"Timbuktu"
『ティンブクトゥ』
2014年モーリタニア+フランス合作映画
監督:アブデラマン・シサコ
主演:イブラヒム・アハメド、トゥールー・キキ、アベル・ジャフリ
2014年カンヌ映画祭出品作(コンペティション)
フランス公開:2014年12月10日
2014年の今日、西側にいる私たち(私の現在位置はフランス)の多くは、もう善悪が歴然としている、と思っていますよね。「イスラム国」兵士による人質の斬首が一度ならずSNSで公開されるや、私たちは人道に対する犯罪を確信し、ジハード派が人類全体の敵であるかのようなメディア報道に同調する怒りも感じたはずです。フランスの少なからぬ数の若者たちが、このジハード兵士として参戦するべくシリアに飛んでいる。日本人活動家もいると報道されている。強大な武装力とテクノロジーとコミュニケーション網を有する、これまでに例を見ない規模のテロリスム機構の伸張は私たちの大きな脅威であるということに私は異論がありません。
この映画はジハード派の脅威を検証するものではありません。実際に起こった衝撃的な事件をハリウッド映画的にドラマティックに脚色して描き出すような作品では全くありません。この映画のもとになった史実は、2012年春、マリの北半分が武力的にジハード派に制圧され、その中にユネスコ世界遺産に指定されている歴史的古都トンブクトゥーもあり、ジハード派はトンブクツゥーの聖墓・聖廟を破壊し、古文書を焼き払いました。そして住民はジハード派解釈によるイスラム法「シャリーア」の徹底尊守が義務づけられ、女性は肌を露出することが禁止され、あらゆる享楽が制限され、禁を破った者は、公開処刑で鞭打ち刑、石打ち刑、手足の切断刑などに処されます。
アブデラマン・シサコ監督の映画は初めて観ました。私たちはこれから始まるであろう戦争とテロリズムの悲劇に身構えて映画館に入ったわけですが、最初から何かアングルが違うな、と直感しました。ジハード兵士たちが、砂漠でトヨタの四駆ピックアップを走らせ、その荷台から射撃訓練として一匹のガゼルを追います。ガゼルは全速力で逃げていきますが、兵士たちはわざとそれに銃弾が当たらないように発砲します。「疲れさせろ!」と声は命じます。ガゼルはそれる弾丸に怯えながら、必死に逃走します。これは残酷なことなのか、「人道的」なのか、私には判断できません。続いて、同じく射撃訓練で、たくさんの民芸品の木彫り人形(戦争前まではトンブクトゥーは観光名所でしたし、こういう木彫り人形が多く土産屋などで売られていたでしょう)が標的になっていて、その顔や胴体などをおびただしい弾丸が破壊していきます。これも残酷なのか、無邪気な遊びなのか、あるいは偶像や伝統破壊のメタファーなのか、ちょっと判断が難しいところがあります。こういう単純ではない映像と対照的に、その背景となる砂漠もサバンナも村の家々もトゥアレグたちの野営テントも、すべて絵画的に美しいアフリカなのです。これはため息がもれるほど見せる絵で、この前で一体何が問題なのかわからなくなりそうです。
たしかにこの村をジハード派が制圧し、あれもこれも禁止され、恐怖政治が布かれますが、それを武力的に管理するジハード兵士たちは、私たちがニュース報道などから想像するような徹底的に洗脳された狂信者たちではなく、どこかに不安や迷いもあるような描かれ方なのです。これがカンヌ映画祭でコンペティション作品として上映された際に、テロリストに対して同情的にすぎるのではないか、という否定的な評価の所以でした。例えば(下に貼った予告編でも見れるシーンですが)、女たちに対する肌の露出を禁止する命令によって手袋の着用も義務づけられるのですが、魚売りの女が一体どうやって手袋の手で魚売りの仕事ができるのか、とそれを拒否して、ジハード警察に喰ってかかります。「私の手を斬ってくれ!」と包丁まで差し出します。これに対してジハード兵士たちは、高圧的暴力的にこの女を取り押さえるのではなく、女をなだめることすら試みるのです(しまいには女を連行していきますが)。また、フットボールを禁止しておきながら、ジハード兵同士ではフットボール談義が始まると止まらなくなってしまう。はたまた、音楽を禁止しておきながら、夜警中にある民家から音楽の音が聞こえてきても、よく聞くとそれはアッラーを賛美する歌であるという理由で、ジハード兵は踏み込んでの現行犯逮捕を思いとどまってしまう、というシーンもあります。
しかし自由は奪われ、多くの人たちはジハードの勢力が届いていないところまで逃げてしまい、村は荒れています。小さな抵抗は試みられますが、それには残酷な刑罰が待っています。そんな中で、この映画で最も美しいシーンとされるのが、村の少年たちがボールなしでフットボールの試合をする場面です。「エアー・サッカー」とでも言うのでしょうか。少年たちは見えない想像上のボールを追い、ドリブルし、タックルし、パスし、シュートしてゴールを決めるのです。その瞬間の集団での大喜び。この自由は誰にも奪うことはできない、という勝利の瞬間のように感動的です。
自分のやっていることに疑いを持ち始めるジハード、禁止されたタバコを隠れて吸うジハード、村の娘に恋をするが果たせず、その支配的権力を使ってでも恋を成就させようとするジハード...。
映画の主軸のストーリーは、この村の外側にテントを張って住んでいるトゥアレグの三人家族の運命です。父と母と10歳の娘。行商と牛の放牧で、貧しくも平和に暮らしているこの三人のところにも、ジハード軍の支配の影響は及んで、他に住んでいたトゥアレグたちはすべて逃げていきました。それでも母と娘は、ジハード兵がやってきても顔や肌を隠すことなく誇り高く生きていました。父はギターをつま弾き「砂漠のブルース」を歌います。本物です。この三人は他の世界がどんなになろうが、この幸せの恩寵に包まれて生きていけそうに見えました。歴史や世界事情に取り残されて、という意味ではありません。三人は携帯電話でコミュニケーションし、その飼っている一番自慢の牛は「GPS」という名前が付けられているほど、21世紀とシンクロして生きているトゥアレグなのです。
ところが、近くに住む川魚漁師が、その自慢の牛の「GPS」を殺してしまうという事件が起こり、トゥアレグはそれを抗議に行ったところ、漁師と取っ組み合いの喧嘩になり、たまたま持ち合わせていたピストルが暴発し、漁師は死んでしまいます(この川の上での格闘の末、漁師が画面の右端で息絶え、トゥアレグが川水に足を取られながら画面の左端に逃げていく、ロングショットの映像、思わず息を飲むほど美しい)。
この事件で逮捕されたトゥアレグが、ジハード派のシャリーア裁判で死刑を宣告されるのです。この取り調べと裁判の間中、トゥアレグとジハード派の複数の人間たちの間で問われるのが「神」の問題なのです。同じひとつの「神」と信じられてきたものをトゥアレグはもう一度この人たちにも問うのです。神は裁くものなのか。
ジハード派はこの地平では揺らぐことがない(たとえこの映画でいくつもジハードの揺らぎは見て取れるものがあったとしても)。しかし、その刑の執行の時に...。
不思議な登場人物がこの映画の中に3人います。2010年ハイチ大地震の生存者(とおぼしき)でマリに流れ着いたクレオールで、ボロを纏いインテリ風フランス語を話す狂女。もちろん顔や肌など隠すことなく、ジハード軍のトヨタ四駆の前に立ちはだかり、その通行を邪魔したり罵りの言葉を浴びせることもするのだけれど、ジハード兵たちはこの狂女には一切手を出さず放任しています。そしてこの狂女と仲がいいのか気になるのか、芸術的か哲学的な過去を持っていたと思わせる白人系ジハード幹部、この男が突然に狂女の前でコンテンポラリー・ダンスを披露するのです。3人めは派手なマントを翻して暴走する謎のオートバイ乗り。この映画ではこの3人めが古代ギリシャ悲劇で言うところの「デウス・エクス・マキーナ」です。
テロリズムの惨劇にポエジーを持ち出していいのか、という見方もありましょう。私にはよくわかりません。神の問題への私の意見はありません。私は神の問題よりも、この映画のポエジー=想像力が、この人間と大地(アフリカ)との関わりを繊細に描いていたことに深く感動するものです。世界政治・宗教問題・人道問題のことだけでは、映画なんか作らなくてもいいのです。アフリカやわれわれを深く支えているのは、この映画のような光ある想像力(トゥアレグの三人家族)である、と私が結論しても、私はそんなに陳腐なことを言ってるとは思いませんよ。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『ティンブクトゥ』予告編
(↓)挿入歌「ティンブクトゥ・ファソ」作曲:アミン・ブーハファ、作詞&歌:ファトゥーマタ・ジャワラ
2 件のコメント:
ブログ拝見。興味深く、AmazonFrにオーダーしました。日本到着は4月末になりそうなのですが、楽しみです。
こういう映画、最近日本で配給引き受ける会社が少なくなってしまいました。若い人が和物とアメリカの映画ばかり見るのだから、ビジネスとして成立しにくいのでしょうか。「ベルリン・天使の詩」配給のフランス映画社も昨年倒産しまた。
ご紹介ありがとうございます。
匿名さん、コメントありがとうございました。米国では上映されて、オスカー(外国映画賞)にノミネートまでされたのですが。
サントラ盤も内容がすばらしいです。来週には渋谷エル・スール・レコーズの店頭に並びます。おすすめします。
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