個人的には何度か夏のフェスティヴァルで見たことがあるし、わが町ブーローニュ・ビヤンクールのキャトルズ・ジュイエ(7月14日=フランス革命記念日)のステージ(花火大会の前座ショーだから、この大アーチストには失礼なことだとは思う)にも立ってくれた。よく歌う饒舌なサックスも魅力だが、私はあの慈愛の低音ヴォーカルがもっと好きだった。
今や私が死ぬまで唯一の単行本著作になりつつある2007年の『ポップ・フランセーズ』 では、やはりマニュ・ディバンゴの世界的大ヒット「ソウル・マコッサ」について書いている。よくまとまった「ソウル・マコッサ」伝なので、以下に再録しておく。
発見はアメリカさんが先だった
1923年、カメルーンのドゥアラで生まれたエマニュエル(通称マニュ)・ディバンゴは、若くしてパリに留学してバカロレアを取得後、ブリュッセルに移住して、ジャズ・サクソフォニストとしてデビューする。アフリカ諸国独立時代、1961年から63年にかけてキンシャサ(当時のザイール、現コンゴ民主共和国)で成功するが、その後故郷のドゥアラでクラブ経営に失敗、マニュは65年にパリに帰ってくる。そしてフランスでブラック・アフリカンとして初めて白人歌手(ディック・リヴァース、ニノ・フェレール等)の専属ミュージシャンとして登場する。この頃のニノ・フェレール(1934 - 2003)の録音は、後年ベルナール・エスタルディ(1936-2006、サウンドエンジニア、キーボディスト、編曲家)の再評価とあいまってフレンチ・グルーヴの秘宝としてDJたちによってサンプルされまくっている。
1972年、第8回サッカー・アフリカン・カップがカメルーンの首都イヤウンデで開催され、そのテーマ曲の作曲依頼がマニュに舞い込んだ。「ソウル・マコッサ」はこうして誕生したわけだが、それはイヤウンデでもパリでも大した話題にならずに、シングル盤のB面としてその短い命を終ろうとしていた。1年後、アフリカ音楽のレコードを求めてパリにやってきたアメリカ人プロデューサー数名が、買いあさっていったレコードの山の中に、この「ソウル・マコッサ」が含まれていた。そして米国でこれをオンエアしたラジオから火がつき、アトランティック・レコードが契約するや、この曲は全米で大ヒットしてしまう。
ママコ ママサ マカ マコッサ...。
1973年、アメリカはマコッサを踊っていたのだ。後年にワールド音楽最先端となるのはフランスだが、73年ではアメリカがその上手を行っていた。まこと、アメリカさんにはかなわない。
全米ツアー、そして1974年、キンシャサでの世界的ボクシングイベント、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの世界ヘヴィー級タイトルマッチでも「ソウル・マコッサ」が奏でられ、次いでヤンキースタジアムでのファニア・オールスターズとの共演でもプレイされている。2年間の世界ツアーを終え、パリ・オランピア劇場の凱旋コンサートでのフランス人たちの熱狂的歓迎は言うまでもない。
そしてさらに1983年、マイケル・ジャクソンの史上空前のヒットアルバム『スリラー』 からのシングルカット「ワナ・ビー・スターティン・サムシン」の後半のつなぎ部分が「ソウル・マコッサ」と同じリズムで「ママシー、ママサー、マママクーサー」と歌っていたのだ。無断でのパクリは誰が聞いても明白であった。ディバンゴ側はすぐに訴訟を起こし、マイケル・ジャクソン側はこれが「ソウル・マコッサ」からの拝借であることを認め、その結果、マニュ・ディバンゴは予期せぬ大きな臨時収入を得ることになるのである。ま、そういうこっさ。
(向風三郎『ポップ・フランセーズ』 2007年 p62-63)
この本を書き終えた2007年9月、 脱稿してほっとした耳に、リアナ「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」が飛び込んできた。ジャクソンと同じように「ママシー、ママサー、マママクーサー」と歌っていて、これはまだ印刷前のあの「ソウル・マコッサ」項に10行ほど補足を書かねばと思ったものだが、あとの祭り。
マニュ、いい音楽をありがとう。天国でまた会おう。
(↓)1973年フランスのTVライヴ「ソウル・マコッサ」(司会はミッシェル・フュガン)
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