2014年3月30日日曜日

男らしいってわかるかい

エドゥアール・ルイ『エディー・ベルグールにケリをつける』
Edouard Louis "En finir avec Eddy Bellegueule"

 作者エドゥアール・ルイは現在21歳の学生で、これが小説第一作です。はっきりと自伝フィクションであると言っています。国営TV局フランス5の読書番組「ラ・グランド・リブレーリー」に出演した時に、作者はこの原稿をさまざまな出版社に見てもらったのだけど、「こういう社会は今日のフランスでありえない」「過剰に戯画的で現実から離れすぎている」という理由で拒否された、と語っていました。そんな現実はパリの出版界、すなわちいわゆるジェルマノプラタン族(かつて大手出版社が6区サン・ジェルマン・デ・プレに集中していたので、その編集者たちや界隈のカフェやホテルに打ち合せでやってくる作家やジャーナリストたちのことを指す言葉です)からは見えっこないのです。というわけで、まずこの原稿を発掘して出版したスイユ社に敬意を表します。
 自伝的と言われるからには、作家の年齢から察するにこの小説の展開する時代は1990年代末から2010年頃までです。つまり昨日今日の話なのです。場所は北フランスの小さな村です。一番近い国鉄の駅まで15キロ。この距離からこの村は世界から隔絶されているとは想像しづらいのですが、この小説ではフランス最深部です。千人に満たぬ住人たちは皆が皆のことを知っていて、その皆がこの村で生まれてこの村で死んでいく者たちなのです。村には工場があり、農家や商家や公務員でない家に生まれた男児はすべてこの工場で働くことになっているのです。何百年もそんなサイクルで動いている村なのです。だから男の子供は勉強なんかする必要がない。どうせ工場で働くのだから。義務教育が終われば「CAP」(職業適正資格)をもらって工場に勤めるようになる。勉強してよい成績を上げて高等教育を受けて都会に出て高給の仕事に就く、というヴィジョンを村全体が最初から挫いているのです。おまえはそんなことをしなくてもいい。
 その代わり、男として生まれてきたからには、本物の「男」に成ってもらわなければ困る。小説では "un dur(アン・デュール)"という言葉で表現されています。ワルでいいから、頑強で、怖いもの知らずで、マッチョでなければならない。フットボールがうまく、(極端に)アルコールに強く、女性への欲望に満ち満ちていなければならない。そういう男でなければ、そいつは村中から徹底的に苛められるのです。
 このムラ世界において、女性はどうかと言うと、やはり学校なんか行かなくてもいいから、早く男を見つけて子供を産んでテレビ見ながら家事をして最後まで家族の面倒を見ながら歳老いて死ぬ、という20世紀的なコンディションなのでした。少年(あるいは男)が交際相手を変えるということは、どこかの国のようにむしろ「男の甲斐性」として擁護されるのに、少女(あるいは女)が同じことをすると「尻軽」「娼婦まがい」の罵倒が待っているのです。
 その上、主人公エディーの家庭には極端な貧困という問題があります。小屋のような家屋に一家6人で住んでいる。典型的な un dur であった父親は中卒後皆と同じように工場労働者として働きますが、背骨に障害を起こし働けなくなってしまう。治癒後に希望のない求職活動をしますが、(村の多くの男たちと同じように)アル中になってしまい、職探しを断念してしまう。RMI(復職準備最低収入)だけで家族6人を養うことなど絶対的に不可能です。衣食住の経費をいくら切り詰めても喰えないものは喰えない。「心のレストラン」に援助を求めたり、父親が釣ってきた魚を食べたり、村の食料品屋で前借り(この交渉は常に幼いエディーの役目)で買ったり、という生活苦の中で生きています。
 エディーはこの父と母の最初の子ですが、上に母の連れ子である義兄と義姉がいます。母の前夫はアル中で死んでいます。この小説では男たちは例外なくアル中です。義兄もまた un dur でアル中で極めて暴力的であり、口論の末自分の義父を殴打し重症を負わせるということまで平気なのです。こういう暴力とアルコールと男性原理が支配するムラ世界に、エディーは生まれます。父も母も「男の子」の誕生を望んでいた。父も母も喜んでいましたが、エディーはちょっと変わった子供だったのです。それは成長するにつれて、ものの言い方や仕草に顕著になってきます。父親は手荒な方法を使ってでも、エディーを「男の子」にしようとします。自分のような un dur になれ、というわけです。
 
 子供時代に関して僕は幸福な思い出など一切ない。これらの年月の間、僕は幸せや喜びの感覚を味わったことなど一度もない。苦痛という全体主義に支配されていた。そのシステムに入りきらないすべてのものはそれによって抹消される。

 これが小説の最初の4行です。それに続いて、中学(コレージュ)の廊下で、新入生だったエディー(十歳)を二人の上級生(大柄の赤毛、小柄の猫背)が待ち伏せしていて、エディーの顔に痰を吐きかけるシーンになります。「おまえがうわさのペデ(ホモ野郎)か」。この痰の吐きかけとそれに続く殴る蹴るの暴行は、二人の上級生がコレージュを卒業するまで、毎朝の儀式として続くのです。
 この少年が受ける苛めと差別と迫害が、この小説の大部分であり、この小説はこれに尽きるのです。読む者は(フランス人の大部分はということでしょうが)こんなフランスが20世紀末〜21世紀初頭に存在したとは信じられないのです。しかし、2012年〜2013年、みんなこんなものは時代の趨勢で当たり前でしょうが、と思われていた「同性婚法(Mariage pour tous 法 2013年5月17日国会可決成立)に、轟々と反対する勢力があり、デモに100万人を動員するフランスが確実に存在していたのです。私にはわからない。こんなフランス(反ホモ、反同性婚...)があったということは、少なくとも私には信じられなかった。ところが、この小説は、フランスの地方の現実は21世紀的現在において、こういう状態なのだ、ということを実体験として語っているのです。
 小説は少年の「性の目覚め」(否応無しに自分は「普通の男の子」とは違うという目覚め)と、それへの抵抗(なんとかして「男」になろうという度重なる試み)と、その挫折が描かれます。もう、どうしてここまで、という打ちのめされ方です。無理矢理、女の子に興味を持ち、女の子と交際し,女の子と肉体的に交わることによって「男」になろうとします。果たせません。
 すべてのことやり尽した少年エディーはこの地獄から脱して、自分が自分として生きるためには、両親・家族・村と決別するしかないと悟り、脱走計画を練るようになるのです。
 「エディー・ベルグール」(美顔のエディー、イケメンのエディー)という本名かどうかわからない、意味深な姓名はこの小説の大きなカギです。「エディー 」というそれまでフランスに存在しなかったファーストネームは、父親がテレビのアメリカ産連ドラにインスパイアされてつけた名前だと言います。「エディー」、「ジャッキー」、「ジミー」.... こんなファーストネームを持ったフランス人は確かに地方部に多いと思います。テレビはこんなふうにフランスの貧困の慰みになっていたのです。この北フランスの小村のエディーの家庭でも一家の中心はテレビなのです。父親も母親も昼夜つけっぱなしのテレビだけが、ムラの外の世界とつながっていることのすべてになっているのです。ところが誰もムラの外には出ようとしない。われわれの世界はここなのだから、これでいいじゃないか、という閉鎖性、この外の世界がここに入ってもらっては困るという「排外主義」、こういう人たちはアラブやユダヤやロムやあらゆる外国人を嫌い、銃を持ってそういう夷戎を排斥しようとします。その排斥すべき敵のひとつに「ホモセクシュアル」があるわけです。このフランスは何十年も何百年も前からそうだったのだ、とこの小説は言っているのです。
 「エディー・ベルグール」と決着をつけ、それを殺害・消滅してしまわなければ、この青年は再生することができない。「美顔のエディー」はこの世からいなくなり、作家エドゥアール・ルイは今、私たちの目の前に生きているのです。「勇気」という程度ではない、決死の「刺し違え」の覚悟がなければ書けなかった小説だと思います。作者はこの小説のせいで、母親と父親、親族、生れ育った村のすべてを敵に回し、すべての関係を失いました。「男になる」ということを拒否した、それだけのことなのです。自分の自然な姿で生きるということを選んだ、それだけのことなのです。世界は、より具体的には、フランスはまだまだ残酷な生を強いているのです。凄絶なエクリチュールに圧倒されます。

カストール爺の採点:★★★★☆

Edouard Louis "En finir avec Eddy Bellegueule"
Seuil社刊 2014年2月 222ページ 17ユーロ


(↓)フランス国営テレビFrance 5 の読書番組"LA GRANDE LIBRAIRIE"に出演したエドゥアール・ルイ(2014年1月)


PS : 4月4日
記事タイトルはもちろんこの歌からいただきましたが、今この YouTube見たらエドゥアール・ルイの小説とかけ離れているわけではないのだ、と感じ入りました。大塚まさじに敬意を表して。

 

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