2020年9月19日土曜日

Used to say I like Chopin

"Les choses qu'on dit, les choses qu'on fait"

『言うこととすること』

2020年フランス映画
監督:エマニュエル・モレ
主演:カメリア=ジョルダナ、ニールス・シュネデール、ヴァンサン・マケーニュ、エミリー・ドケンヌ
フランス公開:2020年9月16日


 演者のひとり、マキシムを演じるニールス・シュネデールは、クリスティーヌ・アンゴ原作の映画『ある不可能な愛(Un amour impossible)』(2018年、カトリーヌ・コルシニ監督)で、不誠実でエゴイストで娘に近親相姦する男フィリップを演じていた人。身勝手な男を絵に描いたような役どころであったが、今回の映画では一転して軟弱な作家志望の青年の役。この感受性にアップアップな文筆家マキシムは、つい最近受けた失恋のショックを小説に描こうと思うのだが行き詰まり、転地療法を試み、いとこのフランソワ(演ヴァンサン・マケーニュ)のはからいでプロヴァンス(ヴェザン・ラ・ロメーヌ近郊)の別荘に逗留して執筆の霊感を得ようとする。ところが建築士のフランソワはパリでの仕事に急務が飛び込み、プロヴァンスにすぐには行けなくなり、代わりに妊娠3ヶ月の妻のダフネ(演カメリア・ジョルダナ)をマキシムの滞在の世話係として送る。映画は夫フランソワが別荘に合流するまでの、マキシムとダフネの4日間の親密な告白の応酬による関係深化のドラマ、と要約できよう。
 別荘にマキシムを迎えたダフネは、その傷心をバネに文学作品を創作しようとしているいきさつを夫フランソワから聞かされていて、少しでも手助けになれば、とマキシムの詰まっている心情を吐露させようとする。「どんな作品になるのかしら?恋愛小説?」という問いにマキシムは「(複数の)感情の物語 histoires de sentiments」と答える。これがまさにこの映画の核であり、"amour"(愛、恋)、"désir"(欲求、欲望)、"sentiment"(感情)にはそれぞれおおきな違いがある。これを人間は言葉にして言う(あるいは書く)ことによって、"なぜうまくいかないのか”を説明し理解しようとする。ダフネはマキシムが一行も書けないでいるのを悟り、整理するためにこれまでのことをすべて話してみれば、と提案する。映画はここから、美しいプロヴァンスを観光的にめぐりながら、マキシムの長い告白ストーリー(映画数本のエピソード量)を映像再現していく。最初は夫が東京に単身赴任中というヴィクトワール(演ジュリア・ピアトン)との"不倫”関係。夫と共に世界をまたにかけた理想の家庭を築こうと夢見るこの女は、マキシムとの燃えるような関係が一過性のものであるから美しいし、いつでも別れられるからいいと考える。次に現れるのがヴィクトワールの妹のサンドラ(演ジェンナ・ティアム)で、実はマキシムとは学校時代からの旧知 であり、何年ぶりかの再会であった。かつてはマキシムはサンドラの恋慕の的だったという経緯あり。二人は幼なじみのように旧交を深め、マキシムもサンドラに惹かれていくのだが、マキシムと一緒に仕事している親友のガスパール(演ギヨーム・グイックス)がマキシムの面前でサンドラの魅力に圧倒され、サンドラとガスパールは恋仲になる。パリの古く大きなアパルトマンで新生活を始めることになったサンドラとガスパールは、どちらにも気心の知れた親友であるマキシムにルームシェアを申し出、なんとも複雑な3人生活に入っていくのだが、時間が経つにつれてそれは三角関係に陥ってしまう。
 と、ここまでの告白ストーリーを中断させ、マキシムとフェアー(均等)であるべきと思ったダフネは、今度は自分がフランソワと出会った経緯を告白していく。この再現ストーリーもまた映画数本分の濃さ。ドキュメンタリー映画の編集助手であったダフネは、ある哲学者のインタヴュー(モデルがもろにロラン・バルトである)の編集を依頼され、これが自分の才能の開花のきっかけとなるであろうという心の高揚がある。それを統括する監督ダヴィッド(演ルイ・ド・ド・レンクサンのひとことひとことが胸にグサグサ突き刺さり、やがてそれは監督への敬愛から恋慕に移りつつあったが、監督はダフネが助手候補として紹介した映画学校時代の(男)同僚に一目惚れしてしまい、その監督の(彼への)恋心を告白されてしまったダフネは大きく揺れてしまう。前後して出会ったフランソワは妻子ある身ながら、その思春期青年のような真剣なダフネへの直感的恋心に突き動かされて日参を重ねるようになる。ダフネはダヴィッドへの不確かな恋慕にあった頃、フランソワと交情して一夜を過ごすのだが、彼女はフランソワが妻子ある男だから美しい一夜のあと後腐れなく去って(別れて)くれるだろうという論を持ち出す。あれあれ?これは前述とヴィクトワールと同じ(女の)リクツであるぞ。
 ところがフランソワはどうしようもなくダフネと一緒になりたい苦しみに苛まれることになるのだが、晴天の霹靂のごとく、妻のルイーズ(演エミリー・ドケンヌ。忘れじの1999年ダルデンヌ兄弟監督『ロゼッタ』=カンヌ映画祭パルム・ドール+女優賞、当時16歳!)が好きな男ができたので離婚したい、と申し出る(このエピソードが映画最終盤の最大のどんでん返しのもとであった)。半信半疑ながらフランソワはその"渡りに船”の機会に乗じてダフネと結ばれていく...。
 続いてマキシムの告白の続き。3人の共同生活は、主カップル(=サンドラとガスパール)の痴話喧嘩的いさかいの激化によって、ガスパールが不在がちになるという機会がサンドラとマキシムを密にくっつかせることになるのだが、どんなに親密になってもどんなに性関係を重ねても、サンドラはガスパールを忘れることができない、またガスパールもまた新しいガールフレンドをつくり、その関係を正当化しながらもサンドラこそ真の恋人というポジションを崩さない。映画はこんなふうに「カップルの貞節」すなわち伴侶に対する誠実さを基本ベースにしながらも、それぞれの純愛が独立的に生まれ育ち抑えきれないほどのものになっていくドラマ=感情悲劇をどうするか、という様々なパターンを検証することになる。
 映画の主軸はダフネとマキシムという別々の大きな感情の揺れ動きを生きた二人が、プロヴァンスの(パリとは違う)別時間と別空間の中で、4日間お互いの「場合」を告白しあうことで否応なしに生まれてしまう新しい感情/交感/関係である。これは二人が言っていること(告白しあっていること)とは違うなにかなのである。この二人が何よりも深く愛し合ってしまっていることがわかりながら、映画はジャック・ドミー『シェルブールの雨傘』のように最高に悲しい駅での別れのシーンを大終盤にもってくるのだよ。
 メロドラマでない感情ドラマ。"不倫””不貞””不道徳"という次元のモラルが何かを止めるというエピソードはひとつもない。われわれの"désir”(欲求・欲望・愛欲)を自制する感情は何なのか。抑えることで成就しない恋愛は、不幸にはなるが、文学なり芸術なりの美の源ではないか。テレラマ誌2020年9月19日号のこの映画評で引用された映画中のダイアローグを、以下に翻訳してみる。

ダフネ(演カメリア=ジョルダナ)「自分の欲望を表に出すのは誤りではないわ」
マキシム(演ニールス・シュネデール)「状況によっては誤りにもなるよ」
ダフネ「それは行為に転じるという意味ではないわよ」
マキシム「それはことを起こすことの要因にはなるよ、導火線に火を点けるような」
ダフネ「でも他の人が与えてくれる快楽を隠して生きる世界って悲しすぎるわ。欲望のまま生きることを求めることなく、時折自分の欲望を表に出すことはできると思うの、たとえカップルで暮らしていても。重要なのはその表に出すやり方よ、ある視線が私にこう語りかけるの、あなたが欲しいんだ、あなたは私を欲しがっている、私たちはこの欲望を実現させることはできない、なぜなら私たちはお互いにすでにカップルだから、それでも私はあなたと出会えてとても幸せだ、って」

 われわれは出会えただけで幸せだったと達観できるほど、身体的にも感情的にも聖化されることなどなかろう。言うこととすることの距離は縮まらないであろうよ、死ぬまで。
 それから、映画の全編で流れるおセンチでメランコリックな(有名)クラシック楽曲、アダージョで、ピアノで、泣きの短調で、ショパンで、これでもかこれでもかの音楽。それに流されないで複雑なダフネとマキシムを最後まで観れたら、この映画はメロとは「別物」とはっきりわかるだろう。

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)『言うこととすること』予告編


追記(2020年9月20日)
主演女優カメリア=ジョルダナについて

カメリア=ジョルダナ(本名カメリア=ジョルダナ・リアド=アリウアン)は1992年トゥーロン(ヴァール県、プロヴァンス)生まれ。アルジェリア移民三世。16歳で民放テレビM6の歌手スカウト番組NOUVELLE STARの3位に。翌2010年仏ソニー・ミュージックからファーストアルバム(チャート最高位9位、16万枚)、今日までアルバム3枚(2枚目のプロデュースがバビックス)。2012年からテレビ、映画、舞台で女優業も。2017年イヴァン・アタル監督の映画”LE BRIO”(共演相手ダニエル・オトゥイユ)でセザール賞(新人女優賞)。作家主義の社会派映画などにも出演。子供の権利、女性の権利、レイシズム、警察暴力などに関して明確なポジションの発言多し。
2020年5月23日、国営テレビFRANCE 2のトークショー番組”On n’est pas couché”で警察暴力に関して:
「私は毎朝郊外から働きに出る普通の男たち女たちのことを言っているのよ、その人たちは何の理由もないのに肌の色が違うというだけで殺されるほどの暴力を受ける、これは事実なのよ(…)ひとりの警官を前にして身の危険を感じる人たちは何千人もいて、私もそのひとりなのよ。今私は縮れを延ばしたヘアースタイルをしているけれど、私が縮れた髪をしていた頃、私はフランスの警官を前にすると本当に身の危険を感じていたのよ、本当に本当 vraiment, vraiment」と語り、当時の内務大臣(クリストフ・カスタネール)が直接Twitter上で反論するなど、大変な物議を醸した。

(↓ 5月23日、”On n’est pas couché”、警察暴力に関して作家フィリップ・ベッソンと衝突するカメリア=ジョルダナ)

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