2021年3月16日火曜日

あるセザール賞男優の蒸発

Florence Aubenas "L'inconnu de la poste"
フローランス・オブナ『郵便局の不審者』

2021年2月から3月、フランスの書店ベストセラー1位だった本。2008年12月フランス東部ジュラ地方で起こった殺人事件を追うドキュメンタリー書である。著者でジャーナリストのフローランス・オブナ(1961 - )は現在ル・モンド紙とロプス誌の特約リポーターとなっているが、リベラシオン紙の海外特派リポーターだった2005年にイラクで反政府ゲリラに誘拐され157日間人質として監禁されていたことで、あの当時その解放を求めてフランス中の市庁舎役場の正門に顔写真が飾られ、私たちには勇気あるジャーナリストの鏡のようなイメージがある。このことはオブナの2010年の著作『ウィストレアム河岸(Le Quai de Ouistreham)』に関する当ブログの記事で触れているので参照してください。
 さてスイス国境に隣接するアン県(01県、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地方)の人口3500人の町モンレアル=ラ・クリューズで事件は起こった。この人口の町なので誰もが誰もを知っているムラ社会。時代と共に農業/酪農業が廃れ、その代わりにこの峡谷地帯に多くのプラスティック工場ができ、住民のほとんどがこのプラスティック産業に従事し、この土地は誇らしげに「プラスティックの谷」を僭称するようになる。だから他のフランスの奥まった地方に見られるような破産状態はなく、隣町ナンチュアの湖上スポーツリゾートの観光収入もあり、人々がなんとか暮らせる環境であった。しかし容赦のない公共サーヴィスの予算減らしは、鉄道やバスでこの町に来ることを困難にさせ、学校や病院は遠くまで行かなければならなくなった。そんな中で郵便局も町の中心部の本局だけ残して町外れの分局は閉鎖するはずだったが、元助役(レイモン・ビュルゴ)の抵抗で存続させ、娘カトリーヌ・ビュルゴをそのごく小さな郵便局のたったひとりの局員として切り盛りさせ、地区住民たちには重宝している。書留や私書箱などの郵便業務、郵貯口座の出し入れ、ラ・ポスト印の携帯電話販促... やることはあまりないが、現金も扱うしATMも金庫もある。ずっと平和な町だったのが仇になって、この局には21世紀になっても防犯カメラがなかったのだ! そして少ない仕事の合間に、町のひまな旧友たち(もちろん全部女)がこの局の小さな待合室に集まり、ほぼ一日中の茶話会を繰り広げるのだった。この田舎の女たちは茶話会だけなく、夜のハメはずしやら、近くの都市へのショッピングなども共にする心許せるコピーヌたち。カトリーヌは最初の結婚で娘をもうけたが、夫との関係はきわめて悪く、二度の自殺未遂を起こしていて、精神的には不安定なところがあった。カトリーヌが死んだという報せが流れた時、このコピーヌたちは遂に自殺に成功したか、と早合点したのだが、それは自殺ではなかった。2008年12月19日、この小さな町でも人々がクリスマス準備に明け暮れる雪の日の朝、ひとり局員は局の前から娘をスクールバスに乗せて送り出したあと、局の中で28カ所をナイフで刺され血の中に倒れた死体で発見された。しかも夫と別居(離婚はしていない)したのち、新しい恋人ができ安定した新生活に向かいつつあり、妊娠中の身だった。静かだったモンレアル=ラ=クリューズの谷は町始まって以来の深い衝撃と悲しみに包まれ、カトリーヌの葬儀にはほぼ町中のすべての人たちが詰めかけ、犯人逮捕のためのあらゆる協力を惜しまないと誓った。ムラ社会の堅固さありあり。 
 さて、捜査線上で早くから容疑者として上がったのがジェラルド・トマサン(1974 - )という男で職業は映画俳優である(→写真はトマサンが最後に主演した2008年ジャック・ドワイヨン監督映画"Le Premier Venu"のスチール)。商業映画とは程遠いこのドワイヨンのような独立系の作家主義映画にばかり出演しているので、一般的には全く知られていない俳優であるが、そのデビュー作でジャック・ドワイヨン監督にキャスティング発掘されて16歳で準主役として出演した"Le Petit Criminel"(1990年)で、(フランスで最も権威ある映画賞である)セザール賞最優秀新人賞を授与されている。アクターとして養成されたわけではない。実生活での体験の生々しさをそのまま映画に出せる素人を探した結果見出された。トリュフォー『大人は判ってくれない』(1959年)のキャスティングで発掘されたジャン=ピエール・レオーのケースとよく似ている。トマサンは深刻な家族の問題があり養護施設で育ったが、ドワイヨンのキャスティングは養護施設の中で行われ、その様子がヴィデオとして残っていて、フローランス・オブナはその7分8秒のやりとりを本書の102ページから106ページまで一言漏らさず再録している。複雑な情緒を持った少年であったことがはっきりと浮かび上がってくる。
 トマサンはこのセザール賞で変わった。一時的な高収入はドラッグとアルコールをいよいよ深化させ、時々声がかかる映画の仕事のためにドラッグ/アルコール抜きの治療を受けにさまざまな土地に転地して、ノマド的に生きていた。映画出演のギャラ収入はすぐに絶え、安宿に住み、非常勤興行労働者(アンテルミッタン)のための失業手当を郵便局経由で受け取って暮らしていた。転々と移住していた先々で、トマサンは自分は映画俳優であることを隠さず、出演した映画のDVDを見せたり、話し上手にその世界のことを吹聴するものだから、土地土地で出会うジャンキー仲間同士の中では人気があった。もちろん女性たちにも。だが将来を一緒にと相思相愛になった女性との間でもその情緒の不安定さ(+暴力)は顔を出すのだった。
 事件の土地モンレアル=ラ・クリューズには2007年夏に当時の恋人コリンヌと谷の私営キャンプ場にテントを張ってヴァカンスを過ごす予定でやってきた。ところが、不安定なトマサンは発砲事件を起こしキャンプ場から放逐され、コリンヌは自分の車で逃げ出してしまう。ひとり残されたトマサンが見つけた低家賃のアパートは、町はずれの泉の広場に面した2階建ての古い建物で、トマサンの部屋は最も安い半地下のステュディオで、窓からは通行人たちの足しか見えない(2019年ボン・ジュノ監督『パラサイト』のようだ)。その窓から覗けて見える泉の広場の向こう側に町の郵便局の分局があり、たったひとりの局員としてカトリーヌ・ビュルゴが働いていた。
 ひとりでこのジュラ山系の谷間の町に暮らしはじめたトマサンはその低家賃アパート建物の他の住人たちとも溶け込んでうまくやっていた。そしてジャンキーはジャンキーを呼び、この町で無職生活保障受給者ながらドラッグとアルコールだけは絶やさないタンタンとランブイユという二人の男と急激に親しくなる。町から遠くはずれもはや誰も近づかない農家の廃屋を三人の隠れ家として、誰にも邪魔されずアルコールとドラッグを好きなだけ堪能できる秘密の楽園をつくっていた。このマージナルな三人のユートピア体験はこの本の中で異彩を放つ美しさであり、かの事件の後もこの三人の絆は壊れない。
 2008年12月19日、朝8時40分から9時7分の間に郵便局分局の中でカトリーヌ・ビュルゴは上半身28カ所をナイフで刺され死亡、金庫にあった(たった!)2600ユーロ が持ち去られた。金庫の金が目当てだったのか、金額を知らなかったかもしれないが、それにしてもこのわずかな金のために残忍極まりない28回のナイフ突き。尋常ではないと誰もが思う。
 トマサンがなぜ最有力の容疑者として浮上したのか?犯行現場(郵便局)の向いに住んでいて、その朝自室にいたと証言しているが、アリバイを証明できない。護身用に自分の名前を彫ったナイフを所持している。金がない。ジャンキーである。1年半前に移住してきた新参者である。犯罪者役をしたこともある俳優であり、ジャンキー的心神喪失による現実と演技の区別がつかなくなる場合あり、等々。ところが現場にはトマサンの指紋もDNAも検出されていない。自白さえ取り付ければ、検挙もできるのだが...。
 だが本意ならずとも自白とも取れるセリフをトマサンは吐いている。カトリーヌが埋葬された墓地で(既に泥酔状態で)トマサンがひとりさめざめと泣いている。たまたま通りかかった(カトリーヌと面識のある者としてムラのみんなと同じような気持ちで墓参りに来ていた)町の女二人が、トマサンの悲涙を慰めんと話を聞いてみたら、トマサンは弁舌さわやかにあたかもその犯行現場にいたかのように、その不器用な犯行を解説してみせたのだった。俳優だから俺は知っているが、プロだったらこんな殺し方はしない... といったことなど。これをさっそく女二人は警察で証言してしまうのである。トマサンが犯行現場にいた可能性と墓地で死者に犯行を悔いて泣いていた可能性...。
 そして生まれてくる子供と第二の人生をやり直すはずだったひとり娘を殺された父親、町の名士(元助役)であるレイモン・ビュルゴの絶対に犯人を罰せずにはおかないという執念は、すでにこのトマサンを本ボシと決めてかかっていて、なんとしてでも落とせと警察に圧力をかける。町はそのパワーに同調し、反ドラッグの市民感情も手伝って、ジャンキーたちは居場所を失っていく。かの三人組(トマサン、タンタン、ランブイユ)は散り散りになり、トマサンはモンレアル=ラ・クリューズを逃げ出し、コリンヌのいる西フランスのロッシュフォールに移住する。しかし新証言・新事実が上がる度に執拗な取り調べ、仮勾留、仮釈放は繰り返され、それは事件から10年を過ぎてもなお続いたのである。その長い年月の間、容疑者ナンバーワンのトマサンは精神を病み、映画出演もかなわず、無収入で転々と移動している。
 フローランス・オブナは事件の5年後からこの件の詳細な調査に入り、ジェラルド・トマサンをはじめ関係者たちひとりひとりに会いに行き、6年がかりでこの本を書いた。トマサンが投獄され、精神的に危険な状態になったこともその目で見ている。オブナはトマサンにあらかじめ断った「私はあなたの伝記を書くのではない。あなたが関係したある山の村で起こったひとりの女性の殺人事件について書くのである。私の仕事は、あなたのように私に会うことを承諾してくれたすべての人たちに会って話を聞くことだ」と。ジャーナリスト・オブナの仕事は警察の側に立って事件の真相を究明することではない。彼女が会って話を聞いた人々の尊厳を尊重しながら、この事件から浮き彫りにされた「あるフランス」の姿を明らかにすることだ。ムラ社会、地方、ジュネーヴとリヨンを結ぶドラッグ街道、インターネットの暴力性、ゆがんだ司法システム...。いろいろ見えてくる。
 オブナがこの本のために調査を始めた頃は、まさか、こんな結末になろうとは思っていなかったことは間違いない。この本の終盤は推理小説まがいのどんでん返しが連続する。読む者は面白いだろう。だが小説のように読まれては困るようなところではあると私は思う。
 事件から何年すぎてもトマサンは不動の容疑者ナンバーワンだった。これに決着をつけたいとトマサンは思った。いっそのこと自白してしまった方がどんなに楽か、とも思った。月日は流れ、投獄され、ボロボロに痩せ細り、仮釈放された頃、新容疑者が現れる(強盗の事実は認めるが殺人は否認している)。2019年8月29日、トマサンはリヨン裁判所に出廷を求められる。この日この法廷で、トマサンはすべての嫌疑から解かれて、正式に無罪となるはずだった。フローランス・オブナはその日リヨン裁判所前でトマサンと落ちあうことになっていた。しかしトマサンはいくら待っても現れない。ロッシュフォールから電車に乗ったことを見届けた友人の証言はある。しかしトマサンは乗り換え駅のナントで下車したのち、失踪している。リヨン裁判所では被告(トマサン)欠席のまま開廷、トマサンの無罪が確定した。2020年3月現在、セザール賞男優ジェラルド・トマサンは行方不明のままである。

Florence Aubenas "L'Inconnu De La Poste"
Editions de l'Olivier刊 2021年2月11日  240ページ 19ユーロ


カストール爺の採点:★★★★★

(↓)2021年2月11日、国営テレビFrance 5「ラ・グランド・リブレーリー」で自著『郵便局の不審者』について語るフローランス・オブナ。2分37秒めから、ジェラルド・トマサン(当時16歳)のジャック・ドワイヨン映画"Le petit criminel"のためのキャスティング時のヴィデオが出てくる。(注:”この動画は YouTubeでご覧ください”と出てきます。指示に従って、"YouTubeで見る”をクリックしてください)

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