Florence Aubenas "Le quai de Ouistreham"
フローランス・オブナ『ウィストレアム埠頭』
フローランス・オブナ(1961 - )は2005年1月5日、リベラシオン紙の海外特派リポーターとしてイラクのファリュージャ市の難民事情を取材中に、イラク反政府派によって誘拐され、5ヶ月近く(157日間)人質として監禁されていました。この間、支援者団体によってこの女性の顔写真はメディアに大きく登場して、パリ市役所の正面壁面にも大ポートレートがかけられていました。6月に解放されて、記者会見でけらけら笑いながら監禁生活を語るこの女性ジャーナリストの姿は、美しく、強く、不屈でしかもユーモアにあふれた本物のヒロイン女性のように報道されました。その後は、フランス近年最大の冤罪事件であるウートロー裁判の追跡調査でも活躍し、リベラシオン紙を離れて現在はヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌の特約リポーターである一方、2009年7月からは、国際牢獄監視委員会(Observatoire International des prisons略称OIP)の代表にもなっています。
つまりこの女性はフランスではたいへんな有名人であり、人質時代のオブナの顔写真はフランス人ならば誰でも覚えているはずのものなのです。その人物が本名「フローランス・オブナ」を名乗って、ノルマンディー地方に現れます。ただし、髪の毛をブロンドに染め、メガネをかけて。細工はそれだけです。たしかに身なりは「パリ左岸のジャーナリスト」然とはしていなかったでしょう。しかし、これだけで、有名人フローランス・オブナは無名人フローランス・オブナに変身することができたのです。
設定は、50歳近い中年女性、子供はなし、20数年間一緒に暮らしていた男と別れ、自活するために職探しをしなければならなくなったが、職業経験はゼロ、学歴はバカロレア(大学入学資格。つまり高卒)のみ。この女性の名前はフローランス・オブナ。住所はノルマンディー、カルヴァドス県の県庁所在地カーン。この本は2009年2月から7月までの約6ヶ月間にわたる、ゼロから始めた職探しドキュメンタリーです。
この種の潜入ドキュメンタリーは、アメリカで白人ジャーナリストが黒人になったり、ドイツ人ジャーナリストがトルコ人になったり、フランス人ジャーナリストが路上生活者になったり、と前例はたくさんありますが、フローランス・オブナはほとんど扮装もなく、何も知らず不安気な顔をして公立の職業案内所の扉を押したとたんに、即座に危機的状況にある女性になり切ることができたのです。
手に職のない女性が即刻に働けるものは何か。数年までは、スーパーやファストフードのレジ係というのがステロタイプだったと思います。しかしこの本の背景には2009年1月に始まった「恐慌」があります。フランス語で"La crise"(ラ・クリーズ)と呼ばれるものです。企業/工場がドミノ式に軒並み倒産し、無数の失業者たちが路頭に迷うと言われていました。国庫はカラで、銀行にも金がない、と言われていました。「ラ・クリーズ」はその重苦しい不安感だけを先行させて、それを理由に雇用が極端に減らされていきました。そういう状況で、職安が職業初心者である中年女性に提案できたのは、派遣の清掃係という職種でした。清掃会社と時間契約をして、ビルや公共施設や列車船舶などの清掃のために送られていく人たちです。フルタイムなどありようがない仕事です。早朝、深夜、土日などが主な時間帯です。どんな時間でも断れません。断れば次の仕事がないからです。一社と契約しただけでは、1日に2時間ほどの労働にしかありつけず、数社と掛け持ちで契約して、空き時間をパズル式に埋めていって、やっと週十数時間の仕事が得られます。しかも、仕事場所は市内と郊外だけでなく、カルヴァドス県内全般に広がり、公共交通の手段を使って行けないところ、仕事場までの移動時間が仕事時間よりも多くなるような遠いところもあり、おまけに交通費自己負担だったりします。
フローランスは清掃係としてデビューして、少しでも多くの仕事を取るように努力します。その途中で知り合っていく仲間たちから知恵を授かったり、助けられたり助けたり。みんな同じように多くの仕事を取るという目的を持った人たちです。過酷な労働状況で働く、未組織の女性たちは、それでも心の連帯があります。その仲間たちが、あそこだけはやめておけ、という仕事場があります。ペイも悪いし、絶対体が続かなくなる地獄だ、と言います。それがカーンの郊外にある、英仏海峡につながる運河の埠頭であるウィストレアムに着く、定期フェリー船です。フェリー船の船内清掃は、着岸して乗客が下船したあと、次の乗客が乗船するまでの短い時間にすべてをきれいにしておかなければなりません。このウィストレアム埠頭の仕事に初心者フローランスは挑んでいきます。
日本もフランスもあらゆる世界で同じ傾向でしょうが、21世紀は富裕層がますます富裕になり、下層民がますます貧困化し、中間がどんどん下層化しています。フランスは世界で最も早く最低賃金保証を法制化した国のひとつです。私たちはつい数年前までこの最低賃金がこの国民を極貧化から救ってくれているものと思っていましたが、今や人並みの給料が法定の最低賃金になってしまっており、最低賃金に達しない給料で働いている人々はたいへんな数に昇ります。この時間の切り売りで働いている派遣の清掃員たちは、早朝/深夜/土日休日に働いているものの、どうあがいても最低賃金になど達しようがないのです。
「ラ・クリーズ」は働けるだけでもありがたいと思え、という雇用者理屈を正当化する圧力になりました。断ったら次がない、不平を言ったら次がない、という恐怖心を被雇用者に植え付けます。軍隊のような管理体制、ゲシュタポのような現場監視係、脅し、ハラスメント、無給労働の強制...フローランスは内側からそれを見て、告発的にその実態をリポートしますが、この本の本筋はそれではなく、そこにいる女たちの生きている姿であり、そこにある心の通う連帯であり、生きるための知恵の数々なのです。本当に捨てたものではない、フランス深部の、革命や戦争を闘ってきた土地の(カーンは第二次大戦のノルマンディー作戦の舞台となった大被災地です)、なにかそういう歴史の中にまだ生きているような不屈の女たちが見えてくるような本なのです。書いたジャーナリストも体でその中にぶつかって行ったから、見えてきた真実であることは言うまでもありません。著者がこの体験とその中で出会った人々に文末で謝辞を捧げるように、読む私もこの中で出てきた人々に感謝したい気持ちになります。
FLORENCE AUBENAS "LE QUAI DE OUISTREHAM"
(Editions de l'Oliver刊 2010年2月。275頁。19ユーロ)
(↓自著『ウィストレアム埠頭』を語るフローランス・オブナ)
(↓)2021年、エマニュエル・カレール監督(主演ジュリエット・ビノッシュ)で映画化された『ウィストレアム埠頭』の予告編
フローランス・オブナ『ウィストレアム埠頭』
フローランス・オブナ(1961 - )は2005年1月5日、リベラシオン紙の海外特派リポーターとしてイラクのファリュージャ市の難民事情を取材中に、イラク反政府派によって誘拐され、5ヶ月近く(157日間)人質として監禁されていました。この間、支援者団体によってこの女性の顔写真はメディアに大きく登場して、パリ市役所の正面壁面にも大ポートレートがかけられていました。6月に解放されて、記者会見でけらけら笑いながら監禁生活を語るこの女性ジャーナリストの姿は、美しく、強く、不屈でしかもユーモアにあふれた本物のヒロイン女性のように報道されました。その後は、フランス近年最大の冤罪事件であるウートロー裁判の追跡調査でも活躍し、リベラシオン紙を離れて現在はヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌の特約リポーターである一方、2009年7月からは、国際牢獄監視委員会(Observatoire International des prisons略称OIP)の代表にもなっています。
つまりこの女性はフランスではたいへんな有名人であり、人質時代のオブナの顔写真はフランス人ならば誰でも覚えているはずのものなのです。その人物が本名「フローランス・オブナ」を名乗って、ノルマンディー地方に現れます。ただし、髪の毛をブロンドに染め、メガネをかけて。細工はそれだけです。たしかに身なりは「パリ左岸のジャーナリスト」然とはしていなかったでしょう。しかし、これだけで、有名人フローランス・オブナは無名人フローランス・オブナに変身することができたのです。
設定は、50歳近い中年女性、子供はなし、20数年間一緒に暮らしていた男と別れ、自活するために職探しをしなければならなくなったが、職業経験はゼロ、学歴はバカロレア(大学入学資格。つまり高卒)のみ。この女性の名前はフローランス・オブナ。住所はノルマンディー、カルヴァドス県の県庁所在地カーン。この本は2009年2月から7月までの約6ヶ月間にわたる、ゼロから始めた職探しドキュメンタリーです。
この種の潜入ドキュメンタリーは、アメリカで白人ジャーナリストが黒人になったり、ドイツ人ジャーナリストがトルコ人になったり、フランス人ジャーナリストが路上生活者になったり、と前例はたくさんありますが、フローランス・オブナはほとんど扮装もなく、何も知らず不安気な顔をして公立の職業案内所の扉を押したとたんに、即座に危機的状況にある女性になり切ることができたのです。
手に職のない女性が即刻に働けるものは何か。数年までは、スーパーやファストフードのレジ係というのがステロタイプだったと思います。しかしこの本の背景には2009年1月に始まった「恐慌」があります。フランス語で"La crise"(ラ・クリーズ)と呼ばれるものです。企業/工場がドミノ式に軒並み倒産し、無数の失業者たちが路頭に迷うと言われていました。国庫はカラで、銀行にも金がない、と言われていました。「ラ・クリーズ」はその重苦しい不安感だけを先行させて、それを理由に雇用が極端に減らされていきました。そういう状況で、職安が職業初心者である中年女性に提案できたのは、派遣の清掃係という職種でした。清掃会社と時間契約をして、ビルや公共施設や列車船舶などの清掃のために送られていく人たちです。フルタイムなどありようがない仕事です。早朝、深夜、土日などが主な時間帯です。どんな時間でも断れません。断れば次の仕事がないからです。一社と契約しただけでは、1日に2時間ほどの労働にしかありつけず、数社と掛け持ちで契約して、空き時間をパズル式に埋めていって、やっと週十数時間の仕事が得られます。しかも、仕事場所は市内と郊外だけでなく、カルヴァドス県内全般に広がり、公共交通の手段を使って行けないところ、仕事場までの移動時間が仕事時間よりも多くなるような遠いところもあり、おまけに交通費自己負担だったりします。
フローランスは清掃係としてデビューして、少しでも多くの仕事を取るように努力します。その途中で知り合っていく仲間たちから知恵を授かったり、助けられたり助けたり。みんな同じように多くの仕事を取るという目的を持った人たちです。過酷な労働状況で働く、未組織の女性たちは、それでも心の連帯があります。その仲間たちが、あそこだけはやめておけ、という仕事場があります。ペイも悪いし、絶対体が続かなくなる地獄だ、と言います。それがカーンの郊外にある、英仏海峡につながる運河の埠頭であるウィストレアムに着く、定期フェリー船です。フェリー船の船内清掃は、着岸して乗客が下船したあと、次の乗客が乗船するまでの短い時間にすべてをきれいにしておかなければなりません。このウィストレアム埠頭の仕事に初心者フローランスは挑んでいきます。
日本もフランスもあらゆる世界で同じ傾向でしょうが、21世紀は富裕層がますます富裕になり、下層民がますます貧困化し、中間がどんどん下層化しています。フランスは世界で最も早く最低賃金保証を法制化した国のひとつです。私たちはつい数年前までこの最低賃金がこの国民を極貧化から救ってくれているものと思っていましたが、今や人並みの給料が法定の最低賃金になってしまっており、最低賃金に達しない給料で働いている人々はたいへんな数に昇ります。この時間の切り売りで働いている派遣の清掃員たちは、早朝/深夜/土日休日に働いているものの、どうあがいても最低賃金になど達しようがないのです。
「ラ・クリーズ」は働けるだけでもありがたいと思え、という雇用者理屈を正当化する圧力になりました。断ったら次がない、不平を言ったら次がない、という恐怖心を被雇用者に植え付けます。軍隊のような管理体制、ゲシュタポのような現場監視係、脅し、ハラスメント、無給労働の強制...フローランスは内側からそれを見て、告発的にその実態をリポートしますが、この本の本筋はそれではなく、そこにいる女たちの生きている姿であり、そこにある心の通う連帯であり、生きるための知恵の数々なのです。本当に捨てたものではない、フランス深部の、革命や戦争を闘ってきた土地の(カーンは第二次大戦のノルマンディー作戦の舞台となった大被災地です)、なにかそういう歴史の中にまだ生きているような不屈の女たちが見えてくるような本なのです。書いたジャーナリストも体でその中にぶつかって行ったから、見えてきた真実であることは言うまでもありません。著者がこの体験とその中で出会った人々に文末で謝辞を捧げるように、読む私もこの中で出てきた人々に感謝したい気持ちになります。
FLORENCE AUBENAS "LE QUAI DE OUISTREHAM"
(Editions de l'Oliver刊 2010年2月。275頁。19ユーロ)
(↓自著『ウィストレアム埠頭』を語るフローランス・オブナ)
(↓)2021年、エマニュエル・カレール監督(主演ジュリエット・ビノッシュ)で映画化された『ウィストレアム埠頭』の予告編
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