2020年12月21日月曜日

The great gig in the sky

Hervé Le Tellier "L'Anomalie"
エルヴェ・ル・テリエ『異状』
2020年度ゴンクール賞


「降って湧いたような話」という日本語表現がある。これは空からとんでもないものが降ってくるのと地面からとんでもないものが噴き出るのが同時に起こるほどの予期不能な大カタストロフィーの比喩である。超大予算のパニックSF映画を想ってくださって結構だが、現実に昨今頻発する地球上の気候変動大災害はすべて降って湧いたような現象である。で、この2020年ゴンクール賞作品は降って湧いたような小説である。
 作者エルヴェ・ル・テリエは私は初めて読む作家であるが、1957年生れ、現在63歳。数学と言語学を専攻した全学問オールマイティーの碩学であることは、本書のいたるところにその片鱗がちりばめられている。私のような器からはこういう言い方しかできないが、この御仁は何でも知っている。ミクロ/マクロな科学、医学、先端テクノロジー、世界史/世界地理と民俗学、宗教(各教典の細部や枝分かれした宗派の教義)、哲学/思想、世界政治、世界経済、文化・芸能、インターネット事情... 。別の姿では詩人、ジャーナリスト(ル・モンド、シャルリー・エブド etc)、コント作家、編集者でもある。1992年からウリポ(潜在的文学工房)のメンバーとなっていて、2019年にはウリポの会長に昇進して現在に至っている。1970年代に仏文科学生だった頃の私にしてみれば、ウリポは冗談ぽい文学実験(文字外しなどのパズル化、ゲーム化、数学演算化、無限拡散化...)の最前衛グループで、仏語3年目くんは凍りついてしまって全然つきあっていなかった。この諧謔のクオリティーなど、フツーにわかるもんではない(と思う)。エルヴェ・ル・テリエがフランス最高峰の文学賞に輝いた時、「ついにウリポにゴンクール賞が」と驚く記事見出しもあったほどだ。小説を読み進めていくうちに繰り返される高尚な冗談の連続に、ああ、これが一種のウリポのノリなのか、とずいぶんと利口になった気分。難易度を高めたり低めたり、世の学問(および雑学)のすべてを駆使したハイブロウな笑いとメランコリー、これがウリポ流エルヴェ・ル・テリエの文芸と私は理解した。
 時は2021年春から夏、場所は地球(地球規模の展開)、乗客とクルー合わせて243人を乗せたエール・フランス航空AF006便(パリCDG空港発ニューヨークJFK空港行き、機長デヴィッド・マークル)ボーイング787型機は大西洋上空から北米大陸上空へ差しかかろうとした頃、巨大な積乱雲海に突入し乱気流に機体を激しく揺さぶられ千メートル高度を落とされ、機首部は雹塊によって凹むほどのダメージを受ける。乗客とクルーにとっては悪夢のような数分間となるが、やがて機は積乱雲を抜け出すことができ、無事JFK空港に到着することができた。これが2021年3月10日のこと。小説序盤にはそのフライトに乗り合わせた数人の人物のその後の動向が綴られている。プロの殺し屋のブレーク、老建築家のアンドレとそのかなり年下の愛人リュシー、ナイジェリアのポップシンガーでその3月のフライトの後で世界的ヒットを出したスリムボーイ、辣腕の黒人女性弁護士のジョアンナ、水槽に飼っているカエルを一番の宝物にしている少女ソフィア、そしてそれまでほとんど目立たなかったのにフライト後に書いた小説『異状』がカルト的な人気を博すが謎の自殺を遂げてしまう作家ヴィクトール・ミーゼル...。それぞれに違った状況で時を過ごしていたが、6月25日、死んだミーゼルと身元を追跡することが困難な殺し屋ブレークを除いて、3月10日のフライトに乗り合わせた乗客とクルー全員がFBIに身柄を拘束される。
 6月24日、JFK空港管制塔に着陸許可を求めるボーイング787型旅客機あり。大積乱雲に突入して機体にダメージありと機長が状況を説明する。便名はAF006、機長の名はデヴィッド・マークル、乗員乗客合わせて243人。管制塔は冗談であろうと疑い、機長とあらゆる秘密コードを照合するが、すべて正しいものだった。即ち、100日前にパリから飛んできてJFKに着いた旅客機が、そのまま同じ機体と同じ乗員乗客で再び空の切れ間から出現したのである。管制塔は着陸許可を出さず、ペンタゴン、ホワイトハウス、関係省庁と連絡を取り、数分もせずにことは緊急国家最重要機密案件となってしまう。機は一般空港への着陸を許されず、軍から誘導されてニュージャージー州マクガイア空軍基地に着陸させられ、乗客乗員は外部との連絡のできるものすべてを没収され、臨時の収容施設として緊急改造した基地内の巨大な格納庫に軍の厳重な監視のもとに軟禁される。
 その間に国家安全局はアメリカのノーベル賞クラスの頭脳(天文学、量子物理学、数学、化学...)から神学、哲学、密教学のエキスパートに至るまで、この現象を分析・説明できる可能性のある学者を総召集する。その飛び抜けた頭脳の持ち主の中にプリンストン大学の若き数学(確率論専攻)者エイドリアン・ミラー(なかなかとぼけたキャラ)がいて、彼を座長とする専門家会議ではさまざまな推論仮説が飛び交う。ここがこのエルヴェ・ル・テリエという作家がどれほどの碩学であるかがよく現れるパッセージで、難解SF映画のように私は頭が痛くなるのであるが。多くの推論が出尽くし、最も信憑性が高いとみなされたのが、われわれの世界というのは超々々々々々々々々... 進歩した文明の計算頭脳によって組まれたシミュレーションであり、あなたも私も含めたこの世界のすべてはプログラムにすぎない、というもの。つまりこの同じ飛行機の二度目の出現はプログラム・バグである、と。
 国はこの国家機密案件を「プロトコール42」と名付け、関係国(乗客国籍はアメリカ、フランス、中国)と大統領ホットラインで機密を共有する。時の国家指導者として習近平とエマニュエル・マクロンも実名で登場する。2021年の設定だから。ただしアメリカの大統領の名前が明記されていない。俗人ぽさはトランプ風なところもあり、最後にはミサイル発射命令を出してしまうところなど特に。国はこれを機密中の機密として扱うものの、マクガイア空軍基地に着陸させられたエール・フランス旅客機の画像など、時を待たずともインターネット上に怪情報として氾濫してしまう。
 国家安全局は最大限穏便かつ秘密裏にこの問題を収拾すべく、3日間マクガイア空軍基地に国家機密として隔離された2度目のAF006乗員乗客たち、そしてFBIによって身柄拘束された3月10日到着のAF006乗員乗客たち、姿かたち全く同一の両者を対面させて、法務上と心理上の問題を解消させて両者をこの世に同時に存在させる道をさぐる。この各々の対面シーンはこの小説の心理ドラマ的やま場であり、自我の分裂と統合がハッピーエンドになる場合(ナイジェリアのスリムボーイ)もあれば悲劇になる場合もある。
 機長デヴィッド・マークルの場合は本当に泣かせる。3月にJFKに着いた方のマークル機長はその直後、末期ガンが見つかり、痩せ細って鎮痛点滴を受けながら絶命するのであるが、6月に現れたマークル機長を迎えたその妻は、最愛の夫が100日のインターヴァルで同じように苦しみながら死ぬ姿を二度も見ることになるのである。
 そして上で少し述べた自殺した作家ヴィクトール・ミーゼルという、おそらくエルヴェ・ル・テリエの分身のような登場人物が面白い。カフカのような厭世的で不条理ユーモアを得意とするこのミーゼルという作家は、自分の作品ではなかなか喰えないので、その多言語に通じた知識を生かして翻訳業でそこそこ国際的に知られている。中でも『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット作)をクリンゴン語(スタートレックの宇宙人クリンゴン人の言語)に翻訳したという偉業がある。その翻訳の国際的な賞の受賞セレモニーのために、3月10日にパリからニューヨークに飛んだのだが、積乱雲乱気流のあと無事3月10日にJFKに着いた方のミーゼルは、その九死に一生を得たようなフライト体験にインスパイアされたのかされなかったのか、それまでとは全く作風の異なる小説『異状(L'Anomalie)』(つまり本書と同じ題名)を書き上げるのである。そしてそれを白鳥の歌として遺して謎の死(ほぼ自殺)を遂げる。この原稿を読んだ担当の女性編集者は、その例外的な文学性に驚愕し、文壇メディアを仕掛けてこの遺作を大ベストセラーにしてしまう。死してにわかにカルト化したこの作家のファンたちのおかげで旧作もすべて再版され、遺作にちなんで"LES ANOMALISTES(レ・ザノマリスト)”という名のファン組織も結成され、”偲ぶ会”イヴェントを展開した。ロプス(l'Obs)誌上で本書の書評を担当したル・テリエと同世代の作家/ジャーナリストであるジェローム・ガルサンは「私も”レ・ザノマリスト”の行動的メンバーのひとり」とその偏愛ぶりを吐露している。
 そのヴィクトール・ミーゼルの『異状(L'Anomalie)』の中の箴言のひとつとして引用されているのがこの一行:
Personne ne vit assez longtemps pour savoir à quel point personne ne s'intéresse à personne.
どれほどまでに何びとも誰にも興味を示さないことかを知るに至るまで十分に長生きする人など誰もいない
むむむ... となりませんか?
 その死んだヴィクトール・ミーゼルに代わって、6月に出現したフライトで生還したヴィクトール・ミーゼルは、当然のことながらこの傑作(遺作?)『異状(L'Anomalie)』を書いたという記憶がない。当然のことながらどのようにしてこの傑作が生まれたかを説明することもできない。ましてやどうして自殺したのかもまるでわからない。生きているのだから。知らない間に得られていた作家の名声、それについてこの6月生還ミーゼルは全然悪い気がせず、インタヴューに軽々と答え、テレビで饒舌に語ってしまう、という大変身ぶりで、カルト的ミーゼル像を作り上げた担当女性編集者をおおいに慌てさせるのである...。

 あちらが偽物、こちらが本物という葛藤もあるが、この設定ではどちらも本物なのだ。一方の影に隠れたり、別人格を持つことは困難である。SF的部分よりも、人格が剥離したり、独り立ちしていることが見える展開に文芸の巧みを確信する。この作品は読んだ者が誰でも明らかに「映画化」もしくは「連ドラ化」を想像できる小説であるが、映画(もしくは映像)にはできっこない文学のファクターがたくさんある。私には3分の1もわからない超一級の言葉の諧謔に圧倒&魅了される。最後のページでクラクラ来る。

Hervé Le Tellier "L'Anomalie"
Gallimard刊 2020年10月 330頁 20ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★ 

(↓)自著『異状 L'anomalie』について語るエルヴェ・ル・テリエ。ボルドーの独立系書店リブレーリー・モラ(Librairie Mollat)による動画。

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