『グロリア・ムンディ』
"Gloria Mundi"
2019年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ジェラール・メイラン
2019年ヴェネツィア映画祭主演女優賞(アリアーヌ・アスカリード)
フランスでの公開:2019年11月27日
マーガレット・サッチャー(1925 - 2013)という人がいて、もう「ゆりかごから墓場まで」国が面倒見てやる時代は終わった、ミルク代を自分で払えない人はもういない、などとのたもうて、ネオ・リベラリズムの時代に入ったのだよ。国営公営の企業は民営化され、社会保障は最小限に抑えられ、自由競争で生き残れる者は生き、死ぬのは敗者と切り捨てられるようになった。金持ちはいくら金持ちになってもいい、貧乏人はいくら貧乏になってもいい。自由主義の原則は、人間社会は競争によってより良いものになると子供たちを早くから競争に慣れさせようとした。隣の子を打ち負かして勝ち抜く強い子に。ー われわれは競い合い、蹴落とし合い、憎みあっている。愛し合わない、助け合わない。負かされ、敗れた子は自分が弱いからだめなんだ。社会から落伍する者は自分が弱いからだめなんだ。困っても助けを求めてはいけない。助けを求めるのは恥だ ー という世の中ができあがってきたのですよ。これはネオ・リベラリズム、スーパー資本主義、グローバリゼーションの30余年の"成果”なのである。
マルセイユ人ロベール・ゲディギアンのこの新作の舞台はいつものようにマルセイユである。いつもならば(風光明媚とは違う)人情味と情緒あふれるマルセイユが背景にあるのだが、この映画のマルセイユはなんともはや醜い。2013年欧州文化首都(地中海文明博物館の建築等)となった頃から港湾地区に超高層ビルが建ち、その再開発地区のすべすべした外観の裏側に取り残された穢雑とした旧市街。これがネオ・リベラリズムの数少ない勝者と、圧倒的に多い敗者を象徴するような風景なのである。
映画はマチルダ(演アナイス・ドムースティエ!) が女児を出産するシーンから始まる。この子の名前はグロリアと言う。いい名前ね、どっから取ったの?「アメリカのテレビ連ドラの登場人物からよ」ー 軽いと思うなかれ。神の栄光はなんびとをも照らす。
この誕生に立ち会う家族たち。マチルダの母シルヴィー(派遣清掃婦、演アリアーヌ・アスカリード、この演技によってヴェネツィア映画祭女優賞)、義理の父リシャール(路線バス運転手、演ジャン=ピエール・ダルーサン)、マチルダの夫(グロリアの父)ニコラ(Uber運転手、演ロバンソン・ステヴナン)、マチルダの義理の妹(シルヴィーとリシャールの娘)オロール(現金リサイクルショップ店主、演ローラ・ネイマルク)とその内縁夫のブルーノ(現金リサイクルショップ共同経営者、演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)。ひとり足りない。それはマチルダの実の父/シルヴィーの前夫のダニエル(演ジェラール・メイラン)で、殺人犯として服役中。家族たちは長い間ダニエルと連絡を取っていないが、リシャール(一度もダニエルと面識がない)はこれはダニエルに知らせるべきだとシルヴィーに進言し、グロリアの写真を入れたシルヴィーの手紙が監獄の中に届く。
このダニエルの犯罪について映画は詳細を明かさないが、他人を守ろうとして人を殺すはめになったのに情状は酌量されず最長刑期を喰らってしまう。幼子マチルダを連れたシルヴィーは露頭に迷い、売春までして子育てをしている(この事情は映画後半で明かされる)ところをリシャールに救われる。リシャールは我が子としてマチルダを迎え、次いでシルヴィーとの間に女児オロールが生まれる。マチルダは小さい頃から自分の父親はリシャールひとりと思っており、ダニエルのことは忘れた存在にしようとしていた。
ダニエルは模範囚(獄中で”俳句詠み”詩人となる)として刑期を最後まで果たし、レンヌ(ブルターニュ地方)の監獄を出て、シルヴィーからもらった手紙の住所を頼りに、故郷のマルセイユに帰ってくる。目的は孫グロリアを一目見ることだけ。俳人になり穏やかな隠遁者のような佇まいのダニエルは、これから何をするでもなく、わずかな刑務終了者手当を受給しながら、極安ホテルの一室を借りて暮らしている。シルヴィーとリシャールはダニエルを暖かく迎えるのだが、若い世代はそうはいかない。特にマチルダはのうのうと「父親ヅラ」して戻ってきたダニエルに冷たい。
そしてこれらの人々はみなネオ・リベラリズムの弱肉強食社会に打ち勝てていない。どんな仕事でも一応仕事さえしていればどうにか喰えた時代は終わってしまったのだ。親・兄弟、誰にも金はなく、誰にも頼れない。清掃婦とバス運転手の夫婦共働きであるシルヴィーとリシャールもキツキツで子供たちに何もしてやれない。派遣清掃婦は夜間のビルやホテルやマルセイユ港に停泊する豪華客船の船室清掃(短い停泊時間に最大数の船室清掃のノルマ!)、昼も夜もなく仕事を取って働く(この女性派遣清掃員の過酷な実情については2010年フローランス・オブナ著『ウィストレアム河岸』の爺ブログ紹介記事を参照してください)。マチルダは格安アパレル小売店の売り子をしているが店長からのパワハラはすさまじく、トイレに行く時間すら勤務時間から引かれる。夫のニコラは貯金を叩いてローンで高級乗用車を買い、Uber契約の "English spoken"のドライバーをしているが、ある夜、Uberを仇敵としているタクシー業者たちから殴る蹴るのリンチに遭い、左腕を砕かれ Uber営業ができなくなってしまう。
そんな中で比較的うまくやっているのが、オロールとブルーノの現金リサイクルショップで、冷徹な「世の中ゼニでっせ」のリアリズムを絵に描いたような、弱者たちを搾取/利用して現金商売で成り上がってきた。ダーティな成金を象徴するようなコカイン常習者で、性欲にもモラルが一切ない。2000年代の大失業時代にその対策としてフランス政府が奨励したスタートアップ/極小自営業で、要領良く波に乗れたクチだが、これほど悪いことをしなければ成功は困難という典型例。
彼らは助け合わない。貧乏人は貧乏人を蹴落としてしか、その日の糧を得られない。シルヴィーは派遣清掃員の仲間たちが待遇改善を団結して勝ち取ろう(ストをしよう)という誘いに真っ向から反対し、ストで1日の給料がなくなることがどれほど自分たちの生活にダメージを与えるか、という現実を訴える。ストなどできる余裕はないのだ、と。
怪我で働けなくなったニコラとマチルダの夫婦はグロリアを託児所に預ける金もなくなり、危機は頂点に達し、義妹オロールに助けを求めるが、オロールとブルーノはマチルドとニコラをルーザーと決めつけ、そのSOSに応えようとはしない。ニコラはその怪我の状態を医師の診断書に「運転労働可能」と一筆書いてくれれば、すべては元どおりになると、働いて収入が得られるようになる、と藁にもすがる思いで担当女医に嘆願するが、女医は職業的デオントロジーでそれは絶対にできない、と。ニコラはストーカーのように女医自宅まで押し入り、嘆願を繰り返すが、応じない女医との押し問答の末、女医は転倒し負傷してしまう。傷害事件として立件可能(もしも女医が告訴すれば...)。ニコラの窮状はますます深場に陥ってしまう。
ここがこの映画で最も「人間的」なシーン。シルヴィーがダニエルに頼んで同行を求めて、二人で女医宅を訪問する。シルヴィーは元殺人犯の刑務終了者ダニエルが自分の娘マチルダ(あなたを負傷させたニコラの妻)の父親であることを明かし、ダニエルの事件と刑務所行きのあと、幼子マチルダと自分がどれほどの悲惨を体験したかを語る。売春して生活費と養育費を得たことも。「私がなぜあなたにそれを告白したかわかりますか? 私はマチルダが同じことをしなければならなくなるのを知っているからです」ー ニコラを告訴しないでください。はい、わかりました告訴しません。
世界はまだ捨てたもんじゃないぞ、と一息つくが、映画はさらにマチルダとニコラに試練をつきつけ...。
今から30年前には、底辺者になっていくわけのなかった人々がそのまま(ちゃんと働いて)生きていったら、自分も周りもみんな底辺者になっていた。底辺者は生きていくために底辺者を欺き、裏切る。映画はマルセイユを舞台にネオ・リベラリズム経済がもたらしたあらゆる悪のアスペクトを開陳しながら、その最悪のことが、この家族すらも分断してしまう貧困の連鎖であることを浮き彫りにする。マチルダは抜け出すために、最悪の狡猾成金男のブルーノ(義妹の情夫)に何度も肉体も差し出すのですよ(おまけにここに何の情感も罪悪感もない、目的のためならしかたない)。ネット・ポルノと現実の区別もなく、誰もが自撮りセックステープを公開する...。
前作『ラ・ヴィッラ』(2017年)が家族の連帯が復活し、難民保護に連帯する未来に開かれたオプティミスティックな映画だったのに、今回のゲディギアンは無情で分断された民衆の救われなさが支配的だ。いったいどうしてここまで貧乏は人間の心を貧しくするのか。この人間たちの罪を償うために、神はその使者を地上に送ったのだよ(と、私はキリスト者のようにこの映画を解釈した)。この映画ではそれが監獄上がりのダニエルであり、映画の最後に、やはり人間たちの罪を被って、救済者として再び獄中に消えていく。その最後の希望の神々しさに、この映画はUber化された現代社会にも一条の光を見出すように結語するのだが、世界の栄光はもう終わりなのかもしれない。
Sic Transit Gloria Mundi (世界の栄光はかくのごとく過ぎさりぬ)
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『グロリア・ムンディ』予告編
(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! ヴァン・モリソン&ゼム(1964年)
"Gloria Mundi"
2019年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ジェラール・メイラン
2019年ヴェネツィア映画祭主演女優賞(アリアーヌ・アスカリード)
フランスでの公開:2019年11月27日
マーガレット・サッチャー(1925 - 2013)という人がいて、もう「ゆりかごから墓場まで」国が面倒見てやる時代は終わった、ミルク代を自分で払えない人はもういない、などとのたもうて、ネオ・リベラリズムの時代に入ったのだよ。国営公営の企業は民営化され、社会保障は最小限に抑えられ、自由競争で生き残れる者は生き、死ぬのは敗者と切り捨てられるようになった。金持ちはいくら金持ちになってもいい、貧乏人はいくら貧乏になってもいい。自由主義の原則は、人間社会は競争によってより良いものになると子供たちを早くから競争に慣れさせようとした。隣の子を打ち負かして勝ち抜く強い子に。ー われわれは競い合い、蹴落とし合い、憎みあっている。愛し合わない、助け合わない。負かされ、敗れた子は自分が弱いからだめなんだ。社会から落伍する者は自分が弱いからだめなんだ。困っても助けを求めてはいけない。助けを求めるのは恥だ ー という世の中ができあがってきたのですよ。これはネオ・リベラリズム、スーパー資本主義、グローバリゼーションの30余年の"成果”なのである。
マルセイユ人ロベール・ゲディギアンのこの新作の舞台はいつものようにマルセイユである。いつもならば(風光明媚とは違う)人情味と情緒あふれるマルセイユが背景にあるのだが、この映画のマルセイユはなんともはや醜い。2013年欧州文化首都(地中海文明博物館の建築等)となった頃から港湾地区に超高層ビルが建ち、その再開発地区のすべすべした外観の裏側に取り残された穢雑とした旧市街。これがネオ・リベラリズムの数少ない勝者と、圧倒的に多い敗者を象徴するような風景なのである。
映画はマチルダ(演アナイス・ドムースティエ!) が女児を出産するシーンから始まる。この子の名前はグロリアと言う。いい名前ね、どっから取ったの?「アメリカのテレビ連ドラの登場人物からよ」ー 軽いと思うなかれ。神の栄光はなんびとをも照らす。
この誕生に立ち会う家族たち。マチルダの母シルヴィー(派遣清掃婦、演アリアーヌ・アスカリード、この演技によってヴェネツィア映画祭女優賞)、義理の父リシャール(路線バス運転手、演ジャン=ピエール・ダルーサン)、マチルダの夫(グロリアの父)ニコラ(Uber運転手、演ロバンソン・ステヴナン)、マチルダの義理の妹(シルヴィーとリシャールの娘)オロール(現金リサイクルショップ店主、演ローラ・ネイマルク)とその内縁夫のブルーノ(現金リサイクルショップ共同経営者、演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)。ひとり足りない。それはマチルダの実の父/シルヴィーの前夫のダニエル(演ジェラール・メイラン)で、殺人犯として服役中。家族たちは長い間ダニエルと連絡を取っていないが、リシャール(一度もダニエルと面識がない)はこれはダニエルに知らせるべきだとシルヴィーに進言し、グロリアの写真を入れたシルヴィーの手紙が監獄の中に届く。
このダニエルの犯罪について映画は詳細を明かさないが、他人を守ろうとして人を殺すはめになったのに情状は酌量されず最長刑期を喰らってしまう。幼子マチルダを連れたシルヴィーは露頭に迷い、売春までして子育てをしている(この事情は映画後半で明かされる)ところをリシャールに救われる。リシャールは我が子としてマチルダを迎え、次いでシルヴィーとの間に女児オロールが生まれる。マチルダは小さい頃から自分の父親はリシャールひとりと思っており、ダニエルのことは忘れた存在にしようとしていた。
ダニエルは模範囚(獄中で”俳句詠み”詩人となる)として刑期を最後まで果たし、レンヌ(ブルターニュ地方)の監獄を出て、シルヴィーからもらった手紙の住所を頼りに、故郷のマルセイユに帰ってくる。目的は孫グロリアを一目見ることだけ。俳人になり穏やかな隠遁者のような佇まいのダニエルは、これから何をするでもなく、わずかな刑務終了者手当を受給しながら、極安ホテルの一室を借りて暮らしている。シルヴィーとリシャールはダニエルを暖かく迎えるのだが、若い世代はそうはいかない。特にマチルダはのうのうと「父親ヅラ」して戻ってきたダニエルに冷たい。
そしてこれらの人々はみなネオ・リベラリズムの弱肉強食社会に打ち勝てていない。どんな仕事でも一応仕事さえしていればどうにか喰えた時代は終わってしまったのだ。親・兄弟、誰にも金はなく、誰にも頼れない。清掃婦とバス運転手の夫婦共働きであるシルヴィーとリシャールもキツキツで子供たちに何もしてやれない。派遣清掃婦は夜間のビルやホテルやマルセイユ港に停泊する豪華客船の船室清掃(短い停泊時間に最大数の船室清掃のノルマ!)、昼も夜もなく仕事を取って働く(この女性派遣清掃員の過酷な実情については2010年フローランス・オブナ著『ウィストレアム河岸』の爺ブログ紹介記事を参照してください)。マチルダは格安アパレル小売店の売り子をしているが店長からのパワハラはすさまじく、トイレに行く時間すら勤務時間から引かれる。夫のニコラは貯金を叩いてローンで高級乗用車を買い、Uber契約の "English spoken"のドライバーをしているが、ある夜、Uberを仇敵としているタクシー業者たちから殴る蹴るのリンチに遭い、左腕を砕かれ Uber営業ができなくなってしまう。
そんな中で比較的うまくやっているのが、オロールとブルーノの現金リサイクルショップで、冷徹な「世の中ゼニでっせ」のリアリズムを絵に描いたような、弱者たちを搾取/利用して現金商売で成り上がってきた。ダーティな成金を象徴するようなコカイン常習者で、性欲にもモラルが一切ない。2000年代の大失業時代にその対策としてフランス政府が奨励したスタートアップ/極小自営業で、要領良く波に乗れたクチだが、これほど悪いことをしなければ成功は困難という典型例。
彼らは助け合わない。貧乏人は貧乏人を蹴落としてしか、その日の糧を得られない。シルヴィーは派遣清掃員の仲間たちが待遇改善を団結して勝ち取ろう(ストをしよう)という誘いに真っ向から反対し、ストで1日の給料がなくなることがどれほど自分たちの生活にダメージを与えるか、という現実を訴える。ストなどできる余裕はないのだ、と。
怪我で働けなくなったニコラとマチルダの夫婦はグロリアを託児所に預ける金もなくなり、危機は頂点に達し、義妹オロールに助けを求めるが、オロールとブルーノはマチルドとニコラをルーザーと決めつけ、そのSOSに応えようとはしない。ニコラはその怪我の状態を医師の診断書に「運転労働可能」と一筆書いてくれれば、すべては元どおりになると、働いて収入が得られるようになる、と藁にもすがる思いで担当女医に嘆願するが、女医は職業的デオントロジーでそれは絶対にできない、と。ニコラはストーカーのように女医自宅まで押し入り、嘆願を繰り返すが、応じない女医との押し問答の末、女医は転倒し負傷してしまう。傷害事件として立件可能(もしも女医が告訴すれば...)。ニコラの窮状はますます深場に陥ってしまう。
ここがこの映画で最も「人間的」なシーン。シルヴィーがダニエルに頼んで同行を求めて、二人で女医宅を訪問する。シルヴィーは元殺人犯の刑務終了者ダニエルが自分の娘マチルダ(あなたを負傷させたニコラの妻)の父親であることを明かし、ダニエルの事件と刑務所行きのあと、幼子マチルダと自分がどれほどの悲惨を体験したかを語る。売春して生活費と養育費を得たことも。「私がなぜあなたにそれを告白したかわかりますか? 私はマチルダが同じことをしなければならなくなるのを知っているからです」ー ニコラを告訴しないでください。はい、わかりました告訴しません。
世界はまだ捨てたもんじゃないぞ、と一息つくが、映画はさらにマチルダとニコラに試練をつきつけ...。
今から30年前には、底辺者になっていくわけのなかった人々がそのまま(ちゃんと働いて)生きていったら、自分も周りもみんな底辺者になっていた。底辺者は生きていくために底辺者を欺き、裏切る。映画はマルセイユを舞台にネオ・リベラリズム経済がもたらしたあらゆる悪のアスペクトを開陳しながら、その最悪のことが、この家族すらも分断してしまう貧困の連鎖であることを浮き彫りにする。マチルダは抜け出すために、最悪の狡猾成金男のブルーノ(義妹の情夫)に何度も肉体も差し出すのですよ(おまけにここに何の情感も罪悪感もない、目的のためならしかたない)。ネット・ポルノと現実の区別もなく、誰もが自撮りセックステープを公開する...。
前作『ラ・ヴィッラ』(2017年)が家族の連帯が復活し、難民保護に連帯する未来に開かれたオプティミスティックな映画だったのに、今回のゲディギアンは無情で分断された民衆の救われなさが支配的だ。いったいどうしてここまで貧乏は人間の心を貧しくするのか。この人間たちの罪を償うために、神はその使者を地上に送ったのだよ(と、私はキリスト者のようにこの映画を解釈した)。この映画ではそれが監獄上がりのダニエルであり、映画の最後に、やはり人間たちの罪を被って、救済者として再び獄中に消えていく。その最後の希望の神々しさに、この映画はUber化された現代社会にも一条の光を見出すように結語するのだが、世界の栄光はもう終わりなのかもしれない。
Sic Transit Gloria Mundi (世界の栄光はかくのごとく過ぎさりぬ)
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『グロリア・ムンディ』予告編
(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! ヴァン・モリソン&ゼム(1964年)
(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! パティ・スミス(1976年)
(↓)ジエルオアールアイエイ!グローリア! ジョニー・サンダース+キヨシロー(1991年 川崎チッタ)
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