2023年10月2日月曜日

鍋の美味しい季節になりました

Fabrice Caro "Journal d'un scénario"
ファブリス・カロ『シナリオ日記』

”navet"(ナヴェ)というフランス語は野菜の蕪(かぶ)のことであるが、現代口語で”劣悪な質の映画”を指す言葉でもあり、それは蕪は煮すぎると味がなくなってしまうからだと説明されている。この小説は当初極めて優れていたたシナリオが、(外部からの圧力で)練って練って練りまくって修正を加える、つまり煮すぎることによってどんどん”ナヴェ”のシナリオに堕していくという悲しくも滑稽な日記による記録である。
 話者ボリスはアラフィフの映画シナリオ作家である。小説は歓喜と共に始まる。ようやくめぐってきたチャンス。名のある老映画プロデューサーであるジャン・シャブローズが、1年がかりで書いたボリスの長編映画シナリオ草案に食らいつき、手放しで絶賛し(「すべてはここにある」、「何も手を加える必要はない」...)、制作に向けて具体的に動き出そう、と申し出る。このプロジェクトの映画タイトルは『静かなる服従(Les servitudes silencieuses)』,男と女の出会いから別れまでの1年間の機微を詩的ダイアローグを駆使してモノクロ映像で描く、硬派の映画通好みとなるであろう要素に富んだ濃い作品で、主演にはすでにルイ・ガレルメラニー・ティエリーと想定してある。フランス映画に詳しいムキには、この二人の主演俳優の名前を並べて見れば、この映画が大衆娯楽映画であるわけがないが、定評ある実力派/個性派のアクター&アクトレスにサポートされた一級の「作家主義映画」となろう、と容易に想像できよう。日記にはその作家主義に対応するようなボリスによる監督候補の名が数々出てくるが、願望として強くなっていく名前はクリストフ・オノレに。小説はそんな願望が次から次に破壊されていく過程を描いていく。
 この「映画はいかにして死ぬか」のストーリーを軸にして、ボリスの”不本意ながら受け身慣れ”した人柄が浮き彫りにされる二つの並行ストーリーがある。ひとつは友情もの、もうひとつは(ほぼ)恋愛もの。前者はヤンという名の50男で、たぶんガキの時分からの腐れ縁であろうが、妻マルティーヌとの離婚という難しい時期にある。それも別れたいのは妻の方であり、ヤンの方はなんとか引き止めたいのだが、決めたことは決めたこと、という段階。ボリスにはヤンの辛さがよく見えていて(いつしかそれは件のシナリオにも反映されているのだが)、友としての役目を全うしたい心はある。二人の間にはジュールというまだ独り立ちしていない息子がいて、これも両親の離婚で不安定な時期にある。ボリスにしてみれば子供の頃から遊びの相手をしてやった甥っ子のようなつきあいであるが、ヤンは自分の現状の難しさに加えてこの息子の不安定が気がかりで、ボリスによりかかりたい気がある。ジュールは学校でグラフィックを学び、それを実践で使える(つまりプロになる)機会を探しているのだが、父ヤンからボリスのシナリオの映画化が決まったと聞き、その『静かなる服従』という未来の映画のポスター案をボリスに送り始める。試作1、試作2、試作3....、すべてひどいシロモノなのだが、難しい事情を知るボリスは無碍に突き返すこともできず、すべて受け取り褒め言葉を返してやる...。
 もうひとつはヤンのホームパーティーで出会ったオーレリーという女性で大学で映画学の教鞭を執る教師。産業の中ではないものの映画の世界内部の人間なので、即座に同じ”言語”で話せる仲。映画の話をしたら何時間でも続けられる。好み/見方が近い。オーレリーがボリスのシナリオプロジェクトについて知った時の熱狂的反応と、その進行状況への興味は熱い。そしてボリスはオーレリーから感想・意見を聞くことが、シナリオ完成に向けての大きな刺激となる。二人は逢瀬を重ねて語り合い、それは少しずつ恋のようなものに近づいていくのだが...。
 さて本筋の映画プロジェクトであるが、プロデューサーのジャン・シャブローズは実現のための土台である制作資金出資機関への売り込みをはかった結果、フランス第三の大手民放TVグループであるM6が参画の挙手を。これは願ってもない朗報であり、シャブローズとボリスはほぼ映画が完成したかのような喜び方だったのが...。出資者側もボリスのシナリオ草案に「すべてはここにある」「何も手を加える必要はない」の反応のはずだったのだが、シナリオ作家+プロデューサー+出資会社の三者会議(往々にしてレストランでの会食)は、出資会社が少しずつ「意見」を述べ始める。
 ここに登場するメジャーテレビ会社映画事業部門の二人の重役(ともに30代)は、ビジネススクール出の秀才のような市場理論とエンサイクロペディア丸暗記のような映画雑学があり、あなたたちはクリエーターとして作品づくりに専念しなさい、how to succesに関しては私たちにまかせておきなさい、というスタンス。まずコロナ禍で映画館は壊滅的な打撃を受け、それから2年たっても映画館には十分に観客が戻ってきていない。とくにフランス映画には人を「映画館に戻って行こう」という気にさせる作品が少ない。家庭サロンやスマホなどの端末で事足りるようになった映像”エンタメ”(この人たちは映画を”ロット”で十把一絡げにする)に対抗して人々を映画館に連れ戻すには、それ相応のクオリティーが必要だ。そのためには協力していただきますよ、という脅し。それは出資者側の「出資するからには元は取らせていただきますよ」というあからさまなソロバン勘定である。
 まず、モノクロ映画は(一部の選良シネフィル向け映画と思われ)大衆を怖がらせ、遠ざける、というイチャモン。男女の詩的ダイアローグとモノクロの濃淡のニュアンスの織りなす繊細抒情映画を想定してシナリオを書いたボリスにとって、これは絶対に受け容れがたいイチャモンであったが....。そのシナリオを大絶賛し、自分を全面的に擁護してくれるはずだった老プロデューサーも早くも出資者に”忖度”する側に鞍替えし...。烈火の怒りをなんとか鎮めて、『静かなる服従』カラー版ヴァージョンへのシナリオ手直しを。
 この堰が切れてしまうや、テレビ会社エリート社員二人組は慇懃無礼に「この素晴らしいシナリオのエッセンスを全くそこなうことなく」と前置きして次から次に手直しの必要をほのめかしてくる。主演男優の首のすげかえ。ルイ・ガレルからカド・メラドへ。これがどれほど落差のある人選であるかは、フランスにいれば明白にわかることでも、ここで私が日本の読者にどうやって説明できることなのか。あえて言えばここで早くも硬派作家主義映画の可能性が限りなくなくなるような、大衆喜劇俳優(しかもアラウンド60歳)の奇をてらった器用である。この俳優がシリアスな演技ができないわけではないし、人情もので味のある存在感の出るアクターである。1983年コリューシュ主演映画『チャオ・パンタン』(クロード・ベリ監督)の例もある。ただ、シナリオはカド・メラドのキャラに合わせて大幅な書き直し(なにしろ60男と40女の出会いと別れのストーリーになるのだから)が必要である。烈火の怒りをなんとか抑え、ボリスは原シナリオをエッセンスを失うことなく書き直していくのだが...。
 それが終わった頃にテレビ会社エリート社員二人組は、相手役俳優の首のすげかえを申し出る。メラニー・ティエリーからなんとクリスチアン・クラヴィエ(現在71歳)へ。仏ブロックバスター喜劇映画の顔とでも形容できる保守系(サルコジと親友関係)金満家俳優がなぜここに?(説明割愛)ー 男女の微妙心理抒情映画はこの段で、初老の男・男(60歳と71歳)のわびさび友情物語への変換を余儀なくされる。順風満帆で生きてきた引退間近の実業家(クラヴィエ)が長年連れ添ってきた妻から離婚を言い渡され失意のどん底へ。慎ましく生きてきたが常に親しい友人だった男(メラド)がその痛みを吸収して、違う未来へと道を拓いてやる...。たそがれた二人の男のわびさびダイアローグが別れを救済する...。これを原シナリオのエッセンスを失うことなく書き直すのがボリスに課せられた仕事。
 ルイ・ガレルもメラニー・ティエリーもモノクロ映画も失い、作家主義映画とは全く縁のない(とは言いながらボリスがメラドとクラヴィエのフィルモグラフィーを追っていったら、そういう硬派映画に少し出演していたりして戸惑う)二人の大衆喜劇スターのために全身全霊かけて書いた一世一代のシナリオを大幅に書き直す。烈火の怒りはタバコの本数を限りなく増やしていく。不可能は不可能なのだ、と言えないのはなぜなのか。ひとりで悩み狂うボリス。
 並行ストーリーに話を振ると、ヤンの妻マルティーヌへの未練は見るも痛々しく(これが↑のクラヴィエ/メラド用に改変されたシナリオにおおいに反映されていく)、ボリスはシナリオ中のメラドのようにヤンの違う未来を模索したり。その一方で息子ジュールは『静かなる服従』ポスター案を、ルイ・ガレルとメラニー・ティエリーのネット拾い画像でフォトショコラージュで何種も送りつけてくる。いずれも駄作だが、主演男優/女優のイメージはボリスの心をグサグサと刺す。
 もうひとつの並行ストーリーである映画教師オーレリーとの芽生えつつある恋慕の方は、ボリスがこのシナリオの大幅な改変をどうしてもオーレリーに知らせることができない。「ガレル/ティエリー/モノクロ」映画を誰よりも高く評価しその行く末を知りたくてボリスと逢瀬を重ねているオーレリーの期待を裏切ることはできないではないか。二人はそれを土台にして少しずつ少しずつ愛を深めていっているのだから...。

 二人の大衆喜劇スターによるシリアスな友情わびさび映画に変容していった修正シナリオを、テレビ会社エリート社員二人組は大満足で受け取り、ボリスを大称賛するのではあったが、この二大大衆喜劇スター共演に観客が期待するものは何か、全体的にシリアスな硬派映画であることはかまわないが、この二人がいて「お笑い」の要素が少しもないというのは、残念だとは思わないか?、と「お笑い」要素の注入を要求してくる。おまけにこの「お笑い」案は既にテレビ会社エリート社員二人組が用意していて、カド・メラドを宇宙人として設定しよう、というのである。しかもさまざまな音色のオナラを出すことができる宇宙人。このオナラによって地球人の親友クリスチアン・クラヴィエを窮地から救うことができる、というシーンを作ろう、きっと後世においてカルトムーヴィーシーンになること間違いなし、と...。ボリスの我慢の限界はとうの昔に決壊しているのだが、さすがに七色の音色のオナラを発する宇宙人が出てくるとは....。

 映画はこうして死に、ナヴェはこうして生まれる。
 ネオリベラル資本主義社会のハラスメントというだけのことではない。クリエーションはいともたやすく食い物にされ、その価値はネット上の言いたい放題と同じほど無責任なやり方で異常に面白がられたり、二度と世に出られないほどこき下ろされたりする。ボリスはこの世界で、職人芸のようにストーリーを綴ることに生命をかけているようにふるまっていたが、威勢の良さは肝腎な時に萎縮してしまう。エゴの薄い書き手。このシナリオがこれでもかこれでもかと底無しの地獄に転落していくさまが、ファブリス・カロ一流の不条理タッチで描かれ、読者は笑いますがね、地獄は地獄というリアルさも伴う。
 ファブリス・カロのヒーローたちはみな同じように世の理不尽さを一身に引き受けてもがいている。この「受け身型」人間像は、滑稽である以上に身につまされる。この小説の随所に出てくるたくさんの映画リファレンスは、シネフィルな読者たちにもたいへん刺激的なものだろう。
 
 ボリスは元シナリオの微塵も残っていない、オナラ宇宙人とブルジョワ地球人の友情コメディーのシナリオを完成させる。その印刷コピーを見てしまったオーレリーは絶句してボリスのもとから去っていく。ヤンはもう一度マルティーヌとやり直したいとアクションを起こし、息子ジュールはその仲介として動く。その後プロデューサーからもテレビ会社エリート社員二人組からも、その”決定版”シナリオが具体的に制作に入ったという知らせは来ない。しばらくして、ボリスはオーレリーに再び連絡を取ろうと心に決めて日記は終わる。この読後感は格別。

Fabrice Caro "Journal d'un scénario"
Gallimard/Sygne刊 2023年8月17日 200ページ 19,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

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