AKI SHIMAZAKI "Le Poids des secrets" (pentalogie)
アキ・シマザキ『秘密の重み』(五部作)
拙ブログ2016年6月にアキ・シマザキの現時点での最新小説『ホオズキ』を 紹介しました。彼女の来歴についてはそちらで書いてますが、1954年岐阜県生れ、1981年にカナダ移住(91年からモンレアル定住)、1999年の「椿」を皮切りに、今日まで12篇の小説をフランス語で発表しています。
この作家に特徴的なのは、5篇の作品をひとつのサイクル(五部作)として、主人公と時代の異なる独立した作品5篇が交錯・呼応して、最後にある種の大河小説的な全体像が見えて来る、というスケールの大きい構築・構成です。 最初の五部作が「椿」「蛤(はまぐり)」「燕」「忘れな草」「蛍」という1999年から2002年まで発表された5篇で、五部作の総題が『秘密の重み(Le Poids des secrets)』となっています。秘密(secrets)が複数形です。複数の秘密が交錯する大作です。 続いて、「みつば」「ざくろ」「とんぼ」「つくし」「やまぶき」という2006年から2013年にかけて発表された5篇で構成される五部作は『やまとの中心で(Au coeur de Yamato)』と総題されています。さらに、現在進行中の五部作は「アザミ」(2014年)、「ホオズキ」(2015年)と2篇まで発表されていますが、総題はまだついていません。
さて、最初の五部作『秘密の重み』です。作者はヴァンクーヴァーで5年、次いでトロントで5年暮らしたのち、1991年に仏語圏のケベック州モンレアルに移住してきます。仏語版ウィキペディアの記述によると、シマザキがフランス語を習得し始めたのは1995年のことで、そのわずか4年後に、第1作めの「椿」は発表されています。おこがましさを恐れずに言えば、とても平易で明解なフランス語です。ポワン(終止符)までの距離が短い、ショートセンテンスです。私のような日本語が母語の人間が書くようなフランス語と言いましょうか。とにかくわかりやすい。そのわかりやすさは、あらかじめケベックやフランスといった仏語圏の人々に読まれることを前提として書かれているので、日本の歴史や時の状況および生活習慣などをかいつまんで説明しながら進行していく文体にも大きく関係しています。私には日本生まれながら日本で暮らしたことのない娘(21歳)がいますが、この作品群こそ娘に読まれるべき、と思いました。そしてその歴史や状況を論じる文章は教科書的なものでは全くなく、作者のはっきりとした視点があります。その視点に同意するだけでなく教えられるもの多いです。例えばその第1作の「椿」の冒頭で、長崎で被爆した死にゆく老女ユキコが孫の少年に、日本の全土をB29が焦土としたその後に、なお広島・長崎という2つの原爆が落とされたのか、特に二つめの長崎というのはアメリカのどういう意図だったのかを説明するのですが、日本を完敗させるという意図よりも、戦後の世界勢力を見越しての(新爆弾をまだ保有していなかった宿敵国)ソ連への威嚇デモンストレーションであったと言うのです。キリスト教徒の多かった長崎の市民は十字架をかざしていれば、キリスト教国アメリカは長崎に空爆をしないであろうと信じていたのに、ユキコの説はヨーロッパ白人国ではそれは通じても、非白人国たる日本ではそんなものはアメリカ人には何の影響力もないというリアリズム(つまりはレイシズムの現実)を看破します。「アメリカ帝国主義」へのヴィジョンです。それだけではなくその戦時や非常時における日本の狂信性にも作者は同じ矛先を向けて語っている(例えば、戦争末期に本土玉砕を全うするために、捕虜になる「恥辱」を避けよ、と自殺用の青酸カリが配布されたりすること)。私がこの作家を信頼するのはこの明確・明白な歴史観・状況分析によるところが大きいです。
「椿」は 2002年に日本で和訳本が出版されました。おそらく和訳された唯一のシマザキ作品であろうと思われます。戦後50年経って、長崎で被爆したユキコが娘ナミコに長い手紙を残して息を引き取ります。手紙には生前ユキコが隠していた二つの秘密が綴られています。一つは自分にはユキオという名の腹違いの兄がいること、もう一つは長崎原爆で亡くなったとされているユキコの父親はユキコが殺害したということ。
旧家の出身であり、一流製薬会社のエリート研究員であるホリベは、同じ階層のブルジョワ娘と結婚して一女ユキコをもうける。外見的にはパーフェクトな三人家族。戦争中ホリベは長崎支社に転勤になるが、そこには大学時代からの親友で同じ会社の研究員であるタカハシがいる。タカハシには再婚した妻マリコとマリコの連れ子のユキオがいて三人家族で暮している。タカハシも名門家の一人息子であるが、見合いで結婚した最初の妻との間に子供ができなかったために離婚(その後無精子であることがわかる)、マリコと出会い恋に落ち、マリコと結婚してユキオを養子として迎えることを両親に願い出るが、マリコの素性が怪しい(孤児、学問がない等)で両親が猛反対したため、彼は家と絶縁してマリコとユキオと一緒になる。戦況は悪化し、タカハシは長崎支社から満州(日本の植民地)の日本軍付きの薬事研究所に派遣される。6ヶ月の予定が何度も延長され、連絡が途絶え行方不明になる。ホリベ一家はタカハシ母子をいろいろと支援する。そして十代のユキコとユキオは恋に落ちる。しかし学校に行く代わりに軍需工場で勤労奉仕ばかりさせられて「男女交際」など不謹慎・非国民とされた時期、秘められながらも強い恋慕が二人を結びつけていく。
カタストロフ。ユキコは自宅と続き棟になっているタカハシの家に父ホリベが忍び込み、マリコと強引に交情している現場を見てしまう。そこから聞こえてきた父の言葉から、十代の頃のマリコが結婚前のホリベの情婦であり、人知れず私生児として生まれたユキオはホリベの子であることを知ってしまう。つまり自分とユキオはホリベを父とする異母兄妹である、と。そしてタカハシを長崎に転勤させ、その後満州に送ったのも、既に社に権力を有していたホリベが、マリコを再び情婦にするための画策であった、と。ユキコは愛するユキオとの恋を失い、慕っていた父の実像を知り、やむにやまれぬ殺意に襲われ、あの1945年8月9日の朝、ホリベに青酸カリを飲ませて殺害します。その現場から離れた後で、午前11時2分、原爆が投下されたのです...。
これが五部作『秘密の重み』のベースです。
続く「蛤(はまぐり)」は 話者がユキオになります。貧しいマリコの私生児として外人神父のいるカトリック教会(兼孤児院)に預けられて育った幼少期。友だちが出来ず孤立していたユキオは、一人の紳士とその娘(ユキオと同じ年頃)と知り合う。紳士は優しくいろいろなことをユキオに教えてくれ、その娘も聡明で一番の遊び相手になってくれる。娘が教えてくれた遊びの一つに「貝合わせ」があり、複数のはまぐりの貝殻で、上と下がうまく合致するものを当てる遊戯。名前も名乗り合うことなく仲良く遊んでいた3歳の子供二人は、幼心に大人になって一緒になれればいいと思うようになります。既にひらがなを書ける少女ははまぐりの貝の内側に自分の名前を記すのですが、ユキオは読めません。
教会にタカハシという男が現れ、神父にマリコと結婚してユキオを養子にしたいと申し入れます。話は決まり、タカハシの両親の猛反対を押し切ってタカハシとマリコとユキオは家族となり、タカハシの転勤先の長崎に移住する。ユキオの幼い日の恋はこうして忘れ去られるのだが、その貝合わせの貝殻は母マリコが死ぬまで大事にしまっているのです。
その10年後にユキオは、東京から長崎にやってきた父親の同僚ホリベの娘ユキコと出会い、少年少女期の「初恋」をしてしまいます。ユキコはユキオに「小さい頃に将来を約束した人がいるの」と告げ、ユキオは嫉妬します。戦況は悪化し、勤労奉仕に駆り出される毎日にも関わらず、二人の恋慕は燃えあがります。が、突然ユキコはユキオと会うことを避けるようになり、1945年8月9日、長崎に原爆が投下され、ユキコの父ホリベは死に、ユキコとその母は東京に帰って行き、消息が途絶えます。
この「蛤(はまぐり)」の中で、ユキオが3歳の時に貝合わせをして遊んだ幼女がユキコだったこと、その父親がホリベだったこと、少年の日にユキコが言っていた「小さい頃に将来を約束した人」が自分だったことなどを一挙に母マリコの死の床で知るのです。
ここで「椿」と蛤(はまぐり)」はパラレルながら話者の違いだけでなく、視点の違いもあります。最も大きいのはホリベの描かれ方で、ユキオにとっては優しい紳士であり、教養人であり、不在(満州送り)の父に代わって戦時下ながら自分に違う世界観(マルクスの著作などを読ませた)をもたらしてくれた人生の先輩なのです。(おそらく実の息子として愛していた、ということが仄めかされます)。作品末尾で薄々と感じつつあるのですが、この作品ではホリベがユキオの生物学上の父であることはまだ知らされないのです。こういうパラレルのズレが全体像を大きくしていくのです。
第三作「燕」はマリコの物語です。マリコは生まれた時「ヨンヒ」という名前だった。朝鮮人である母と叔父に育てられた。1910年から45年まで朝鮮半島は大日本帝国に併合されていました。叔父は文筆家だったが、独立運動に加担していたため論壇を追われ、一介の日雇い労働者として日本に移住してきたが、常に官憲に目をつけられている。母と叔父は東京下町、荒川の朝鮮人長屋に暮らしていた。1923年9月1日、関東大震災。東京は大壊滅。それだけではなく、かの「朝鮮人が略奪を働いている」→「朝鮮人が井戸に毒を流した」→「朝鮮人を皆殺しにしろ」という大虐殺事件が起こっている。叔父の行方はわからなくなった。母は幼いヨンヒを連れて逃げ惑うが、朝鮮人刈りをする武装した男たちに取り囲まれてしまう。(このシーン感動的です)。するとそこに居合わせた小さい男の子を連れた婦人が「あら、カナザワさん、ここにいらしたんですか!」と声を上げる。自警団の男の一人が「おまえ、この女を知っているのか?」と尋ねる。「知ってますとも、長年隣同士でしたもの。でも界隈全部が震災で焼けて無一物になってしまって...」。すると男の子が大声で泣きだす。自警団の男たちはこりゃ厄介だ、とその場を去っていく。見ず知らずの女性に救われたのです。
逃げ続けなければならない母はヨンヒを旧知のカトリック教会の外国人(西洋人)神父に託すことにした。娘に宛てた朝鮮語の手紙と母の全財産を神父に渡し、今日からおまえは「カナザワ・マリコ」という名前の日本人よ、絶対に朝鮮人であることを明かしてはいけない、と言い残して去っていく。今生の別れ。「カナザワ」は救ってくれた婦人がとっさにつけてくれた苗字、「マリコ」は聖母マリアから頂いた。
震災のあまりにも多い死者や不明者で役所の機能が雑になったのに乗じて、神父は孤児カナザワ・マリコの戸籍をつくることができた。マリコは学校に行かず、教会の手伝いをしながら大きくなっていった。十代になり、近くの大きな製薬会社に清掃婦として雇われ、自活して小さなアパートに住むようになった。十代なのに大人の女の美しさと魅惑的な肉体を持ったマリコに、会社のエリート研究員ホリベが夢中になる。名門家出身のエリートと清掃婦の世間には知られてはいけない関係。しかし噂は立ち、会社側はマリコの私生活の不謹慎を理由に解雇してしまい、同時にマリコはホリベの子を妊娠してしまう。ホリベはこの子を認知したり実家に報告することなどできない。そればかりか、この男は実家がお膳立てしたブルジョワ娘と結婚して家庭を持ってしまう...。
この「燕」はとりわけアイデンティティーの問題が強調されています。この時代(朝鮮併合から今日まで)に日本において朝鮮人であるということがどれだけのハンディキャップであり、根の深いレイシズムゆえにそのアイデンティティーを隠さなければ生きていけなかったマリコの日々が描かれています。日本語の読み書きもあまり得意でないマリコ、まして朝鮮語など全く知らない。関東大震災から数十年後、朝鮮人虐殺の夥しい遺体が埋められたと言われる荒川河川敷でその発掘作業が行われるというニュースを聞き、マリコはいてもたっても居られなくなり、その発掘作業場に駆けつけます。母と叔父の遺体があるかもしれない。現場で怒りと悲しみの昂りに倒れそうになったマリコは、キムという老女に助けられます。キムの住む、マリコの幼い記憶にある朝鮮人長屋のような家に連れて行かれ、マリコは名状しがたい懐かしさに包まれます。二人は友人となり、マリコは長い間封印されていた母親の朝鮮語による手紙を、キムに初めて読んでもらうのです。そこには、ヨンヒ/マリコの父親の秘密が記されていました。ヨンヒの父は「ミスター・ツバメ」。これは長く黒い僧衣をまとったあのカトリック神父につけられたあだ名だったのです。マリコのアイデンティティーは更に複雑なものになってしまいました。
第四作「忘れな草」 の話者はタカハシ・ケンジです。旧家に生まれた一人っ子長男ゆえ、家からは早く結婚して世継ぎをと強要され、最初の結婚で子供ができなかったので離婚。女の方が不妊症と思われていたのが、彼女が再婚後すぐに子供ができた。つまりケンジの方が無精子症だったということが判明。マリコと出会い、恋に落ち、結婚してマリコの子ユキオを養子にするが、反対する実家とは絶縁。この反対の理由の一つとして、実家両親は私立探偵を使ってマリコの身元調査をし、その出自が非常に疑わしい(戸籍も偽である)ということを突き止めるのです。(悲しむべき)ありふれたレイシズムと言いましょうか。
戦争中ケンジは勤めていた製薬会社からの転勤命令で長崎支社から満州に飛ばされ、戦争末期にソ連軍に捕らえられ、シベリアに抑留され厳しい強制労働の日々を送りました。引き揚げ後マリコ、ユキオと再会し、シベリア体験のために体は弱ったものの、定年まで仕事を続け、今は鎌倉で隠居生活を送っている。孫たちもよく訪ねてきてくれる幸せな老後である。本を読み、友達と将棋を差し。その本にケンジが若い頃から欠かさず挟んでいたのが「ニエザブドカ(ロシア語で忘れな草)」と書かれた花模様の栞。ケンジの乳母だったソノが旅行先のハルピン(満州)から送ってくれたもの。 厳格な旧家にあって、幼いケンジが自由闊達な子に育てられたのはソノのおかげであり、少年期も青年期もソノはケンジにとって最も親身な相談役だった。父も母もソノの役割を評価していたものの、彼らにとって唯一の汚点は「出自が疑わしい」ということであった。偶然にも将棋友達と今になってこのケンジの幸せな日々を追っていったら、次々に意外な事実を発見していきます。まず、父親がケンジと同じ無精子症であったこと。そしてソノとは実は...。
アイデンティティーが自らの死の直前に複雑化してしまうこと、これは第三作「燕」と第四作「忘れな草」に共通しています。しかし、主要人物たちが、ルーツが朝鮮半島、中国大陸、ヨーロッパ大陸にまたがってしまったということを知る時、それはアイデンティティーの危機となるのでしょうか?そうではないでしょう。それはまさしくわれわれ日本人のことではないのですか?と作者は訴えているように思えませんか。
五部作を閉じる「蛍」は、マリコの孫娘のツバキが話者です。「椿」に始まった五部作の最後がツバキによって語られるというわけです。ツバキは今東京の大学生で、鎌倉に住む老いたマリコ のところに定期的にやってきて、マリコと話すことを大の楽しみにしている。マリコの夫タカハシ・ケンジは既に13年前に亡くなっていて、マリコも記憶が曖昧になって幻聴・幻視があるなど死期が近い事は明白。ツバキには意中の人がいて、年上の英語教師だが、ツバキが好意を持っていることを知って誘惑してくる。そして彼女に自分が結婚していて妻との生活がうまくいっていないことを告白する。ここでツバキは躊躇する。このことを聞いたマリコはその交際に猛反対する。「ほ、ほ、ほたる来い、こっちの水は甘いぞ」という童謡をマリコは歌う。甘い水に誘われていった哀れな螢は私だった、とマリコは孫のツバキに長い告白をするのである。この文中で話者はマリコに代わるのだが、16歳の何も知らなかったマリコが御曹司エリートのホリベの甘い誘いに乗って、全てを狂わせてしまうストーリーが語られる。そして長崎で起こったこと。ホリベの権謀術数によって夫ケンジが満州に送られ、再び妻子あるホリベが自分の肉体を求めてきたこと。その二度目の甘い罠にもマリコが引っかかってしまったこと、夫を裏切ったことへの誰にも言えぬ悔恨をマリコはツバキに懺悔告解のように言ってしまう。さらに亡き夫ケンジも、息子ユキオも知らぬこと、マリコがその目で見てしまったユキコによるホリベ殺害のことも。この五部作で明かされた数ある秘密の最も重い部分が、孫のツバキに継承された後、マリコは安らかに息を引き取るのです。
激しくネタバレの罪を犯してしまいました。こういう五部作、総ページ数600ページを超える巨編です。私が夢中になって読んでいるのを見て興味を持ったらしい私の奥様が、つられて「椿」を読み始めたら、その仏語中級者程度の読解力ですらすら読める平易さ・シンプルさに感動しながらも、このストーリーテリングの質は日本の「大衆小説」であると、大変な悪口を言いました。Naaan!きみはnaaaaanもわかっていない!
20世紀日本史が体験した天災、戦争、原爆、封建的「家」制度、身分階級差別、植民地、レイシズム、社会運動、キリスト教... これらのことを何も知らない仏語人たちに適切に説明しながら、それぞれに交錯する運命を生きた男女たちを話者を替えて証言していく多面体小説。日本人だったら普通にわかるよ、という程度のものではない。私はこの視点は日本人にも教え、訴えるものがあるはずと思っています。これは私が引き合いに出すとすれば、オノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラです。
この夏はシマザキの次の五部作『やまとの中心で』 を読みます。多分またここで紹介します。お楽しみに。
カストール爺の採点 : ★★★★⭐️
Aki Shimazaki "COFFRET : LE POIDS DES SECRETS
("Tsubaki", "Hamaguri", "Tsubame", "Wasurenagusa", "Hotaru")
Actes Sud刊 2010年 33ユーロ
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