ジャン=ポール・デュボワ『すべての人間が同じように世界に生きているのではない』
2019年度ゴンクール賞作品
話者ポール・ハンセン(フランス風には"アンセン"かもしれない)は1955年2月20日にトゥールーズで生まれている。その五十数年後、ポールは北米ケベックの監獄の中にいる。小説はモンレアル(モントリオール)のボルドー刑務所の6平米の二人房に収監されているポールの日常描写から始まる。パトリック・オルトンと名乗る同居人は、ヘルス・エンジェルスのリーダー格で、警察と通じているという疑いからグループからリンチ殺害されたバイカー殺人事件への関与の廉で獄入り、筋肉隆々のタトゥー男で気性が激しくふた言めには「八つ裂きにするぞ」(原文は 「"en deux" = 二つ裂き」)とすごむ益荒男(ますらお)。戯画化されたハーレイ・ライダーだがいいキャラ。この同居囚との悲喜劇的獄中エピソードの連続の合間に、小説はポールの波乱の生涯(まだ終わっていない)をクロノロジカルに展開していく。
ルーツはデンマークにあり。デンマークのユトランド半島の最北端の漁村スケーエン(Skagen)、海へ漁に出るか、陸地で魚加工品をつくるか、それしかない社会で生まれた父ヨハネス・ハンセンは、少年の日に村の海際に15世紀に建立され教会が時と共に海から砂風に抗することができず砂に埋れてしまい鐘だけになった廃墟を見て強烈な衝撃を受け(よくわからない神の啓示であるが)、聖職者(プロテスタント牧師)の道へ進む。そこから2420キロ南に位置するフランス、トゥールーズで、町の小さな映画館を営む家の娘アンナ・マドレーヌが恋に落ち、このポールが生まれたわけだが、二人がどのようにして?はポール自身にも定かではない。ヨハネスはトゥールーズの小さなプロテスタント教会で小さな信者コミュニティーの中で慕われる静かな牧師におさまるが、全くキリスト教的信心を持たぬアンナは、幼い頃から培われた映画的感性によってどんどん先端的な(+美しい)女性になっていく。映画館をまかされて以来、彼女のプログラムは「作家主義」に傾き、映画が最もプログレッシヴだった時代を観客と共に謳歌し、小さな映画館は”68年5月”には闘争の討論会場にもなった。解放の闘士アンナはその流れ(性の解放=社会革命)で、1972年(夫ヨハネスに相談することなく!)『ディープ・スロート』の南西フランス最初の上映館として大成功を果たすのである。このことがプロテスタント教会上層部に知れ、ヨハネスはトゥールーズの教会牧師を解任される。闘士アンナはその志を曲げようとせず、二人は離婚し、ヨハネスは断腸の思いでトゥールーズを去る。
話は前後するがこの途中で少し魅力的なオブジェが登場するので紹介しておくと、ドイツNSU社製のロータリー・エンジンのセダン車 "RO80”というハンセン家の自家用車で、ヨハネス、アンナ、ポールの3人はこれに乗ってトゥールーズ→スケーエン(デンマーク)のとてもサイケデリックなロードトリップをする。時の自動車業界の技術革命のはずだったロータリー・エンジン車R080はトラブル続きでいつ故障するかわからない”ほぼ”欠陥車だが、それなりに”人間的な味(あじ)"がある。当時マツダのロータリーエンジン車を知っている諸先輩には覚えがあるはず。
さて、トゥールーズを追われたプロテスタント牧師は、回り回って北米ケベックのアスベスト鉱山の町(すなわちかの発がん性鉱物による汚染に100年以上晒されてきた町)セトフォード・マインズの小さなプロテスタント教会の牧師に再就職した。この町には大きく豪奢な純欧風(!)カトリック教会があり、勢力的にもカトリックが圧倒的に強い地盤だが、ヨハネスの小さな木造の新教教会には、なんと「ハモンドB3」という、ジャジーでソウルフルでファンキーでグルーヴィーなオルガンが備え付けてあり(小説中に3ページにわたって発明者ローレンス・ハモンドとその楽器の驚嘆の歴史に関する記述あり)、その演奏者ジェラール・ルブロンは(隠れた)稀代のハモンド・マスターで、厳かな典礼曲もジェラールの両手・両足にかかれば、ジミー・スミス、ローダ・スコットもかくや、というサウンドが教会をヴァイブさせてしまう。当然熱心なファンたちが多く、説教や祈祷は二の次でジェラールの出演する日曜集会は立ち見が出る盛況であった。アンナとの革命的な破局に深く傷ついていたヨハネスであったが、ここでも職業的には静かな牧師だった。
ポールはトゥールーズで学業を終え、自らの意志で父のいるケベックへ移住し、セトフォード・マインズで土木建築関係の仕事を見つけ、何も基礎などなかったのにその現場叩き上げの修行でいつしか何でも直せる便利屋に変身している。傷心の父を支え、北米でフツー人になりかけていたのだが...。生まれながらの清廉な禁欲者のようだったヨハネスを破滅に導くのはギャンブルなのであった。そのゆっくりと長い地獄への道は、ちょっとした"大勝ち"に始まり、いくら負け続けても抜けられなくなり、気がつけばプロテスタント教会団体から回ってくる教会運営費をすべて使い込み、翌年度分も前借りしてしまっている。その結果、ヨハネスは教会団体から負債の全額返済を命じられた上、牧師職を奪われる。その教会での信者たちを前にした最後の説教が(↓)これである。
「私がセトフォード・マインズにやってきたのは、その前の町が私をもう望まなくなったからです。それと同じ理由で私はこの町を去って行きます。二度も私は過ちを冒したのです。みなさんは私について実に不愉快なことを知ることになりましょうが、すべて真実です。今回も私には自分を弁護できる一言もないのです。しかし、私がここで過ごしたすべての年月の間、私は誠実で献身的な奉公人のように振る舞ってきたことをお忘れなく。誠実で献身的とは今や的外れな表現かもしれませんが。もうずいぶん前から私には信仰心が無くなっていて、祈ることすら私には不可能なものになっていたとしても。しばらくしたらみなさんは、四六時中私を咎め、断罪するようになりましょう。私が今みなさんにお願いするのは、今から申し上げるこの単純で平易な言葉を心に留めておいていただきたいということです。それは私の父から受け継いだもので、父はおのおのの過ちを軽減するために言っていました。『すべての人間が同じように世界に生きているのではない』、神がみなさんをごらんになったら、祝福を与えられますように。」こう言ったあと、ヨハネスは祭壇から崩れ落ちて倒れ、そのまま息絶える。遺体を収めた棺は空輸でデンマークまで送られ、スケーエンまでの葬送の旅にポールとスイスに住んでいる前妻アンナも同行する。再会した母と子は語る言葉も少なく、母もスケーエンのハンセン家も故人が2年間のギャンブル狂いで身を滅ぼしたことを知らない。その母も数年後にスイスで自殺する。
(p134)
ポールはヨハネスの死後、モンレアルに移住し、豪華客船のような裕福層向け退職者用レジデンス「エクセルシオール」の住み込み管理人となる。豪華プールやスポーツジムを持つこの老人マンションは、夫婦もの、独り者を合わせて70世帯が住み、ポールは庭やプールの手入れ、電気水道ガスの管理、各レジデンスのちょっとした修繕、動きの鈍くなった老人たちの移動の手伝い、老未亡人たちの悩み事相談... すべてを請け負うスーパーコンシエルジュとして忙しく働く。ほぼ休みなし。はじめは充実の毎日だが、年月と共に早く衰え、消耗していく老人たちと同じリズムで、ストレスやメランコリーも増えていく。そこに現れた水上飛行機ビーバーの操縦パイロット、北米先住民族アルゴンキン族の父とアイリッシュの母から生まれた混血の女性ウィノナとの電撃的な恋(+ウィノナの拾ってきた牝犬ヌーク)は、ポールを救済し、解放し、夢のような別天地(アルゴンキン族が何百年も何千年も共に生きてきた自然界)へとポールを誘う。このいにしえの叡智を受け継いだ野生的なウィノナのエピソードは皆美しく、この小説で最も幸せになれる部分だろう(そのうち、ウィノナが語るアルゴンキン族の叔父ナトロードの物語は、このブログの別記事として訳してあるので参照のこと)。このフロートをつけた軽飛行機ビーバーの飛ぶシーンは、やはり宮崎駿『紅の豚』を想ってしまうし、悲しいかな、そのビーバーが行方不明になり、数日間の捜索の末、機体がウィノナの遺体と共に発見されるくだりになると、「あの子の命はヒコーキ雲〜」と脳内にメロディーが流れてしまうのだなぁ。悲しい日本人老人。
そう、ポールの幸せは本当に儚い数年間のこと。高級老人マンション「エクセルシオール」の仕事では既にウィノナが生きていた頃から始まっていた住民管理委員会からのパワハラが極端に激しくなり、ポールの経費の節減、一般管理費の縮小、外注業者を締め出しポールに全部仕事を振る、などなど...。ここに20世紀末/21世紀のネオリベラルな合理化/生産性向上/ブラック企業体質の縮図を見る思いがする。この部分の小説の描写は年と共にこれでもかこれでもかと劣悪になっていく労働条件を、牧師の息子が殉教のように耐え凌いでいるようだ。パワハラの主はマンション住民管理委員会の長だが、住民総会の選挙で選ばれるこの長は、その選挙の時「合理化/管理負担費の軽減」を主張して当選した冷徹な「数字読み」の男。できないノルマを課せられ、休日を削られ、住民老人たちとの直接のコンタクトを止めさせられ、愛犬ヌークの敷地内での散歩を禁止され...。限界は地球温暖化に伴う季節の変調と共にやってきた(思えばウィノナの飛行機墜落事故もそのせいとしか考えられない)。2008年冬、積雪2メートル50がひと季節続き「エクセルシオール」のあらゆる機械施設がボロボロになったあと、来た夏は温度湿度とも呼吸するのが難しくなるほどの超ハイレベルで、住民老人に死者が出てもおかしくはない。ここで働いて20年になるポールは、こんなふうに一日中働いても夜眠ることができない暑さにどうしようもなく、深夜2時、照明もつけず、あの豪華プールに忍び込み、思う存分泳ぐのである。これですべては終わったと感じながら。翌朝、さっそく住民管理委員長が乗り込んできて、昨夜の防犯カメラにプールで泳いでいる男の姿が写っていた、と。従業員のおまえには禁止されているというのはわかっているんだろう。ー ポールは即刻解雇を言い渡される。
その男を本能まかせに猛獣の勢いで半殺しにするシーンは、読む者の望むところなのだが、6人の大の男が取り押さえなければ止められなかった極端な猛攻は、小説の冒頭の刑務所の扉を開くことになるのである...。
250ページ。いい話がたくさん詰まっている。文章はすべてにくいほどの名調子。刑務所もデンマークも68年のトゥールーズもケベックも、みないい話が詰まっている。いろんなものを失っていくメランコリーに、心打たれる瞬間が何度もある。牧師の父、マジックな妻ウィノナ、愛犬ヌーク、この死んだ3つの魂が、寝静まった監獄に降りてきて、2年の禁固刑は自暴自棄になることなく、平静なうちに満期を迎える。すべては失われたのだけれど、またポールは60歳を過ぎて旅に出る。円環を閉じるように、行先はデンマーク、ユトランド半島、スケーエン。「俺はヨハネス・ハンセンの息子だよ」と言えば、迎えてくれる世界がそこにあるはず。完。
カストール爺の採点:2019年の小説
Jean-Paul Dubois "Tous les hommes n'habitent pas le monde de la même façon"
Editions l'Olivier 刊 2019年8月、250ページ 19ユーロ
(↓)ゴンクール賞受賞の前、10月27日、国営の地方TV局フランス3オクシタニーでのインタヴュー。イントロ部で「22作めの小説」と言ってあるけど、経歴の長い老作家。文体の名人芸がよく伝わる、穏やかで明晰な語り口。
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