2020年6月24日水曜日
ヴェルノン・シュビュテックス III
この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2017年7月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。
ヴェルノン・シュビュテックス三部作完結
ドラッグ不要の音楽による救済と共同体の夢の果て
(in ラティーナ誌2017年7月号)
Virginie Despentes "Vernon Subutex III"
ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス III』
(Grasset刊 I 2017年5月)
2015年10月号の本連載で紹介したヴィルジニー・デパントの大長編小説『ヴェルノン・シュビュテックス』(以下"VS”と略)の第3巻が2017年5月24日に刊行され、同小説は完結した。各巻400ページ、総計1200ページ。読み終わりのため息の大きさはただものではない。ふあァァァ....。
第1巻の発売日が2015年1月7日。歴史的な偶然で、かのシャルリー・エブド襲撃テロ事件が起こった日であり、またその同じ日にミッシェル・ウーエルベックの問題作『服従』も刊行され、近未来のフランスにイスラム政権誕生を予言する内容に関する当地の大論争は日本でも大きく紹介された。同年の書店ベストセラー1位になったウーエルベック『服従』に劣らぬ話題の書となったデパント『VS』は、同年7月に第2巻『VS・II』の登場を見、さらに翌年(2016年)5月に完結編の第3巻を予告して、熱狂的読者たちをおおいに期待させた。
しかし『VS・III』は予告を裏切った。デパントは大幅な書き直しの必要性を切に感じたのだ。週刊文化誌レ・ザンロキュプティーブル2017年5月24日号(→写真)のインタヴューでデパントは、この第3巻執筆に直面した難しさについて、『VS・I』刊行から2年の間に激変してしまったフランスの状況に打ちのめされ、特に『VS・II』発表後に起こった2015年11月13日のバタクラン乱射テロ事件は、彼女を長い期間一行も書けない状態に陥らせたと語っている。 「終焉しかけていたと思われていたテロリズムが誰も予想できなかった凶暴さで一挙に噴き出し」、「地中海で夥しい死者数を出しながら押し寄せてくる難民に人々は"慣れて”しまい、その難民たちをトルコに送り返すという信じがたい過ちを犯し」、「(マリーヌ・ル・ペンに票を投じるという)国民がその自らの国を崩壊させるための投票をする」のを見たのだから。
『VS』は絶望の小説ではない。ウーエルベックのようなシニリズムやペシミズムがものを言う作品でもない。むしろ21世紀的に分断化されたさまざまな個人が、イデオロギーや宗教や貧富やジェンダーの違いの確執を乗り越えて、危うく儚い夢の共同体を築いていく、不可能に近い希望のストーリーである。執筆中に起こってしまった現実世界の事件の数々は、不可避的に作者の筆を止めてしまい、このストーリーの不可能性を倍加させたが、作者はそれらの事件を作中に流し込み、作中人物たちを対峙させて答えを引き出そうとしている。この点において『VS・III』の力強さは前2巻を上回っていると言える。
前2巻までの展開をざっと振り返ると、パリ11区レピュブリック広場の近くにあったレコードショップが、21世紀初頭のインターネット音楽配信の隆盛に勝てずに倒産し、店主の五十男ヴェルノンはホームレスに転落し、かつての店の常連客などのつてを頼りに転々と場所を変え生き延びてきた。ヴェルノンの生活費を援助していたマブだちにして弟分の(スーパースター)ロックアーチスト、アレックス・ブリーチが謎の死を遂げ、死の直前に自撮りインタヴューした動画データがヴェルノンに残される。私立探偵やジャーナリストなど複数の人間たちがそのヴィデオデータを入手すべくヴェルノンを追跡する。その中にはアレックスの未発表作品、さまざまな証言(芸能界大物プロデューサーによるアレックスの元恋人の殺人事件の真相など)が含まれているらしい。ヴェルノンはその大遁走劇の途中で、年齢も階層も性的傾向も異なるさまざまな男女と出会うのだが、なぜというはっきりとした理由もなく彼らはヴェルノンに惹かれていく。生死の境まで追い詰められて、虫の息でたどり着いたビュット・ショーモン公園(パリ19区)の林の奥で、ヴェルノンは仙人化する。
公園の丘の上のカフェ「ローザ・ボヌール」はいつしかヴェルノンをグールー(教祖)とする人々の集会場と化し、ヴェルノンはスマホを使って音楽をミックスし、それをカフェのオーディオ装置に接続して流す。説教など垂れない。この聖者は既存の音楽をある波長に乗せて流すだけで人々を魅了し、陶酔させ、踊らせてトランス状態に至らしめるのだ。人々はこの体験の幸福を忘れられず、ヴェルノンの極上快楽のミックスの噂はじわじわと拡がっていく。
『VS・II』では死んだアレックス・ブリーチの自撮り動画データで証言されていたブリーチの元恋人(ポルノ女優)の死をめぐって、その真犯人と名指されていた芸能プロデューサーでその世界の大物であるローラン・ドバレが、イスラム教条を厳格に尊守する女優の娘と、彼女と意気投合したタトゥー(刺青)アーチストの少女の二人によって、残忍なまでの復讐(背中全体に一生消えない"強姦魔”の文字を刺青される)を受けるというエピソードがある。ドバレは恥辱のどん底に叩き落とされながらも、憤怒の激情をたぎらせ必ずやこの二人の少女に報復するという執念をいよいよ燃え上がらせていく。かたや少女二人はヴェルノンの仲間たちの手引きで別々にヨーロッパの安全な場所に隠れて生きている。
この大長編小説は大きな二つの軸があり、ひとつはヴェルノンとその自然発生的な共同体の成り立ちと浮き沈みの記録であり、もうひとつはドバレに代表される現代ネオ・リベラル経済社会の勝ち組システムとの容赦のない闘いのストーリーである。
『VS・III』は前2巻よりも年月が経過した設定で、ヴェルノンと仲間たちの集会は公には秘密が原則で、地名も明らかにされない野営地で開かれるようになっている。権力は往々にしてこのような集団を弾圧したがるものであるが、それを前もって防ぐために参加資格は招待者のみ、タブレットやスマホなどの持ち込みとインターネット接続の禁止、公営交通で某地点まで集合させ、そこから先はオーガナイザーの用意した数台の自家用車でピストン移送して会場まで。だからオーガナイザーを除いて誰も現在位置がわからない。1990年代レイヴパーティーのようでもあるが、 規模は数十人程度にとどまりキャンプで数夜を共にする。この集会を彼らは"コンヴェルジャンス(convergeance、集中、結束)"と呼んだ。
そこでアルコールとドラッグの使用は禁止されていない。しかしそれまで麻薬や化学ドラッグなしには到底トランス状態に到達できないと思われていたその種のパーティーとは全く異なり、ヴェルノンが流す音楽はドラッグ効果を必要とせずに聴いた者の精神と身体を解放し、一晩中朝までの集団トランスダンスを実現してしまうのだ。ドラッグの最悪なことは効果の切れる時にやってくるあの不快極まりない転落感であり、人工楽園から墜ちる苦しみである。ところがヴェルノンのパーティーには(ドラッグが不要だから)その悲劇的な落下がない。夢の一夜の後の目覚めは爽快なのである。コンヴェルジャンスはその幸福を共有する限られた人々の隠れた共同体だったが、集会の度に少しずつ参加者は増えていった。
コンヴェルジャンスにはあまり参加していなかったが、ヴェルノンの一団の長老格で、ヴェルノンがビュット・ショーモンに乞食同然でたどり着いた時、ホームレスとして生き抜く方法などを伝授した恩人だったシャルルが死んだ。生前シャルルは同棲相手のヴェロにも秘密にしていたことで、ロトくじで当てた2百万ユーロの隠し財産があった。ほとんど手つかずのこの大金をシャルルは遺言書でヴェロに半分、そして残り半分はヴェルノンの仲間たちへ、と。兄のように慕っていた亡きシャルルの遺志をヴェルノンはグループの中枢メンバーたちに伝えるのだが...。
小説の主人公であり、中心人物であることには変わりないのだが、この長い物語中一貫してヴェルノンはリーダーシップを取らない。彼は意見を言わないし、決定もしない。彼は至福の音楽を鳴らすDJとして人々に敬われて教祖のような座にいるだけだ。世間でよくある話のように、大金が絡むやいなや共同体は亀裂が生じ、その使い道に仲間たちは大論争となり、ヴェルノンはそれを統率する気などない。かくして夢の共同体はもろくも空中分解し、カリスマ性を失ったヴェルノンはしがない流しのDJとなって野に落ち、ヨーロッパを放浪する。
その間に屈辱の大物プロデューサー、ローラン・ドバレはヴェルノン一派の事情をほぼ全面的に把握している元アレックス・ブリーチのマネージャーだったマックスと手を組み、あの憎き二人の少女のひとりセレストの居場所(バルセロナ)を嗅ぎつけ、報復戦に打って出る。罠にはまって囚われ、酷い大暴行を受けながらも存命しているセレストのために、ヴェルノンの仲間たちは結集して救出作戦を敢行する。この部分の数々のヴァイオレンスの描写はかなりゴア。
かつての結束を取り戻した共同体メンバーはセレスト奪還に成功し、ヴェルノンは放浪をやめ、再び仲間たちとコンヴェルジャンスを開催しようとするのだが...。
結末は強烈すぎるので、ここで詳しく書くことは控えるが、少しだけ。再開第1回のコンヴェルジャンスの会場として借りた田舎家の大納屋で、ヴェルノンと仲間たちは何者かによって手榴弾とカラシニコフ銃乱射でひとり残らず殺害される。ひとり残らず、と新聞メディアでは報道されたが、実は誰にも見つかることなくひとり助かっている...。
当初は反社会的な秘密セクトの事件のようにメディアは報道したが、後日かの大プロデューサーのドバレは(自分が当事者として入手している)詳細きわまりない資料をもとにしてヴェルノンとその一団の最初から最後までの歴史をフィクション(テレビ連続ドラマ)化して、世界的に大ヒットさせるのである。あたかも最後に笑うのはネオリベラル資本主義システムである、と証明するかのように。ところがヴェルノン信仰はそれをはるかに超えていくのである...。
ヴィルジニー・デパントは『VS・III』の400ページの中に、バタクラン劇場乱射テロ、レミー・キルミスター(モーターヘッド)とデヴィッド・ボウイの死、ノートルダム・デ・ランド空港建設反対運動、フロリダ州オーランドのゲイナイトクラブ乱射事件、パリ・レピュブリック広場占拠ニュイ・ドブー運動(2016年6月号の本連載で紹介)など多くのリアル世界での事件を挿入していて、このリアルな状況の中でのわれわれ、という現実的緊張感を伴うジェネレーション文学に仕上げている。あの時読者がどこかでヴェルノンと仲間たちとすれ違っていたような感覚。リーダーのいないさまざまな市民運動の結束(コンヴェルジャンス)として広場を占拠したニュイ・ドブー運動の混沌とした自由は、カリスマ性はあってもリーダーではなかったヴェルノンの仲間たちと似ているものだ。
仙人然としていても寡黙で教条も解決策も持ち合わせていないグールー、ヴェルノンはただの元レコード屋のオヤジであり、音楽クリエーターですらない単なる選曲ミックスDJである。この状況でこの繋がりのこの音楽が鳴れば甚大な効果ありということを熟知した職人耳を持った男にすぎない。デパントはここに音楽(特にロック・ミュージック)の持つミスティック(神秘的、秘儀的)なパワーの可能性を文章化しようとするのだ。ヴェルノンが伝授された秘儀というのは、アレックス・ブリーチの遺言自撮り動画データに遺されていたブリーチ未発表曲の音の中にあり、ヴェルノンのミックスに込められたその周波数が聴く者に天上的な陶酔をもたらす。ここに新約聖書的な、”バプテスマのヨハネ=アレックス・ブリーチ"と”イエス・キリスト=ヴェルノン・シュビュテックス”という関係も寓意されている。そして小説の大部分が"聖者ヴェルノン"の描写よりもその使徒たちの行状の記録となっているのも聖書的だ。裏切りもヴァイオレンスもおおいに含みながら。
音楽とダンスによって人類は救済されるか。われわれが失って久しい共同体の夢はいつか蘇るのか。このヴィルジニー・デパントの壮大な小説のテーマの数々は、そのかすかな可能性に加担するように、と読者を誘っている。コンサート会場の熱狂には、サッカー試合のスタジアムに時折現れてしまう怒りや憎しみがない、とデパントは言う。可能性はスポーツではない、音楽なのである。
(2017年6月 向風三郎)
(↓)2017年5月、国営テレビFrance 5の図書番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ヴェルノン・シュブテックス・3』 について語るヴィルジニー・デパント
↓『ヴェルノン・シュビュテックス I & II』紹介記事リンク
元レコードショップ店主のホームレス男ヴェルノンが人類を救済するまで(in ラティーナ誌2015年10月号)
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