2021年9月19日日曜日

あないなアナイス

『アナイスの恋』
"Les Amours d'Anaïs"

2021年フランス映画
監督/脚本:シャルリーヌ・ブルジョワ=タケ
主演:アナイス・ドムースティエ、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ドニ・ポダリデス
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
フランスでの公開:2021年9月15日

リケーンのようにけたたましい娘アナイスの疾走シーンで終始する前半からうって変わって、ロマンティックな純愛模様で展開する後半になってとても効いているのがニコラ・ピオヴァーニの音楽。美しい夏のブルターニュが、ナンニ・モレッティ映画の一コマのように見えてしまう不思議。同志たち、こういう音楽は本当に重要。ネットで探してみたが、これサントラ盤出てないようなのだ。出してほしい。
 1986年生まれのシャルリーヌ・ブルジョワ=タケ監督の初長編映画で、2021年カンヌ映画祭批評家週間で上映され高い評価を。この監督は2018年の同批評家週間に短編作品『虐げられたポーリーヌ(Pauline asservie)』を出品していて、その時既に主役ポーリーヌにアナイス・ドムースティエを起用している。私はこの女優が大大大好きで、2014年のパスカル・フェラン監督映画『バード・ピープル』で主演した時以来その魅力の虜。そしてこの最新映画は、ブルジョワ=タケが彼女のことしか念頭におかずにシナリオを書いたであろう、アナイス・ドムースティエにしかその世界を表現することができないであろう作品ゆえに『アナイスの恋』としかタイトルと主人公名をつける必然があったのだと思う。
 アナイスによるアナイス、それはどんな女性かと言うと、いつも走りながら待ち合わせに遅れてくる娘。『不思議の国のアリス』の白ウサギのように「遅刻する、遅刻する」とわめきながら走っている。遅刻の理由(言い訳)は何種類も持ち合わせて、自転車が壊れた、予期せぬ人の手助けをしなければならなかった、閉所恐怖症で回り道を余儀なくされた...。聞かれていないのにそれを口角泡飛ばして全部説明しないと気がすまない。相手が聞こうと聞くまいと。マシンガン説法。対話が成立していないことなど全くおかまいなし。遅れて来る女は、遅れてもその"勢い”でその場を乗り切る。かと言って、キャピキャピの少女ではない。30歳すぎて未だに自分のやりたい道など見つからず、文学部の博士号コースに籍を置いている。インテリジェンスはあるがそれをどう使っていいのかわからない。理屈も屁理屈もでっち上げホラも含めて口は立つので、いつもその場はごまかせるが、一切真剣さがない。一目惚れでつきあいだした男も一日中一緒にいたり生活を共にしたくない。間違いで妊娠しちゃったけど堕すわよと平気で言われた男の当惑と悲しみなど知ったことではない。お金はない、けれどなんとかなる、という植木等流の楽観論。この女はこんな感じで永遠にその流れの中で生きていくはずだったが...。
 そんなアナイスに永劫の時などないと悟らせたのが、田舎に住む母(演アンヌ・カノヴァ)のガン再発で、予告された悲劇に娘は大きなショックを受ける。ここで強調しておきたいのは、その母の年齢=58歳である。ここ重要。
 さてそれと前後してアナイスは父親ほどに歳が違う男ダニエル(演ドニ・ポダリデス)と知り合う。この男は出版社に所属するエディターで、ただのおっさん風な風態にも関わらず、地位もインテリジェンスもあり、高名な作家エミリー・デュクレ(演ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)の伴侶でもある。軽めのキャラのダニエルはアナイスに熱を上げ、それなりにロマンティックな口説き方でアナイスを誘惑し、そういう関係にあまり頓着しないアナイスはその誘惑に軽く乗ってしまう。作家エミリーは(ダニエルと同居する)パリの自宅ではなく人里離れた田舎家で創作するタイプの文筆家で、パリは長く不在にすることがある。ダニエルはその不在に乗じて、アナイスを自宅に招く。何泊かするつもり(その間韓国人ツーリストに自分のアパルトマンを又貸し=このエピソード傑作)で(旅行バッグさげて)やってきたアナイスは、ダニエルが見ていない隙にエミリーの仕事場、ドレスルーム、寝室などを探訪して、この大成した女性の親密空間に既に魅惑されていた。斜め後方から撮られたポートレイト写真に”これがエミリーなの?”という驚き。ほのかな想いの始まり。
 さてその夜、いざセックスの段になって、ダニエルは(エミリーとの二人の)ベッドルームではなく、自分の書斎に置かれたベッドでしよう、と言うのである。「エミリーとのベッドはまずいよ、俺も心情的にあそこではできないよ」と。なんと心根のさもしい男!ー あきれたアナイスは旅行バッグひっさげてダニエル宅を出て行ってしまう。
 エミリーとの出会い ー ここから映画はなんともロマンティックな雰囲気に変わってしまう。少女マンガのヒロインのように、心が躍動したらどんな障害でも越えてあこがれに向けて突っ走っていくアナイス。うそをつき、お金をごまかし、予定をすっぽかし...。
 そしてこのヴァレリア・ブルーニ=テデスキという女優の予め持ってしまった”高級感”と”年上感”とよくも悪くもアーティーな雰囲気。ギラギラさのない作家。ベストセラー作家とは一線を引く純文学系で、喰うためには外国古典をフランス語で戯曲化するような仕事や、出張学術講演会やシンポジウムの仕事も受けなければならない。エミリーはこの夏、ブルターニュの古い城館を会場/宿舎にした一週間のシンポジウムへ。アナイスは万難を排してその城館へ入り込み、エミリーに近づこうと試みるのだった。
 すべてが中途半端で何ひとつ自分のものを持っていない若い女(と言っても30歳)が、完璧に近く大成してしまった美しい女性にあこがれる、それは自然と言えば自然なことだが、アナイスの場合はそれを「ものにする」までがむしゃらに突進していくのだ。
Mais vous êtes qui, Anaïs ? (アナイス、あなたは何ものなの?)
(↑)映画の真ん中頃でエミリーはアナイスにこう聞いてしまうのだ。あんた誰(谷啓)。このえたいの知れなさがアナイスなのだ。たぶん自分でもわかっていない。
 象徴的なのはこの女性作家が56歳という年齢であること。これはアナイスの母親とほぼ変わらないのだ。アナイスが失いつつある母という伏線は無関係とは言えないだろう。エミリーには少女時代にあこがれの女教師から文学を開眼されるというエピソードがある。エミリーはその女教師を「ものにする」という激情にまでは至っていない。
 何も恐れず突き進んでくるこの若い女の想いの、ブルターニュの陽光のようなふりそそぎに抗することが できず、二人だけの砂浜でエミリーはアナイスと抱き合う。それはそれは美しいラヴシーン。この映画の幸福が凝縮されたようなエモーショナルな数分間。若い女とその母親のような二人の濃厚な愛し合い。ありだよね、これはありだよね、と自分に言い聞かせて納得する私。この映画観てよかったと熱く盛り上がる私。
 しかし映画はこの先まで進んでしまう。あの夏、あの砂浜のあと、二人は(一流作家と未来の文学博士であるから)熱情の手紙を交わし合い、数ヶ月後の再会。大人であり理性の側の人でもあるエミリーは、この頂点まで昇華した愛を凍結保存しよう、すなわち思い出にして別れることにしましょう、と。受け入れられず、理解できず、涙ボロボロのアナイス。席を立って背を向けて歩き出すエミリー。....。
 がしかし、この映画は私の読みをはるかに超えた結末を持ってきます。

 「アナイス、あなたは何ものなの?」これは映画を観終わったあと、幸福感と共に問いたくなる言葉である。この映画は予想をはるかに超えるアナイスというキャラクターのすごさと、それを理想的なほどに完璧に体現してしまうアナイス・ドムースティエの力量の勝利。 いやはや...。タイトルが複数形で "Les Amours"、すなわち”アナイスの複数の恋”あるいは”複数の好きなもの"という意味になるのだけれど、私は単数形であるべきだと思う。"L'Amour d'Anaïs”であり、”アナイスの大恋愛”であるべきという意見である。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『アナイスの恋』予告編

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