2016年8月2日火曜日

餅はモディアノ


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2005年2月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Patrick Modiano "Un Pédigree"
パトリック・モディアノ『ある血統』
 (2004年12月刊 )

 これは20世紀後半のフランスを代表する作家パトリック・モディアノが、いかにして作家になったかを、自から解題する作品である。
 私には読後すぐに、この小説からある程度距離のある二つのことが頭に上ってきた。ひとつはあの善良なアナキン・スカイウォーカーが、いかにして悪の権化ダース・ベーダーになりえたか、ということである。ジョージ・ルーカスはその『スター・ウォーズ/エピソード 1.2.3』という長大なサーガでそれを説明しようとするのであるが、そこで悪いのは「血」ではない。モディアノはこの自伝的な小説を『ある血統』と題することで、ある血の問題が介在することを喚起しているわけだが、スター・ウォーズ的な表現を使えば、確かにモディアノの父親はダークサイド(フランス語では côté obscur コテ・オプスキュール)の側の人間であり、ユダヤ人にして第二次大戦中の対独協力者かつブラックマーケットの商人であった。
 もうひとつはドイツの乗用車メーカー、アウディの2005年冬のTVコマーシャルスポットで、そのスローガンは "La mémoire est séléctive"(記憶は選択的である)というものである。

4つの例が出てきて、ぼやけた背景の中からブランコに乗った二人の少女だけが鮮明な画像で現れて消え、ふたつめは人に連れられた吠える猛犬(猛犬しか見えない)、三つめはバレエの男女ペアの踊りで、男の腕に倒れ込む女性バレリーナの顔だけがはっきり見えて他はぼやけている。4つめはアウディの車からドアを開けてひとりの人間が降りてくるが、その人間は全く目に入らず(=ぼやけていて)、アウディ車の姿だけが記憶に残る、というもの。記憶は確かに選択的である。往々にして自伝的な作品とはその選択された記憶の記録だけに終始するものである。だが、このモディアノの小説では鮮明でないぼやけた部分こそ重要なものであり、曖昧な状態のまま網羅的に記述される日時、場所の名前、あった事実の数々は選択的に書かれているのではなく、むしろ飛行機事故後に飛行操縦士の全会話が録音されたブラックボックスを開く思いがする。何がカギで何がカギでないのかをモディアノは選択していないのだ。

 パトリック・モディアノは1945年7月に生まれ、1967年に作家となっている。この『ある血統』はモディアノが生まれてから21歳(当時の成人年齢)になるまで、ひいては作家になるまでを描いた自伝小説である。
 モディアノの父親と母親はフランスがドイツによって占領されていた時代に知り合っている。上に書いたように父親はユダヤ人・対独協力者・闇商人であり、複数の名前と住所を持っている。母親はベルギー・フランドル人の女優であったが、芸能人として派手な立ち回りこそすれ、一度も主役として成功することのない、名前のないアーチストである。この二人は戦後になって同じ住所(パリ5区コンティ河岸)同じ建物の別の階に住み、それぞれ別々の生活を送るようになる。父親は杳として実態のつかめない「実業」の世界にあり、母親は女優として劇場や映画撮影に出かけていく。早々と崩壊してしまった家庭の中で主人公は育つことになるが、疎んじられた息子でありながら、父親も母親も親の義務は果たそうとするポーズは見せていて、それと同時に親の権利だけは大いに主張してくる。特に教育に関して父親は口うるさい。あからさまに自分たちの日常生活から息子を遠ざけるように、父親はできるだけパリから遠く、できるだけ厳格な寄宿学校を選んで「私」を送り込む。
 小説は雑作もなく偶然に保存されていた多くの古写真や、学業ノート、会計帳簿、名簿、住所録、電話番号簿、新聞スクラップ、地下鉄や国鉄の切符、それらをつなぎ合わせた瞬時のスライド連続映写のように、余計な感傷的コメントを差し挟まずに展開していく。他のモディアノの著作では重要事件となっている弟リュディーの死も、この小説では多くの事件のうちのひとつでしかない。そしていくらたくさんの断片を集めてきても、パズルは組みあわされることはなく、その全体像はぼやけたままである。
 余は如何にして小説家なりしか。
 それはなぜ「私」は父親にも母親にも愛されることがなかったのか、ということと隣り合わせた問題であろう。女優で稼ぎが止まってしまった母親が無一文になり、生活することもままならなくなった時、その生活費をせびりに父親の許に行かされる少年の「私」。そこから戻ってきた「私」よりも、「私」が請いせがんで得ることができた金額にのみ興味がある母親。凄絶な図である。
 「私」が父親に近づくことを力ずくで邪魔しようとする父親の情婦「偽ミレーヌ・ドモンジョ」。そして父親を取り巻き、父親と関係のある、フランスの陰の世界の人々。「私」はそれらを子供〜少年の目で観察している。蠢めく陰の世界はナチス占領時代からアルジェリア戦争時代へと推移しても、その姿をアメーバ状に変容させながらその勢力を決して失うことはなかった。幼い頃からそれと関係を持ちながら生きてきた「私」は、その一味の息子なのである。父親に愛されることはなくても「私」はその息子なのだ。「ある血統」は決して否定されることはない。
 50年代から60年代へ、崩壊された家庭の息子である「私」は、寄宿学校で本の虫となっている。文学はこの孤独な魂を救済するか。モディアノはこの小説で文学が「私」を救ったなどということはひとことも書いていない。救われようが救われまいが、「私」には逃げ隠れする場所がほとんどなかったのだ。そして1966年という自分の成人の年が近づくにつれて、「私」はパリの町を浮浪するように、寝場所を転々と変えて逃げ回っている。逃げているのは、兵役と父親の執拗で父権的な指図からである。この小説の最後は、火の出るような父親と息子の手紙の応酬となっている。一日も早く息子を兵役に送り込んで厄介払いをしようとする父親と、それを拒否する息子の衝突は、この「成人=21歳」という境において爆発し、法的におまえを養育する義務はなくなったのだから、今後一切の援助はないと思え、という手紙に、「私」は成人となったのだから自分の責任はすべて自分で負い父親の援助は一切必要としない、と書き返すのである。この手紙の応酬の後、二人は二度と交信も再会もしていない。文字通り絶縁状の応酬だったのである。
 1967年6月、モディアノは出版社から最初の作品との契約の連絡を受ける。
Ce soir-là, je m'étais senti léger pour la première fois de ma vie
(その夜、私は生まれて初めて自分の体を軽く感じたのだった)
 21年間の生のあらゆる脅迫と不安から解き放たれて、その夜モディアノは作家になった。この日の記憶のためにモディアノは何編でも小説を書けたであろうが、この日のことを明らかにする小説は37年後になって初めて書かれたのである。時が経つほど記憶は断片的になっているだろうが、時が経たなければ明らかにできない深い傷の痛々しさはこの小説のあちらこちらに散らばっている。
 モディアノを既に読んでいた人たちは、この小説でこの作家の核の部分をかなり深く知ることができるであろうし、読んでいなかった人たちは、この作家のあらゆる作品を読みたくなるであろう。

Patrick Modiano "Un Pédigrée"
Gallimard刊 2004年12月 19,50ユーロ

(↓)モディアノ『ある血統』の YouTube個人投稿による紹介クリップ。
 
★★★爺ブログ内のモディアノ関連記事★★★ 
- 2007年10月13日『失われた青春のカフェ
- 2010年3月22日『視界
- 2012年11月1日『夜の草
- 2014年10月10日『作詞家モディアノの妙
- 2014年10月25日『おまえが迷子にならないように



 

0 件のコメント: