2020年9月24日木曜日

直立の恋 l'amour debout (ジュリエット・グレコを悼む)


 ジュリエット・グレコ(1927-2020)

2020年9月23日、ジュリエット・グレコが93歳で亡くなった。2016年にAVC(脳卒中)発作のため、引退ツアー(tournée "Merci")を中断した時からもはや再起は望めないし、余命もいくばくか、とも言われていた。報道はされなくても、命が細くなっていくのは感じられたし、その最後と思われる2020年7月のテレラマ誌ヴェロニク・モルテーニュのインタヴューはコロナ禍という人類の滅亡を幻視させる事態の中での、1940年代から2020年まで"現役”だったアンテルプレート(interprète、代弁者、解説者、演技者、歌手...)の切れ切れの遺言だった。ジュリエット・グレコ、私たちには"サン・ジェルマン・デ・プレ"という特別な意味のある地名の代名詞であったし、私たち古くからここに住む日本人たちがいみじくもこう略して愛称した「デプレ」が、神話だった頃の歌声であった。それはフロール、リップ、ドゥー・マゴといったカフェに特別な敬意をもって珈琲一杯を飲みに入ったわれわれ「遅れてきた世代」の遠いあこがれでもあった。私が十代(1970年代前半)で、青森という田舎にいながら、サルトルだのカミュだのヴィアンだの(サガンだの)を読み、遠い遠い彼方の"サン・ジェルマン・デ・プレ”を想ったとき、たぶんジュリエット・グレコの歌はあるべきだったのに、なかった。名前だけは"神話"として知っていた。ずっと後、1990年代後半、独立して会社を作り、日本にフランス音楽を"輸出”するという仕事を本格的に始めた頃、ジェラール・メイズ(ジャン・フェラ、イザベル・オーブレ、アラン・ルプレスト... そしてジュリエット・グレコのプロデューサー)から電話があり、一緒に仕事したいという申し出でその事務所まで行った。そこに、たまたまジュリエット・グレコと(その夫)ジェラール・ジュアネストがいて、メイズが紹介してくれた。私はこのシャンソン・フランセーズのアイコンを前に緊張して、握手もできず、深々とお辞儀した。するとすでに何度も来日して日本の流儀をよく知っていたジュリエットは私に微笑んでお辞儀してくれた。これが私のジュリエット・グレコとのたった一度のコンタクトであった。
 大御所として遠い眼差しで見ていたジュリエットを、ずっと後年に急激に意識させてくれたのは、アブダル・マリックだった。それは私が中学生の時に、ジャック・ブレルを教えてくれたスコット・ウォーカーのような"間接”の衝撃的出会いだった。ジュリエット・グレコはずっと近く、とても重く自分に訴えかけるアーチストに変わり、2013年、私は最大の敬意をこめて(2013年版)『グレコ、ジャック・ブレルを歌う』のアルバムリリースに関する長い記事をラティーナ誌に書き送った。おそらくかなりコンプリートなグレコ(&ブレル)オマージュ記事だったと思っている。以下に再録して、ジュリエットへの追悼への意に代えたい。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2013年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

直立の恋 ー ジュリエット・グレコ、ジャック・ブレルを歌う

 Amour debout(アムール・ドブー:直立の恋):ジュリエット・グレコはジャック・ブレルとの間柄をこう表現した。今年2013年はブレルの35周忌に当たり、仏ユニバーサルは9月に超豪華なCD21枚組の全録音集を発表した。因みに25周忌の時の全録音集は16枚組だったので、一挙に5枚分の録音が追加されたことになる。それとは別の35周忌企画で、かのサン・ジェルマン・デ・プレのミューズが『グレコ、ブレルを歌う』と題するアルバムを1028日に発表した。グレコは1954年にブレル作の曲「悪魔(万事良好)」をレパートリーに入れ、駆け出しのブレルを世に知らしめた最初の有名歌手だった。以来、グレコはブレル楽曲を多く取り上げ、88年にはブレルのピアニスト・編曲者だったジェラール・ジュアネストと結婚もしており、ブレルとは深い関係があった。

 今度の『グレコ、ブレルを歌う』の発案は自分のものではなく、その企画の申し出に、最初は謙虚で慎重な態度だった。それでも最終的に「私は今こそブレルに彼を愛していたことを告げる時だと思ったの」(1028日付けル・モンド紙に掲載されたインタヴュー)。

 1954年、パリのクリシー広場にあった大きな映画館ゴーモン・パラスで、無名の駆け出し歌手、ジャック・ブレルは、二本立て映画の幕間に余興歌手として出演して3曲歌った。誰も歌なんか聞いていない。その2階席にジュリエット・グレコがいて、その大きな手、長い腕、長い脚、長い顔の歌手の出現に、体が固まってしまい、じっとその歌に聞き入った。その横にジャック・カネティ(ピアフ、トレネ、アズナ ヴール、グレコ、ブラッサンスなどを発掘した名プロデューサー)がいて、彼女に「ジュリエット、興味あるのかい? 彼の名前はブレル、ベルギー人だ。オー ディションするよ。一緒に見よう」と言った。
 これがジャック・ブレル(当時25歳)とジュリエット・グレコ(当時27歳)の出会いだった。ブレルは無名新人だったが、グレコは既に「サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ」であり、オランピアでショーを打ち、国際ツアーにも出ているスターだった。オーディションの末、グレコはすぐさまその1曲「悪魔(万事良好)」を「私がいただくわ!」と申し出た。「当時彼にはこの曲を成功させる手だてはなかったけれど、私にはあったの。"でも他の曲は全部あなたが歌うのよ”と私は彼に言った。彼はこのことを一生忘れなかった。この日から彼が息を引き取るまで、私と彼は愛し合っていた、直立の恋として。」(前掲ル・モンド紙インタヴュー)

 この「直立の恋」(アムール・ドブー)というグレコの表現を私は美しいと思った。"amour debout"(立ったままの愛)とは"amour couché"(横になった状態の愛)ではない、つまり一緒に横になったりはしない、プラトニックな恋愛であった、と理解できるが、この"debout"が含意する潔さ、折り目正しさ、凛とした姿勢がいい。グレコは恋多き女性だった。ブレルもまたしかり。この二人の情熱家が出会ったとたんにお互いに「この人には触れてはいけない」という別格・別次元のリスペクトと愛を直感したのではないか、というのが私の読み過ぎの解釈である。

 それはブレルが肺がん発病後、1977年に最後のアルバム『レ・マルキーズ』を録音するためにマルキーズ島からパリにやってきて、そのリハーサルをグレコの自宅で行ったということにも如実に現れる深い信頼関係でもある。「グレコは野郎だよ」とブレルが彼女を定義したという。グレコはそれを解釈して「私たち二人の間には、二人の男同士だけが感じることができる信頼、尊重といった根本的なものがあるのよ」と説明している。これも直立の恋のヴァリエーションである。

 ジュリエット・グレコは1927年南仏ラングドック地方モンペリエで生まれた。父親は家を出てしまい、母親と姉との三人暮らし。12歳でパリ・オペラ座の子役バレリーナ養成所に入る。第二次大戦中母親はレジスタンスに参加し、その廉で母娘3人はゲシュタポに捕えられ、母と姉はラーフェンスブリュック収容所に送られ1945年まで帰ってこなかった。数日間の投獄の後、歳が若いということで一人だけ釈放されたジュリエットは、15歳で無一物でパリの町に放り出される。父の不在、投獄、放浪と、グレコは少女期に不安定で不確かで不条理な世界を体験してしてしまった。これを実存主義と結びつけるとすれば、彼女は理論ではなく体験としてそれを深く刻まれたのではないか。パリのたったひとりの知人の居候としてセルヴァンドニ通りに住んで終戦を迎え、戦後そこからすぐ近くのサン・ジェルマン・デ・プレ界隈にジャズと実存主義が花開いた。エキセントリックで行儀の悪い娘ジュリエットは、ジャン=ポール・サルトルやボリズ・ヴィアンの仲間に溶け込み、そのミューズとなっていく。


 グレコは恋多き女だったと書いたが、その最初の大恋愛の相手は1949年にやってくる。その5月8日、サル・プレイエルで開催されたパリ国際ジャズ・フェスティヴァルには、チャリー・パーカー、シドニー・ベシェといった大物に混じって、23歳の新星トランぺッター、マイルス・デイヴィスが登場した。マイルスにとって初めての外国旅行だった。ここで彼はパリの先端文化人たちと出会う。サルトル、ヴィアン、ピカソ... そして22歳のジュリエット・グレコ。二人は電撃的に恋に落ち、言語の壁をものともせずすべてを分ち合った。栄光の時を迎える前の二人はやや貧乏ではあったが、それでも二人で割勘でレストランに行けた。

 そんな時サルトルがマイルスに尋ねた「どうしてジュリエットと結婚しないのか?」 ー 当時合衆国では多くの州でカラードと白人の結婚や交際が禁じられていたということを念頭に入れていただきたい。「僕は彼女を愛している。だから結婚できないんだ。白人女は黒人とは結婚しないものなんだ」とトランぺッターは答えた。そんなことに無頓着だったジュリエットはニューヨークで初めてその人種差別の現実を知る。二人で行った高級レストランで席が空いているにも関わらず、門前払いを喰らった時、激怒したジュリエットはウェイターの手首を掴み、唾を吐いた。だが「ここにいたらきみは黒人相手の娼婦にしか見られないんだ、きみを不幸にしたくないんだ」とマイルスは別れの言葉を深夜の電話で告げた。

 それから40年後(199010月)仏テレビのグレコ特番の生放送にサープライズ・ゲストとして、グレコの代表曲のひとつ「枯葉」を吹きながら現れたスーパースターのマイルスは、司会の「なぜツアーを中断してパリまで来てくれたのですか?」という質問に、"Because I love her. She's my first love."と断言したのである。それから1年も経たぬ91年9月、帝王マイルスはこの世を去る。

 恋多き女グレコはその間にもハリウッドのプロデューサー、ダリル・ザナック(20世紀フォックス創設者)と恋仲になり、57年から61年までハリウッド女優として『陽はまた昇る』、『栄光のジャングル』などの映画に出演している。仏男優フィリップ・ルメールとは53年に結婚し、54年に娘ローランス=マリーを出産し、56年に離婚している。後年20世紀フランス映画を代表する俳優のひとりとなるミッシェル・ピコリとは66年(当時グレコ39歳、ピコリ41歳)に結婚して、11年間生活を共にして別れている。

「一曲のシャンソンの時間だけ、私たちは愛し合っていた」と歌う傑作「ラ・ジャヴァネーズ」をセルジュ・ゲンズブールがグレコのために書いたのは1963年のことだった。果たせぬ恋を一曲の歌の間だけ、という誘惑をグレコは聡明に受け止め、この天才とのやりとりを愉しんでいたという。ある日ゲンズブールがグレコ亭にひとつの包みを持ってやってきた。それは1枚の絵だった。「あなたのために1枚だけ取っておいたんだ。他の絵は全部きのう焼いてしまったよ」。グレコはどうして?とは聞かなかった。チョコレートを持って来てくれる人に、どうして?とは聞かないように。

 ジェラール・ジュアネスト(1933- )は、68年からグレコのピアニスト/編曲家となり、88年にはグレコの三度めの夫となって今日まで続いている。国立高等音楽院のピアノ科を首席で出たのち教授コースに進むが、父の死のために断念、家計のために歓楽街ピガールで楽団ピアニストになり、57年にジャック・カネティ主宰のホール、トロワ・ボーデでジャック・ブレルと邂逅している。同じくピアニスト/編曲家のフランソワ・ローベ(1933-2003)とジュアネストはブレルの曲作りに欠かせないブレインとなる。グレコはこのブレルとジュアネストの最初の共同作業の時からピアニストを知っていた。

 のちに世界的な大スタンダード曲となってしまう「行かないで」は1959年に発表され、ブレルの作詞作曲とクレジットされているが、実はBメロ(ブリッジ)はジュアネストが作っている。彼がブレルのために共同作曲した作品は40曲以上になるが、その最初が「行かないで」だった。ブレルは通常ギターで作曲するが、「行かないで」は歌詞とAメロは出来ているのに、続く展開部のメロディーが浮かばずに悩んでいたところを、ジュアネストがピアノでBメロを提案した。完成した曲は著作権協会(SACEM)に「詞ブレル・曲ブレル/ジュアネスト」と登録されるはずだったが、駆け出しのジュアネストが協会の作曲家資格審査にまだ通っていないために、名前が載せられなかった。不憫に思ったブレルは、その頃自転車だけが財産という貧乏状態だったジュアネストにグランドピアノを買い与えるのだが、その時はまだこの曲が世界の名曲になるとは思っていなかったのだ。

 グレコも「行かないで」は自分のレパートリーに入れていて、今度の『ブレルを歌う』にも全く新しいヴァージョンを吹き込んでいる。これは自分と別れて去ろうとする女に、男が床にひれ伏して涙ながらに留まることを嘆願する歌だった。ブレルも涙まみれにこれを歌った。ところがグレコは涙の嘆願としてブレルがそれを歌うことをひどく嫌っていた。曲は素晴らしく好きなのに、そのめそめそ加減は彼女を苛立たせもした。新録音に際してグレコとジュアネストは楽曲の読み直しを行い、グレコは「行かないで」を嘆願せずに「行くな」と命令したり諭したりする歌唱表現を展開している。その別アングルからのアプローチは、曲を知り尽くしたグレコのブレルへの「聞いて、私ならこうする」という提案だっただろう。

 このアルバムにはグレコ夫妻と親しい関係にあるラップ歌手アブダル・マリック(2006年のアルバム『ジブラルタル』からジェラール・ジュアネストが参加している)によるライナーノーツが載っていて、その熱のこもったオマージュ文を「絶えることなき再創造」という言葉で閉じている。グレコはブレルやバルバラのような自作自演歌手ではない。作詞家/作曲家の作品を歌うパフォーマー(アンテルプレート)である。フランス語で演奏者/歌唱者を意味するアンテルプレート(interprète)という語は、同時に通訳者/解釈者という意味もある。「詩人や音楽家たちはアンテルプレートを必要としている。彼らは常に自分の作品の最良のアンテルプレートというわけではない。往々にして私たちアンテルプレートは、彼ら自身が聞いたこともないようなことを発見してしまうのよ」(2004年ドキュメンタリー「我が名はグレコ」のインタビュー)。 

 「言葉はとても重要なもの。私は自分の気に入らない言葉を歌うことはできない。私はその言葉に仕えるためにある。私はアンテルプレート。シャンソンというのは特殊なアートで、人が思っているのとは逆で極めて難しいもの。一編の戯曲や小説を2分半か3分の長さで書かなければいけない。これは尋常ならぬ仕事。シャンソンは万人の耳に入っていき、街の中に流れ、海を渡ってもいけるもの。シャンソンは人生の伴侶になれるほど重要なもの」。(同「我が名はグレコ」のインタビュー)

 アンテルプレートとして「絶えることのない再創造」者として、グレコはジャック・ブレル作品に再挑戦した。編曲・オーケストレーションはブルーノ・フォンテーヌが担当していて、グレコとジュアネストは彼のことを「フランソワ・ローベの真の後継者」と称賛しているが、意表をついた編曲もままある。それはグレコの再読み直しへのシンクロなのだろうが、荘重なストリングス(「いかないで」)、虚飾のないチェロのソロによる伴奏(「古い恋人たちの

歌」),抑制のきいたオーケストラ(「これらの人々」)、さまざまな木管・金管・弦楽器の固まりの間を振動していく(「アムステルダム」)など、ブレル節からグレコ節へのラジカルな改変がはっきりしている。録音はオーケストラと共に歌を入れるダイレクト録音で行われ、それがグレコの真剣勝負のエモーションを掻き立てた。たしかにグレコは挑むように歌っているところがある。それはブレルの歌の「男臭さ」と「声の大きさ」であり、時折それはグレコを苛立たせた。声高に男の歌詞を歌うブレルは"ミゾジーヌ"(女嫌い)との噂があったが、グレコは「女が怖いから声を大きくするしかなかったのよ」と解釈している。ところがグレコは女であり、この「ズボンの前を開ける」豪放な男歌「アムステルダム」をどう歌うのか。もの言わず塊で生きる貧しい人々の中に埋もれながらフリーダという娘だけには恋していると歌う男歌「これらの人々」をどう歌うのか。これらの歌はこれまでグレコは歌えないと思ってレパートリーに入っておらず、初めて歌う歌だ。「私が男だったら絶対に歌わないわ。私は女だからこれを私が好きなように歌えるの」。ブレルの男歌にも必ず含まれているフェミニテ(女性性)を引き出し、グレコはこれらの言葉を女性の口のなかで咀嚼し、グレコの歌としてアンテルプレートした。聞く者は総じて女性的なアルバムという意外な印象を抱くだろう。ブレルと対峙している時は、常に男と女なのだ、と告白しているように。直立の愛として。

 ナチによって投獄され、戦時のパリを放浪し、サン・ジェルマン・デ・プレで行儀の悪い若者たちのイコンとなり、マイルス・ディヴィスと恋をして人種差別によって引き裂かれたグレコ.... 時はながれ、今や合衆国にはカラードの大統領がいる。「フランスとアメリカは逆の進み方をしている。フランスにはレイシズムなどなかったのに、今やレイシズムのただ中にある」とグレコは分析する。

 新アルバムには入っていないが、グレコが最初の出会いでブレルからもらった曲「悪魔(万事良好)」(1954年)は、悪魔が地球に降りて来て、人間たちが戦争やテロや極端な金儲け主義にうつつを抜かしているのを見て、大丈夫だ、万事良好だ、と安心するという歌。

人間たちはこれらのことをあまりに  
たくさん見すぎたので、目が灰色になった
   
(詞曲ブレル「悪魔(万事良好)」)

この歌詞の一節はまさに今日的なフランスの状況を言い当てているとグレコは歌う。目が灰色になった人々が大挙して極右政党に票を投じることをグレコは憂えている。人種差別、外国人差別、同性愛者差別、イスラム亡国論、死刑復活などの言説がフランスのテレビやラジオで堂々と流されるようになった。この秋の世論調査では2014年の3月の統一地方選挙で、フロン・ナシオナル(国民戦線党)が第一位の得票率を得るという数字が出ている。10年前にル・モンド紙のインタヴューでグレコは「危険なのは父ではなく娘」(註:父 = 前党首ジャン=マリー・ルペン、娘 = 現党首マリーヌ・ルペン)と警鐘したが、誰も気に止めなかった。86歳のグレコはファシズムやレイシズムを体験として生きた人物であるから、その憂いは深い。今、ブレルを歌い、シャンソンを歌い続けることは、フランスが持っていた自由を再度歌い上げることでもある。2014年5月、グレコは87歳でオランピア劇場の舞台に立つ。

(↓)『ジュリエット・グレコ、ジャック・ブレルを歌う』のEPK(2013年)

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