そう、去年のこの日(これを書いている日)、私は腹腔内出血で病院に運ばれ、緊急手術されたのだった。あと2週間でヴァカンスだったのに。手術は成功して1週間後には退院できたものの、痛みは消えず、体力回復もままならず、去年の夏、私はコート・ダジュール行きを断念した。毎夏の楽しみはこうして途絶えた。ゴルフ・ジュアン、ヴィルヌーヴ・ルーべ、サン・ローラン・デュ・ヴァール、カーニュ・シュル・メール、ニース...この十数年、わが家のヴァカンスと言えば、このアルプ・マリティーム県の数十キロの海浜から出たことはなかった。ニースからアンティーブ岬まで続く緩やかな弧を描く湾は「天使たちの湾 Baie des Anges」と呼ばれる。その東側の端に7キロの長さで浜に接する散歩道が「イギリス人の遊歩道 Promenade des Anglais」だ。
毎夏当たり前のように、人生のリズムのように紺碧の地中海に身を浸しに行っていたのが、やむなく中止になった。病気だったのだから仕方ない。しかし、毎年の楽しみのように、あるいは日常の楽しみのようにできていた同じことが、ある日できなくなる。それはまさに2015年からの私たちフランスに住む者たちの皮膚感覚である。シャルリー・エブド、イペル・カシェール、10区11区のカフェテラス、バタクラン、スタッド・ド・フランス…。2015年1月から、ジハーディストたちはフランスを戦場にして戦争を始めた。テロの標的はジハードに敵対する者すべて、メクレアン(不信心者、異教徒)すべてであったが、それはバタクラン以来、もはや殺せる者はすべて殺せになってしまった。私たち市民はどんな信仰を持ち、どんな意見を持ち、どんな年齢で、どんな肌の色で、どんな性別で、どんな金持ちで、どんな貧乏で、どんな過去を持って、どんな現在を生きているかなど全くお構いなしにテロの標的にされるようになってしまった。
私たちは事件がある度にはかり知れない衝撃を受け、悲しみ、怒り、何が起こっているのか理解しようとした。通りや広場に出て行き、人たちと話し合い、恐れてはいけない、屈しないでいよう、と言い合った。いつも通りの地下鉄に乗ろう、いつも通りの生活をしよう、これが私たちのメッセージだった。カフェやレストランに行こう、人混みの商店街で買い物をしよう、そしてコンサートに行こう、音楽を鳴らそう、歌おう、踊ろう、私たちは怖くない、と言っていたのだ。
それでもパリとフランスは観光客や訪問者の数を随分と減らしてしまったし、2015年11月(バタクラン事件)に政府に宣言された「緊急事態」は延長に延長を重ね、私たちの「自由」にも大きく影響してきた。私たちの通信や言論は一体どこまでコントロールされているのだろうか、という不安もあった。私のブログの統計が、ある時期フランスからのアクセスが異常(普段の数十倍)に増えたりすると、ああ、何かが行われているのだな、と思わざるをえなかった。
そんな時期でも、私はこんな傾向の反権力な爺なので、エル・コムリ労働法への反対運動やレピュブリック広場の「ニュイ・ドブー」運動などに片足突っ込みに、通りや広場に何度か出かけて行った。「緊急事態」はこれらの運動に威圧的であろうと思われた。当然私のような外国籍の(怪しげな)市民にも。2016年春、異常な悪天候続きにも関わらず、これらの運動は大変な盛り上がりを見せた。ウルトラな破壊グループも現れ、市街戦もどきの機動隊との衝突シーンも報道された。私たちはシンボルが欲しかった。エル・コムリ法が廃案になれば、私たちは前に進めると思った。しかしオランド/ヴァルスの政府は労組の連続ストにも街頭デモにも全く耳を貸さずに、悪名高き「49.3」(国会における政府責任による無投票可決)で強行突破した。この国の民主主義も病んでいる。そう思いながらも、国がテロの脅威にさらされながらも、これほどまでの反対運動を「緊急事態」を理由に圧殺しなかったことに、ある種の懐の厚さを感じたりもした。
そして6月、サッカーヨーロッパ選手権 EURO 2016がやってきた。バタクラン/スタッド・ド・フランス同時テロがあった去年の11月には、EURO 2016など開催できっこない、フランス開催を返上しよう、という声が多かったのだ。チケットは売れないだろう、参加をボイコットするチームもあるだろう、各国応援団など来ないだろう。全国に散らばった会場スタジアムや「ファンゾーン」(入場無料の巨大スクリーンによる観戦会場)などテロの格好の標的ではないか。パリでもテロを恐れてのファンゾーン設置反対運動があった。直前まで本当に大丈夫なのかの声は多かった。何かが起こる。必ず何かが起こるという不安は多くの人たちが共有していたはずだ。
6月10日、参加国選手団と応援団はジハーディストたちを恐れることなくフランスにやってきた。それから1ヶ月、7月10日まで、私たちはすべて忘れてスポーツの祭典に酔った。なんて素晴らしい選手たち、なんて素晴らしいサポーターたち。そしてなんて素晴らしいフランスチーム。私たちは7月10日深夜まで、決勝の延長120分めまで、スポーツの興奮に酔いしれていた。フランスは負け、ポルトガルがヨーロッパチャンピオンになった。
翌日、大統領オランドをはじめ政府、EURO 2016主催者は、テロの脅威にめげず開催できたこと、閉幕までテロ攻撃が起こらなかったことを祝福し合った。私たちはひょっとしてテロを克服したのではないか、テロに勝利したのではないか。
7月14日、フランス革命記念日。それは去年よりもずっとオプティミスティックで、この国はやはり強い国ではないか、良い国ではないか、という雰囲気に満ちていた。前夜のわが町ブーローニュの花火大会もものすごい数の人たちが集まったし、拍手と歓声はひときわのものだった。14日夜テレビで見ていたエッフェル塔の花火もひときわアーティで、ひときわ自由・平等・友愛のメッセージが輝き、ひときわ豪華に美しいものだった。その中継の直後に字幕テロップが出たのだ「ニースでテロ事件発生…」。
7月14日、ニースで何が起こったのか。その日は木曜日。革命記念日(祝日)。南仏は良い天気で暑かった。同じ地中海沿岸でも、ニースよりずっと東側にあるマルセイユやブーシュ・デュ・ローヌ県の各町はミストラル(南仏特有の北からの突風)が強く、予定されていた革命記念日の花火大会はすべて中止になった。コート・ダジュールの真珠、ニースは本格的なヴァカンスシーズンを迎え、ビーチとそのすぐ上の7キロの長さの遊歩道「プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)」には例年通りのリゾート客たちで賑わっていた。とりわけ「ユーロ2016」がもたらしたオプティミズムは、いつも通りのニースでのヴァカンスを享受できる喜びを倍加していた。風も少なく予定通り開催される「天使の湾」花火大会にためらうことなく、ためらう必要もなく、家族連れで、仲間同士で、誰かれ構わず、誰もかれも、静かな湾に照り光りする美しい花火を堪能しにやってきた。その数3万人。花火は22時に始まり、22時30分に終わった。拍手喝采。ハッピー。人々は良い夏に酔いしれていた。その直後、プロムナード・デ・ザングレの花火行事のための西側の車両通行止め検問を破って、大型19トントラックが、黒山の花火見物客めがけて突進してくる。制止しようとする警官隊にトラック運転手は発泡し、人々を轢き倒し、はね倒し、トラックは突進を続ける。悲鳴、流血、パニック。トラックは車道から歩道に乗り上げ、最大限の数の人々をなぎ倒しながら、2キロの距離を突進し、警官隊の一斉射撃を受けてやっと止まり、テロリストは息絶えた。
私はその夜、14日夜から15日未明にかけて(朝5時まで)、ニュース専門テレビ局2局(BFM-TVとI-TELE)をしょっちゅうチェンジしながら、増えていく死者・負傷者の数に戦慄していた。幼い子供の死者の数、イスラム教徒の死者の数、外国人の死者の数、善良なすべての市民の死者の数。それが増えていく度に、私は自問した。私たちは間違っていたのか。私たちは甘すぎたのか。あのスタジアムやファンゾーンの興奮を分かち合っていた人々は間違っていたのか。
現時点で死者84人、負傷者約200人。今なお生死の境目にある重傷者たちが約20人いる。
テロリストは31歳のチュニジア人だといい、日が経つにつれてその人物の輪郭は明らかになっていき、単独のウルトラな異常者の凶行ではなく、複数のバックアップを得た組織的で計画的な殺戮テロであったことがわかってくる。そのテロリストはフランス公安のテロリスト・リストに載っていなかった。また周囲の人間たちの証言では、モスクに行くのを見たこともないし、ラマダンの最中もアルコールの匂いをプンプンさせていたし、イスラム過激派を匂わせるものはまるでなかった、と。
ある者たちはオランドの治安政策の失敗を糾弾し、またある者たちはそれ見たことかとイスラム亡国論の声を荒げ、鎖国・EU離脱を叫ぶ。私たちは間違っていたのか。
7月16日(土)、事件から2日後にDAESH(イスラム国)はテロ敢行の声明を発表した。
ジハード・テロを撲滅するための最前線でフランスは兵を出して戦っている。そのリスクは大きい。テロの現場がフランス国内になっている時、そのリスクを国民に負わせるフランスは間違っているのか。私たちは恐れないぞ、と市民たちが立ち上がる時、それは市民たちの自殺行為なのか。
ニースという町を考えてみよう。コート・ダジュールの真珠であり、富裕層を集める豪華なリゾート地であり、フェラーリ/ポルシェ/ロールスロイスが普通に走りまわり、資本主義リベラル経済の成功者たちがのし歩く町だ。だがそれだけではない。プロムナード・デ・ザングレのローラー/スケボー小僧たち、マセナ広場でヒップホップの妙技を展開する少年たち、古くてゴチャゴチャした小路が迷路のような旧市街でニース風ピザやソカ(鳩豆クレープ)を味わう人たち、花市場の露店で花やオリーブ細工や香水石鹸を買い求める人たち…。紺碧の海とバラ色の壁の古い建物が並ぶニースは本当に美しい町だ。私たち家族は毎夏のようにこの町にやってきて、この町の美しさに包まれた。ニッサ・ラ・ベッラ、ニースうるわし。
私たちは間違っていたのか。私たちはジハード派に対する憎悪・怨念をひたすら駆り立てるべきだったのか。フランスの「失政」(過去の植民地政策、移民政策、非宗教政策、対ジハード派戦争への参戦…)をもっと追求するべきだったのか。
あのテロリストは日常生活で「その素振り」を全く見せなかったという。普通の隣人。それが19トントラックを突進させ、銃を発砲し、あらゆる人々を轢き殺していった。幼子も老人も妊婦も外国人もイスラム教徒もみんな殺していった。なぜならここは虚飾に満ちた不信心者たちが邪悪な淫行に耽るニースという悪徳の町であり、フランスという悪徳の国だから。この隣人を私たちはもっともっと疑いの目で見るべきだったのか、隣人を徹底的に疑い、疑わしきを通報して、不信で分断されて暮らすべきだったのか。
イスラム者たちよ、もっと声を出してくれ。あなたがたのイスラムはこんなものではない、ともっともっと言ってくれ。私だって、局面局面においては、疑いたくなってしまう時があるよ。その疑いはあなたがたが晴らさなければダメだ。
中世にはもっともっと多くの人々が死んだ。神の名のもとに宗教は夥しい殺戮を冒した。中世の果てに地上の天国は実現したか。否。歴史はもっと私たちに人間の愚かさを語らなければダメだ。
2016年夏、ジハーディストたちは誰でもいいから私たちを殺そうとしている。兵士や政治家や役人や要人でなくても、町を散歩する人や海辺で日光浴する人たちが標的だ。テロリストはあなたの横にいる。私たちは恐怖し、私たちの隣人を片っ端から疑ってかかるべきか。
私は自問の果てに、もう一度数ヶ月前と同じメッセージを発することにした。
恐れずにいよう。通りに出よう。広場に集まろう。いつもと同じ地下鉄に乗ろう。普段と変わらない生活をしよう。盛り場で飲もう。コンサートに行こう。音楽を鳴らそう。もっともっと音楽を鳴らして陶酔しよう。踊ろう。集団で熱狂しよう。恐れてはいけない。パリは?フランスは?と聞かれたら、大丈夫と言おう。ヴァカンスに出よう。犠牲者たちのことを忘れずにいよう。
ニッサ・ラ・ベッラ、ニースうるわし。ニースのために祈ろう。
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