/ラヴ・コールの背景にはルノー自身が2009年以来アルバムを発表していない、2007年以来コンサートをしない、人前に出ない、という事情があります。インスピレーションの枯渇とも、健康上の理由とも言われています。もうルノーは再起できないだろう、と言われていたのです。アルコール依存症であることはよく知られています。自らも重度のアルコール依存症であった(あり続けているという話もある)ヴェロニク・サンソンは2004年のアルバム『ロング・ディスタンス』の中の1曲「La douceur du danger(危険の甘さ)」をルノーに捧げ、アルコールという悪魔の恐ろしさを歌っています。まさにルノーもこれを "vieux démon(老悪魔)"と呼び、迫り来る強迫観念から逃れるために必要不可欠なものとなっていたようです。もともと歌唱のレッスンなど一度も受けたことがなく、自己流で歌ってきたルノーですが、2001年のヴィクトワール賞のセレモニーの時には(アルコールが聴覚を冒していたようです)音程もリズムも全くキープできないような惨めな歌唱パフォーマンスで、ファンたちを大いに落胆させたのでした。プライヴェートでは離婚、再婚、再離婚というドラマが短い10年間に起こっているのですが、アルコールは離婚の度にルノーの心身を極度に侵食していきます。
 2015年6月、日刊紙パリジアンと民放ラジオRTLがルノーが新アルバムを準備中というニュースを流しました。現在南仏プロヴァンス地方ヴォークリューズ県(県都アヴィニョン)のリル・シュル・ラ・ソルグに居を構えるルノーに、パリジアン紙記者が遭遇し、14曲の詞を既に書き上げ、この秋にも録音したいと語ったということなのです。ルノーの兄で作家のティエリー・セシャンが同紙に補追証言をしていて、アルバム準備はかなり進行していて、作曲者としてはルノーの娘婿のルナン・リュス、ルノーのバンドのベーシストのミカエル・オアヨンの名前を挙げていて、ブリュッセルのICPスタジオで録音されることになっています。しかしティエリーは「今は歌える状態ではない」と言い、録音前に聴覚障害の治療が不可欠としています。やはりアルコールは耳をダメにするのですね(これは自戒です)。
 2集のトリビュートアルバム、民放テレビTMCによる1時間半の回顧ドキュメンタリー「Il était une fois RENAUD(かつてルノーありき)」(2015年2月放送)、フランス人の最も愛するシャンソンとして「ミストラル・ガニャン」が選ばれたこと(2015年5月)、そしてカムバック・アルバムの予告、なにやら巨大な歯車が回ってルノー復活を仕掛けているような印象もありますね。
 
 
さて「ミストラル・ガニャン」です。1985年ロサンゼルス録音のアルバム『ミストラル・ガニャン』に収められた曲で、詞は現地ロサンゼルスに着いてから出来たものです。愛娘ローラ(ロリータ・セシャン、1980年生れ。名付け親はコリューシュ。2009年シンガーソングライターのロナン・リュスと結婚)のために書かれた、ルノーの子供時代を郷愁する歌です。ミストラル・ガニャンとは60年代頃まで売られていたボンボン菓子で、南仏プロヴァンス地方にアルプスから吹きつける北風ミストラルが名前の一部なのは、マルセイユの製菓会社が作っていたからで、その寒い北風のような涼しさが口の中にひろがるというわけです。砂糖とレグリスの粉末が袋に入っていて、それをストローで吸うと、舌の上でパチパチはねるような清涼感。また、その袋に当たりくじ(ガニャン=Gagnant)が入っていると、もう一袋タダでもらえる、というお楽しみもあります。
 この歌の中には 他にも"Car-en-sac", "Minto", "Coco Boer", "Carambar", "Roudoudou"といった当時のボンボン菓子 の名前が出てきます。今ではフランスのこの分野はドイツのハリボ社に占領されちゃってる感じで、昔ながらのものは残っていないのですね。だからこの歌は、日本の今はなき駄菓子屋文化を懐かしむみたいな、ある世代の幼少の頃の思い出をおおいに刺激するものがあるわけです。
 ロサンゼルスで出来たこの歌はルノー自身はあまりにも個人的な思い入れで作ったので自信がなかったのですが、(当時の)愛妻ドミニクに国際電話で、受話器をあごで挟んだ状態でギター弾語りで歌って聞かせます。するとドミニクは「あなたがこれまで書いた中で最も美しい歌」と興奮して絶賛し、「明日この歌を録音しなかったら、あなたと別れるわ!」と 強要します。
 プロデューサー/アレンジャーのジャン=フィリップ・グードは、この出来立てのメランコリックな歌を聞くなり即座にピアノ+ヴォーカルのデュエットでやろうというアイディアが浮かび、あの有名なピアノ・イントロを書き上げたのでした。

五分間だけきみとベンチに座って
見れるかぎりの通り行く人たちを眺めながら
きみに良かった時代のことを語る
それは終ったのか、また戻ってくるのか
きみの小さな指を僕の手で握りしめ
愚かな鳩たちにエサをやったり
足で蹴るふりをしたり
そして壁がひび割れを起こしそうなきみの大笑いを聞く
それは本当に僕の傷を癒してくれるんだ
きみにちょっとだけ僕がどんなふうなガキだったかを話す
店屋からくすねた素晴らしいボンボン菓子のことを
カール・アン・サック、ミントー、1フランのキャラメル
そしてミストラル・ガニャン

五分間だけきみと雨に降られながら歩き出す
見れるかぎりの人生を眺めながら
きみの眼をむさぼるように見つめながら地球について話す
それからちょっとだけきみのお母さんのことも話す
お母さんを怒らせるために、水たまりの中にわざと飛び込んで
僕らの靴を台無しにして、大笑いするのさ
きみの大笑いは海の音のように聞こえる
立ち止まり、そしてまた今来た方に帰っていく
昔のカランバールやココ・ボエールのことを語りながら
本物のルードゥードゥーってのは、唇を裂けさせ、
歯をダメにしてしまうんだ、って
そしてミストラル・ガニャン

五分間だけきみとベンチに座って
去っていく太陽を眺めながら
きみに良かった時代のことを語る
それは終ってしまったって僕は気にしない
悪いのは僕らじゃない
僕がちょっといかれてるのは、きみの眼に夢中だってことさ
ふたつあるっていうのはいいことなんだ
そしてきみの大笑いが、鳥たちの鳴き声よりも高く
舞い上がっていく
そしてやっぱり人生を愛さなきゃだめだときみに言う
たとえ時がとても残酷なものであっても愛さなきゃだめだ
時は子供たちの笑い声と共に去っていく 
そしてミストラル・ガニャン
ミストラル・ガニャン

ポイントはここですから:
Te raconter enfin qu'il faut aimer la vie
Et l'aimer même si le temps est assassin
Et emporte avec lui les rires des enfants
時がどんなに残酷でも人生を愛さなきゃだめだ。
ありがとうルノー。戻ってきてください。

(↓)ルノー「ミストラル・ガニャン」(オフィシャルクリップ)

(↓)ベアトリス・マルタン(クール・ド・ピラート)「ミストラル・ガニャン」(2014年のカヴァー)


2015年7月24日金曜日

レ・ジノサンのお昼だよ

Les Innocents "Mandarine"
レ・ジノサン『マンダリン』

 16年ぶりのアルバムです。ジペ(JP Nataf)とジャン=クリ(Jean-Christophe Urbain)の二人になってしまいましたが、歌つくってるのはこの二人ですから、これでレ・ジノサン印を標榜したって何の文句もありません。
 レ・ジノサンは1982年にジペ・ナタフを中心に結成されたパリのバンドで(ジャン=クリは1988年に加入)、1999年まで4枚のアルバムを発表して2000年に解散しました。90年代、ブリット・ポップがもてはやされていた頃、当時はフランスの気鋭の音楽誌(1989年創刊。現在は総合誌)だったレ・ザンロキュプティーブル誌はレ・ジノサンを「海峡のこちら側の最良のポップ」と評したのでした。確かに私もアルバム全部持っていても、どちらかと言うとCDで聴くよりはFMで聴いたほうがありがたい、そういうFMが英国ものと並べてレ・ジノサンをオン・エアしてもポップさにおいて全然ひけをとらない、しかもフランス語ハンディキャップなど全然感じさせない、そういうバンドだと思って聴いてました。「サン・シルヴェストル」(1988)、「ロートル・フィニステール」(1992)、「コロール」(1996)... みんなFMで大ヒットして当たり前のクオリティーでしたから。
 ソロアルバムを2枚出したジペ・ナタフがジャン=クリと共同作業を再開したのは2013年のこと。二人とも今年で55歳。たぶんこの世代の人々(90年代に若かった人たち)が待望していたカムバックでしょう。もうFMで聴くべき音楽を失っている世代。だから、レ・ジノサンにも20年前と同じことをして欲しいと思っている世代。新アルバム『マンダリーヌ』はその期待に100%呼応するものです。頑固な二人です。期待されていたフォーク/アコースティック・ポップは職人芸的で、往年のようなFMヒット性は薄いけれど、ほそぼそコツコツ仕上げましたという感じの10曲。16年ぶりなのだから、マーケティング的な色目たっぷりに大予算でアビーロードやロサンゼルスで録音するみたいなことを考えてもよさそうなところを、ほとんどたった二人でパリ下町(ジペ・ナタフの生活現場)メニルモンタンでちまちまっと録音してできたアルバムです。55歳的現在と業界不況的現実(予算が出ない)をも取り込んでしまった等身大の作品という見方もできましょう。
 第一曲めの"Les Philharmonies Martiennes"(火星音楽愛好会)で、え?何語?と耳を疑ってしまう、ナンセンスだけれどやたらノリの良いフランス語単語をつないだようなジュゲムジュゲム式の美しいポップフォークが始まったら、なにか手作り作業で制作されたミッシェル・ゴンドリー映画のような楽しさに包まれます。聴きやすそうで、その実インテリジェンスを刺激する奥深さです。
 アルバム2曲めは運命的にアルバムで最も強力な曲として聴かれるわけですが、"Love qui peut"(できるラヴ)は、甘苦い青春フォークポップのノリで始まりながら、メロも複雑化し、歌詞は印象的摩訶不思議にもつれ込んで行き、という往年の10CCを思い起こさせる珠玉の曖昧ラヴソング。こんな曲者ポップばかりなのですよ。
 アルバムタイトルの『Mandarine(マンダリン)』 はアルバム最後10曲めの"Sherpa(シェルバ)"の歌詞の中に1回だけ登場します。
tout, tout すべてを すべてを
j'achemine 僕は運ぶ
j'achemine 僕は運ぶ
under the moon アンダー・ザ・ムーン
je patine 僕はスケートする
je cours 僕は走る
je cours 僕は走る
je fixe le soleil mandarine 僕はみかん色の太陽を見つめる
je fixe  僕は見つめる
そうか、マンダリンは太陽の色でしたか。メニルモンタンの密室で作ったサウンドでしょうが、とても陽光を感じさせる抜けの良いポップアルバム。何回も何回も繰り返して聴くことができるスルメ味わいの作品。スノッブで高踏的で遊びも諧謔もある。いい感じで歳とってくれました。

<<< トラックリスト >>>
1. LES PHILHARMONIES MARTIENNES
2. LOVE QUI PEUT
3. LES SOUVENIRS DEVANT NOUS
4. HARRY NILSSON
5. PETITE VOIX
6. FLOUES DU BANJO
7. J'AI COURU
8. ERRETEGIA
9. OUBLIER WATERLOO
10. SHERPA

LES INNOCENTS "MANDARINE"
CD SONY MUSIC 88883748792
フランスでのリリース:2015年6月

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)レ・ジノサン"Les Philharmonies Martiennes"

2015年7月11日土曜日

ヴァンドーム、ヴァンドームと鳴る鐘

デヴィッド・クロスビー「オルレアン」(1971年)
David Crosby "Orléans"

   
 日まで歌い継がれているフランス最古のシャンソンと呼ばれている歌で、その発祥は1420年と言われています。この歌は Le Carillon de Vendôme ル・カリヨン・ド・ヴァンドーム = ヴァンドームの鐘の音 と呼ばれ、カリヨン(音色の違う数個の鐘を組み合わせた組鐘)の4つの音階(ラ・シ・ソ、ラ・シ・ソ、ラ・シ・ド・シ・ラ・シ・ソ....)が旋律になっていて、歌詞は4つの地名「オルレアン」、「ボージャンシー」、「ノートル・ダム・ド・クレリー」、「ヴァンドーム」。わらべ歌となって今日の子供たちまで歌われているこの歌は、フランス王シャルル7世(1403-1461、王在位 1422-1461)が、前王シャルル6世(1368-1422、王在位1380-1422)から受け継いだものが、この4つの土地しかなかったという内容なのです。
 国破れて山河あり。歴史の本をひもとけば、百年戦争の時代、精神疾患説のあったヴァロワ朝フランス王シャルル6世治世下のフランスは、殿ご乱心に乗じた側近たちやイングランド勢に翻弄され、あれも失い、これも失い、相次ぐ兄の死でまさか自分に王位が回ってくるとは思いもしなかった四男坊は、首都パリを逃れてブールジュで父(先王)の死を知ります。正式に戴冠することもできず、フランス王ではなく屈辱的に「ブールジュの王」と呼ばれ、その居城ブールジュから見ると、新王に残されたのは近隣のロワール地方の4つの町、オルレアンボージャンシー、クレリー・サン・タンドレ(ノートルダム聖堂がある)、ヴァンドームしかない極小国になってしまったのです。

 Orléans, Beaugency
 Notre-Dame-de-Cléry
 Vendôme, Vendôme

 フランスの中高生向け仏文学教本「ラガルド・エ・ミシャール」では、この3行を「純粋詩」の見本として講釈し、その類を見ない音と韻律の美しさを称賛します。しかし私たちはむしろ、漢詩的な嘆情を想い、目の前に拡がるこの極小国の荒涼たる風景に新王の無念いかばかりか、と心を震わせるものです。オルレアン、ボージャンシー、ノートル・ダム・ド・クレリー、ヴァンドーム、ヴァンドーム。最後に二度繰り返されるヴァンドームの未練たらしさったら...。もう他にないから二度繰り返して韻律を揃えました、という悲しさ。諸行無常の鐘の音のように響きます。
 しかし歴史はこの新王シャルル7世のために、オルレアンに救国の聖女ジャンヌ・ダルクを登場させ、失地をどんどん回復させ、フランスは救われていくのです。その歴史的結果論のせいで、この3行詩は「フランスは国土を最小にまで失なう苦汁をなめても必ず蘇る」という国策神話に利用されるきらいがあります。 今日知られているこの歌の歌詞には、4つの地名の前に2行の文句
Mes amis que reste-il (わが友だちよ、一体何が残っているのだ)
A ce dauphin si gentil ? (このいと善良な王太子さまに?)
 が加えられていますが、これは19世紀に作られたものです。こういう説明的2行が加わると、わらべ歌も王党派や国粋主義者のプロパガンダになりうることがあります。下に貼付けたYouTubeの説明では「16世紀から歌い継がれているわらべ歌」のように書かれていますが、正しくはないのです。
Mes amis que reste-t-il
A ce dauphin si gentil?
Orléans, Beaugency
Notre-Dame-de-Cléry
Vendôme, Vendôme


 これは日本の「かえるの歌がきこえてくるよ」と同じように、フランスの超古典的なカノン(輪唱曲)となり、児童合唱、ママさん合唱、ボーイスカウトなどで、いやんなってもいやんなっても続けさせられるエンドレス輪唱として親しまれるようになります。


 デヴィッド・クロスビー(1941 -  )は米国加州出身のロック・アーチストです。バーズ、クロスビー・スティルス・アンド・ナッシュなどで活躍したのち、1971年に発表した初のソロアルバムイフ・アイ・クッド・オンリー・リメンバー・マイ・ネーム』(If I Could Only Remember My NameのB面3曲めにこの「オルレアン」が収録されています。

 東北北部の高校生だった私は、初歩的なフランスかぶれだった頃で、この加州から仰ぎ見たフランス中世の百年戦争風景を思い、「千代に八千代に」よりもさらに短いこの歌詞をすぐに暗記したものでした。それが数十年後に、娘がフランスの幼稚園でわらべ歌として歌うなど皆目想像できるわけがないじゃないですか。と言うよりも、それを聞いても、それが同じ歌と長い間気がつかないでいたのでしょうねぇ。

 他の国ではどう捉えられたのかは知りませんが、フランスではこのクロスビー・ヴァージョンの「ヴァンドームの鐘の音」は非常に好意的に迎えられたのでしょうねぇ。クロスビー&ナッシュあるいはクロスビー・スティルス&ナッシュでフランスでコンサートをする時は、必ずレパートリーに入れてますから。

 1972年にポルナレフのバックバンドのメンバーが中心になって結成されたイレテ・チュヌ・フォワ(Il était une fois) はヒット曲も多くあった優れたソフトロックのバンドでしたが、その1975年のセカンドアルバムに、彼らの出身のパリ郊外タウン「コロンブ」を歌った歌が入っています。歌詞は郊外タウンの地名のみ:クルブヴォワ、ジュヌヴィリエ、アニエール、ブゾン、ラ・ガレンヌ、ルヴァロワ、アルジャントゥイユ、サン・トゥーアン、クリシー、サン・ドニ、マラコフ、シャラントン、ナンテール、シュレンヌ、ラ・クールヌーヴ、そしてコロンブ。

Courbevoie, Gennevilliers, Asnières, Bezons, La Garenne, Colombes, Colombes!
Levallois, Argenteuil, Saint Ouen, Clichy, Saint Denis, Colombes, Colombes!
Malakoff, Charenton, Nanterre, Surennes, La Courneuve, Colombes, Colombes !

地名だけ言われてもこの時代のフランスにいなければわからないでしょう。これはですねえ、70年代(まだ経済成長期)に急激なパリの人口集中に対応するために、パリを環状に包む郊外に労働者たちを住まわせるいわゆるシテ(高層社会住宅)を林立させた地帯の地名なのです。労働者たちが多かったために、地方選挙では共産党がめっぽう強く、地方自治体の首長が軒並み共産党市長という勢いがあり、「バンリュー・ルージュ(赤い郊外)」やパリを包んでいるので「サンチュール・ルージュ(赤いベルト地帯)」と呼ばれたりしました。この郊外が経済成長が止まり、不況&失業時代に入ったとたんにドラマチックに荒廃していくことを、この歌は想像に入れていたでしょうか?


 さらに時は移り、2011年、フランスのエレクトロ・デュオ、ジャスティスは「オハイオ」というタイトルでこの曲を発表しています。
Ohio Tennessee California endlessly, right on, right on

ずいぶん遠いところまで来たなぁと口をぽかんと開けてしまいますが、ヴァンドーム、ヴァンドームと鳴る鐘の音の悲しみはどこにもありまっせん。



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【2023年1月20日追記】


2023年1月19日、デヴィッド・クロスビーが81歳で亡くなりました。合掌。

(↓)YouTubeに投稿されていた2016年11月のコンサートライヴ動画、クロスビー晩年のライヴバンド、ザ・ライトハウス・バンドの初めてのコンサート(於アトランタ・シンフォニー・ホール)での「オルレアン」