2023年9月24日日曜日

フランシュイヤール・タッチ

Chilly Gonzales "French Kiss"
チリー・ゴンザレス『フレンチ・キッス』


 親からの遺伝と確信しているが、私は子供の頃から歯が弱く、歳と共に次々に悪くなって抜くはめになり、50歳の時についに上下が入れ歯になった。母親も50歳で入れ歯になったそうだから遺伝説は理にかなっている。お立ち会い、よくお聞き、入れ歯人間はフレンチ・キッスができない。これは致命的だ。ゆえに私は50歳の時からディープな恋愛を断念せざるをえなかった。老いるのが早まったような気がするが、おかげでその後はクリーンな人生だった(負け惜しみ)。私はこの地で昔も今も外国人だが、私はフレンチ・キッスはフランスで知った。たいへんな衝撃だった。この衝撃はフランス人にはわからないものかもしれない。外国人、とりわけ英米人に衝撃的だったと解釈できる。それが証拠に「フレンチ・キッス(French Kiss)」とは英語表現であり、それに相当するフランス語はない。英仏直訳の"baiser français (ベゼ・フランセ)"なる言葉は存在しない。フランスでも「フレンチ・キッス」と言うのだ。子供の頃、私は”キッス”とは日本語訳語として一般的な「くちづけ」あるいは「接吻」のことと理解していた。日本語版ウィキペディアによると「吻(ふん)」とは「動物の体において、口あるいはその周辺が前方へ突出している部分を指す」とあるから、「接吻」とはその部分を接することと解釈される。「くちづけ」「接吻」と理解していた人々が、フランスではそれが「舌絡ませ」であると知った時の衝撃、これはフランス人にはわかるまいよ。
 チリー・ゴンザレスはわれわれ非フランス人とこの衝撃を共有しているように思われる。ジェイソン・ベック=芸名チリー・ゴンザレスは1972年、カナダのモンレアルで生まれている。現在51歳である。父親がフランス系だったので、家庭ではフランスの大衆音楽(フランソワーズ・アルディ、リシャール・クレイデルマン...)がかかり、学校ではフランス語を学んだが、母語として血肉化されたのは英語である。英語人がフランス語習得でぶつかる最大の難関がフランス式の"r"音である。--- 日本人も同じか。"r"音を”はひふへほ”で表音するやり方って邪道よ。radio (はディオ)、Paris(パひ)、regarder(ふガふデ)などなどトへビザ〜ふ --- プロのミュージシャンとして活躍すること30余年、カナダ→ドイツを経てフランスに落ち着いたゴンザレスが、長いキャリアの果てに初めてのフランス語アルバムを発表するにあたり、戦略的に取ったアティチュードは、元”非フランス語人”として「フレンチ・キッス」に衝撃を受け、”r”発音習得にめちゃくちゃ苦労したけれど、今じゃフランス人以上に franchouillard(フランシュイヤール : 日本の辞書には”
[形],[名][話]((悪い意味で))いかにもフランス人らしい(人)”と訳語あり)だぜ、と胸を張り出すというものだった。
Je parle anglais comme Tony Blair
トニー・ブレ
ールのように英語を話し
Je parle allemand, Adolf Hitl
er
アドルフ・イトレ
ールのように独語を話す俺
Mais en français je prononce les "
r"
だが仏語では”
エール”を発音できるんだぜ
Ecl
air, tonnerre, pomme de terre
稲妻(エクレ
ール)、雷鳴(トネール)、ジャガイモ(ポム・ド・テール
( .... )
Je viens du Canada
俺はカナダ出身
J'aime les castors, mais à la frontière
カストール(註:カナダの国獣)は大好きさ、でも国境を渡れば
Je suis
franchouillard, check mon passeport
俺は
フランシュイヤールさ、パスポート見せてもいいぜ
( .... )
                                    {"French Kiss")

その歌詞の最初の2行は(↓)
Je vous French Kiss avec la langue de Molière
モリエールの舌を使ってあんたにフレンチ・キッスを
Ca vous excite quand je baise dans l'oreille
耳の穴からファックしたらあんた興奮するぜ
                                     
{"French Kiss")
ま、なんてお下品な!しかし、舌は舌でもモリエールの舌。La langue de Molièreとは、langue de Shakespeare (シェークスピエアの言語、すなわち英語)に対抗的な意味でのモリエールの言語、すなわちフランス語のこと。だがこの舌=言語はゴンゾ氏やfeu ジェーン・バーキンを含めたわれわれフランス語を母語としないバイリンガル人には本当に難しいのである。
Et je comprends que je manque de maitrise
完全にマスターしたわけではないって自分でわかってるよ
Mais heureusement j'assume mes bêtises
まちがいにはちゃんと責任をとるよ
Votre passé simple n'est pas si simple
あんたたちの単純過去はぜんぜん単純じゃないよ
Le mien est compliqué comme un labyrinthe
俺の過去は複雑でまるで迷路さ
Beaucoup trop jeune pour Verlaine ou Prévert
ヴェルレーヌやプレヴェーヌを読むには若すぎるんだ
Je préfère lire Despentes
俺はヴィルジニー・デパントの方が好きさ
                                   
{"French Kiss")
フランス語の「単純過去」は仏語学習者には頭痛のタネである。私は使わないことにしている。また読書においては私もまたフランス文学古典を読まずにデパントを夢中で読む側の人間である。この歌「フレンチ・キッス」で私はゴンザレスのフランス語に対するアティチュードに関してとても私と近いものを感じたのだが、私は行為として「フレンチ・キッス」はできないイレーヴァーなのでその辺で袂を分かつ。
(↑の歌詞でフランシュイヤール氏は「パスポート見せてもいいぜ」と言っているのだが、実はついにフランス国籍も取得したらしい。その辺でも私と袂を分かつ)

 2019年4月19日、シテ島ノートル・ダム大聖堂は炎に包まれ、屋台骨を焼き尽くし、屋根が崩れ、尖塔が燃え落ちた。われらが聖母(ノートル・ダム)が火刑に処されているような悲壮な光景をわれわれは唖然としてテレビで見ていたのだが、シテ島の隣のサン・ルイ島のアパルトマンに住むゴンザレスはこんなコンティーヌ(童歌わらべうた)を作った

Il pleut, il pleut sur les cendres de Notre Dame
ノートル・ダムの灰の上に雨が降る
Il pleut sur ceux qui regardent l'église en flammes
燃え上がる教会を見つめる人々の上に雨が降る
                                  ("Il pleut sur Notre-Dame")
"Il pleut, il pleut"という二度繰り返しは、フランス童謡"Il pleut il pleut Bergère"(羊飼の娘が雨に遭っているところを若者が助けて母の厩で雨宿り、一目惚れ、求婚という歌)の援用。ゴンザレスのコンティーヌはサン・ルイ島の自宅窓でジョイントを吸い、その匂いがノートル・ダムの灰の匂いと混じり合う、という冷笑的なものだが、そこはかとないパリのスプリーンが漂う(パリのスプリーンはボードレールね、為念)。その想像は、火事の原因は鐘撞き部屋に何世紀も居候しているせむし男カジモドではないか、という疑念に至る。すなわち、火 事 の 元 は カ ジ モ ド 、と推理したのである。うまいっ!
Où eat, où est Quasimodo ?
どこだ?カジモドはどこだ?
Est-il parti en hélico ?
ヘリコプターに乗って逃げたか?
Est-il parti par la Seine avec un bateau-mouche ?
バトームーシュでセーヌ川に逃げたか?
          
("Il pleut sur Notre-Dame")
大胆不敵にもフランスの象徴のようなノートル・ダム大聖堂を(焼失を悲しむフランス市民とは全く違う視点で)歌にしたのである。さらにこのアルバムでは恐れ多くもシャンソン・フランセーズの巨星(feu)シャルル・アズナヴール(1924 -2018)をコケにする1分23秒のインターリュードを紛れ込ませている。ゴンザレスが2003年にアズナヴールのアルバム制作にアレンジャー/ピアニストとして関わった時のエピソード。そのコラボレーションは数週間で破綻(アズナヴールに解雇される)し、当該アルバムはオクラ入り。その苦々しさをちょっとだけ吐露してみたのが(↓)
俺はシャルル・アズナヴールと数週間仕事したことがある
彼はすでに80歳で耳もほとんど聞こえなくなっていた
彼が録音スタジオに初めてやってきた時
こう言った「ここにはエレベーターがないのか?
わしの家にはエレベーターがあるぞ」

ギャングスタヴール ギャングスタヴール

廊下でしばらく彼のことを観察していたことがある
彼は孫娘のためにとても優しい声で歌っていた
その歌の歌詞を私は一生忘れないだろう
「おまえのためだけだよ
おじいちゃんがタダで歌ってあげるのは」

ギャングスタヴール ギャングスタヴール

俺にはもっともっと彼にまつわるエピソードがあるのだけど
これは単なる歌のつなぎで
短いやつだから
タダで聞かせてやるよ
         ("Gangstavour")

 私はフランスの音楽業界の中にいたから、生前のアズナヴールの変わった性向(特に金銭に関わること)についてはたくさん聞いていたので、このちっぽけな復讐にはとてもうなずけるものがある。ゴンザレスはフランスのラップアーチストたちとも多く仕事をしているが、意外にも多数のラッパーたちがアズナヴールをリスペクトしているのは、アズナヴールが並外れて巨大なエゴを持っていたからだとゴンザレスは分析している。

 しかしアズナヴールよりもゴンザレスの”フランス愛”に莫大な影響を与えたアーチストが、ヤノピの貴公子リシャール・クレイデルマン本名フィリップ・パジェス、日本名リチャード・クレイダーマン)であった。お立ち会い、硬派の音楽ファンを自認する人でなくても、このイージーリスニング・ピアニストが好き、と公言するのは勇気の要ることだと思うよ。ろくに聞きもしないでと言われようが、セクシストな偏見と言われようが、このヤノピの貴公子のリスナー層はあの当時(1970年代〜80年代)99%あのルックスに魅了された女性たちだったはず。ところがジェイソン・ベック少年(のちのチリー・ゴンザレス)は、カナダ/モンレアルの生家・自室のターンテーブルにあの星降る抒情の必殺ピアノ・バラード「渚のアデリーヌ」のドーナツ盤を載せ、1日に45回聞いて悶絶していたと言うのである。ピアニストとしてのゴンザレスの名を一躍世界に知ろしめた名盤『ソロ・ピアノ』(2004年)で開花した抒情性の源流がヤノピの貴公子であったとしたら...。エニハウ、この『フレンチ・キッス』アルバムで、ゴンザレスはクレイデルマンをゲストに迎え、その貴公子のピアノをフィーチャーした「リシャールと私」というオマージュ曲を。

リシャールと私
父と息子
バットマンとロビン
バードマンとリル・ウェイン
アステリックスとオベリックス
リシャールと私には
偉大なる愛の物語がある
私のターンテーブルには
「渚のアデリーヌ」
私はこのドーナツ盤を毎日45回聞いていた
            ("Richard et moi")

父と子の関係だと言ってしまっている。次(↓)に紹介する曲”Piano à Paris)の中で、こんな歌詞が出てくる。
Qui possède la clé des larmes
涙の鍵(クレデラルム)を持つ人
C'est Richard Clayderman
それがリシャール・クレデルマンだ
    ("Piano à Paris)
真剣にこのヤノピの貴公子の繊細な抒情性に関しては再評価されてしまうかもしれない。(と書いて、”まっさかぁ...!”と思ってしまう私である)

 さて、このアルバムの9曲めに、さまざまな駄洒落・地口とリファレンスを用いながら、フランスのピアノ・アーチストたちへオマージュを捧げる「ピアノ・ア・パリ」というこのアルバムで最も聞かせる歌が現れる。ゲストヴォーカリストにわが爺ブログでも評価の高いジュリエット・アルマネ(爺ブログリンク:2017年のアルバム2021年のアルバム)。おそらく現在のゴンザレスのフランシュイヤール・ピアノ愛の総決算のような曲と言えよう。

(アルマネ)
パリでピアノ、私に芽生えたこの望み
一番にやってきて、ピアノが中に入るように
窓を開ける、そしてすぐに弾き始める
パリで私のピアノ

(ゴンザレス)
俺はパリでたくさんのピアノマン(pianomanes)と
ピアノファム(pianofemmes)とつきあってきた
だがしょっちゅうそれはしまいにメロドラマになってしまう
メロマンヌ(音楽狂)たちは知りたがっている
誰が涙の鍵(クレデラルム clé des larmes)を持っているのか
それはリシャール・クレイデルマンさ
俺はセーヌ河岸を走り切ってミッシェル・ベルジェを追いかけたかった
俺は彼の詩句のこぼれた果実を拾い集めたかった
俺はピアニストのグルーピーさ、フォンダメンタリストさ、
フランツ・リストみたいなショーマン、アーチストさ

(アルマネ)
パリでピアノ、私にあらわれた
完全なる夢、メロディーのゆりかご
私は奇想曲をつくって友だちのために弾くわ
パリで私のピアノ

(ゴンザレス)
ジルベール・モンタニェ、彼は俺にとってのカニエ
俺の山の上での誓い、俺の真実
俺と俺の鍵盤は愛し合っていくぞ(On va s'aimer)
狂おしいほどにね、ジュリエット・アルマネに聞いてみろよ
俺はハーモニーの世界のジョルジオ・アルマーニさ
サンソン・フランソワとヴェロニク・サンソンの
どちらかを選べと言うのなら
俺の最敬礼(ma révérence)はシャンソンの方に捧げるよ
これが俺のフランスへの手紙(Lettre à France)さ
俺のことはミッシェル・ゴンザレスって呼んでくれ
チリー・ポルナレフでもいいぞ
裏付けは取ってあるって

(アルマネ)
ピアノ・ア・パリ、ピアノ・ア・パリ、
ピアノ・ア・パリ、モン・ピアノ・ア・パリ

(ゴンザレス)
俺はタローよりもまぬけで
ソラルよりも卑劣漢さ
その上シェラルよりも値が張るんだ
だが歴史に残るのは一体誰だ?

(ゴンザレス + アルマネ)
俺のすべての古きピアニストたちへ
(ピアノ・ア・パリ)
俺はスタンディング・オヴェーションを捧げるよ
(ピアノ・ア・パリ)
            ("Piano à Paris")

フランス音楽通の英米人たちは増えてきたと思う。それはゲンズブール以来の現象かもしれない。だが、彼らの好みは”フレンチ・タッチ”であって”フランシュイヤール”ではないだろう。ゴンザレスはそんな”似非フランス通”と一線を隠して、フランシュイヤールを真剣に評価し愛している。ゴンザレスの趣味をフォローする人たちがどっと増えそうな気がする。

 アルバム最後に収められたミッシェル・ベルジェ作の"Message Personnel"(オリジナルは1973年フランソワーズ・アルディ歌)のピアノソロ・カヴァー。このどうにも抗いようがない抒情の波状攻撃、これは至上の名人芸である。


<<< トラックリスト >>>
1. French Kiss
2. Il pleut sur Notre-Dame (feat. Bonnie Banane)
3. Lac du cerf (feat. Christine Ott)
4. Nos meilleures vies (feat. Teki Latex)
5. Wonderfoule (feat. Arielle Dombasle)
6. Cut Dick
7. Romance sans paroles no.3 (feat. Alison Wheeler)
8. Gangstavour
9. Piano à Paris (feat. Juliette Armanet)
10. Richard et moi (feat. Richard Clayderman)
11. Message Personnel

Chilly Gonzales "French Kiss"
LP/CD/Digital Gentle Threat France Gentle028
フランスでのリリース:2023年9月15日


カストール爺の採点:2023年のアルバム

(↓)2019年 Netflix動画 "Message Personnel"(ミッシェル・ベルジェカヴァー)

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