2023年10月18日水曜日

文学への入り方はいくらでもある

Patrick Modiano "La Danseuse"
パトリック・モディアノ『バレリーナ』


ディアノの「作家誕生」の瞬間の記憶を呼び起こした作品は2004年の『ある血統(Un pedigree)』であり、それは話者「私」が1967年6月、出版社から最初の作品出版契約を受け取ったところで終わる。『ある血統』は自伝的にその両親との極めて悪い関係に押しつぶされそうになりながら、成人年齢(当時は21歳)に達して法的にその関係を断ち切りたい思いで、パリであらゆる(怪しげな)出会いを拒むことなくひとりで生きる道を模索していた時期が描かれ、その暗く不安定な時代が22歳で作家としてデビューすることで終焉する。最新小説『バレリーナ』は、その自伝的要素で解題すれば、その最も不安定だった時期に(作家になる前に)”文学”と出会うことになった事情について語られている。小説中で繰り返して現れるフレーズとして
Il y a tant de façons d'entrer en littérature
文学に入る方法はいく通りもある
というのがある。この小説の中でその当時(不安定で不確かだった若い頃)の「私」は自分の職業をシャンソンの作詞家と称していた。それもまた文学の入り口だったのかもしれない。小説には登場しないが、実生活においてモディアノが作詞家だったのは、(名門リセとして知られる)アンリ4世校の同級生だったユーグ・ド・クールソン(のちのプログレッシヴフォークバンドマリコルヌの創設リーダーのひとり)との作詞作曲コンビだった時期があり、その曲のいくつかはフランソワーズ・アルディによってレコード化されている。
 文学の入り口は、言い換えれば書くことへの入り口であったわけで、不安定で混沌としていた青年が書くことによって救済され、生き延びる道を拓いていくという方向に向かうには、それをそれとなく導いてくれた人物が必要だった。この小説ではその名が明かされなず”La danseuse(ラ・ダンスーズ = バレリーナ)"とだけ称される女性が、導いたと言うよりは青年の手本/模範になったと言えよう。
 小説は50年以上前の不確かな記憶の不意の蘇りのように語られる。それは表面が氷結したセーヌ川の氷が割れて、溺死者が水面に浮かび上がってくる、と喩えられている。その蘇りは、過去の痕跡をほとんど残すことなく自分にとって外国の町のように変貌し、巨大なアミューズメントパークかデューティーフリーショップ街に似てしまい、かつて自分が見たこともないほど多くの人々がみんなローラーのついたスーツケースを引いて団体を組んで歩くようになったパリで、不意にかつてのよく知った顔の人物が道を歩いているのを見つけ、記憶は突然に向こうからやってくる、という不意打ちから始まる。冒頭14ページめで、話者「私」はセルジュ・ヴェルジーニなる人物と50数年ぶりに再会した、と確信したが、相手はそれはひと間違いだと否定する。モディアノの小説であるから、嘘か本当かなど明らかにされないし、不明瞭なままでページは進む。
 ヴェルジーニはパリの風来坊だった頃の「私」が安アパートを探していた時に出会った男である。現金払いの貸し部屋数件とカフェ、レストラン、ナイトクラブなどを所有する身なりのエレガントなこの男は、裏で何をしているのかわからない凄みを秘めた人物だったが、「私」には妙に優しく、彼が連れて行ってくれたナイトクラブでかの「バレリーナ」と出会うことになる。ヴェルジーニと「バレリーナ」は古くからの縁があり、小説では断片的にしか明かされない複雑な過去を抱えた「バレリーナ」をヴェルジーニが支えてやっているようなのだ。
 「私」と「バレリーナ」の関係は小説で明言されていない。「バレリーナ」の幼い息子ピエールの”キッズ・シッター”であり、学校の送り迎えやバレエのリハーサルやその世界の付き合いで帰宅の遅い「バレリーナ」を彼女のアパルトマンで待ちながらピエールを寝かしつけるという場面は描写されるが、「私」が「バレリーナ」の若い情人のひとりであったことはそれとなくわかる。しかし「私」にとっては情人をはるかに超えた重要さを持った人物であることが、すでに24ページめでこう書かれている。
それは私の人生において最も不確かな時期だった。私はなにものでもなかった。来る日も来る日も私は通りをふらつき、舗道も街灯も見分けがつかず、まるで目に見えないものになってしまったような印象があった。しかし私には模範となる人物があり、その人物はある難しい芸道を日々研鑽していた(中略)。私はこのバレリーナという模範が、その時は明確に意識することはなかったが、少しずつ私の日々の行いを変えるように、私に取り憑いていた不安定さと虚無感から抜け出すようにとしむけていったのだと確信している。

 もはやこれがこの小説の核心と言っていい。
 「バレリーナ」はパリ9区クリシー広場に近いスチュディオ・ヴァケール(Studio Wacker = 1923年から1974年まで実在した)というダンス学校 でバレエの練習をしていて、その教師はロシア出身のボリス・クニアセフ(1900 - 1975、実在の人物)だった。クニアセフは「バレリーナ」の才能を評価していて、”特待”あつかいをしていた。そして常々バレエ教師は彼女に
La danse est une discipline qui vous permet de survivre.
ダンスはあなたの生き残りを可能にする種目だ
と言葉をかけ励ましていた。生きる(vivre)ことではなく生き残る(survivre)ことなのである。ここで私は"discipline"を”種目”と訳してみたが、"discipline"は規律/規則でもあり、規律に沿った厳しい修行のニュアンスもある。「バレリーナ」はクニアセフの厳格なレッスンについていき、一流のバレリーナとして舞台を踏むことになったが、それは生き残り、生き延びることであった。この”discipiline"の厳しさがあって初めて生き残ることが可能になる。「私」はこの”discipline"が自分には必要なのだと悟る。正しくは「バレリーナ」によって悟らされる。「私」と「バレリーナ」に共通しているのは、自分を圧殺してしまいそうな”複雑な過去”から逃れて生き延びることだった。

 小説では漠然としか語られない「バレリーナ」の過去は、パリの北郊外サン・ルー・ラ・フォレという町に凝縮している。この町はモディアノの2014年(ノーベル賞受賞の年)の小説『おまえが迷子にならないように』(爺ブログに紹介記事あり)で、その核心的な舞台となっていて、主人公の子供の頃の記憶の館があり、カタギでない人々が夜な夜な集まっている環境として描かれている。最新小説との直接的な関係は読み取れないが、ここでもやはり怪しげな人々の往来する場所なのである。「バレリーナ」はおそらくこの町で生まれ育ち、そこでバレエを始め、(小説では語られない)両親との混み入った関係があり、息子ピエールの父親との出会いと別れ(おそらくピエール出産前に別れている)があった。この諸々の事情を例のセルジュ・ヴェルジーニは知っている。ピエールの父親のことも知っていて、問題のあった(おそらく町に居られなくなった)男のニュアンスが読み取れる。「バレリーナ」は「私」と知り合った頃は、このサン・ルー・ラ・フォレから郊外電車でパリまで通っていたのだが、「バレリーナ」の過去を知る男につきまとわれ、ヴェルジーニに相談してパリにアパルトマンを見つけてもらい、同時にこのストーカーはヴェルジーニの”手配”によって(生きているか死んでいるかわからないが)姿を見せなくなってしまう。「バレリーナ」がパリのアパルトマンで暮らすようになったのをきっかけに、地方(ビアリッツらしい。ビアリッツもモディアノに因縁の町であり、1949年から2年間、母に捨てられて乳母に育てられていたという経緯がある。この事情からこのピエールという子供は幼いパトリック・モディアノの化身という読み方もできる)で縁者に育てられていたピエールを呼び寄せ、初めて母子で同居して暮らすようになる。この「バレリーナ」とピエールの関係もスムーズにはいかない。その仲をキッズシッターの「私」がとりもっているようなところもある。 
 息子とうまくコミュニケーションできない原因のひとつとして、この「バレリーナ」が非常に口数が少ないということがある。語る言葉が少ないのは「私」に対しても同様であり、「私」にはこの女性の過去のことは薄闇の中にぼやけてしか見えない。過去から逃げたい女はバレエに全身全霊を打ち込むようにして、身を軽くしていっている。まるで地面に足を着けずに歩くことができそうに。過去から解き放たれ、生き延びることが可能になる。そのためには"discipline"が必要だったのだ。「私」は彼女のように"discipline"を見つけたい。
 そんな時、パリ5区サン・セヴラン教会の近くのカフェで、モーリス・ジロディアス(1919 - 1990、実在の人物、出版者、1956年ジ・オリンピア・プレス社社長として、全米の出版社から拒絶されていたウラディミール・ナボコフ『ロリータ』を世界初出版したことで知られる)と邂逅する。英米の発禁書物をフランスから世界に向けて刊行することで知られたジロディアスは「私」が英語に長けていると知り、フランシス・ド・ラ・ミュール(Francis De La Mure 実在した作家かどうかは定かではない)の"The Glass Is Falling"というエロティック小説の出版前原稿に手を加えて、物語を膨らませてほしい、と依頼する。この申し出に「私」は飛びつき、”discipline"を込めて元原稿に直しを入れ、さらに2章を書き加えるのである。「バレリーナ」の模範に習って、初めて「書くこと」に"discipline"を見出したのである。まさに文学に入る方法はいくらでもあるのだ。
 そしてその本が出来上がってくる。本には「私」が手を加えたということはどこにも書いていないし、誰も知りようがない。私はこの本を「バレリーナ」に見せるべきかどうか躊躇する。「これはきみが書いた本ではない」と一蹴されるかもしれない。小説の70ページから72ページまでの3ページ、「私」は見せるべきか見せないべきか自問しながら、セーヌ左岸をさまよい、それでも足はコンコルド橋を渡り、シャンゼリゼ大通り、エトワール広場を経て、17区シャンペレ門地区の「バレリーナ」のアパルトマンまで至ってしまう。この3ページ、若い「私」がためらいながら通って行ったパリの街は美しい。そして目的のアパルトマンが近づいてきた時、「私」は「バレリーナ」が踊るように歩く足が地面から離れていく感覚を味わい、思わず笑いが止まらなくなってしまうのである。モディアノの名調子!

 年上の(影のある)謎めいた女性「バレリーナ」が手本となり模範を示し、不安定で虚無的だった時期から抜け出す契機を開いてくれたことを描く、薄暗闇のパリの中の青年期の記憶。どの記述も曖昧で不透明なのに、読者はこの青年の「トンネル脱出」劇をはっきりと感じ取ってしまう。モディアノ文学の偉大さはここにあるのだよ、お立ち会い。
 
Patrick Modiano "La Danseuse"
Gallimard刊 2023年10月5日 100ページ 16ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)自宅書斎で国営ラジオFrance Interのソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えて『バレリーナ(La Danseuse)』について語るパトリック・モディアノ(2023年10月3日放送)

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