2020年7月24日金曜日

父親は何で動いているの? Comment ça marche, un père ?

これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2005年4月に掲載された記事の加筆修正再録です。

Marie Nimier "La Reine du Silience"
マリー・ニミエ『沈黙の女王』

(ガリマール刊 2004年8月)

 2004年メディシス賞作品である。
マリー・ニミエ(1957 - ) は既に8篇の小説を発表しているが、前作『ヌーヴェル・ポルノグラフィー』(2000年)は日本語訳も刊行され、この1作だけを取れば、軽妙でコミカルな文体の新人女流作家と思われたかもしれない。またマリー・ニミエは、ジュリエット・グレコ、ナナ・ムスクーリ、ジョニー・アリデイなどに歌詞を提供していて、シャンソン関連でも知られている。この小説でも小さく触れられているが、彼女自身が音楽アーチストだった時期もある。
 しかし結局音楽ではものにならず、マリー・ニミエは28歳で作家になった。本名で作家になったのだから、当初は「あのニミエの娘」と散々言われたであろう。”あのニミエ”と言われても、日本ではほとんどの人がピンと来ないだろう。マリーの父、ロジェ・ニミエ(1925-1962)はフランスの戦後作家であり、サルトル等のアンガージュマン文学と真っ向から対立する、”主義・思想”に対する生理的な拒否感をあからさまにした若い保守系の作家群「騎兵隊派(Les Hussards)」(アントワーヌ・ブロンダン、ジャック・ローラン、ミッシェル・デオン...)
の一人で、代表作は『青い騎兵隊』と『ぼくの剣』で、共に国書刊行会から邦訳が出ている。だがしかし、ロジェ・ニミエは日本では作家としてよりも、ルイ・マル(1932-1995)監督の記念碑的映画作品『死刑台のエレベーター』の脚本家として知られているようであり、インターネットの日本語サーチエンジンで「ロジェ・ニミエ」と検索すると、ほとんどが「死刑台のエレベーター」との関連であった。そのニミエは29歳で小説家としての創作活動を止め、36歳で自動車事故で他界している。
 マリー・ニミエのこの作品は、彼女が5歳の時に事故死した父のロジェの死の真実と、記憶に残っていない生前の父と自分の関係を40年後になぞっていく検証の記録である。ロジェ・ニミエの自家用車アストン・マーチンDB4は、パリから数キロ離れた国道上でコントロールを失い、陸橋のガードレールに激突する。車内には二人。ロジェ・ニミエと27歳の美しい新人女流作家サンシアレ・ド・ラルコーヌ(Sunsiaré de Larcône)が乗っていて、共に即死。この女流作家は父の力添えがあってガリマール書店から処女作品を出版することになっていた。いったいなぜここにこの女性がいたのか、彼女の父の関係はどういうものだったのか、そしてアストン・マーチンのハンドルを握っていたのは父なのか彼女なのか...。
 この事故当時5歳だったマリーはもう何ヶ月も父の姿を見ていない。普段から不在の父であり、家庭を顧みない父であった。スポーツカーと若く美しい女性は彼のごく日常的なアクセサリーであった。戦後無頼派作家のステロタイプである「騎兵隊派」のスタイルとは「夢想家であり人生を優美さで捉え、女性たちを腕ずくで捕らえる兵士」であるとマリー・ニミエが引用している。これでは石原慎太郎・太陽族ではないか。ロジェ・ニミエは29歳で作家としての筆を折り、論壇を舞台に保守の論客として専ら左翼・左派に毒づき、王党派を自認し、セリーヌを全面的に擁護する態度は、さぞスタイリッシュであったであろうと想像する。
 王党派の父親は娘の名に「マリー」、2つめの名に「アントワネット」とつける。断頭台の露と消えた女王の名前である。それに加えて「沈黙の女王 La reine du silence」というあだ名が与えられる。5歳の童女に父親は解読不可能ななぞなぞを出す:「沈黙の女王は何を言う?」。童女はこの難題のために身動きが取れなくなってしまう。話すことができない女王は何が言えるのか。このあだ名に込められたのは父親の愛情なのかそれども悪意なのか。その答は遂に得られることがなく、父親は死んでしまった。
 小説は父親に関して40年間身動きが取れず、直視する勇気を持てなかった娘が、ひとつひとつその封印を解いていくかたちで進行する。事故車に同乗して死んだサンシアレ・ド・レルコームの息子に会ったり、兄と義理の兄が事故について知っていることを聞き出しに行ったり、当時の新聞雑誌を漁ったりして、父の死に関するあらゆる証言を収集していく。そして調査が進むにつれて、父親の実像というのは(残酷にも)愛すべき父親のイメージからどんどん遠ざかっていくのである。
 核となっている問題はひとつ、「私」は父親に愛された子供であったか、ということである。少女マリーはルイ=フェルディナン・セリーヌの膝の上に抱っこされた写真はあっても、父親と一緒に映った写真は一枚もないのである。幼い記憶の中で、ひとりでままごと遊びをしている部屋の隣の書斎で父親は書き仕事をしている。ままごとの少女は作った料理(プラスチック樹脂の皿)を父親のデスクに届ける。あとで見るとそのプラスチック皿は灰皿として使われたのち、タバコの燃えかすと共にゴミ籠の中に捨てられている。
 そして競売に出されていたロジェ・ニミエの自筆書簡集の中から、マリーが生まれた次の日に書かれた、その誕生に直接的にコメントする世にも毒々しい手紙を見つけてしまったのである。「ナディーヌが昨日女児を出産した。私はそのことに関知したくないものだから、即座にセーヌ川に捨てて溺死させる」。「私」は誕生の時に父親から溺死することを望まれていた子供だった。
 兄にはいろいろな遺品が残されているのに、「私」には何もない。男尊女卑・女性蔑視を是とした作家は自分の娘をも沈黙の女王として封じ込めようとしていた。知れば知るほどロジェ・ニミエは「私」に悪意を抱いていたことが鮮明になってくる。一体父親とは何か、父親はどうやって機能しているのか、とマリーは問う。5年間しか触れることのできなかった父親は悪意に満ちて「私」と対座していたのだ。それをすべて知った上で、マリーは父親を許すのである。今はもう声のない父親と40年後に和解してしまうのである。
 沈黙の女王は遂に何も言わずに父親を赦し、沈黙の女王となってしまう。

 読み方はいく通りにもできると思う。これは沈黙を強いられた幼子が40年後にその殻こもりからやっと解放されていく過程の物語である。検証の過程は見たくないものばかりであるが、それは直視されなければならない。マリーが若い頃に突発的な自殺衝動にかられてセーヌに飛び込み、通りがかりの船に救われて事なきを得るが、この自殺衝動はずっと自分でも説明できないものだった。「セーヌ」「溺死」と父が自分を呪っていたことと、この自殺未遂の符号にマリーは慄然とするのである。
 閉じ込められた沈黙の女王の魂の解放は、同時に父への赦しとなるわけだが、読者はここで作家マリー・ニミエが作家ロジェ・ニミエを凌駕してしまうという、一種の復讐劇とも読めるではないか。これは"作家の娘の手記”ではなく、文学作品である。赦しという名の復讐。コンプレックスの根は深く、それがそのままこの小説の深さである。

Marie Nimier "La Reine du Silence"
Gallimard 刊  2004年8月 / Folio文庫版 2006年1月



(↓)2004年、フランス国営テレビFrance 3の番組で『沈黙の女王』について語るマリー・ニミエ。


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