2022年7月13日水曜日

セリーヌ・ディオン14歳

Céline Dion "D'amour ou d'amitié"
セリーヌ・ディオン『恋か友情か』
(1982年12月リリース)

詞:エディー・マルネー
曲:ジャン=ピエール・ラング/ロラン・ヴァンサン
録音:1982年7月パリ

まず1982年のフランスの音楽事情について。前年1981年に社会党のフランソワ・ミッテラン(1916 - 1996)が大統領に初当選し、その文化的大改革のひとつがFM電波解放でした。全国で無数の自由放送局が勝手な放送をFM電波で流すという大変エキサイティングでアナーキーでクリエイティヴな時期があったのですが、1982年にFM電波に商業放送を許可したとたん、FMはヒット曲と商業コマーシャルをセットした局が急激に聴取率を伸ばし、FMは大手レコード会社の最良のプロモーション媒体となります。フランスの音楽はこうしてFMというフォーマットに適合した曲ばかりが幅をきかし、そのおかげで英米ヒットおよび仏産ポップ(ジャン=ジャック・ゴールドマン、テレフォヌ...)がレコード業界に大好況をもたらします。逆にそれまで非FM商業放送局(RTL、Europe 1、RMC)が牛耳っていた従来のヴァリエテ歌謡ヒット系の音楽は急激に色あせていきます。
 セリーヌ・ディオン(1968 - )のフランス初登場はこんな時期だったのですが、故国カナダ・ケベックでは1981年のデビューシングル "Ce n'était qu'un rêve(ただの夢だった)"から既に破格の歌唱力の少女歌手として成功していた。末恐ろしい13歳。
 フランスのオールドスクール系(既にミレイユ・マチュー、ダリダ、クロード・フランソワ、マリー・ラフォレなど歌謡ヴァリエテヒット多数)の作詞家エディー・マルネー(1920 - 2003)がケベックの少女歌手と最初に組んだのは、セカンドシングルの"Tellement j'ai d'amour pour toi (あなたへの愛でいっぱい)"(1982年9月ケベックリリース)だったが、この歌はその年10月の第13回ヤマハ世界歌謡祭に”フランス代表”としてエントリーしているのでした(↓動画)。14歳の熱唱を記憶している日本人音楽ファンも若干いらっしゃるのでは?

歌唱力は別物として、こういう全然若くない曲調なので、当時の若気ではちきれんばかりの勢いのあったフランスのFMからは見向きもされなかったと思います。ヴァリエテ・フランセーズの辺境、ケベックでの出来事ですし。
 しかしこの若き逸材のフランス制覇の野望を持ったオールドスクール作詞家は、第三弾シングルで華々しく鳴り物入りでフランスデビューさせようと。この"D'amour ou d'amitié(恋か友情か)”は1982年7月にパリで録音され、その12月フランスの大レコード会社パテ・マルコーニからシングル盤でリリースされます。そして1983年1月、世界の音楽業界の年次見本市であるMIDEM(於カンヌ)のガラ・コンサートで、世界の業界人たちを前にお披露目を。これに飛びついたのが、フランス最大手の”非FM系”商業ラジオ放送局RTL、さっそく同ラジオの全国ネットでこの曲をヘヴィーローテーションで。私が思うに、RTLがこれをやったから、当時のFM各局はこの曲を避けたのかもしれない。そして初期”フランス語歌手時代”セリーヌ・ディオンはなかなかFMに乗らない時代が結構続くのです。だってこれ”新手のミレイユ・マチュー”じゃん、という若者たちの批評眼だったと思いますよ。
 さらにオールドスクール系のプロモーションは1983年1月29日、フランスで最高の視聴率を誇るヴァリエテ・ショー番組「シャンゼリゼ」(今やフランスの人間国宝的テレビ司会者ミッシェル・ドリュッケールがホスト)に初登場を果たす(↓動画)。
 
ラジオRTLとテレビ「シャンゼリゼ」、この旧時代の芸能プロモーションシステムがおおいに機能して、FM時代と逆行するこのヴァリエテ歌謡曲は1983年夏までに50万枚を売り、見事セリーヌ・ディオン初の国際的(カナダ、フランス、ベネルクス、スイス...)大ヒットとなったのでした。
 では、古き良きヴァリエテの作詞家(にして国際スターセリーヌ・ディオンの仕掛け人)エディー・マルネーはこの14歳の少女歌手にどんなことを歌わせていたのでしょうか。

彼は私のことを思っている、私にはそれがわかる、感じられる、知っている

彼が私を迎えに来る時の微笑みに嘘はない

彼が辿ってきた道で見たもの、そして彼の未来のプロジェクトのことを

私に話すのが好きなの

私にはたった一人の彼だけど、 彼は他の女の子たちにも会っている

あの子たちが何を望んでいるのか、彼がどんなことを話しているのか私は知らない

私は彼にとって他の子たちより上だとしても

彼の中で私がどんな場所を占めているのか私は知らない

 

彼はとても私の近くにいるのに

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

これが恋なのかそれとも友情なのか

決められるのは彼だけ

私は彼を愛していて、私の命を捧げられると思っている

たとえ彼は私の命を望まなくても

私は彼の腕に抱かれることを夢見ているけれど

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

彼は恋と友情の間でためらっているように見える

そして私は大海原に浮かぶ小島のよう

私の望みが大きすぎると言われているみたい

何も言わなくても彼は私がすべてを捧げられると知っている

私は彼に微笑み、彼を待ち、彼を勝ち得ることを望むだけ

でも夜は長くて悲しくて

私は彼なしで生きるすべを知らない

彼はとても私の近くにいるのに

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

これが恋なのかそれとも友情なのか

決められるのは彼だけ

私は彼を愛していて、私の命を捧げられると思っている

たとえ彼は私の命を望まなくても

私は彼の腕に抱かれることを夢見ているけれど

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

彼は恋と友情の間でためらっているように見える

そして私は大海原に浮かぶ小島のよう

私の望みが大きすぎると言われているみたい


まるで大昔の女子中学生の日記文のような歌詞ではありませんか。われわれ昭和中期に生まれた人間には覚えがあるのですが、「恋愛か友情か」なんてのは昭和期の十代の大問題だったのです。中学や高校のホームルームの議題になるような。「勉学と男女交際は両立するか」なんて問題になったり(両立するわけはない、という自明のことはそのずっとあとでわかる)、「一対一交際を避けてグループ交際を」なんて優等生解答をするやつを村八分にしたり...。おお、われわれは無意味に悩んでいたのですよ、恋愛か友情か、なんていう問題は昭和の一時期の暗い思い出ですよ。「友だちでいましょうね」ー 昭和のあの頃われわれはこの言葉に何度泣かされていたでしょうか。そうか1982-83年はまだ昭和(昭和57/58年)であったか...。
 14歳の(ヴィルツオーゾ歌唱)少女歌手に、思春期のイヤ〜な記憶を逆撫でされる、そういうことを非FM系の保守反動フランス人リスナーたちは追体験していたのでしょう。マゾ。
 だがセリーヌ・ディオン(+ジャーマネ/未来の夫のルネ・アンジェリル)自身、この生温い保守反動のフランス語世界ではダメなんだ、と思うようになるんですよ。(英語を猛勉強して)1987年、セリーヌ・ディオンは米国CBS と契約、英語で歌う国際スター歌手として世界に羽ばたくのですが、そうなるとフランスのFMはにわかにこの英語バカウマ歌手を強力にバックアップするようになるのです...。

(↓)コルネイユ(1983年ルワンダ大虐殺の生き残り、ケベックの"フランス語”R&Bシンガーソングライター)によるカヴァーヴァージョン。私はこのコルネイユをあまり評価していないのだが、このカヴァーだけはものすごく好き。


(↓)コルネイユ、本人セリーヌ・ディオンを前にしてのラジオスタジオライブ "D'amour ou d'amitié"


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