Amélie Nothomb "Le livre des soeurs"
アメリー・ノトンブ『姉妹の書』
また他愛もない話か、と読み始める。寓話体で書かれているからだ。あるところに女と男がおりました、そんな感じ。誇張され、昔語り/紙芝居弁士のように古風な語彙を多く交えて、ありもしない話だとわかっていても一気に読ませる大人童話。ユーモアは黒々としているが、上辺の平易さとシンプルさであっと言う間に読み進む。まこと、この作家は不思議なパワーをお持ちだ。
また他愛もない話か、と読み始める。寓話体で書かれているからだ。あるところに女と男がおりました、そんな感じ。誇張され、昔語り/紙芝居弁士のように古風な語彙を多く交えて、ありもしない話だとわかっていても一気に読ませる大人童話。ユーモアは黒々としているが、上辺の平易さとシンプルさであっと言う間に読み進む。まこと、この作家は不思議なパワーをお持ちだ。
1960年代末、北フランスのとある町で、女と男が運命的な出会いを果たす。ノラはフローランしか愛せないし、フローランはノラしか愛せない。二人の愛は十全的であり、他に何もいらない。周囲はこんな強烈な愛など一時的なものと達観しているが、あにはからんやこの愛は同じ濃厚さを保ちながら20年30年と持続していくのである。が、この小説はこの男女が主役なのではない。結婚して3年たってもアツアツの二人に、やっかみで人が「子供つくってみては?」と進言する。熱愛も”子育て地獄”で鎮まるだろうと。1973年、長女トリスターヌ(この綺譚の主人公)が誕生する。ノトンブの小説では過去にあったパターンだが、この新生児は言葉こそ話さないが、既に知覚能力を備えていて、驚異のスピードで知識を吸収し、周囲を観察する。両親は最初乳児を溺愛するのであるが、よく泣く子であることがわかるや、うんざりしてしまう。泣く子をあやすのに辟易したフローランは大人に言い聞かせるようにトリスターヌに「二度と泣くんじゃない、それは悪いことだ」と厳命する。その時から赤子は二度と泣かなくなる。その命令を理解したのだから。この乳児の超早熟な知覚など知りもしない両親は、赤ん坊が泣かなくなったことをよいことに、その部屋を閉めきり、熱愛カップルを再開するのだった。ノラの産休が終わり職場復帰、昼の間トリスターヌはわずか生後6ヶ月で託児所(クレッシュ)ぐらし。手間のかからない子、おとなしい子はクレッシュで大人の目に感知されぬ状態で人間の行動や関係の構築法などを学び取り、幼児たちの一段上を行く。だが手間のかからない子は両親からいよいよ無視されるようになり、両親の"永遠の蜜月時代”は続き、ある日2歳になっても一言も言葉を発しない娘に初めて異常を感じる。「”パパ、ママン”も言えないなんて」と両親が嘆いているのを聞いて、これが"許可”なのだと解したトリスターヌは「パパママン」と第一声を発する。「おまえいつからしゃべれるの?」ー 両親はこの子の不気味な知能を初めて垣間見て、喜びよりも恐怖すら感じてしまうのだった。
ノラにはボベットと名乗るひとりの姉がいて、シングルマザーで4人の子持ち、失業者でアル中でモク中でテレビ中毒で、生活保護を受けてせまい社会住宅で暮らしているが、トリスターヌにはこの叔母ボベットが人生初めての”馬の合う”相手となった。下卑た言葉は使うが、この叔母はまっすぐでウソがない。意気投合したボベットはトリスターヌに自分と歳の違わぬ末娘コゼットの「マレーヌ marraine」(註:日本語では parrain の女性形として "(女性の)名付け親”と訳されるが、実際にはこの"parrain/marraine"はその子の一生の後見人/世話人の意味)を任ずる。自分の家で家族との交流の全くないトリスターヌは、叔母の家でそのインテリジェンスと面倒見の良さを如何なく発揮して、手のつけられない子たちだったコゼットとその3人の兄たちを"教育”し、楽しませ、荒廃した叔母の家庭を大改造する。「おまえは将来共和国大統領になれるよ」とボベットは予言する。この姉の証言をまったく信用しない(アル中の虚言癖がまた始まったとしか思っていない)ノラとフローランはトリスターヌの動向など頓着しない。ある日両親は幼女が極度の近視であることを知り、強いメガネをかけさせる。両親の目からすれば手間のかからない何でもひとりでできる子は、自分たちは楽だが、精彩のない目だたたないやせっぽちのメガネの子にすぎなくなった。だがわが子を愛していないわけではない。
トリスターヌが4歳を過ぎた頃、周囲の意見に惑わされやすい両親は一人っ子の難しさを説かれ、年齢的にノラの妊娠出産が難しくなる前に第二子をつくってはと進言され、そのことをトリスターヌに問う。幼女は狂喜してその提案に賛成するが、両親は条件として(第一子の時で懲りたから)授乳、おしめ替え、子守は全部おまえがするのだぞ、と。
1978年、次女レティシア誕生。トリスターヌは一目妹を見た時から激烈な愛を抱く。それが相思相愛になるにはやや時間がかかるが、時と共に二人の愛は強固なものとなり、小説の終わり(二人とも30歳代)まで変わらぬ関係となっている。
小説は二つの相反する"愛”という構図をとっている。一方にノラとフローランという時間を超えた純朴な愛があるが、それは二人に独占的であり、排他的であり、閉鎖的である。それに対してトリスターヌとレティシアの愛は開かれていて、周囲と反応作用を起こしながら拡がっていく。その影響でどんどん”良くなって”いくのが、叔母のボベットとその娘コゼットである。特に後者はトリスターヌ/レティシア姉妹と絶妙のトリオを形成した時期もあったのだが、拒食症で非業の最後を遂げる。コゼットの死と最後まで関わったトリスターヌ(実はその死に至らしめる最後の”一撃”はコゼットの最後の嘆願でトリスターヌが与えている)は、死後冥界にいるコゼットと交信できるようになり、気立てはいいが出来の悪い粗野な娘だったコゼットは死後トリスターヌの第一の相談役という地位に昇格する(この小説のシナリオ上、一番弱いエピソードだと私は思う)。
さて両親との約束通り新生児レティシアの育児の世話全般をりっぱに担ったトリスターヌは、二人の子供の存在にまったく頓着せずいちゃいちゃ恋愛を続ける両親をよそに、家庭内に姉妹だけの夢の空間を構築していく。例えばノラは仕事に出かける前に、子供部屋のテレビをつけっぱなしにて行く。子供たちが寂しくならないようにという配慮からであるが、トリスターヌとレティシアはそんなものを必要としないし、トリスターヌが次々に考案する創造的な”遊び”の数々は限りない。姉は母が出て行ったあとテレビをすぐに消し、また母が帰宅する頃を見計ってテレビのスイッチを入れる。こういう家庭に波風を立てない心配りまでできる幼女であったが、これを両親は知るよしもない。
レティシアとトリスターヌの違いは瞳の輝きである。レティシアは生まれながらにして輝きをそなえた娘だった。トリスターヌもこの輝きを熱愛するのだが、それにひきかえトリスターヌは(メガネということだけでなく)人を惹きつけるものがない。一度話をして知り合った人たち(子供も大人も)はトリスターヌの魅力に気がつくのだが、パッと見では誰もトリスターヌに寄り付かない。これを幼いトリスターヌは気にかけていたのだが、ある日、両親が言ってはいけないことを言ったのを聞いてしまう。(p71)
トリスターヌが4歳を過ぎた頃、周囲の意見に惑わされやすい両親は一人っ子の難しさを説かれ、年齢的にノラの妊娠出産が難しくなる前に第二子をつくってはと進言され、そのことをトリスターヌに問う。幼女は狂喜してその提案に賛成するが、両親は条件として(第一子の時で懲りたから)授乳、おしめ替え、子守は全部おまえがするのだぞ、と。
1978年、次女レティシア誕生。トリスターヌは一目妹を見た時から激烈な愛を抱く。それが相思相愛になるにはやや時間がかかるが、時と共に二人の愛は強固なものとなり、小説の終わり(二人とも30歳代)まで変わらぬ関係となっている。
小説は二つの相反する"愛”という構図をとっている。一方にノラとフローランという時間を超えた純朴な愛があるが、それは二人に独占的であり、排他的であり、閉鎖的である。それに対してトリスターヌとレティシアの愛は開かれていて、周囲と反応作用を起こしながら拡がっていく。その影響でどんどん”良くなって”いくのが、叔母のボベットとその娘コゼットである。特に後者はトリスターヌ/レティシア姉妹と絶妙のトリオを形成した時期もあったのだが、拒食症で非業の最後を遂げる。コゼットの死と最後まで関わったトリスターヌ(実はその死に至らしめる最後の”一撃”はコゼットの最後の嘆願でトリスターヌが与えている)は、死後冥界にいるコゼットと交信できるようになり、気立てはいいが出来の悪い粗野な娘だったコゼットは死後トリスターヌの第一の相談役という地位に昇格する(この小説のシナリオ上、一番弱いエピソードだと私は思う)。
さて両親との約束通り新生児レティシアの育児の世話全般をりっぱに担ったトリスターヌは、二人の子供の存在にまったく頓着せずいちゃいちゃ恋愛を続ける両親をよそに、家庭内に姉妹だけの夢の空間を構築していく。例えばノラは仕事に出かける前に、子供部屋のテレビをつけっぱなしにて行く。子供たちが寂しくならないようにという配慮からであるが、トリスターヌとレティシアはそんなものを必要としないし、トリスターヌが次々に考案する創造的な”遊び”の数々は限りない。姉は母が出て行ったあとテレビをすぐに消し、また母が帰宅する頃を見計ってテレビのスイッチを入れる。こういう家庭に波風を立てない心配りまでできる幼女であったが、これを両親は知るよしもない。
レティシアとトリスターヌの違いは瞳の輝きである。レティシアは生まれながらにして輝きをそなえた娘だった。トリスターヌもこの輝きを熱愛するのだが、それにひきかえトリスターヌは(メガネということだけでなく)人を惹きつけるものがない。一度話をして知り合った人たち(子供も大人も)はトリスターヌの魅力に気がつくのだが、パッと見では誰もトリスターヌに寄り付かない。これを幼いトリスターヌは気にかけていたのだが、ある日、両親が言ってはいけないことを言ったのを聞いてしまう。(p71)
彼女は壁越しに両親が話し合っているのを聞いてしまった:「トリスターヌがあまりきれいじゃないのは残念ね」と母は言った。「どうしてそう思うんだい?あの娘はとてもきれいだよ。繊細だし顔立ちも髪の毛もきれいだし、メガネはよく似合っているよ」「あなたの言うとおりね。私の言い方が間違っていたわ」「一体何が問題なんだい?」ノラはたっぷり時間をとったあとこう断言した。「艶のない少女なのよ」「全然そんなことないよ。あの娘は優秀だし、魅力的だよ...」「それは知ってるわ。あの娘をよく知ったら、とても非凡な娘ってわかるわ。でもそれは外見ではわからない。あの娘は精彩のない少女に見えるのよ」
原文:"C'est une petite fille terne" = 艶のない少女。 形容詞terne(テルヌ)は、私のスタンダード仏和辞典では「艶のない、曇った、(色が)くすんだ、生彩のない、(生活などが)陰鬱な、味気ない、(人が)ぱっとしない」といった訳語が出てくる。残酷な形容詞である。これを母親のノラが断定的に言い切ったのだ。トリスターヌはこの時から"terne"という形容詞が重い重い重い十字架となって一生引きずることになる。
小説はエゴイストな両親との衝突を避けるよう気を配りながらも、自立/独立の方向に進んでいく幼い姉妹の成長とユートピア建設が描かれていく。並外れたインテリジェンスを持ったトリスターヌの穏便策とは対照的に美貌と際立つ個性を身につけたレティシアはわずか8歳でロック・ミュージック(ハードロック系)に目覚め、ギターを習得し、ロック・トリオ Les Pneus(レ・プヌー、意味はタイヤ)を結成し、ベルシー(現在の名称:アコール・アレナ Accord Arena)を満杯にするバンドを目指すというのである。初代メンバーはレティシア(リーダー/ギター/リードボーカル)、コゼット(ドラムス)、トリスターヌ(ベース)。このパワーロックトリオの変遷もなかなか読ませるものがある。早くから自分の人生はロックしかないと決めたレティシアの突き進みがいい。一旦はベーシストにおさまったものの、自分の人生をロックとはとても思えないトリスターヌは、両親の嫌がらせをはねのけて、"Très bien"メンションつきでバカロレアに合格し、(親から出資ゼロでも構わないように)無返済奨学金を取得、パリ大ソルボンヌ校へ。トリスターヌの離脱、コゼットの死、メンバーチェンジを繰り返すがメンバー同士の恋愛トラブル(これも可笑しい)などを克服して、レ・プヌーは(人気バンドではないが)実力派バンドとして成長していく。
大きな主題として、トリスターヌに刻印された「艶のない娘」の呪縛を、いかにしてトリスターヌが克服していくか、ということがあるが、その悩みの最も大きな支えとなるのが当然レティシアという妹の存在であり、次いで冥界にいるいとこのコゼット、叔母のボベットなどもいる。さらにトリスターヌが体験するさまざまな恋愛(男も女も)もいい薬になっている。聖なる姉妹愛の物語はよい塩梅で開かれた関係なのであり、それがこの小説の救いであると思う。
最後にやってくるのは、一生この長女の優越性にがまんがならなかった母親ノラとトリスターヌの落とし前なのであるが、ここでは書かないでおこう。そしてその落とし前の厄払いをしてくれるのが妹のレティシアという、よくできたお話。読まされてしまったので、大きな不満はないのであるが、綺譚得意のノトンブ、もう少しリアルに近い小説も書いてほしいと思うのは無い物ねだりか。
Amélie Nothomb "Le livre des soeurs"
Albin Michel刊 2022年8月17日 200ページ 18,90ユーロ
カストール爺の採点:★★☆☆☆
(↓)出版社アルバン・ミッシェル制作の著者自身による作品紹介プロモーションヴィデオ。
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