2018年10月31日水曜日

涙のシャンソン日記(Attends ou va-t'en)

ジェーン・バーキン『マンキー・ダイアリーズ 1』
Jane Birkin "Munkey Diaries 1"

 ジェーン・バーキン(1946 - )が10歳の時から書き始めた日記を(文章の書き直しをせずに)再構成して自らフランス語化した本『マンキー・ダイアリーズ』(マンキーは日記の語り相手である猿のぬいぐるみ人形の名)の第1巻(1957-1982)が10月3日に刊行された。第1巻はロンドンの少女時代からゲンズブールとの破局〜ルー・ドワイヨンの誕生まで。来年刊行予定の第2巻は長女ケイト・バリーの死まで(それ以降日記は絶たれている)。
 第1巻の紹介記事はラティーナ誌の2018年12月号(11月20日発売)に掲載されることになっている(現在執筆中)ので、 そちらにまかせます。爺ブログでは、第1巻の大詰めと言えるゲンズブールとの別離:ジェーンBが娘ふたり(ケイトとシャルロット)と共にヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸から出ていく頃の1980年の日記に差し挟まれた、2018年の著者筆の解説文を、断片として紹介しようと思います。

ジュリアン・クレールとの録音のセッション(註:”Mangos”)の間、いつものようにセルジュは全員のためにシャンパーニュをふるまっていた。彼のエージェント、ベルトラン・ド・ラベイもそこにいた。私はバスケット篭を手にスタジオを抜け出し、タクシーを止め、ポール・ロワイヤル・ホテル(註:パリ5区)に向かわせた。しかしホテルは革製品見本市のせいで満室だった。代わりにセーヌ川の対岸のノルマンディー・ホテルを紹介してくれた。着いてホテルの部屋から私はラベイに電話し、私には何事も起こっておらず無事であるとセルジュに伝えて安心させてほしい、と。そして私はパリの電話番号簿でドワイヨンという名の家を探した。最初に電話して出た相手はご婦人で、私は彼女にジャック・ドワイヨンという人をご存知ありませんか、と尋ねた。すると彼女はそれは私の息子ですと答えた。私は彼がどこにいるのか知りたいのですが、と言うと、ご婦人は今私の横で眠っていますよ、と。これがおしまいであり、これがはじまりだった。
ジュリアン・クレールのレコード録音の間、私の子供たちは妹(註:リンダ・バーキン)と一緒にアイルランドにいたはずである。子供たちが戻ってきた時、彼女たちには寝耳に水だったろうが、私たちはヒルトン・ホテルに移動した。セルジュは私と子供たちがパパラッチに追われながら二つ星ホテルにいてもらっては困ると思ったのだ。子供たちと私はホテルの部屋に閉じこもり、彼女たちをバイリンガルスクールに送っていく時だけ、数ヶ月前にセルジュが私に買ってくれたポルシェに乗り込んでホテルを脱走した。私は彼がすべてを理解し、そして私が自殺することを望んでいたのだ(この筋書きは映画『シャルロット・フォーエヴァー』の中で再現される)と想像した。彼はヒルトンにやってきた私たちを訪問したが、やつれきっていた。この頃、カトリーヌ・ドヌーヴは『ジュ・ヴ・ゼーム』(註:1980年クロード・ベリ監督映画、共演ジャン=ルイ・トランティニャン、ジェラール・ドパルデュー、アラン・スーション、ゲンズブール)の撮影中で、たぶんこの時にカトリーヌは彼女ならではのとびきりの優しさと繊細さでもってセルジュの世話を見るようになったのだ。私たちの別離の不幸の影で、彼女はそれを表面に出さずにいた。彼女がセルジュとデュエットで歌った「神はハバナ葉巻を吸う Dieu est un fumeur de habanes」を例外として。私は常に彼女には守護的人物として限りない敬意を抱いている。
(ジェーンB『マンキー・ダイアリーズ』p334-335)

(↓)ドヌーヴ&ゲンズブール "Dieu fumeur de havanes" (1980年)

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記事の表題「涙のシャンソン日記」(日本語題)は、フランス・ギャルの世界的大ヒットシングル「夢見るシャンソン人形」(日本語題)(ゲンズブール作1965年)に続いて、1966年に日本で発売されて中ヒットしたフランス・ギャルのシングル盤。ゲンズブール作。歌詞には「日記」などという言葉は出てこない。原題の"Attends  ou va-t'en"は、「待ってよ、それがいやなら別れてよ」とどちらかの決断を迫る内容。1980年のジェーンBは、極度のアルコール漬けとなって暴君的な振る舞いが顕著になったゲンズブールに耐え忍ぶ限界を何度も超えていた。その日記は、(改善を)待つか出ていくか、の自問に終始している。
(↓)1997年(ゲンズブールの死の6年後、ミッシェル・ベルジェの死の5年後)、フランス・ギャルの最後のライヴアルバム"Concert Privé"の「涙のシャンソン日記」




2018年10月24日水曜日

艱難シンクロ

『ル・グラン・バン』
"Le Grand Bain"

2018年フランス映画
監督:ジル・ルルーシュ
主演:マチュー・アマルリック、ギヨーム・カネ、ヴィルジニー・エフィラ、レイラ・ベクティ、ジャン=ユーグ・アングラード、ブノワ・プールヴォールド、フィリップ・カトリーヌ...
フランス公開:2018年10月24日

 ランスで公営プールに行くと、だいたい大小のプールがあって、子供や高齢者や泳げない人らが水浴び・水遊び・水中リハビリなどをしているのが小さく浅い方で、「プチ・バン(Petit Bain)」と呼ばれている。それに対して泳げる人たち専用の大きくて深い方のプールを「グラン・バン(Grand Bain)」と言います。グラン・バンはお遊びではないので、競泳の練習に使われたりするので、ちんたら平泳ぎで泳ぐ不届き者たちは「あんたらはこっちじゃない!」と怒られるのです。この映画はそんな地方(雪山が近い小さな地方都市)の公営プールが舞台で、日中の一般利用が終わったあと夜には競泳やウォーターポロなどのクラブが時間分割でグラン・バンを使って練習するようになっている。しかし、この町には一風変わった「男子シンクロナイズド・スイミング」(通称シンクロ。これは2017年からアーティスティック・スイミングと競技名が変わったそう。とりあえずここではシンクロ。映画の中でも Synchro サンクロと言っている)というのがある。一般的認識からすればこれは女子の競技であった。だから男子シンクロへの世間様のジェンダー的偏見はこの映画でもやや強調されている。そこがこの映画が「フランス版フル・モンティ」と評されるゆえんであるのだが、それはそれ。 
この男子シンクロ部に集まってくるのは、揃いも揃って中年ルーザーたちばかり。この辺も90年代英国の破綻地方都市の失業者たちが主役の「フル・モンティ」と通底するもの。抗うつ薬を朝食に混ぜて飲む2年間失業者ベルトラン(演マチュー・アマルリック)、鉄工所工場長ながら極端な短気ゆえ家庭も老いて施設にいる母親との関係も壊してしまうローラン(演ギヨーム・カネ)、経営能力ゼロで既に4つも会社を潰して今の会社も倒産寸前の中小企業主マルキュス(演ブノワ・プールヴォールド)、社会順応性が乏しくイジメられやすくも心優しい公営プール従業員ティエリー(演フィリップ・カトリーヌ。隣のテーブルの集団の冗談を聞いて大声で笑いながら一人で昼食を取る、という寂寥ギャグが素晴らしい)、それらどのパーソナルストーリーも珠玉の21世紀型残酷コメディーであるが、ひときわ私の胸を打つのがジャン=ユーグ・アングラード演じる長髪の没落ミュージシャンにして昼は学校給食給仕係のシモン。十代のひとり娘がいるが、その母親には縁を切られ、ひとりキャンピング・カー(兼ホームスタジオ)で暮らす住所不定人。自主制作で何枚もアルバムを制作するが、箸にも棒にもかからず、ステージと言えば養老ホームか田舎のバル(20世紀前半的意味のダンスホール)、それでもいつかは世界的ロックアーチストになるという途方もない夢をどうしても捨てられない。ここがひとり娘にとって父と和解できない最大の理由であり、「パパは絶対にデヴィッド・ボウイになれっこないのよ」と諭すのだが...。このオールドファッションドな夢みるロック中年は、ある種ジョニー・アリデイ追っかけ中高年たちと似た、自分の音楽の「正しさ」神話にしがみついている。ストーリーの後半になるが、世界選手権にチームが使用する演技のバック音楽を検討し始めた時、シモンはここぞ自分の出番が来たと、嬉々として(みんながあっと驚くはずの)オリジナル曲を作り、自信満々にその録音したものをチームに披露するのだが...。
 コーチは元シンクロ・デュオでさまざまな優勝経験のあるデルフィーヌ(演ヴィルジニー・エフィラ)とアマンダ(レイラ・ベクティ)。この二人は世界の舞台で活躍できるはずだったが、アマンダが事故で下半身不随になり、デルフィーヌはそのショックでアル中になった。以後二人は疎遠になっていたのだが、このダメ男たちの世界選手権出場という目標で和解し、友情を取り戻すという筋もある。二人のコーチ法は対照的で、デルフィーヌはシンクロの女性的エステティスムを教え込もうとする一方、アマンダはスパルタ鬼コーチであり時に暴力的ですらある。天使と悪魔(アンジュとデモン)なのである。
 さて話は前後するが、ちんたらと中年ダメ男たちのストレス解消の水中お遊戯にすぎなかったこの男子シンクロは、ある日ティエリーがインターネット検索で、既に世界に男子シンクロチームが多く存在し、さらにその世界選手権大会が開催されることになっていると知った時点で、映画は急激にテンポが良くなる。この世界選手権に参加申し込みをし、そのチーム名を「フランス代表チーム Equipe de France」と勝手に名乗ってしまうのである。フランスには他に男子シンクロのチームなどないのだから。ここから、あのフットボール世界チャンピオンのレ・ブルーと同じ誇り高さで、この中年ダメ男たちは世界選手権に向けた猛練習を始めるのであるが...。
 ダメ男たちの変身/再生、これが映画の進行とパラレルに展開されるわけだが、冗談のように始めたこの挑戦が、やっていくうちにだんだん、ひょっとしたらできるのではないか、という自信や、辛く苦しい体験を共にすることによって日に日に強くなっていくチームの連帯、というこの種の映画の"美談”ぽさがどんどん表面に出てくるんだな。けっ。
 そして、シモンのキャンピングカーに全員乗り込んで、ノルウェーで開催される男子シンクロ世界選手権大会へと向かうのでありました...。

 この映画は2017年に制作されて、2018年5月のカンヌ映画祭に出品されたもの。だから2018年7月のフットボールW杯のフランスの優勝は知らずに作られたものだが、10月現在もなおレ・ブルー優勝の余韻はフランスに残っていて、その熱はこの「フランスチームが世界チャンピオンになる映画」におおいに味方するだろうし、この映画は大ヒット間違いないだろう。「勝つ」という大団円に向かうシナリオの映画は安直だと思う。しかし「勝つ」という幸福を覚えた人民はこういう映画に本当に弱いはず。そういう意味で、2018年的ツボを見事に当てた映画と言えるでしょう。だって、みんなハッピーになりたいんだから。それを助長するように、シンクロと切っても切り離せない「音楽」がこの映画ではエイティーズものオンパレードで、オリヴィア・ニュートン・ジョン「フィジカル」や、世界選手権でのフランスチームの演技バック音楽で使われるフィル・コリンズ&フィリップ・ベイリー「イージー・ラヴァー」(ダリル・スチューマーのギター・ソロのところ、シンクロ演技では仲間たちに水上にリフトされたジャン=ユーグ・アングラードが迫真のエアー・ギターを延々と)など、中高年泣かせのサウンドトラック。今季最高のフランス産コメディーと言っておきましょう。少しはこんな映画観て幸せになりましょうよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓) 『ル・グラン・バン』予告編

2018年10月7日日曜日

働かないと手のひらに毛が生える

Les 40 heures
週労40時間

詞:アンドレ・ヴァルシアン、ジャン・ペラック
曲:シャルリス、ロマーニ

ッスー・テ&レイ・ジューヴェンのアルバム "OPERETTE VOL.2"(2018年10月19日フランス発売)の中の1曲。1936年、人民戦線政府(首班:レオン・ブルム)が施行した2大政策(2週間有給休暇、週40時間労働)のひとつ。それまでの週労働時間は48時間で、まる1日短縮された計算。このテーマをマルセイユのシャンソニエ、アンドレ・ヴァルシアン等が風刺歌にして、ダルサリスが歌ってヒットさせた。ナチズムが吹き荒れる直前、ひとときの労働者時代を謳歌するマルセイユ歌謡。「週労40時間と言ったって、まだ39時間は働きすぎなのさ」という正しさ。はげしく同意。曲のリズムはワルツではなく、ジャヴァである。

週労40時間なんて
すごいじゃないか
3日間も
家を離れられるぞ
田舎に行ったり
澄んだ空気を吸ったり
海や山や コートダジュールまでも行けるぞ
仕事で苦労ばかりしてるんだから
週労40時間とは言っても
39時間は働きすぎってことさ

昔 人民は
奴隷制のもとで縮こまってた
昼も夜も
未開人のように働いてた
だが幸いにして人民は
権利を勝ち取ったんだ
もはや人民はレジャーのことしか考えない
快楽のことしか考えない

シャルキュトリー(腸詰屋)は最低でも3日は休むようになった
その言い訳が
ビストロでとぐろ(腸詰)を巻くためだって
やりすぎだろう
床屋は日曜日休業だ
それで俺たちの手のひらに生えた毛さえも
註:手のひらに毛が生える=手を長いこと使わない=怠惰
剃ってくれないんだ
週労40時間なんて
すごいじゃないか
3日間も
家を離れられるぞ
田舎に行ったり
澄んだ空気を吸ったり
海や山や コートダジュールまでも行けるぞ
仕事で苦労ばかりしてるんだから
週労40時間とは言っても
39時間は働きすぎってことさ

(↓)ムッスー・テ&レイ・ジューヴェン「週労40時間」

(↓)ダルセリスのヴァージョン(1937年)

2018年10月2日火曜日

Tu parles, Charles.

2018年10月1日、シャルル・アズナヴールが94歳で亡くなりました。私は熱心なファンではないし、レコードCDも多く持っていないし、コンサートも一度も行ったことがない。いわばテレビ越しのリスナーでしたが、歌える曲は何曲かあります。その偉大さは死後48時間たった現時点でも、ラジオ/テレビの特番でいやと言うほど聞かされました。安らかにお休みください。
私がこのアーティストにどうしても馴染めなかったのはその絵に描いたような「国際スター性」であり、偉人のようにふるまう「偉人性」だったように思い返しています。そこのところは単なる偏見ではないと思っていました。で、その死んだその日に、私が最も信頼するシャンソン評論家でありテレラマ誌のジャーナリストであるヴァレリー・ルウーが、(死の報道から1、2時間で書き上げたであろう)アズナヴール追悼記事をテレラマのウェブ版に発表しました。そこには彼女が、どうしてここまでアズナヴールが自分の価値を絶えず証明しようとするのか不可解になったことが吐露されていました(!)。Tu parles, Charles (激しく御意)。しかしこの偉大な芸術家は、その晩年に多くの若者たちに囲まれて、人々の歴史の中に入っていく、という感動的な瞬間をルウーは証言しています。ルウーの筆に感謝。私も見方が変わりました。以下、ルウーおよびテレラマ誌に許可なく、ルウー記事全文を訳します。

千の歌を持つ男、シャルル・アズナヴールを回想する

今日10月1日の月曜日に94歳で亡くなったシャルル・アズナヴールは、2007年9月、プロヴァンス地方の自宅でテレラマ誌の二人のジャーナリストの長時間インタヴューに答えていた。

天気のよい夏の終わりだった。サン=レミー・ド・プロヴァンスに近いムーリエス村にある彼の自宅に私たちは迎えられた。建物は低く、大きかったが控えめで、周りを囲む塀の中にひっそりと建ち、目立ったものは何もないが彼が育てているオリーヴの木々が生い茂る大きな庭があった。このオリーヴの木々が彼の自慢でもあった。入り口の前にどんと構える1本はおそらく樹齢100年を越したものだろう。うろ覚えだが、シャルルはすでに大きかったこの木をある暑い国から取り寄せたのだった。木はこのアルピーユ地方の土に再び根を下ろしていった。少し彼に似た話だ。

アズナヴールは公式にはムーリエス村には住んでいず、スイスの居住者となっていた。しかしこのプロヴァンス地方で多く時を過ごすようになり、ここがどんどん好きになったと言っていた。彼は大広間を行ったり来たりしていた。そこにはピアノ、バー、テレビとりっぱなDVDコレクションがあった。彼はそのきちんと整理されたコレクションを私たちに見せてくれたのだが、すべてセロファン包装のままだった。そこには彼の生涯の女性(1967年に結婚した3度目の妻でスエーデン人のウラ・トルセル)の同国人であるベルイマンの全映画があった。ユゴー・カサヴェッティ(テレラマ誌音楽ジャーナリスト)と私は彼の何度目かのステージ復帰の機会に合わせたロングインタヴューのためにこの家に二日間に渡って迎えられたのだった。それは2007年のことで、彼は当時83歳だった。耳は少し遠くなっていたようだが、意気は闊達で、ボクシンググローブを吊るす(=引退する)ことなど毛頭考えていない様子だった。

このボクシングの例えは彼に似合っていた。アズナヴールの生涯と芸歴はまさにボクシングの試合のようなものだったから。亡命者の子供だった彼は、パリのアルメニア人コミュニティーの中で育ち、暮らすのがやっとな環境だったが、演劇や音楽の中にささやかな慰めを見出すことができた。そのスターとは程遠い見てくれとくぐもった声で最初はシャンソン界の嫌われ者だった。特にその声は幾多の嘲りの対象となり、英米人たちは「アズナヴォイス」と呼んだ。その彼は戦争と物のない時代を経験したし、食うために雑多な仕事をこなし、なんとか切り抜けた上、芸能学校に通い、自分に誓った約束を忘れなかった。誰も予想もできなかったことに、彼はピアフに見出され、彼女の祝福を受け、ついには国際的スターの座にまで上りつめた。彼の広間の壁の一面には数々のゴールドディスクやいくつかの世界的な雑誌の表紙が飾られていた。それは他に類を見ない彼の芸歴のほんの一片でしかない。作品は800曲以上、それは8カ国語で録音され、売ったアルバム数は世界で1億8千万枚近くに及ぶ。

2日間にわたって彼は私たちの質問に答えた。忍耐強く。彼のデビュー、最初のヒット曲、書くこととの関わり、毎日新しいことを習得しなければ気がすまない本能的な欲求(彼は10歳で学校に行くのをやめた)について彼は語っていった。また彼の公的イメージや彼と金銭との関係についても弁明した。彼はアルメニアについて言及した。「郊外」についても。世界中のつまはじきにされた者たちについて、ずっと前から彼は自分に近いものを感じていたと。彼は大げさでもあり痛ましくもあった。というのはその静かに始まった話は徐々に聞き捨てならない言葉の数々が目立つようになっていったのだから。単刀直入になった。アズナヴールはつけていた超最新式の補聴器を外しテーブルの上に投げ出すことさえしたのだ。この補聴器はずっと彼の気分を害していたに違いない。それからあとは私たちは大きな声で話さなければならなくなったが、話はずっとよくなった。もはやフィルターがなくなったのだから。

2日目、録音機をしまった後、彼は昼食に彼が常連であるらしい小さなレストランに私たちを招待した。気取りなしに。しかしその直前に彼は私たちにその図書室(広間のDVD棚と対をなして広間の反対側にある)を見るようにと言い張ったのだ。そぶりはまったく見せないが、アズナヴールはその個性的な教養が欠如しているということをまたもや自ら証明しようとしていたのだ。そこまで行く途中、別の間があり、彼は大棚を開けてみせた「待ちなさい、これをごらんなさい」… そこにはトロフィーの数々、そしてフランスと外国のファンたちから(多くは外国から)受け取った贈り物の数々が陳列されていた。その中で彼をひときわ喜ばせたらしい彼をモデルにした小さな銅像のことを私はよく覚えている。私はそこで笑いをこぼしたのだが、その笑いを彼には見せなかったということもよく覚えている。まさにこの瞬間、この驚嘆すべき芸歴を持ったこの男が、人がどう言おうが、彼の価値を証明するために畳み掛けてものを見せようとするということをどう考えていいものかわからなくなった。間違いなくこれは、二度と塞がることがなかった古い亀裂のしるしではないか。

そしてそれはステージ上でも同じことがあった。フレンチ・クルーナー、千両役者、驚くほど感動的なことは確かだが、休む暇なく歌から歌へつなぎ、時間の無駄を省き、ファンたちが要求する前にアンコール曲を告げてしまうなど挑発的なところもある。これらのコンサートにおいて、何ら聖化されたものはない。例外は多分彼自身の伝説のみ。そのスペクタクルはアーティスティックな魔法よりも、何らの支障がない簡潔で完璧なプロのパフォーマンスということに重きが置かれていた。しかしそれは2015年のパレ・デ・スポールのコンサートまでのこと。アズナヴールはその時91歳だった。私たちがムーリエス村に訪問した時に比べたら腰は少し曲がっていたかもしれないが、そんなに曲がっていたわけではない。奇妙なことに彼の声は往年の強さと音程の正確さを取り戻していた ー おそらく新しく優秀な補聴器を見つけたのに違いない。しかしなによりも彼は以前よりも身近な存在に見えたのだ。突然若返ったように見える聴衆たちの溢れるような愛情に感動した表情を見せたのである。それ以後、ファンたちはステージ前に駆け寄っていくことができるようになった。30人ほどの人波が急いで寄っていき、耳を聾するばかりの声を張り上げ彼と共にヒット曲の数々を歌う。彼は信じられなかった。こんなに多くの若者たちが彼を祝福しているのを見て、彼は狂喜し仰天した。まさにアズナヴールは彼らの家族的で親密な歴史の一部となったのである。そしてこの夜、彼は私の個人史の一部にもなったのである。

 ヴァレリー・ルウー
(テレラマ誌ウェブ版2018年10月1日)
(↓)2015年パリ、パレ・デ・スポールでのアズナヴール(ライヴDVDのプロモーションヴィデオ)