2022年1月8日土曜日

Jumped so high

"En attendant Bojangles"
『ボージャングルスを待ちながら』

2020年フランス映画
監督:レジス・ロワンサール
主演:ヴィルジニー・エフィラ、ロマン・デュリス
原作:オリヴィエ・ブールドー小説『ボージャングルスを待ちながら』(2018年)
フランスでの封切:2022年1月5日


半のテンポの良さが素晴らしい。冒頭は1958年コート・ダジュール、まばゆい陽光の下海辺パレスホテル、戦後経済成長で財を成した実業家夫妻の集まったハイソサエティーなカクテルパーティー、あの時代の総天然色映画のような色彩、文字通り "Le champagne coule à flots"(波のごとく注がれるシャンパーニュ)の超バブリーな宴にどこからともなく現れるホラ吹き男ジョルジュ(演ロマン・デュリス)、あるテーブルではドラキュラと親交のあったハンガリア貴族の末裔だとぶち上げ、またあるテーブルではデトロイトの自動車王の息子を名乗り、あちこちでご婦人方の人気を一身に集めてしまう。この姿・立ちまわりは2021年に惜しまれてこの世を去った国民俳優ジャン=ポール・ベルモンド(1933 - 2021)と極似。フランスでは往々にしてジャン・デュジャルダンにその後継者の姿を見ようとするのであるが、芸のレンジの広さ(アンダーグラウンドから大予算大衆娯楽映画まで)においてはロマン・デュリスの方がベルモンド的である。そのデュリスとベルモンドは2000年セドリック・クラピッシュ映画『パリの確率(原題:Peut-être)』で共演している。(↓"Peut-être"予告編)

設定は未来に生きるベルモンドが、2000年に生きるデュリスの子ということなのだが、そんなことよりも動画1分29秒めに注目していただきたい。対面する横顔ふたつ、この両者はアゴの張り具合が同じなのだ。花王石鹸なのですよ。
 それはそれ。そのパーティーで世にも華麗にダンスする美女(自分の名前を記憶しないので、気分で何と呼ばれてもいい、仮の名をカミーユ)(演ヴィルジニー・エフィラ)を見るやジョルジュは一目ぼれ。原作小説ではその日の気分で名前を変える女はコンスタンス、ジョルジェット、ルネ、オルタンスなどの名前を使いわけるのだが、この映画では「今日の気分の名前は?」とジョルジュに問われると、女は開口一番「ジャン=ポール!」と答えるのですよ。この映画の制作は2020年で、まだベルモンドは存命中だったが、これは死後に追加されたオマージュと考えるべきかな?原作にはない突然の「ジャン=ポール」は一体何なのかな?
 それはそれ。麗しいダンスの淑女とホラ吹き男は運命の出会いを果たし、ジョルジュはこの退屈を極度に恐れ、厄介ごとや悲しみに心が奪われると精神パニックを起こしてしまうこわれものの美女に、絶対に退屈のない毎日を約束する。それからは毎日が宴であり、毎夕ふたりのパリのアパルトマンは招待客で溢れかえり、"Le champagne coule à flots"の大饗宴を繰り広げることになる。二人の至福の時はダンスであり、そのクライマックスに必ずかかる音楽が「ミスター・ボージャングルス」なのだ。映画のサウンドトラックは(原作小説ではそうだった)超有名なニーナ・シモンのヴァージョンを使っていない。サントラはマーロン・ウィリアムス歌のヴァージョンで、これはかなり残念。
 長男ガリー(演ソラン・マシャド=グラネ、素晴らしい子役)が登場してからは、ますますこのユートピアは笑いの止まらない幸福空間に。幸福な女と幸福な男の間に生まれた幸福な子はホラ話とシャンパーニュとダンスで明け暮れして、何の憂いもない。重要な脇役として(仮名)カミーユの幼少からの庇護者にして上院議員”オルデュール”(汚物)と呼ばれる紳士(演グレゴリー・ガドボワ、いい味出す俳優さんだ)と、ガリーの大の仲良しでアフリカ土産の巨鳥でアパルトマン内で家族同様のペットとして暮らしている”マドモワゼル・シュペルフェタトワール"(余計な付け足し嬢、ミス余分)。原作小説から想像してこの巨鳥の映画出演は不可能だろうと思っていたが、見事な映画のマジック(CGではなく実写に見えた)。
 「ミスター・ボージャングルス」の歌詞どおり、He jumped so high, then he lightly touched down. いとも高く跳び上り、そしてゆっくりと降りてくる。この幸福の頂点から、エピキュリアン家族3人はゆっくりと降りてきて、そして底無しに落ちていくのである。(仮名)カミーユの狂気の発作が再び起こり始める。金が底をつき、長年開封せずにうずたかくためておいて手紙の山は請求書と税追徴金ばかりで、気がつけばその負債は天文学的数字。宴の終わりは憂いの始まり。それに(仮名)カミーユは全く堪えることができず精神を壊していく。アパルトマンを手放すのなら焼いた方がまし、と放火未遂事件を起こし、駆けつけた消防隊員(フランスの消防隊は医療救急も兼ねるのでそこんとこ理解して)の手でそのまま精神病院へ。病院地獄。1960年代のこととわかっていても、この精神病棟は...。
 このパターン(ユートピア→転落→病院地獄)で想い起こす映画2作:ひとつはジャン=ジャック・ベネイクス『37°2(ベティー・ブルー)』(1986年)、これは地獄の果てに主人公が小説を書くという終わり方だが、この『ボージャングルス』は原作小説では小説を書く結末なのに映画はそう終わっていない。もうひとつはミッシェル・ゴンドリーの『日々の泡』(ボリズ・ヴィアン原作)(2013年)で、この映画と同じようにロマン・デュリスが主演していて、前半の奇想天外なユートピアの描き方は『ボージャングルス』と同じほどわくわくものなのだが...。これらの映画の決め手は”転落の急降下”。映画ですから。
 しかし『ボージャングルス』には再浮上がある。ジョルジュとガリーは精神病院からカミーユを”脱獄”させることに成功し、かつてのバブリーな金持ち時代のように派手なオープンカーを運転して南下し、国境を越え(1960年代にはまだ国境があった!)スペインに渡り、カミーユとジョルジュの夢だった"スペインの城"に住み、エピキュリアンな隠遁生活を始める。この"スペインの城”とはダブルミーニングであって、フランス語表現"Château en Espagne(シャトー・アン・エスパーニュ=スペインの城)"とは「不可能で非現実的な計画」を意味する。不可能を現実にする最後の夢、これがその城であった。しかし、しばしの夢のような時間のあと、カミーユの発作はまた始まってしまう。カミーユが「向こう側」に行ってしまうのは時間の問題だということをジョルジュとガリーは知っている。
 この映画で最高に美しいシーン、それは城にその村人たち(ほぼヒターノの人々だろう)を招いて、大きな酒宴を開き、興は最高潮に盛り上がり、音楽が高鳴り、情熱的な踊りの輪が...。お立ち会い、音楽は「ミスター・ボージャングルス」ではないのだよ。すばらしい村の歌姫がパッション込めて歌う、曲は「アドロ」(この曲が出たのが1967年だから時代的には合っている。サントラで使用されているのは伝説的ヒターナの歌姫ロラ・フローレスのヴァージョン)。男たちと女たち、すばらしい踊り手たちの真ん中にヴィルジニー・エフィラとロマン・デュリスがいて、迫力あるフラメンコステップと情熱の視線でエモーショナルに踊るのである。とりわけロマン・デュリスの見事さよ、恐れ入りました。そしてこれがこの映画の本当に最後の宴になってしまうのだよ。このシーンは原作小説にはない。

 上述のボリズ・ヴィアン『日々の泡』のミッシェル・ゴンドリーによる映画化のように、オリヴィエ・ブールドー小説『ボージャングルスを待ちながら』もまた映画化困難と思われていた作品であり、このレジス・ロワンサールの想像力の大冒険のような映画化には敬意を表したい。ロワンサールはこれまでの2作品である『タイピスト!』(2012年、ロマン・デュリス主演)と『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(2020年)が日本公開され好評だったので、たぶんこの映画も近いうちに日本の劇場で観られるようになると思う。原作小説『ボージャングルスを待ちながら』も2017年に日本語訳が集英社から出版されている。小説も映画も愛していただきたい、そう願うカストール爺です。
 ヴィルジニー・エフィラ?ますますすごい女優になってきた。大器晩成型の44歳、って言ったら怒られるかな? 強調しておきますが、ベルギーの人です! 

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ボージャングルスを待ちながら』予告編


(↓)映画サウンドトラックより「ミスター・ボージャングルス」(歌マーロン・ウィリアムス)

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