2022年8月15日月曜日

なんかのブロードウェイ

Fabrice Caro "Broadway"
ファブリス・カロ『ブロードウェイ』

(単行本 Gallimard刊 2020年8月)
(Folio文庫版 2022年3月)

2022年夏のヴァカンスで読み終えられた唯一の本。ファブリス・カロの3作目の小説。私は最初の小説『フィギュレック(Figurec)』(2006年)(いつか読みます、今すぐではないけれど)を除いて、 - 3 - 作めを体験してきたのだが、この3作目『ブロードウェイ』が最もディープなもの(哀感、過剰な脳内シナリオ、”文学性”なのかな)を感じさせてくれたと思う。優れた”文学”ゆえに下手に映画化などしないでほしい。
 話者アクセルは46歳の勤め人、妻と二人の子供(18歳娘、14歳息子)と地方都市郊外の同じような一戸建て住宅が並ぶ住宅街に最近引っ越してきた。 職あり、家あり、家族あり、なに不自由ない”ナミ”の人生の道半ばであるが、ナミの感覚を持った男なので、世の40/50歳と同じように、この人生これでいいのだったっけ、とは思うのである。すべてを投げ出したい衝動も秘めている(ナミの人間のように)。
 事件は小説の冒頭で続けざまに起こる。まず、フランス保健省が(女性の乳がん無料早期検診と同じように)男性に実施している結腸がん無料早期検診の手紙がアクセルに届く。対象は”50歳から”となっているのに、46歳のアクセルに届いてしまった。このことでアクセルは漠々たる不安に襲われてしまう。なぜ対象外の自分に、ということのありとあらゆる可能性を想像してしまう男なのである。迫りくる死を想い、人生を見つめ直し、この手紙の「エラー」の意味するものは何なのか、それらの問いをひとりで背負い込み誰にも相談できない。ファブリス・カロ的な小心コンプレックス男のキャラクターである。
 次に14歳の息子トリスタンの通うコレージュ(中学校)の校長から呼び出しを喰らう。トリスタンが授業中ノートにボールペンで生物学教師(男)と英語教師(女)が後背位でまぐわっているデッサンを描いたのが見つかってしまったのだ。デッサンの吹き出しには:

(両膝をついて突く男)”Aaaah Guiraud tu es bonne!"
(四つん這いの女)"Oh oui Charlier mets-la-moi!"
と文法&綴り間違いゼロで書かれている。登場するふたつの名、マドモワゼル・ギローは英語教師、ムッシュー・シャルリエは生物学教師。Mets-la-moi (メラモワ、直訳すると”挿れて”)ー こんな表現、どうやってあの(毎クリスマスにプレイモービルをもらって狂喜するような子供の)トリスタンから出てきたのか。衝撃と動揺で言葉がないアクセル。校長はこの問題で件の英語教師が両親に説明を求めている、と。家に帰って事情を妻のアンナに説明したが、思春期の男児の問題は男親が解決すべきこと、とつっぱねる。トリスタンを諭し、ことの重大さを理解させ、二度とこの種の不祥事を起こさぬようにと話すのはあなたの役目だ、と。しかしアクセルはトリスタンにどう切り出していいのか、どう諭せばいいのか、戸惑うばかり。その日からアンナはアクセルに執拗に「トリスタンに話したの?」と問うようになる。話すきっかけがつかめないアクセル。やがてアンナは、アクセルが何かを頼もう/文句を言おうとすると「まずトリスタンに話してからにしてちょうだい」という切り札セリフを使うようになる...。

 アクセルとアンナの長年のダチであるドニとベアトリスの夫婦が、次の夏四十代男女4人だけで短期ヴァカンスをしようという話になり、こういうことに積極的ではないアクセルも他の3人の大ノリ気にあおられて、ふたつ返事でいいよ、ということに。一週間ビアリッツ(フランス南西大西洋岸、欧州サーフィンのメッカ)でパドル(この場合"スタンドアップパドルボード"の意味)をする。理想的なヴァカンスじゃないか。もちろんOKだよ、と言ってみたものの、パドルというマリンスポーツがどんなものかを知らなかったアクセルはあとでネット検索でその実体を知り青ざめる。ファブリス・カロ作品の人物たちは非スポーツ/運動センスゼロがほとんどだが、このアクセルもその典型。ボードにしがみつくことすら困難なのではないか、という恐怖。なんとかしてこのヴァカンスの中止を願うものの、小心ゆえに3人にそれを切り出すことができない。
 この「小心ゆえに口に出して言うことができない」のパターンがこの小説の通奏低音であるわけだが、その口に出して言わない(言ったつもりで実際には言われていない)想像上のダイアローグ/想像上のシナリオが、実際のダイアローグの数十倍の分量で文章化されているという、ファブリス・カロ一流の次から次へと出てくる果てしない妄想の連続、これが圧巻なのであるよ。
 18歳のリセ生でバカロレア準備中の娘ジャドは突然の失恋に川のような涙を。しかしジャドは諦めない。元カレを絶対に取り戻したい。単なるわがままではあるが、わが娘は狂おしい恋慕の激情を父親に訴え「父親としてなすべきことがあるでしょう」と迫る。できることはすべてすると父親は言ってしまう。すると娘は、元カレを奪った娘リラを亡きものにしてほしい、と。いくらなんでもそれは過激ではないか。ではその娘を呪ってほしい。ジャドはありとあらゆる不幸がそのリラに訪れることを願うのだが、アクセルはそこまでしなくても、とひとつひとつその呪いを軽減させていき、二人はその娘に「片目になる禍い」が来る呪いをかけることで合意する。で、アクセルはその呪い(”願い”と言い換えるべきか)を祈祷するために、初めて入る近所の教会ノートル・ダム・ド・レスペランス(希望の聖母教会)へ行き、聖像の前で「1あるいは2ユーロ」と書いてあるロウソク賽銭箱に2ユーロを入れてロウソクに火を灯し、子供の頃暗記させられた祈祷の言葉を唱え、希望の聖母に渾身の祈り(呪い)をこめて娘の恋敵の不幸を乞うのだった。・・・ 教会を出て、あ、間違った、恋敵の娘の名前を「リラ」ではなく「リザ」と唱えていた、と気がつく(ここがめちゃくちゃ可笑しい)。以来アクセルは、罪もないリザという名の娘に訪れるであろう不幸のために自らを呵責し、おびえるようになる...。
 それから煩わしいのは、最近越してきた人間が義務的に構築しなければならない「隣人つきない」。隣家のお節介説教好きな老夫婦と月一回交互に行われる「アペロ招待」。新座入居者が向こう三軒両隣を招いて開くバーベキューパーティー。いつからこんな習慣が始まったのか。ほとんど義務的慣例になってしまったこの近所付き合いが、アクセルには煩わしくてしかたがないのだが、妻アンナは"sympa comme tout"(めちゃサンパ)と交流・出会いの楽しさを満喫している、という...。

 小説はこれらのようなことがらを前に、小心ゆえに何も言えない男のうっぷんと不安のエントロピー的増大を描き、すべてを放棄し逃避したい衝動をも何度もほのめかすのであるが...。
 アクセルには(家族は知っているが誰も振り返ろうとはしない)ある過去がある。二十数年前、アクセルはグランジ系ロックバンドのドラマーだった。その記念碑的にドラムスセットはサロンの隅に飾ってあるが、もはや触られることもなく、家族からは粗大ゴミのように見られていて、近いうちに車庫隅への移動は免れない。だが、地方のクラブで十数人の客を前に演ったギグのことは忘れられない。その客のひとりにたまたま居合わせただけの若き日のアンナもいた。ヴォーカルは「次の歌は、俺には特別の思い入れがあるんだ!」とMCをはさんで歌い始めるがメンバー全員が燃え尽きた終演時には客は4人に減っている。それでもそれはアクセルが最もクリエイティヴだった時の思い出である。.... もう一度バンドをやってみたい。20年後、もとメンバー3人に呼びかけて、再結成してみたい。こういう話は泣かせるよね。だが、この小説のすべてにおいてそうであるように、アクセルはそれを言い出すことができないのだった。

 しかしこの小説はアクセルの心の逃避場所、夢の楽園を登場させる。それはアルゼンチン、ブエノス・アイレス、ラ・ボカ地区、アクセルは馴染みになったカフェテラスに座り、コーヒーをすすりながら、通りでフットに興じる少年たちを見ている。メッシ、ズラタン、クリロナ、マラドーナ... 少年たちは天才たちの妙技を完コピできているような足さばきでギャラリーたちを魅了する。フット談義はいつでもどこでも始まり、老いも若きもひとくさりふたくさり口を挟むが、アクセルもひとかどの論客としてリスペクトされている。そう、ここでは一人の自由な男としてアクセルはリスペクトされ、この風景を構成するひとつのコマなのだ。男たち女たち子供たち、誰もがアクセルを知っていて、アクセルもすべての人を知っている。そういう場所にアクセルは想像の中で逃避していて、いつかリアルにその場所に入り込む日が来ることを知っている。小説はさまざまな窮地ややっかいごとのパッセージのあと、何の前触れもなく、ふっとアクセルをこの場所に送り込む。美しい救済だ。ほれぼれする。後半ではこのブエノス・アイレス、ラ・ボカ地区に、旧知の友のようにバンジャマン・ビオレー(実際、実生活で一年の半分をブエノス・アイレスで生活している)をカメオ出演させ、馴染みのバーで酔狂でトランペットを吹いたあと、アクセルの横にやってきて真剣に楽曲談義したりする。めちゃくちゃいい奴(アクセルはマブダチのようにこの男を"ベンジ”と呼ぶ)。(聞こえてきそうな)音楽も楽園ぽい。この小説はブエノス・アイレスに救われている。

 だが小説は束の間のヴァーチャルな救済を現実のものにはしない。何度かアクセルは蒸発を試みるのだが、帰宅が遅いと心配してあちこちに電話して安否を気遣って青ざめているはずのアンナは、現実世界では(連絡が取れるやいなや)「帰りにつまみのピザ買ってきてくれない?」と...。小心ゆえに何も言えない男は、現実のやっかいごとのすべてを極限まで背負い込み、誰ともその極端な苦悩を共有できず、46歳のリアルワールドを生きていくのである。

 その最後の最後のクライマックスは、かのビアリッツのビーチでのパドル苦行。アクセルは水上のボードにしがみつき、何度も何度も登ろうとするのだが、その度にドボ〜ン、ドボ〜ンと海中に落ちてしまう。一体この男は何をやっているのか、なんて不器用なやつなんだ...。だんだんボードの周りに海水浴客が集まってくる。そのぶざまな態に笑う者もいたが、しだいに人々の声は声援に変わっていく。右手でもっと先の方をつかめ、右足をあげるタイミングだ、よい調子だ、がんばれ、あと少しだ....。ボードの周りは大声援に包まれる。そしてそして、アクセルはボードの上に腹這いで乗ることができ、四つん這いに体を起こし、四つ足に、さらに二本足で立ち上がることができ、パドルの櫂でバランスを取って静止したのである。ブラボー!ブラボー!大喝采は鳴り止まない。この時、アクセルはブロードウェイ・ミュージカルの、あらゆる方向からのスポットライトを浴びる花形スターになった、と感じた。(完)

 小心ゆえに何も言えない男は私たちである。バーンアウト寸前まで何も言えない私たちに救いはあるのか。とてもシビアで深い問題だと思う。こういうユーモア小説の外見をかぶりながら、ヘヴィーな現実が盛り沢山に込まれている。この作家の力量はこの作品で十分に了解できる。小心ゆえに何も言えない人々もこのリアルワールドで生きなければならないという不条理をこの作家は見事に浮き彫りにしたのだ。脱帽。

Fabrice Caro "Broadway"
Collection Folio版 2022年3月刊  190ページ  7,60ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ボルドーの書店 ”リブレーリー・モラ”で自作『ブロードウェイ』を紹介するファブリス・カロ

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