2023年11月14日火曜日

病める時も健やかなる時も

François Bégaudeau "L'amour"
フランソワ・ベゴドー『愛』


 『壁の中で(Entre les murs)』(2006年)のフランソワ・ベゴドーは小説・随筆を問わず多作家であるが、この最新小説は久しぶりに書店ベストセラー上位にのぼる話題作となった。90ページの短さ。大上段なタイトル。愛とは何か、と構えているわけではない。誰も書いたことのないある特別な愛を描いた小説でもない。本の裏表紙に著者の言葉としてこう明言されている:
私はほとんどの時代にほとんどの人々によって体験されたであろう(危機も事件もない)愛をあるがままに描きたかったのだ。
つまりあちらにもこちらにもある波風がなく長い間寄り添って生きられた男女の生きざまについて書かれた小説なのである。「平凡な」「フツーの」と形容される種類のカップル。それはがまぶしく冠された小説タイトルである「愛」という言葉でわれわれなら形容しない、どこにもいるような市井の男女の同居し共有した長い年月のことなのである。
 私事を挟んで失礼。私は20世紀半ばに東北の奥まったところで生を受け18歳まで生活したが、その十代の目で観察してみて、この地方の環境にあって大人たち男女の”つがい”というのは、愛が結びつけたものではない、という絶望的確信があった。それは生きていく"なりゆき"で結びついたもので、その属する社会が円滑に機能するために、世の中は昔からそういう仕組みになっているのだからという流れを持続するために、所帯を持ち、子をつくり育て、という”人となり”のことをして歳を取り、人生を全うするプロセスであった、という範疇を出ない。私は少年の目なりに、それは愛ではない、と見ていたばかりか、私の知るこの地方環境では”愛”というボキャブラリーは存在しないのだ、と思っていた。愛とは絵空事であり、文学や映画の中のことであり、自分の環境にはあるはずのないものであった。家庭内で愛を語ろうとすればおまえ気が違ったかと言われただろう。地方の子であったから、大都会にはあるのかな?という愚考もないではなかった。この小説はカップルの関係を愛と名状することが意味をなさない地方の環境が描かれ、それがまず第一に私がよく知っている世界だ、と思わせたのである。だが、それはどこでもそうなのだ、という話に落ち着くのだが。
 
 小説の始点は1970年代初頭の西部フランス、ロワール地方の田舎町である。父をインドシナ戦争で失ったジャンヌは、公共施設の清掃員として働く母を助け、自らも田舎ホテルのフロント係として(夜勤ありの)不規則な時間帯で働いている。母が町の体育館の清掃の担当の日、ジャンヌはその手伝いに駆り出され、そこで練習する町のバスケットボールチームのスター選手ピエトロに勝手な妄想の片思いを抱き、将来ピエトロと庭付きの家で暮らすことを夢想する。ある日ジャンヌの務める田舎ホテルのフロントにこの長身イケメンのバスケット選手が現れ、予約で満室のところなんとか一部屋工面してくれないか、と。ジャンヌはまさかの申し出に心ときめかせ、雇い主にクビにされることを覚悟で宿帳を細工し、部屋の鍵をピエトロに渡し、そのお呼びがかかるのを待っている。そこへ、町の獣医病院の派手な若奥様がやってきて、ムッシュー某の部屋は?と。小さい町のことで、誰もが誰もを知っている世界、これは内密にと言われてもすぐにバレる火遊び。ジャンヌの”庭付きの家”幻想はあっけなく消えるのだが、この”よくある話”パターンがこの小説を支配するトーンである。”よくある話”に頓着しない人々がこの世界の住人であり、この地方からめったに外に出ることがなく、この風景の中で生きて朽ちていくことをフツーと思っている。そしてなりゆきで伴侶になってしまう人間も”よくある話”のように現れてしまう。
 ジャンヌがフロント係をしているホテルに改装工事業者として出入りする自営左官職人ジェラール・モローは、息子ジャックに家業を継がせるべく工事に徒弟として同行させるが、近い将来においてこの種の自営職は需要がなくなりジャックは別職を探さざるをえなくなる。何の取り柄もない若者だが、ガキの時分からプラモ(軍用機、 戦車、軍艦、ロケット...タミヤ模型オタク)が趣味で組み立て、丁寧に塗装して、陳列棚にコレクションしていく。これは一生続くのだが、その増え続けるコレクションの置き場所に苦情を言われることはあれ、誰もそれを評価してくれるわけではない。私のレコード・CDも同じだが、それはそれ。かのイケメンのバスケ選手がホテルで”ご休憩”を楽しもうというのに改装工事の騒音がうるさすぎる、とジャンヌに苦情を言う。ジャンヌは改装業者親子にもう少し静かにやってくれないか、とご機嫌とりにホテルのバーからドリンクをちょろまかして振る舞ってやる。こうしてモロー家とジャンヌは知り合い、懇意になっていく。そしてよくあるなりゆきのように、かのイケメンバスケ選手と同じように、宿泊チェックイン前の客室でジャックとジャンヌは”ご休憩”を楽しむようになってしまう。これがジャンヌとジャックの50年以上にわたる寄り添いの始まりである。
 父ジェラールの自営左官屋が立ち行かなくなり、ジャックは食うために軍隊志願を考える(産業のない地方の”学のない”男子の重要選択肢)のだが、父をそれで失ったジャンヌの反対の功あって、町の緑地管理課の作業員という”公務員”職に籍を得る。多くの地方の男たちのなりゆきのようにこれがジャックの一生の職になるのである。ジャンヌはフロント係という不規則な仕事にケリをつけ、その後は田舎町のおねえさん/おばさんに出来る仕事を転々とし、一生の仕事などないがアクティヴな給金取りとして...。
 結婚、出産、両方の親の世話、死別、飼い犬の代替わり.... 小説の時間の流れはテンポ良く進んでいく。乗っている車の車種がどんどん代わり、吸うタバコの銘柄も代わり(地方人は老いも若きもフツーにスモーカーである)、テレビや流行り歌の移り変わり、留守番電話→ノキア→ブラックベリー→スマホ、そんな背景や小道具の変化で読者は今どんな時代なのかを知ることになる。このベゴドーの”コマ送り”は見事であり、世のうつろいは読者の中でイメージ化される。この時間はあっと言う間なのである。世の50年間寄り添ったカップルたちに聞いてみたらいい、この50年はあっと言う間だった、と答えるだろう。これがフツーのなりゆきなのである。
 ジャックはフツーに髪の毛を失い、フツーに太鼓腹になり、フツーに昇進して緑地管理課の管理職になり、フツーに親子3人で食えるようになるが、そのいびきに耐えきれずジャンヌは夫婦の寝室から出て、寄宿学校で不在の息子ダニエルの部屋のベッドで眠るようになる。いびきだけではない。ジャンヌには我慢がならないジャックの悪癖がたくさんあり、それは口に出して言ってみてもどうしようもない。ジャックはジャックでジャンヌの態度や行動で理解しがたいことがたくさんあるが、それはどうしようもない。それが理由で(よくフランスの映画で見るような)食器が飛び交う大げんかになることなど一度もない。ジャックにはガキの時分からの腐れ縁のダチ、フレデリックがいて、小さな問題を抱えて寄ってくるダチにはジャックは面倒見がいい。ジャックはジャンヌの誕生日や結婚記念日には小さな贈り物を欠かさない。その40歳プレゼントに、ジャンヌがファンだとわかっているが、自分はどうでもいいイタリア人熱唱歌手リカルド・コッチャンテ(フランスでは”リシャール・コッシアント”と呼ばれ、ジャックは”イタリアの醜男”と呼ぶ)のナントでのコンサートに招待するくだりはなんとも可愛らしい。
 波風が全くないわけではなく、小さな波風は恒常的にあり、おたがいぶつぶつ言うことは通奏低音である。これではフツー小説にならない。波乱とドラマティックな上昇と下降の展開がない。ながいこと一緒にいるというのは文学的ではない。だがこのベゴドーの描く日々の機微は読ませる。
 そんな中で65ページめで、やっと小さな波乱が登場する。いつ頃のことかはジャンヌが記憶していない。おそらく記憶したくない。台所でりんごのタルトを準備している(手にはりんごの皮剥きの包丁が)。家の前に一台のBMWが停車し、中からスーツ姿の若い婦人(ジャンヌよりは10歳は若そうに見える)が降りてきて、勝手口をノックする。ジャンヌはエホバの証人の勧誘だと想像する。エプロン姿で包丁を手にしたまま、ニコルと名乗る女を台所に引き入れる。水を一杯いただきたいと女は言う。水を飲み終えやっと言葉を取り戻した女は、私は5年間胸に悶々と詰まっていたことを吐き出しに来た、と。そして5年前の冬(ほぼひと冬を通して)彼女はジャックと関係があったと告白。
その関係はニコルが妊娠したとわかった時点で終わった。その子の父親が誰なのかを知ることもなく。
ー 私には夫がいます
ー 私にもいるわよ
ー 私が言いたいのは私は夫とも性関係があったということです
ー 私にはないわよ
そして身篭った子を中絶してその関係は終止符を打つのだが、ニコルはそのことをずっと申し訳なく自分が恥ずかしいと思っていたと言うのだ。彼女曰く、ジャックもそれを心から申し訳なく思っていた、と。その上ニコルが最後にジャックに会った時、ジャックは愛する女性はひとりしかいない、他の誰も愛せない、と言ったというのだ。
ー それは誰のことだったのよ?
ー あなたですよ

5年間詰まっていた重い重い荷物を女は吐き出し、その重い重い荷物はすべてジャンヌに乗り移ったのである。このディアローグの間、ジャンヌはりんご皮剥きの包丁をずっと手にしたままなのだ。ここのベゴドーのパッセージはこの包丁がいつ凶器に変わるかという契機をほのめかすサスペンス感、ほんとうにうまい。
 帰宅して何事もなかったかのように、焼き上がったりんごタルトを賞味するジャック。ジャンヌは受け取ったこの重い重い荷物に、何か返さねば気がすまないではないか。次の日曜日、テレビの週末スポーツまとめを見ながらくつろぐジャックに、ジャンヌはおもむろに淡々と保険代理店の秘書をしていた時にその所長と関係があった、と告げるのである。ジャックは何も言えない。「私があんたの立場だったらどなるところだけどね」と挑発する。「俺がおまえをどなるって?」としか言えないジャック。こういう問題だけでなく普段でも思っていることをはっきり言えない口下手なジャックだということをジャンヌは見透かしている。これでおあいこだ、とジャンヌは思う。夜遅く、パジャマ姿になってジャックはぼそっと言う「俺も愚かなことをしたことがある」。ジャンヌは驚いたふりをして「それはいつのこと?」と尋ねる。「ずいぶん昔のことさ」とジャックは答えるが、心の中でジャンヌは”5年前とはずいぶん昔のことなのか”と突っ込みたくなるが、あえてしない...。
 この小説で唯一の波乱であるこの二人の”不倫”疑惑の箇所は、実に味わい深い。フランス語で言わせてもらえば、実に "savoureux"だ。そしてジャックはこのことを一生気に留め続けるのだ。ここでこの小説の言わんとする”愛”というなんとも味わい深いものが浮かび上がってくる。
 結婚式の時に御託のように読み上げてしまう「病める時も健やかなる時も」をこの二人はやり遂げて50年後にその晩期を迎える。ジャンヌの頭に腫瘍ができ、それを取り除く手術のあと、目覚めるはずのジャンヌはなかなか目覚めない。病院近くのホテルを数度延泊して病室に通っていたジャックは、ほどなく病室に寝泊りするようになり、意識の戻りを待ってさまざまなことを話かけ続ける。泣ける。その努力にもかかわらず、ジャンヌは先に行ってしまう。
 葬儀のあと、ジャックはそのプラモ細工のアトリエに篭り、プラモを作り続ける。ある日そのアトリエの椅子にジャンヌが棺桶に入っていた時のピンク色のドレスで座っている。

ー 食事はしたのか? 俺が何か作ってやるよ。
ー あなたこそ食べなきゃだめよ、ひどくやせっぽちになっちゃって。
ー 俺がやせたらおまえ満足だろ。
ー 私はあんたの出っ張ったお腹が好きだったのよ。
その履物は彼女のために彼が病院に持って行ったものだったが、彼女はそれを一度として履くことができなかったものだ。彼は立って靴箱まで行って彼女の靴を探して持って来てやりたかったが、なにかの圧力が彼をその合皮椅子に抑えつけた。
ー あの保険代理店長とのこと、あれはウソだったんだろ?
ー 本当なわけないじゃないの。
ー どうであれ、何も変わらないさ。
ー ええ、何も変わらないわ。
 このジャンヌの「お迎え」を受けて、ジャックも旅立っていく...。
 時代は移り、世界は変わっても、フランスの田舎でどこにも動かずに静かに目立たずに寄り添って生きた二人。一人息子はフランスのみならず、世界をまたにかけて仕事をし、今は3人の孫と韓国ソウルで暮らしている。かの不倫疑惑を除いては波乱もなく、周りの人たちと同じように楽しみ、同じように伴侶に不満を抱きながら生きた50年の年代記、これはフツー文学になり得ないものであろうが、ベゴドーの名調子はその逆を証明してしまう。あんたたちがどう言おうが、これは”愛”である。

François Bégaudeau "L'amour"
Editions Verticales刊 2023年8月17日 90ページ 14.50ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ボルドーの独立系書店Mollat制作の動画で自著『L'Amour(愛)』を語るフランソワ・ベゴドー

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