2023年7月17日月曜日

追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(2/2)を読む

(←リベラシオン紙2023年7月17日号フロントページ)

(前記事より続く)
2023年7月16日、76歳で亡くなったジェーン・バーキンに追悼の意を込めて、2018年と19年に上下巻で発表されたジェーンBの極私的日記の紹介記事(ラティーナ誌掲載)の(加筆修正)再録の後編です。
後編は(ゲンズブールとの破局後)ルー(・ドワイヨン)の懐妊から始まり、ケイト・バリーの突然の死(2013年)で終わる。社会的に行動する人(反極右、反レイシズム、移民支援、チェチェン、ビルマ、バルカン、そして東日本大震災)でもあったジェーンの姿もまぶしい。”ゲンズブール絡み”だけの人ではない。1年前に脳卒中(AVC)で倒れてからその健康状態の危うさが知られるようになったが、この日記でもずっと前から何度も入院していることが書かれていて、晩年のダメージはかなりのものだったと思う。2019年11月に書いた私のこの記事の結びが「生きていてください」となっている。これはあの時思わずついて出た言葉だけれど、今となってはかなわないこと。安らかに、ジェーン。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2019年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ジェーン・バーキンの極私的日記を読む・2

  
今からちょうど1年前、本連載は『ジェーン・バーキンの極私的日記を読む』という記事だった。ジェーン・バーキン(1946〜 )が11歳の時から認めていたごくプライベートな日記を編集した本『マンキー・ダイアリーズ』(1957 1982)の紹介だったわけだが、その1年後その第二巻めにして完結編のジェーン・B日記『ポスト・スクリプトム』(1982 2013)が刊行された。上下巻合わせて800ページの大著になった。日記第一巻は809月にジェーン・Bがヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸を出ていき、ジャック・ドワイヨンという同世代の映画作家と新生活を始めるという、大転換期の到来をもって終わる。いわば「ゲンズブール期」の終わりであった。図式的に私たちは「ポスト・ゲンズブール期」が第二巻に来ると思っていたのである。この見方は芸能記者的であり、ゲンズブール信奉者的でもある。つまり稀代の鬼才芸術家ゲンズブールと別れたジェーン・Bに何が残っているのか、という人格軽視である。ところがこの上下巻の日記800ページでわかるのは、ジェーンにとってゲンズブールの重要度は計り知れないものだが、彼女の大部分に及ぶものではないということ。ゲンズブールとの絡みのみで彼女を推し測ろうとすると、はみ出る部分の方がずっと多いのである。

 1982年、お腹にルー(・ドワイヨン)を宿している頃から下巻は始まる。ほとんど露悪趣味的に私生活をメディアに公開することで話題性を提供することを言わば戦略的にやってきたゲンズブールに歩を合わせて、高級/低級のグラヴィア雑誌に登場していたジェーン・Bは、ゲンズブールと正反対でメディア露出を嫌悪するジャック・ドワイヨンの意向を尊重して私生活を隠すようになる。映画女優としてのジェーン・Bは、フランスでのデビュー作でゲンズブールとのカップル成立のきっかけとなった『スローガン』(1969)以来、軽めのラヴ・コメディー向けファッショナブルでセクシーな女の役というパターンが決まっていた。喰うためには回ってきた役を断るわけにはいかないが、大女優ジュディー・キャンベルの娘はこのまま大衆コミック女優でいたくはないと思っていた。それをラジカルに変えたのが、新伴侶ジャック・ドワイヨンの監督作品『放蕩娘』(1981)に主演したことだった。夫と別れて両親の家に戻ってきた心理的に不安定な30歳女という、化粧を落として生身をさらけ出す難しい役どころを初めて演じたことによって、女優として別のディメンションを獲得したのである。映画は商業的な成功を得ることはなかったが、それ以来女優バーキンへのオファーは一転し、大衆コメディー映画はなくなり、いわゆる独立系の作家主義映画から声が多くかかり、ジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、アニェス・ヴァルダなどと仕事するようになるのである。

 
 彼女は全く自分に自信がなかった。全く無名の状態でイギリスからフランスに飛び込んできて、ゲンズブールというピグマリオン的パートナーのおかげで(スキャンダル効果で)歌手/女優としてスターダムにのし上がるが、それは人工的で表層的なものと知っていた。そしてこれはずっと後世に(今日まで)続く問題なのだが、彼女のフランス語は英語訛りが抜けず、間違いも多く、女優として大きなハンディキャップであると思っていた。それを大きく覆したのが、1985年、20世紀仏演劇界の鬼才パトリス・シェロー(1955
2013)18世紀マリヴォー作『贋の侍女』の主役にジェーンを抜擢したことだった。フランス語での演劇舞台など立てるわけがない、マリヴォーなど聞いたこともない、とジェーンはシェローに辞退しようとするのだが、シェローはそのハンディキャップのひとつひとつを彼女から取り除くことに成功し、先進的な古典劇のヒロインに仕立て上げ、その公演で高い評価を受けるのである。


 ポスト・ゲンズブール期は、操り人形師的だったゲンズブールの呪縛から解放され、一段上の表現力を得た女優への飛躍の時期であった。その変貌は当のゲンズブールにも大きく影響する。別離後も二人の子シャルロット(1971年生)の養育のこともあり、セルジュとジェーンは親密な関係を保っていた。心の傷はゲンズブールの方が数倍深く、すぐさま
amitié”(友愛的関係)に移れるわけはなかった。癒えようもない傷を抱えたまま、1983年、ゲンズブールは別離後初のジェーン・Bのソロアルバム『バビロンの妖精』の制作を申し出るのである。レ・ザンロキュプティーブル誌20191023日号のインタヴューでジェーンは「おそらく私の最良のアルバムに違いない。これは彼の悲嘆のどん底の時期のものよ。彼はその悲嘆を私に歌えと渡したのよ。彼はガンズバール“という挑発的な道化者に変身してしまったので、自分では人に見せることがなくなった彼のこの側面を私に託した。彼は私を通して彼の苦悩を表現する必要があったというわけ。」と語っている。

 

 彼女自身が最良と自負する『バビロンの妖精』
(←ジャケット)、それに続く『ロスト・ソング』(1987年)、そして『いつわりの愛』(1990年)の3枚のアルバムは彼女にとってだけでなく、ゲンズブール楽曲総体の中で並外れて叙情的な作品が詰まったものである。ゲンズブールの苦悩の重さを表現しただけでなく、アーチストとして女性として大きく変貌したジェーン・Bに彼は最良のものを与えたのである。

 そして運命の
1991年がやってくる。日記はその年が初めからどれほど複雑なものであったかを伝えている。20歳にならんとするシャルロットの5年に渡る最初の大きな恋が破れ(父の死という大きな悲劇の前に)すでに激しく不安定になっている。その姉のケイト(・バリー)は警察沙汰にもなる麻薬依存症で、センターでの隔離治療をやっと始めたところ。そしてジェーンは10年になるジャック・ドワイヨンとの関係を疑い始めている(彼女が熱望しているにも関わらず、ドワイヨンは彼女で映画をつくろうとしなくなってしまった)。それに加えて父デヴィッド・バーキンももはや余命短いことがわかっている。ゲンズブールはアルコールをやめない。あの32日の日記は動転している。

ママンが真夜中に電話してきた、セルジュが死んだ、と。
「セルジオ、今誰と何食べてるの?」

「水しか飲んでないよ」

「酒飲んだでしょう、嘘つきね」

「さあ、俺はもう仕事に出かけなきゃならないんだ」

「はいはい、そうでしょうよ」

「また、明日な」

「ダイヤモンドありがとう、優しいわね」

私は彼にそれを言ったのかどうかは定かではない。最も美しい贈り物があるとすれば、それは彼と再会すること。私は本当にありがとうと言ったのだろうか?その会話の翌日、ジャックが私に言った「セルジュに電話しろ、彼はおしゃべりがしたいんだ」、私はその時リンダ(註:ジェーンの姉)のところにいて、その次の日にしか電話できなかった、ありがとうセルジュ、あなたのすべてにありがとう。

ママンがセルジュは死んだと言い、そのことで私の世界はカオスに、静寂そして暗黒、セルジュが死んだ、ありえないわ、恐怖、殴打、すべては朧げだけれど、悪夢の正確さが。まだ頭の中にあるわ、そんなのありえない、彼じゃない、私はチェイニー・ロウ(註:ロンドン、チェルシー地区)のわが家に立ち寄っただけ、彼と私、もう幽霊だわ。

 Post-Scriptump162

 その時ジェーンはロンドンの借家で、ジャック・ドワイヨン、娘のルー(・ドワイヨン)、ケイトの息子ロマンと共に休暇を過ごしていた。パリにとんぼ返りして、ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸に着くと、執事からセルジュが死の二日前に買ったというダイヤモンドの指輪を渡される。棺の中に「マンキー」(ジェーンが幼女の時から抱いて寝ている猿のぬいぐるみ、日記の告白相手)を滑り込ませ、彼女は40年の半生をセルジュと共に葬るのである。その埋葬の前々日、今度はロンドンから電話が鳴り、父デヴィッドの死を知らされる。姉リンダにはいつもデヴィッドが「私が死ぬ時はセルジュを連れて行くからね」と言っていたという。

  19913月にほぼ同時に起こった最愛の二人の人間の死。私たちはゲンズブールのことを最重要に思いたい傾向があるのだが、日記はそうではない。個人史の正確な証言なのだから。日記では父の死の悲しみの方が大きな痕となっているように読める。ジェーン・Bの日記の気がかりの大部分は家族のことなのである。その中心は3人の娘、すなわちケイト・バリー、シャルロット・ゲンズブール、ルー・ドワイヨン(↑写真;ジェーンBと3人の娘)であり、順風満帆で育つことなどあるはずがなく、それぞれが大きな問題をいくつも抱えるのを自分ごととして正視してやらなければならない母親の告白が綴られる。3人のうち最も問題が多いのが長女のケイトだった。ローティーンの頃から学校も勉強も嫌いで、男友だちと遊び惚け、アルコールとドラッグにも早くから手を染めていてた。学校を変え、好きな道(服飾デザイン、写真)を見つけてやり、ドラッグ抜き治療、私生児出産。精神的にも経済的にも不安定だが、三姉妹で最も優しい気性のケイトをジェーンは恒常的に支えてやらなければならない。月日は流れ、2010年代になり、それぞれ問題を抱えながらも、シャルロットは女優/歌手として世界で活躍するスターになったし、ルーはマヌカン/女優としては花が咲かなかったもののシンガーソングライターとして世界的な評価を受けるようになった。最も知名度は低いがケイトも写真家としてやっていけるようになったと、波乱の母の歳月がやっと落ち着いたと思った頃、20131211日、ケイト・バリーは引っ越ししたてのパリのアパルトマンの窓から転落して謎の死を遂げている(事故死説と自殺説あり)。日記はその日付をもって、「もう何も書くことができない」と最終ページになる。 

娘を守りきれなかった母の限りない悲嘆は、ジェーン自身の70余年の人生そのものがスコーンと足を掬われた印象で描かれる。本書の最後の2行は

私の足の下にあった絨毯が引き剥がされ、私は転び、病気になった。それもいいじゃないか。(同 p425

と締める。絨毯の上を歩んできた人生だったかもしれない。不完全な自分におどおどしながらも、ゲンズブール、ドワイヨン、シェローらにぶつかっていき成長変貌をとげてきたはずだった。永遠の未成熟少女(ロリータ)は自分の娘たちに友だちのように甘える母親であった。それでも家族に囲まれ連帯しあうことで根をしっかりしたものにし、その家族連帯はバーキン家、ゲンズブール家、ドワイヨン家、アタル家(シャルロットの伴侶イヴァン・アタルの両親)に分け隔てなく拡張し、ジェーンはその大オーケストラのど真ん中にいた。日記は、ジェーン・
Bの様々な困難や試練の時を持ち支えるベースが、この拡大ファミリーであったことをよく示している。それを絨毯の道と比喩したのだと私は思う。

 ポスト・ゲンズブール期は、彼女が政治的/社会的な問題に大胆にコミットする行動でも注目された時期だった。反レイシズム/移民支援/チェチェン/ボスニア/ビルマ(アン・サン・スーチー)
ジェーン・Bは前線に立って発言し、行動し、現地へ飛んだ。激化する旧ユーゴスラビア紛争のさなかの1995年、セルビア人勢力に包囲されたボスニアの首府サラエボに、ジェーンは防弾衣に身を固め、セルビア側のスナイパーの攻撃をかいくぐり、国連平和維持軍にエスコートされて入城する。本書p194p21420ページは、娘ルーに宛てた手紙の形で書かれた、サラエボまでの道のりでの体験を詳しく伝える生々しい戦場レポートである。ここまでやったとは!
 このサラエボ行きに参加した行動的文化人の一人に作家のオリヴィエ・ロラン
(1947〜 )がいた。軍用車や民間タクシーを乗り継ぐこの旅でジェーンと隣り合わせたこの男は、まさに戦友として体験を共有した。ゲンズブールと同様12年ほど続いたドワイヨンとの関係も92年頃から冷えて別居していたが、ジェーン・Bはこの戦場の中で新しい恋に落ちるのである。ロランとの関係はフランスでもマスコミで取り沙汰されたことは少ないが、この日記では二人のパッションだけでなく、文化人的な惹かれ合いが大人“の世界を思わせる。二人とも過去の多いほぼ50歳の恋でもあったし。 

 社会派行動人ジェーン・Bの偉業で私たち日本人が忘れてはならないのが、2011年東日本大震災の際、いち早く日本にやってきて被災地を回ったのち、中島ノブユキを中心とした日本人バンドを率いて3年がかりで日本と世界で義援金集めのコンサート”VIA JAPAN”を挙行したこと。

 しかし日記の終盤、
2010年からめっきりページが少なくなってわかるのは、ジェーンの深刻な病気である。入退院を繰り返し、重いケモセラピー(化学療法)点滴の合間を縫ってコンサートを行っていたのだが、病状は簡単に好転しない。こんな状態の中で東日本大震災のニュースを見るや、いてもたってもいられなくなり、日本に飛んでしまったジェーン・B。そしてこの日記には「日本に行かなきゃ!」と彼女に言い出したのはケイト・バリーだったとある。それはあの長女の願いでもあったのだ。

 日記は閉じられたが、今日ジェーン・
Bは何もやめていない。最良のゲンズブール楽曲を歌い続けている。生きていてください。

(ラティーナ誌2019年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


(↓)ベルギー/ブリュッセルの本屋Librairie Filgranesで『ポスト・スクリプトム』 のプロモインタヴュー。だいぶ疲れている様子


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