2022年7月16日土曜日

過労ざむらい

Fabrice Caro "Samouraï"
ファブリス・カロ『サムライ』


BDザイザイザイザイ』(2015年)の大ヒット(+舞台演劇化+映画化)以来俄然売れっ子になったファブリス・カロの小説では第4作めにあたる作品。ガリマール社の映画、BD、音楽、自然科学など他ジャンルで活躍する人たちが書く小説を紹介する2018年発足の新叢書 Sygne から。
腰巻のプールサイドで新作小説のアイディア枯渇に弱っている作家の図(ミニチュアフィギュア)は、写真家/造形作家の田中達也の手になるもの。
 さて、シュールで不条理(な笑い)が売りのファブリス・カロであり、私は前3作を読んでいないのでいいかげんなことは言えないが、あらゆる方向に話を飛躍&膨張させながら、いくらでも書ける人なんだろうな、という印象。冒頭からその筆致は魅力的だ。
その週、数日の間隔をおいて3つのことが起こり、僕の子供時代からの親友が自殺し、リザが僕の元から去っていき、そして巨大隕石が地球をかすめると予告された。その接近距離は人々を十分に不安に陥れるほどの近さで、一部の専門家たちは地球衝突の可能性も否定できない、と。その日付と時刻は信じられないほど正確に算出されていて、天文学者たちはどのようにしてこのようなものすごい正確さで隕石軌道を計算できるのだろうか、その一方で一週間の天気予報はあまり信頼できないのはどういうわけなのだろうか、と不思議に思った。3つの事件のうち、ひとつはどちらかと言えば難なく収まったが、まだコップの水は半分は残っている(原文 voir le verre à moitié plein) ー より正確にはまだ三分の一は残っているということだ。
この最後の表現 voir le verre à moitié plein (コップに水が半分残っていると見る)は、ものごとの肯定的要素と否定的要素が半々なのだが、楽観的にまだ半分の可能性がある、ととらえる見方のこと。似た表現で voir le verre à moitié vide (コップに水が半分しか残っていない)は、悲観的にもう半分の可能性しか残っていない、という見方。だから付け足しの「水はまだ三分の一残っている」は、否定的要素が三分の二もある、ということの反語的表現ということになる。私はこういうひねった表現がわかるほど(70歳近くになって)フランス語が上達したのだよ!
 それはそれとして、二つの事件は起こり、小説はそれらの事後と向き合う主人公=話者(その名をアラン・クワルテロ)のおどおどとした小心/怖がりなひと夏の物語である。二つの事件つまり親友マルクの自殺と愛するリザとの別離は、おのずと後者の方に重きが置かれるのだが、マルクの死を受け入れられないでいる彼の母親と話者との永遠に続きかねない"喪”のやりとりも泣き笑いペーソスものでじわじわ来る。マルクの死を受け入れられないその母と同じように、話者アランはリザが別れて行ったことを受け入れられない。"ウジウジ"という形容詞がしっくりくる、未練、悔恨、理不尽、なぜなんだ... がぐるぐる頭の中で回っている男なのである。
 アランは小説家であり、その最初の小説は1年前に中央の名のある出版社から出たものの、全く箸にも棒にもかからなかった。その発売日に大物政治家のセックステープスキャンダルが暴露され、そのせいで、とアランは言い訳するがそんなわけがあるはずがない。件の小説の内容は遺産相続をめぐる兄弟姉妹の諍い心理ドラマなのだが、その遺産の元と思われていた一枚の絵がモジリアーニ作とされていたものの、鑑定してみると...。そういう小説なのだが、インスピレーション元は伴侶リザの家族の騒動にあり、出版されるまでその内容を知らなかったリザは怒りまくり、こういう決定的なセリフを吐いてしまう。
Tu veux pas écrire un roman sérieux ?
まともな小説書けないの?
この un roman sérieux は「まともな小説」と訳すとちょっと違うかもしれない。”シリアスな”、”真面目な”、”真剣な”、”本物の”小説の方が正しいかもしれない。おまえのは小説じゃない、と宣告されているようなものだ。リザはこのようにアランを見限ったのである。こうしてリザはアランを捨て、今はルネサンス期の大詩人ピエール・ド・ロンサール(1524 - 1585)の研究学者の50男と恋に落ち、新たにカップルとなっている。よりによってロンサール研究家? - ということの特異さがわからないと前に進めないかもしれない。現代人の興味ランキングの最々々々々下位にも登場しないかもしれない中世詩の研究家のために最愛の女性が自分を捨てたのか、という言わば原初的な職業差別思想である。しかし自分はリザにとってはまともな小説を書けない小説家なのだ。どちらが職業的に劣るか。
 小説はリザへのいよいよ募っていく未練を起爆剤に、どうすればリザを振り向かせることができるか ー 答えはひとつ、まともでシリアスな小説を書き上げること ー というアランの不退転の決意がどう変遷していくか、というストーリー展開である。絶対に"un roman sérieux"を書き抜くという石よりも硬い一本気を象徴するものとして、ファブリス・カロは小説題を「サムライ」としたのだが、どうだろうか、私はこのメタファーは小説のグローバルなイメージを伝えるものにはなっていないと思う(↓爺評価が三ツ星である主な減点理由)。
 時は夏、場所は海が遠くない地方都市(おそらくモンプリエ)、ヴァカンスに出た隣家(大邸宅)から不在中のそのプライベート・プールの番(たまに掃除、洗浄、水質管理...)を頼まれたアランは、ひと夏この誰もいないプールサイドにノートパソコンを持ち込んで"小説”を書き上げるつもりでいる。サムライのように揺るぎない意志で。
 ひらめきはやってくる。Alan Cuartero アラン・クアルテロという名前が示すように、この男のオリジンはスペインである。彼の祖父母はフランコの軍と戦い、追われ、フランスに庇護を求めてやってきた難民。苦難の旅路を乗り越えてきた家族の記憶、それはアランの血にも流れているものであり、これを語ることは一世一代の"roman sérieux"にならないわけがない。スペイン市民戦争という現代史に翻弄された家族史、この大河的叙事詩は自分のライフワーク的偉業となるはずだ。アランのひらめきは即座にこの小説を豪胆にもスペイン語で"Sol Y Sangre"(ソル・イ・サングレ=太陽と血)と題することに。既に文豪による大名作の風格が。プールサイドでこの大名作の行く末を妄想する(クレール・シャザルによるインタヴュー、テレラマ誌やレ・ザンロキュプティーブル誌の書評...)アランであったが、プールに少しずつ異変が起こっている...。
 世の中にはどうしようもないおせっかいがいる。長年のダチ仲であるジャンヌとフロランの夫婦は、アランがリザと破局した聞くやいなや、その悲嘆と苦悶をおもんぱかり、その悲しみを一日も早く終わらせるには新しい恋人を見つけるしかない、と。ひとりでい続けるのはよくない、二人(カップル)になることこそすべての解決の条件、と堅く信じている人たちはいて”不幸”なひとりものを放っておけない、縁結びが何よりも好きな関西のお世話おばちゃん、みたいなキャラがこのジャンヌである。彼女はフィットネスジムを経営していて、そのジムに通う女性たちのほとんどが理想の男と出会えていないという”現場”を目の当たりにしていて、良質の候補者はいくらでもいる、という確信がある。ウジウジとリザへの未練にひたっていることにさほど抵抗がないアランは、放っておいて欲しいのだが、それをはっきりと言えない忖度だらけの性格。乗り気でないそぶりも見せられないアランは、ジャンヌとフロランがセッティングする新しい恋人候補との出会いにしぶしぶ...。小説は「ミレーヌ」、「クロエ」、「ルイーズ」と章分けされ、お世話おばちゃんジャンヌが紹介してくる女性との出会いとその後が活写的に描かれているものと思いきや、かなり特異なキャラ(みんなくせ者)の女性たちでありながら、アランの及び腰が災いしてどれも二次的エピソードのレベルで終わっている。
 それにひきかえ自殺したマルクに関するパッセージは感傷的で優しさに溢れていて、こういうことは茶化さない作者の折り目正しさが垣間見られる。マルクはライフル銃の銃口を口にくわえ、発砲するという自殺の方法を選んだ。葬儀が終わり、悲しみに暮れるマルクの母親が毎週のように電話をしてきて、アランはその度に彼女の家に足を運ぶ。マルクとは青春時代(10歳から20歳)のベッタリ友。その後25年間も疎遠になっていたが、その母親自身が息子の死の報せの電話をくれた。10歳から20歳だから、初めてのあれ、初めてのこれ、初めてのなに、すべてを共有した仲。マルクの母親の家に行くたびに、二人はお茶をすすりながら、言葉少なめにマルクのあの頃の写真アルバムを見ることになる。マルクとアランのおどけたツーショットばかり。沈黙の中で母親とアランの間でさまざまなメモリーが交信される。そろそろおいとまを、という頃に母親は”好きな写真を一枚持っていってちょうだい”と言うのだ。また一週間後に母親から電話が来て、会いに来てちょうだい、と。そして同じようにお茶をすすりながらアルバムを一緒に眺め、別れ際に"写真を一枚持っていってちょうだい”と。母親の終わることのない喪。たぶんそれはアルバムの写真が全部なくなるまで続くのだ。それにアランは寄り添って、彼女を見守っていくのである。(ああ、いい話...)
 しかしプールサイドの毎日に戻ってみると、プールの中に見たこともない虫が発生し(notonecta という実在する水棲昆虫)その数がどんどん増えていき、さらにどこから来たのかカエルも泳ぎ始め、水の色がどんどん緑色に濁っていく...。小説の進行と並行してどんどん悪化していくプールの水質に、アランは薬品を使ったりさまざまな抵抗を試みるのだが、解決はしない。最後にはプールに死体が浮いているというカタストロフまで。
 このプールの変化に連鎖してか、サムライの不退転の決意で書き始めた(題だけで、その後が続かない)シリアス小説"Sol Y Sangre『太陽と血』"は、どんどん変質していくのである...。

 すべてに”受け身”で、災難を被りやすいバスター・キートン型キャラクターの主人公である。何が起こるかわからないが、何が起こっても、それはたぶん自分のせいじゃないか、と見つめ直してしまう。で、事態はその弱みをいいことに、好き放題に乱れ狂う最終部へ向かってクレッシェンド、またクレッシェンド、という類の不条理ユーモア小説。うまい人だ。そのまま映画シナリオになるだろうが、映画よりも小説が勝るだろう。この夏はファブリス・カロをすべて読もう、と心に決めた。

Fabrice Caro "Samouraï"
Gallimard(Collection Sygne)刊 2022年5月 230ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)”Samouraï"発売日の翌日、ラジオEUROPE 1(フィリップ・ヴァンデル)のインタヴューを受けるファブリス・カロ。

0 件のコメント: