2023年8月19日土曜日

起こらない何かを待ち続けるダンスフロア

"La Bête Dans La Jungle"
『ジャングルのけもの』


2023年フランス映画
監督:パトリック・ヒハ
主演:アナイス・ドムースティエ、トム・メルシエ、ベアトリス・ダル
原作:ヘンリー・ジェームズ
フランスでの公開:2023年8月16日

ンリー・ジェームズ(1843 - 1916)作のカルト短編小説『ジャングルのけもの(The Beast In The Jungle)』(1903年)を下敷きにした自由翻案作品。テレラマ誌によると、この原作小説はマルグリット・デュラスによって戯曲化されたり、フランソワ・トリュフォー 映画『緑色の部屋』(1978年)に重要なインスピレーションを与えた、ということになっている。
 男女の不思議な交感の物語であり、それはたぶん”愛”に近いものである。男(ジョン)はそのエキセントリックな感受性によって、ある種の強迫観念のように、自分の身にある日(近い未来)に”何か”がやってくることを確信している。その何かはとてつもないものであることは間違いないがそれが何であるのかはわからない。必ず来るからそれを待っているしかない。この秘密めいた確信をある日、女(メイ)に告白する。メイは好奇心からこの何かを待つ男に興味を抱き、共にその何かが何であるのかを知りたいと思う。いつしかこの男と女は”何かを待つ”ことを共有するようになる....。

 映画は20世紀後半のパリを舞台に始まる。正確には最初の映像(たぶん8ミリ撮影)はその数年前の地方の野外ダンスパーティーで、牧歌的に和気藹々と踊る老若男女をよそに、スタンド座席でただそれを見つめている赤セーターの男、それがジョン(演トム・メルシエ)だったということはあとでわかる。映画的現在は1979年、メイ(演アナイス・ドムースティエ)は友だち(メイを入れて男女四人組)と毎土曜日にダンスフロアでパーティー騒ぎをすることが生き甲斐のような明朗な娘。その夜オープンしたばかりのクラブ、「何ていう店なの?」と訊くと「名前はないのよ」と答える女フィジオノミスト(physionomiste 日本語ではバウンサーかな。カジノやクラブなどの入り口で入場者を識別鑑別して、おまえは入ってもいい、おまえはダメ、と整理する用心棒)。このフィジオノミストを演じるのが(今や怪女優)ベアトリス・ダルで、その声が映画進行上のナレーターともなっている。なぜならこの女フィジオノミストがジョンとメイの動向をすべてお見通しだからなのだ。映画は一種の”密室”ものであり、ジョンとメイの物語はすべてこのナイトクラブ/ダンスフロアで展開し、それはすべてフィジオノミストの目に映っている。
 そして、なんとこのダンスフロア密室映画は25年間(1979年から2004年)というタームで進行するのである。1983年エットーレ・スコラ監督の名作『ル・バルLe Bal)』は同じようにダンスホールの密室映画で1930年代から1980年代までの50年の”フランス現代史”がダンスホールでの音楽とダンス(ミュゼット→スウィング→ラテン→ロック→ディスコ)だけで描かれる”無声映画”であった。このパトリック・ヒハ(Patric Chiha オーストリア人なのでこうカタカナ表記したが、そう読むのかは定かではない)監督の『ジャングルのけもの』も『ル・バル』のスタイルを継承して、1979年からのパリのダンスフロアの音楽/ダンス/ナイトクラバーたちの風俗の変遷が大きくクローズアップされている。ニューウェーブ、テクノ、レーザー光線、ドレスコード...。81年5月、このダンスフロアーはミッテラン大統領当選に沸き立ち、89年ベルリンの壁崩壊に熱狂する。しかしエイズ禍がやってくる。クラウス・ノミ(1944 - 1983)の死はこの映画でも大事件として取り上げられてる(「コールド・ソング」が流れるとやっぱり泣くよね)。クラブシーンはゲイカルチャーと抜き難く結びついているゆえに、90年代このダンスフロアにも閑古鳥が鳴く時期がある。映画の時間の最後方には2001年9月11日ワールド・トレード・センターのテロがテレビ画像で映し出される。それらの”外界”の事件は、すべて何かとてつもないことではあるのだが、ジョンの待っている”何か”ではない。
 ダンスフロアで踊り我を忘れることがカタルシスであったメイは、場違いの異星人のようにそこにいて踊らず立ち尽くしているジョンに惹かれていく。それはこのダンスフロアに初めて足を踏み入れた時から数年前、あの田舎の野外ダンスパーティーの座席スタンドに陰気な顔でただ踊る人々を眺めていたジョンとの初めての出会いが発端だった。ジョンはそのことを覚えていない。メイははっきりと覚えている。ジョンはその時、何かとてつもないことが自分に訪れる運命のような予感に怯えながらも、自分を根本的に変えてしまうに違いないその事件を待っている、と初対面のメイに告白したのだ。それをジョンは覚えていない。だがメイにはその出会いに運命的なものを感じていた。そしてこのダンスフロアでの再会にも運命を。そこからメイはジョンを離さないと決めたのだ。毎土曜日、メイとジョンはナイトクラブにやってくる。ジョンが待っている”何か”と立ち会うために。
 接吻も交わすことのないこの二人の関係はこうして25年も続くのである。メイは踊らなくなり、ジョンと二人ギャラリー席でダンスフロアを見下ろすようになる。二人の会話は交わされるのだが、中身は進展のない形而上的ダイアローグばかり。だがこの二人は強烈に惹かれあっている。二人の共通の目的は”何か”を待つことである。
 メイには恋人がいるし、ジョンも気の合った女性に靡いていったりする。小さな嫉妬もお互いに抱くこともあるのだが、それはささいなことなのだ。メイとジョンは離れられない。この性愛のない親密な関係は、フランス語で"fusionnel"と形容していいのかな。溶け合うような一心同体のような関係。これは”愛”なのだと思いますけどね。
 遠くから来ると思っていた”何か”は、自分と溶け合うような距離にあり、それは見えない、25年後それを失った時に、初めてその”何か”が何であったのかに気がつく、という結末。

 メイが2001年に46歳で亡くなった死因はエイズと解釈していいのかな?私はそう理解したけれど定かではない。当時のエイズ禍の深刻さの捉え方が、2017年ロバン・カンピーヨ監督映画『120BPM』(2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)を想起させる部分あり。
いつもながらアナイス・ドムースティエ(21歳から46歳という役どころ)の魅力に溢れている。素晴らしい女優さんです。そしてジョンを演じたトム・メルシエはイスラエルの人だそうで、フランス語に異邦人的なアクセントがあり、それが(ル・クレジオの最初期作品群の主人公のような)場違いな異星人的キャラクターにとてもマッチしている。ジャングルで獲物を待ち続ける獣の視線も(かなりジャン=ルイ・トランティニャン寄り)。ダンスフロアで流れるオリジナル音楽<by Yelli Yelli (Emilie Hanak), Florent Charissoux (Miles Oliver) & Dino Spiluttini (Renzo S)>はみな素晴らしい。ダンスフロアの熱狂もあればダンスフロアの寂寥もある。しかし20世紀は遠くなったものだという感慨も。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ジャングルのけもの』予告編

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