2023年11月29日水曜日

そして宴は続くのだ

"Et la fête continue !"
『そして宴は続く!』


2023年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ロバンソン・ステヴナン、ローラ・ネイマルク
フランスでの公開:2023年11月15日


2021年『ツイスト・ア・バマコ』というゲディギアン初の海外ロケ映画 にして初の”非マルセイユ”映画に続いて、ゲディギアンはマルセイユに帰ってきた。これが23作めの長編映画。冒頭は(実際に起こった)マルセイユ旧市街オーバーニュ通りの老朽建物倒壊事件(2018年11月5日)の映像。死者8人、負傷者多数、避難を余儀なくされた人々約1500人。21世紀のマルセイユにあって過度に進んだ老朽化による倒壊の危険性を知りながら何もしなかった行政。この悲劇があってからやっと危険建築の徹底調査が始まる。怒りと悲しみ。いろいろなことが立ち行かなくなっているマルセイユ。
  このオーバーニュ通りの倒壊事故現場のすぐ前に、古代ギリシャ詩人ホメロス(紀元前8世紀)の胸像柱(19世紀の彫刻家エティエンヌ・ダントワーヌ作)が立っていて、根元から泉水が出、フォンテーヌ・ドメール(Fontaine d'Homère = ホメロスの泉)と呼ばれている。この泉の広場が、この建物倒壊の悲劇を記憶するために「11月5日広場」と改名され、毎年11月5日には地域住民によって慰霊イヴェントが開かれる。なぜマルセイユにホメロスか、と言うとマルセイユは紀元前6世紀にギリシャの小民族ポカイア人( 仏語でphocéen)が植民市として建設したマッシリアを起源としていることに由来する。映画の主人公で未亡人のローザ(演アリアーヌ・アスカリード)の一家はオリジンがアルメニア(監督ロベール・ゲディギアンのオリジンでもある)という設定で、長男のサルキス(演ロバンソン・ステヴナン)は医学博士号を持つ身で「ヌーヴェル・アルメニー(新アルメニア)」という在マルセイユのアルメニア出身者の溜まり場的ビストロ・バーのパトロン(マスター)になっていて、客たちに「マルセイユはギリシャ人ではなくアルメニア人が作った」という自説を吹聴する。次男のミナス(演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)はコロナ禍以来第一線の病院救急科医師であり、ナゴルノ・カラバフ地域でのアゼルバイジャンによるアルメニア人排斥(民族浄化)紛争に心を痛め、現地に飛んで救援医療活動を強く希望するが妻の反対で踏みとどまっている。ローザの弟のアントニオ(演ジェラール・メイラン)はマルセイユ最後のコミュニストを自認する元闘士で、自分の家屋を使って住宅問題被害者を保護する”ひとり”ボランティア活動をしていて、その間借り人のひとりが若いレティシアという黒人看護婦(演アリシア・ダ・ルス・ゴメス、前作『ツイスト・ア・バマコ』の主演女優、すばらしい!)で、病院で古参婦長ローザの下で働いている。ローザとアントニオの死んだ父親はマルセイユで戦時中レジスタンスで戦った理想に燃えた共産主義者で、二人の子供にその理想を継がせるべく、娘の名をローザ(ローザ・ルクセンブルクに因む)、息子の名をアントニオ(アントニオ・グラムシに因む)としたのだそうだ。映画中、ローザの夢枕に父親が現れ、ローザが幼い頃、選挙の夜に父親のオートバイの背にまたがり、選挙投票所を回って開票結果をいち早く知り、共産党議席数を数えて夜を明かすという回想シーンがある。これはローザとアントニオに共通する共産党ノスタルジー。なぜならもうマルセイユには共産党議席などないに等しいようなさまなのである。
 1995年から25年もの長い間続いていた保守市政(市長ジャン=クロード・ゴーダン)を2020年の地方選挙で破り、左派連立市政(市長ミッシェル・リュビオラ→ブノワ・ペイヤン)が誕生して現在に至るが、”左派連立”(エコロジスト、ソーシャリスト、左翼「不服従のフランス」、コミュニスト...)共闘の不協和音は徐々に大きくなり、空中分解の可能性もある。(左派共闘の分裂傾向は国政レベルではもっと顕著であり、市民の幻滅感は日増しに高まりつつある → 極右に票が流れる。それはそれ)。長い看護婦業(近く定年退職)のかたわら、長く地域住民活動に関わり、人望も厚く、次の区議選に左派比例代表グループのトップとして立候補を推されているローザだが、頭の痛い問題はまさにその左派各派の足の引っ張り合い。選挙対策合同会議のたびにローザはことの難しさに追い込まれ、立候補を断念すべきか悩んでいる。
 土地っ子ではないが、マルセイユを愛し、住民たちの間に入ってその地域活動を支えてアクティヴに動き回る若い女性アリス(演ローラ・ネイマルク)は、アマチュア合唱のコーチ/指揮(歌っている曲がアルメニア系フランス人アズナヴールの"Emmenez-moi = 邦題「世界の果てに」"という難民流謫の歌であるというのがミソ)をしながら、来るべき11月5日の建物倒壊慰霊イヴェントの準備をしている。この一人娘のことが心配で、パリ圏からアリスの父親で寡夫のアンリ(演ジャン=ピエール・ダルーサン)がマルセイユにやってきてホテルに長期滞在して娘の動向を近くから見守っているが、これがアリスには鬱陶しくてしかたない。アンリは退職した本屋の親父で、妻と死別してからアリスの面倒をよく見てやれなかったという後悔があり、それを退職後の今になって挽回しようとしている。アリスと恋仲でほぼ結婚するであろうことが決まっている相手が、ローザの長男サルキスである。ローザもアリスのことを住民活動絡みでよく知っていて、とても好感を持っているのではあるが... 。
 アリスの市民アマチュアコーラス団の発表会が地区の教会で開かれ、その客席にそれとは知らず隣り合わせたのがローザとアンリ。仮にサルキスとアリスが結ばれれば親戚関係となる寡婦と寡夫の二人、ローザとアンリは時を待たずして老いらくの恋に落ちる。いいなぁ。ローザはこのセンセーションを自分の中だけに抑えることができずに、次男ミナスに(もう何十年ぶりかのことのように)「私セックスしたのよ」と告白する。いいなぁ。

 今回のジャン=ピエール・ダルーサン演じるアンリという役どころは、元本屋の博識”知恵ぶくろ”で、ローザの”政治的”悩みにも、アリスの”文化的”悩みにも相談役ご意見役になれる長屋の御隠居的重みがある。マルセイユには新座ものでありながら、いつのまにかローザの大家族的グループの上座に座っている。それが映画ポスターにもなっているマルセイユのカランクでの海浜ピクニックのシーンであり、ローザの弟アントニオとその間借り人レティシア(いつのまにか父娘のような親密な友情で結ばれている)を含むローザを要とする複合大家族が陽光の下でユートピックな共同体となって至福の瞬間を過ごしている。
 種々の問題を抱え、日々生きづらくなっていっているマルセイユにあって、この共同体は義侠の人々である。一連のゲディギアン映画の流れにあってはこの共同体はあらゆる試練に打ち勝つお約束ごとになっているのではあるが、本作の前のマルセイユ映画『グロリア・ムンディ』(2019年)では同じマルセイユの複合大家族でも、21世紀型新リベラル資本主義に翻弄され、底辺で蠢きながらも誰も(家族であっても)助け合えない悲惨が描かれ、ゲディギアン映画史上最もペシミスティックな作品となっていた。その反動かこの新作は累積された問題はあれどもポジティヴでオプティミスティックな人々の姿に救われる。
 医療現場でコロナ禍の前も後も同じ過酷な人手不足環境で働く看護婦レティシアは、もはや過労バーンアウト寸前のところまで来ているとローザに退職の意思を伝える。考え抜いた末のこととは知りながらもローザは「考え直しなさい、世界はあなたのような人を必要としているの(Le monde a besoin de toi)」と。病院で、学校で、地域住民団体で、困窮者支援の現場で、あの住民たちを住まわせたまま倒壊した老朽住宅の悲劇に衝撃を受け、われわれは行動し続けなければならないと心を新たにしたマルセイユの人たちがいる。アルメニア/アゼルバイジャンで起こっていることに心を痛め、人道活動の手助けをしたいと切望するマルセイユの人たちがいる。分断された地域の人々の心を繋ぎ合わせるのはアートであると、演劇、音楽、造形芸術などに人々を誘うマルセイユの人たちがいる。こんなマルセイユで、なぜ”左派連合”は勢力争いばかりするのか? ー これがローザの最大の悩みであり、アンリの目の前で(選挙活動の)サジを投げる寸前のところまで至ってしまうが....。
 建物倒壊事故からX年後、11月5日広場での慰霊イヴェントでのスピーチを準備しながら煮詰まってしまったアリスにインスピレーションを与える父アンリ。さすがの博識。あの事故の時最も近くにいた証人は誰か? ー そこにいるホメロスだ。ホメロスは盲人だった。だからホメロスはすべてを聴いていた。建物が崩れ落ちる音も、人々の悲鳴も断末魔の叫びもみな聴いていた。ホメロスならばこの悲劇をどのような叙事詩として書き残すだろうか、それを考えればスピーチは出来上がりだ...、と。ー そしてそのアリスの書いた”叙事詩”が、イヴェント当日に11月5日広場を囲む四方の建物の窓から複数の朗読者によってメガホンで読まれるという、胸に迫る感動的なシーンが実現する。これがこの映画のマジック。
 そのアリスにも重大な悩みがあり、サルキスとの将来に暗い影を感じている。それはサルキスの強い子孫願望であり、アルメニアの血を継いでほしいという一種の”アイデンティティー”思想であった。たくさんの子が欲しい(←勝手なマッチズムにすぎない)。ところがアリスは子供を授かることができない体になっていた。これをサルキスに告白することができないでいる。このことが知られたらこの幸福は終わる、と。さあ、これはどのように止揚されるでしょうか(と、古いコミュニストのように言ってみましたが)....。

 Et la fête continue! (そして宴は続く!)。さまざまな幻滅や小競り合いを経ても、われわれは祭りを続けていくだろう。そのためにはローザ(やアントニオ)のような不屈の人やアンリのような知恵袋の人が必要だし、この年寄り(60代で現役、恋に燃えたりもする)たちに続く人たちも要る。われわれは続けなければならないけれど、それは苦役ではなく、宴であり、踊りの輪である。オプティミスムを失ってはいけない。昔も今もマルセイユ下町は人情ものが似合う風景である。ありがとう、マルセイユ。

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)『そして宴は続く!』予告編


(↓)重要な挿入歌シャルル・アズナヴール「世界の果てに Emmenez-moi」(1968年)

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