2009年2月7日土曜日

シャンソン喫茶「ルビエ」のマッチ



 2月5日、ニコル・ルーヴィエ(1933-2003)の伴侶だったジュヌヴィエーヴ・グラトロンに取材。1958年10月からの日本公演滞在の時のたくさんの資料(ポスター、コンサートプログラム、新聞雑誌の切り抜き、スナップ写真...)を見せていただいて、驚くことばかり。あの頃の日本は本当にシャンソンに対して熱かったんですね。読売新聞社、新芸術家協会、労音などが主催しての日本ツアーは2ヶ月近く続いて、東京、大阪、奈良、京都から九州まで行ったそうです。
 当時の日本でのカタカナ表記は「ニコール・ルヴィエ」。
 プログラムや雑誌シャンソンの特集号には、矢内原伊作、芦原英了、谷川俊太郎、伊吹武彦といった人々がニコル・ルーヴィエ讃の文章を寄せていました。歌詞なんかみんな翻訳してあるんですね。すごいなあ。あの頃はこういう感じでシャンソンを聞いていたんですね。
 フランスからはニコルとジュヌヴィエーヴだけの渡航で、伴奏はハープとギターとベースの日本人トリオ(トリオ・オルフェ)。フランスで小さなキャバレーやホールでしか歌ったことのないニコルは、日本ではみんな2〜3千人クラスの会場を回るのでびっくりしていたそうです。東京は共立講堂でした。
 しかしニコルのレパートリーだけでは集客が難しいと考えたのでしょう、ニコル・ルーヴィエはシャンソンのスタンダード曲(枯葉、ミラボー橋...)も歌うことになったのです。フランスでは自作以外の歌を人前で歌ったことがないのに、ニコルは日本に来て初めて他人のレパートリーを歌ったのです。ギ・ベアール作の「河は呼んでいる L'eau vive」に至っては、日本語歌詞でも歌ったんですね。
 あと、ジュヌヴィエーヴから聞いて仰天したのは、ニコルの名前を冠したシャンソン喫茶が東京にあった、ということ。なんとシャンソン喫茶「ルビエ」は京橋にありました。ジュヌヴィエーヴはその店のメニュー表とマッチを持っていました。店の主人(男性)とニコルが並んで店の前で撮った写真もありました。店内にはニコルのポスターや肖像画があって、ニコルがそれにすべてサインをしていったそうです。もう50年前の話ですから、想像するしかありませんが、東京でニコルのシャンソンを愛する人たちがこんなところに集まって、目を閉じればサン・ジェルマン・デ・プレ、なんて思っていたのかもしれません。


(← コンサートプログラムの一部。谷川俊太郎、芦原英了、高英男の鼎談が載っています)

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