(以下翻訳はじめ)
France Gall, une figure française
(フランス・ギャル、あるフランスの顔)
この1月7日の日曜日、70歳でこの世を去ったフランス・ギャルは、ミッシェル・ベルジェやセルジュ・ゲンズブール等によってつくられた、数え切れぬほどのヒット曲を残した。フランスという国は1960年代に少女時代の彼女を見出した。私たちには彼女が大人になっていった印象はあるが、彼女が歳とって老いたという印象はまずない。
公式には彼女は今から20年前に歌手活動から退いた。1997年のこと。娘のポーリーヌが嚢胞性肺繊維症で亡くなったあと。それは夫であり良き指導者であり、驚くべきヒット曲メーカーだったミッシェル・ベルジェの死の5年後だった。「私は老いた女歌手にはなりたくない」とフランス・ギャルは断言した。もう随分昔に彼女は歌えと言われればそのもたらす結果がどんなものかを考えることもなく歌っていたシクスティーズの無邪気で単純な可愛こちゃんをやめてしまっていた。それどころか、ショービズ界の事情通は、彼女のしっかりした性格、そのプラグマティズムと明晰さをよく口にした。しかしなぜ50歳の若さで歌うのをやめてしまったのか?それはベルジェなしではその未来は前ほどに明るくないということを予感していたからにちがいない。いずれにせよ、彼女はその約束を守った。一度だけ、2000年夏、オランピア劇場でジョニー・アリデイの傍で一緒にデュエットで「テネシー」(ミッシェル・ベルジェ詞曲)を歌うという時だけ、こっそりと現れたが。今から2年前、ベルジェ(と彼女自身)へのオマージュのミュージカル作品「レジスト(Résiste)」の制作に関して、近い距離からそれを注視していただろうか? よくよく見ると、フランス・ギャルはその芸歴をベテランの船の舵取り航海士のように操ってきた、ということが検証される。彼女は自らを傷つけない方法を知っていて、永遠の若さを体現できていた。フランスの人々は60年代半ばに、子供時代から抜け出したばかりの彼女を発見し、大きくなるのを見届けてきたが、年老いたことは全く知らない。
そしてそこには言うまでもなく歌の力があった。どうでもいいような歌ではない。驚異的な数のヒット曲、それは大衆的なレパートリーのパワーによって変動してきたものだが、それは世界を変えることを求めているのではなく、世界を楽しくさせ、少しだけ優しくすることを追求していた。今日彼女のディスコグラフィーを辿ってみると、めまいを起こしそうになる。ギャル+ベルジェのペアは1970年代そしてとりわけ1980年代の私たちのBGMの大部分を形成してきたのだ。それは全く最悪のやり方ではないのである。確かにこのペアの数々の歌は、かのアラン・スーションのような個に親密で社会構成的な繊細さはないだろう。しかしそれらの歌は人々がすぐに忘れてしまうような多くの状況刹那的なヒット曲に比すればずっとエレガントなものである。ギャル+ベルジェペアの流行歌はシックなものである。人が口ずさむことに恥じらいのないような。それは偉大な先人たちの詩的な作品群やかのヴェロニク・サンソンのような斬新で思い切った創作により大きな評価を与える人たちにあってもである。はっきり言うと、ミッシェル・ベルジェはそういった人々に通用する錬金術を見つけたのである。彼はフランス・ギャルのために平易な詞の上に強力なメロディーを彫り込んでいったのである。その詞は平易なものではあるが単純なものではない。それはもちろん永遠のテーマたる恋愛の前に屈することもあるが(”La déclaration d’amour”, “Besoin d’amour”)、政治囚というテーマに及ぶこともあり(”Diego libre dans sa tête”)、世紀の大芸術家に敬意を評することもあり(”Cézanne peint”, “Ella, elle l’a” = エラ・フィッツジェラルドへのオマージュ)、生き延びるための頼もしい𠮟咤の声を上げたり(”Résiste”, “Débranche”)、落語者たちの行く末を身を屈めて見つめたり(”Babacar”)、人の弔いをめぐってその不在の深さを歌ったり(”Evidemment”)。もしもそのレパートリーに、音楽的あるいはテーマ的なモチーフがかなり重複していたら、ギャル+ベルジェは一つのスタイルを確立できただろう。そうしたら誰もがそれに飽き飽きしてくるはずだ。
このようにして、フランス・ギャルは幾千人と存在する流行歌の歌い手の一人として、一線を画すことに成功したのだ。しかしそれは前もって決められていたことではない。ベルジェ期の前、彼女は違う歌手の道を歩んでいたのだし、それはイエイエ時代の終焉と共に(多分その少し前にでも)消え去るはずだった。確かにこの娘は中産階級の出ではなく、アーチストの家(父はアズナヴールの作詞家だった)の出で、その”Sacré Charlemagne”(「シャルルマーニュ大王」1964年)をはちきれる肺活量で歌って、わずか16歳で成功を収めた。確かに彼女が続けざまに当時の最も優秀な書き手たちによるオリジナル曲を与えられたのに対して、当時の大部分の歌手たちは英米のレパートリーのカヴァーで満足しなければならなかった。そしてもちろん彼女にはその18歳の年にセルジュ・ゲンズブール作の”Poupée de cire, poupée de son”(「夢みるシャンソン人形」)でユーロヴィジョンで優勝した。しかしその当のゲンズブールが彼女にもう数曲の刺激的なポップの宝石(”Nous ne sommes pas des anges”)を練り上げたのに、彼はフランス・ギャルの青臭い天真爛漫さをややもてあそびすぎた。”Les Sucettes”(「アニーとボンボン」)の不透明なダブルミーニングはこの少女のイメージをひどく傷つけた。彼女の全ての歌にかけられた疑惑を全て消し去るまでは。まだまだ貞淑ぶっていた1966年のフランスにあって、彼女はそれから立ちあがってくるのは不可能だったろう。
もっとも、彼女が第一線に戻ってきて、1997年の引退まで継続的にトップシーンにい続けるためには、10年近くの待ち時間を要したのだから。しかし間違ってはいけない、その仕掛け人がゲンズブールやベルジェという名前であろうとなかろうと、彼女の人気を作ったのは彼らだけではない。年月の流れと共にこの女性は強固なものになった。メディアで話題となった彼女の人道的行動(とりわけアフリカへの支援)、少しずつ露呈していった彼女の過去のアヴァンチュールの数々(クロード・フランソワ、ジュリアン・クレール)、ヴェロニク・サンソン(ベルジェのもう一人の熱愛者)との有名な小競り合い、その理想化された結婚劇、それらのことが彼女を単なる大衆的人気歌手ではないもっともっと大きなものにしてしまったのだ。すなわち1980年代を象徴する大人物に。それは希望とその後来る失望の10年間だった。それは確かに私たちが今日生きている10年間よりは気苦労の少ないものだった。それもあって、私たちは今日彼女の死に泣いているのである。
ヴァレリー・ルウー Valérie Lehoux (テレラマ)(翻訳終わり)
註:テレラマ記事(Web版)にはテクストの外に以下の楽曲のクリップ(YouTube)が挿入されています。
- "Quelque chose de Tennessee" (ジョニー・アリディとのデュエット、 2000年)
- "La Déclaration d'amour" (1974年)
- "Ella, elle l'a" (1987年)
- "Résiste" (1981年)
- "Babacar" (1987年)
- "Evidemment" (1988年)
- "Sacré Charlemagne" (1964年)
- "Poupée de cire, poupée de son" (1965年)
- "Les sucettes" (1966年)
(↓)1997年の引退後、一度だけ公式の場に上がって歌った「最後のステージ」。ジョニー・アリデイのオランピア公演中、ミッシェル・ベルジェ作詞作曲でジョニー・アリデイの代表曲の一つになった「テネシー・ウィリアムスのなにかしら(Quelque Chose de Tennessee)」
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