2024年3月18日月曜日

小説ミドリ事件

Karyn NISHIMURA "L'Affaire Midori"
西村カリン『ミドリ事件』


西村カリンは在東京のフランス人ジャーナリストである。私はリベラシオン紙の読者であり、公共放送ラジオ・フランス(France Inter、France Info等)のリスナーであるから、彼女の記事やラジオ報道レポートの声にはずいぶん前から親しんでいると思う(多々参考にしていただいている、多謝)。ジャーナリスト活動は日本語とフランス語の両方で行っていて、日本のメディアにも登場しているので、知る人も多いはずである。著作も日本語で日本で発表しているものと、フランス語でフランスで発表しているものがある。フランスでの近著では2023年10月にエッセイ『日本 - 完璧さの裏側La face cachée de la perfection)』(Editions Taillandier刊)があり、書名が示すように表面的に完璧を装うことができる国日本の議会制民主主義の”半独裁”状態や、報道の自由の大メディア側からの”自主規制”など、日本の「反権力」不在の状態について詳説している(是非とも日本語訳出してもらわないと)。
 さてこの本は上述の著からわずか4ヶ月後に発表された西村カリンの初の小説作品である。フィクションであるが、"Presque tout est vrai"(ほぼすべてが真実)と序文と裏表紙に強調されている。小説の話者「私」は日本に長年駐在しているフランス人ジャーナリストであり、日本で二人の子を産み育ててもいる”日本生活者”である。作者自身を投影させたような設定ではあるが、建前はフィクションの人物である。事件は2017年の東京、ヤマダ・ミドリという名の20代の女性が5歳になる娘を自宅で殺害し、バラバラに切断した遺体を自宅で発見された状態で逮捕され、犯行を自供した。さらに、その前に起こっていた双子の嬰児殺害+コインロッカー遺棄事件の容疑がかかり、DNA鑑定の結果ミドリと一致してその犯行も自供した。自分の幼子を3人惨殺した風俗系の職業のごく若い女、事件は連日のワイドショーねたとなり、その出演タレントたちの情緒的なコメントで全国のお茶の間の犯人バッシングの大波を形成していく(というような”日本的特殊事情”を話者はフランス読者に説明しなければならない)。バッシングの矛先は家族に及び、全国ネットテレビのカメラの前に母親が引き摺り出され、深々と頭を下げて娘の凶行を全国民にお詫びすることになる(これも”日本的事情”)。そして、このような稀に見る非道な凶悪犯罪には「当然死刑でしょ」という一般市民のオピニオンがすぐに出来上がってしまう。
 話者はここで日本が世界の時流に逆らうように死刑を頑なに固持している国であり、しかもその刑の執行が確実に行われているという事情を示す。OECD加盟38か国のうち、今なお死刑を執行している国は日本だけ。日本で死刑廃止を求めて運動している市民たちはいる。しかし世論調査をすれば死刑存続賛成が大多数になってしまう。この世論の支持を担保にするかのように、日本の司法は死刑基準(話者は”永山スタンダードという言葉で説明する)に相当すると判断するや躊躇なく死刑判決を下している。

 ジャーナリストとして話者はこの残忍な子殺し事件を理解しようとする。理解することは犯罪を赦すことではない。なぜ、いかにして、この若い娘は凶行に至ったか。彼女は貧困など不幸な生い立ちがあるわけではない。そのヤマダ家は自営業(漁業+魚類販売)の父、主婦の母、早稲田まで進学することになる兄リュージ、そして近隣都市(いわき市)の専門大学に進学するミドリの四人家族だった。だがその家族のいた場所を聞いて合点がいく者も多かろう:福島県双葉郡双葉町。すなわち2011年3月11日東日本大震災による福島原発事故で、全町民が家屋を捨て強制的に避難を余儀なくされた町である。小説は悲劇のルーツをここに集中させる。父母は家業も家も放棄し、2度の避難移転の末、県内の仮説住宅に身を寄せる。子供二人の学費は?(話者はフランスとは全く違う日本の教育事情を子供が大学を出て社会人になるまでの莫大な費用についても言及している)ー そしてこのような大惨事が待っているとはつゆ知らず20歳になったミドリは恋(と呼べるのか)をし、妊娠してしまう。大震災+原発事故はヤマダ両親を徹底的に痛めつけ(のちに父は自殺に追い込まれる)、両親に相談できたり頼れる場合では全くないと悟ったミドリは、(おまけに子供の父親になるはずだった男は無責任に逃げ、生まれても子を認知しない、と)、大学を捨て、首都圏に出てシングルマザーとして生きることに。そこからのミドリの行状はフランスの読者にも想像できないことではないと思うが(ネットカフェに寝泊まりしたり、JKの扮装で接客したり、NGOに子守りを押しつけたり...)、”風俗の闇”へ深々と入っていくのである。生まれた娘マヤは食事を食べさせてもらえないことはざらで、愛人か客か、そういう男がミドリのアパートに来る時は、ベランダに出されて夜を明かすこともあった...。
 ディテールであるが、作者は兄のリュージをあまり登場させることなく、非常に重要な役目を課している。それは小説の最終3ページのカタストロフィーの中心人物にまでなるのだが、その結末についてはネタバレしないでおこう。ヤマダ家にあって父親はリュージに家業の魚類販売業を継がせたいのだが、リュージは包丁で魚をさばくことを覚えようとしない。次いでジェンダー問題である。リュージはゲイである。ステロタイプ化された見方であるが封建的東北人のオヤジたる父親はこのことでリュージと軋轢があり、その間に入ってリュージを擁護するのが妹のミドリだった。この兄妹には強い絆があった、という重要な軸がなければ、あの最後のカタストロフィーは成立しないのだけど、この小説のこの分の組み立てはかなり強引で無理がある(と私は思う)。
 ミドリは捕らえられ、2件計3人の子殺しを認め、長い取り調べの間中抗弁もせず、自分の犯した罪の大きさに打ちひしがれ、憔悴していった。ジャーナリストとして話者はこの裁判に立ち会っていくのだが、もはや争点は有罪か無罪かではなく、誰が見ても有罪が確定しているこの事件にあって、検事側が間違いなく求刑するであろう死刑、そのために検察が準備した鉄壁の書類の壁に、弁護側がどれだけ情状酌量の可能性で抵抗できるか、ということになる。話者の視点はロベール・バダンテール(1928年 - 2024年、奇しくもこの小説の発表時期だった2月8日に他界し国葬となった)の尽力で1981年に死刑を廃止した国フランスのそれであり、ヒューマニストの立場と言っていい。死刑から救うために凶悪殺人犯を法廷で弁護していたバダンテールを想起し、話者はこのミドリ裁判でバダンテールのような弁護士の弁論があれば、と願う。ここがこの小説の重要な読ませどころで、法廷に立った弁護士ニシミヤ・カズオは小説の6ページ(p74 - 79)にわたって、ミドリの双葉町での生い立ちから大震災・原発事故そして首都圏での風俗地獄など、仔細におよんで展開し、この境遇を考慮に入れる必要性を力説した。おそらく西村カリンが最も力を込めて書いた箇所であろう。見事にシアトリカルにしてロジック。そしてなんとニシミヤ弁護士はこの弁論の中で、フランスでのテロ事件も引き合いに出すのである。
想像してみてください。フランスのような国がその国籍を持つ若者たちによる数度のテロリズム攻撃に見舞われたのです。これは私のつくりごとではありません。最近の出来事から例として引き出したのです。彼らが犯した行為の動機を、その社会的背景を抜きにして、彼らの狂気によるものとだけ見なすことは可能でしょうか?みなさんは普通の日本市民であり、この事件について何も知らないかもしれない、フランスは遠い国でしょう、しかしながら、みなさんの心の中で直感的にこう思うでしょう:この若者たちには明らかに生きづらさがあり、憎悪を抱いている、と。そして彼らの生活について思いをめぐらすでしょう。彼らは不幸なのだろうか、移民系の出身なのだろうか、差別の被害にあっていたのだろうか、仕事はあったのだろうか、彼らは社会から放棄されたと感じていたのだろうか?みなさんはそう考える前提としてその社会的背景を問うのです。それはごく当然なことであり、社会的背景は間違いなくある役割を果たしたのです。ミドリ事件についてもみなさんの同じような考慮をお願いしたいのです。(p78-79)
(↑)これ日本の法廷でどうでしょうね? それはそれとして、ニシミヤ弁護士の大雄弁は見事に功を奏し、判決は死刑を退け、無期懲役刑となる。これに話者はある程度の安堵は得るのであるが、監獄で一生を終わるであろうミドリという若い娘に心とらわれ、ジャーナリスティックな視点を離れて、ひとりの女性として(ひとりの二児の母として)このミドリを深く知りたいと思うのである。つまり記事やルポルタージュのためではなく、人間として出会いたい、と。ここが言わば”作家西村カリン”誕生の瞬間であろう。ミドリの母に会いに行きミドリの生い立ちや人となりや夫(ミドリの父)の自殺について聞く。次に話者は獄中のミドリに手紙を書く。ミドリから手紙の返事が来たら小菅の東京拘置所に面会に行こう、と。この手紙を書く段で話者はフランスの読者向けに日本語で手紙を書くことがいかに難しいかを講釈している。あいさつはどうするのか、敬語はどうするのか、主題の切り出しはどうするのか、たしかに日本語の手紙は難しい。手紙文例集などを参考に話者はミドリにペン書き日本語書簡をしたためる...。
 話者はジャーナリストとしてではなく私的個人としてミドリと向かい合い、ミドリに信頼のようなものが芽生えていく。ミドリの母とミドリの繋ぎ役になり、さらにミドリは兄リュージへのメッセージも話者に託す。
 だが死刑の国日本の司法はリベンジを用意していて、ミドリ事件第一審の無期懲役判決を不服として検事側が控訴する。何が何でも死刑をもぎとろうとするこの圧力はどこから来るのか。刑事裁判において99.4%が有罪となることを誇示する日本の検察は、それを100%にすることが目標(上からのお達し)であるかのようだ。上のお達しへの服従に関連して作者は司法の政治権力への”忖度”の可能性もフランス人読者に解説する。

 この小説の時間の中で、話者はオウム真理教事件の死刑囚13人全員の刑執行(2018年7月)、カルロス・ゴーンの逮捕と逃亡劇(2018年11月から2019年12月)、京都アニメーション放火殺人事件(2019年7月)、袴田事件(1966年から現在。この項で話者はメディアや一般市民が間違って”ハカマダ”と呼んでいるが、”ハカマタ”が正しいと強調している)を詳説している。それは在日本ジャーナリストとして20年のキャリアを持つ西村カリンから見える、なにかが立ち行かない日本の例であり、私人として自分が愛する日本ゆえに憤りやエモーションを禁じ得ない書き方になる。自分名義での小説の上で初めてできている「告発」かもしれない。この小説で私が最も評価し、同意するのはこの部分である。

 かくして、あたかも最初から予定されていた事柄のように、ヤマダ・ミドリ事件の控訴審は一審を覆して死刑判決を下すのである(!)
 話者の心はおさまりがつかず、最終ページでジャーナリスト業を休止して在野で行動する(児童虐待防止、死刑廃止、袴田事件再審実現、貧窮者救済...)決意まで語るのである。容易ならぬことを知りながら。
  175ページの勇気ある書であり、(職業上)メディアでのルポルタージュではできなかった(怒りを伴った)プライベートな視点にも共感できる読み物で感服する。フランス人読者にはたくさんの”立ち行かない日本”が見えるであろう。観光絵はがきのような日本を称賛し、この夏の海外旅行デスティネーションの上位に日本を押し上げているフランス人たちにこそ読んでもらいたいものである。上にも書いたことだが、この批判精神は作者の「日本を愛すればこそ」の所為である。これには私も感服しかないのであるが、文学作品(フィクション小説)としてはどうなのだろうか。ジャーナリスト視線を離れた話者のパトス、情念のようなものはよく現れていると読めるのだが、ミドリ、ミドリの母、リュージというプロタゴニストたちの人間的な厚みが見えず、ルポルタージュ記事のインタヴューで語っている程度の人間像に留まっているのが、私には残念に思えた。(上にも書いたがあのレベルのリュージの描き方で、最後のカタストロフィーの大役を任せるのはちょっと無理)。もっと文学であってほしいと私は次作に期待します。

Karyn Nishimura "L'Affaire Midori"
Editions Picquier刊 2024年2月 175ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)自身のYouTube チャンネルで「ミドリ事件」と日本の死刑の現状について語る西村カリン。日本にはまだロベール・バダンテールに相当する人物が出ていないと。



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追記(2024年3月31日)

 
著者西村カリン氏がご自身の「X」でこの『小説ミドリ事件』記事を紹介してくださったおかげで、この記事のビュー数が一日で300ビューに迫る勢いで読まれています。ありがとうございます。この記事の掲載前の3月14日に私のFACEBOOKページに紹介記事のイントロとして、話者がミドリの世代が抱えてしまった無気力・無抵抗の性向を戦後日本の歩みによって俯瞰的かつ総括的に(主にフランス人読者たちに)説明する2ページのパッセージを日本語訳して紹介した。この日本を見るジャーナリストの視点を私は正しいと思う。以下再録します。

ミドリにはその世代に顕著な弱さがあった、戦うことをせず、ガードを下げてしまう弱さである。彼女も最初はいわゆる三つの「安(あん)」を求めていた。すなわち安全、安心、安定であり、20-30代の若者たちがこの3つを追求することが、彼ら自身を麻痺させ、萎縮させ、危険を避けるようにさせた。この三つの「安」こそが何年も何十年も前から政治家たちがその長広舌の中で約束してきたものだった。かつて1950-1960年代においては、「三種の神器」とは電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビであり、次いで「3C」と呼ばれたカー、クーラー、カラーテレビがそれに代わった。これらの物質的財産はしまいには万人が所有するものとなった。しかしながらそれは幸福とは別のものだった。人々は過剰なまでにその物欲に耽ったあとでそのことに気がついた。それ以後彼らは若い世代に与えるものが何もなくなってしまった。三つの「安」を約束すること以外は。ミドリにとっては、2008-2009年の(リーマンショック)地球規模の金融危機、そして2011年の福島原発事故がそのすべてを放棄させることになった。しかしこの二つの事件は当時から10年前と7年前に起こったことで、この二つによって直接の影響を受けなかった者たちにとっては、すでに過ぎ去ったことにすぎなかった。ある尺度から見れば、とりわけ大学新卒者たちにとっては、三つの「安」は現実のものとなっていた。彼らは全員大学課程終了の数週間前あるいは数ヶ月前には就職の内定を得ていた。彼らは柔軟で従順であればあるほど、安定した職業生活、職の安全性、精神的安心感を得られる可能性が高かった。しかしそのためにはいくつかの権利を放棄することが必要だった;要求すること、反抗すること、自己主張すること、よそで冒険を試みること、外国に発つこと、拒否すること、背くこと。多くの者たちは三つの「安」のためにそれらの権利を犠牲にする準備ができていた。この安定、この安心、この安全、彼らはそのために政府を信頼することにした。獲得した平静さをなにものも動じさせたり混乱させたりすることのないように。彼らが投票するのは変動を妨げるためであり、政権はそれを過剰なまでに利用した。50年間同じ保守政党(極右を含む)が支配した。そして2009年にある別の(中道派)政党による政権交代があった時、その2年後にあの悲劇があり、その政党は収拾のすべを知らなかった。人々の失望。それゆえにかの前政権保守政党は以前よりもさらに強力になって返り咲き、救世主のごとく安倍晋三が君臨することになる。
(Karyn Nishimura “L’Affaire Midori” p63-64)

https://x.com/AgenceLaBande/status/174695593 (み3756903738?s=20 (↓)小説の重要な舞台のひとつ福島県双葉町を再訪し(警察/パトロールの目を掻い潜って!)映像でルポルタージュする西村カリン。2011年3月の姿をそのままとどめ、瞬時にしてゴーストタウン化した町の細部をその場で解説する勇気あるジャーナリストの姿が衝撃的。12分。

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