"Un amour impossible"
『ある不可能な愛』
2018年フランス映画
監督:カトリーヌ・コルシニ
主演:ヴィルジニー・エフィラ、ニールス・シュネデール、ジェニー・べト、エステール・レスキュール
フランス公開:2018年11月7日
クリスティーヌ・アンゴの同名小説(2015年発表)の映画化作品である。小説の方は拙ブログで紹介しているので、そちらを読んでいただきたいが、近年のアンゴでは例外的な出色の作品であり、それだけにこの映画がどれだけ原作の魅力を表現できるか楽しみでもあった。映画はラシェル(演ヴィルジニー・エフィラ。"ラシェル”というファーストネームは原作小説と同じだが、姓は映画では変えてある)とフィリップ(演ニールス・シュネデール。原作小説では"ピエール(・アンゴ)"だった)の出会いから始まる。場所は中央フランス、アンドル県の県都シャトールー、時は1950年代。当たり前の話だが、映画はあの時代のファッション、あの時代の車、あの時代の音楽で、小説数ページ分より雄弁に、瞬時にして状況を凝結させてくれる。フレアスカート、手動タイプライター、プジョー403、そして二人がダンスする曲が「ある恋の物語(Historia de un amor)」(パナマ人カルロス・アルマランによる1955年の世界的ヒットのボレロ曲。日本ではザ・ピーナッツ)、もうフィフティーズど真ん中な始まりで、日本の言葉で言うならば「イカしてる」のだ、これが。
女25歳を過ぎたら婚期を失ったと思われていた時代(25過ぎた独身女性を「聖カトリーヌ Sainte Catherine」と呼ぶ習慣がある)、国民保健局でタイピストとして働くラシェルは貧しい母子家庭の出身で、文化教養の乏しい地方オールドミスであった。 そこに現れた都会的ブルジョワ美男であるフィリップは、シャトールーに作られたNATO(北大西洋条約機構)基地の通訳・翻訳者として働いており、数カ国語を自由に操ることができる。誘惑者フィリップはスポーツカーでラシェルを連れ出し、世界を拡げ、芸術文化の道しるべとなり、ニーチェを読ませる(これ、アンゴ小説の世界では重要)。ラシェルにとってこの燃えるような恋は、同時に新しい世界への越境でもあった。そしてこの映画ではきわめて大胆な(とても50年代的ではない、インターネット時代以降のような)性交をするのだった(日本で上映されることになると、この辺ばかりが強調されるかもしれない)。ヴィルジニー・エフィラ、日本語で言うところの「体当たり演技」だった。
このブルジョワ青年は、あの当時の新しい男女関係論のポーズで、俺は結婚はしないよ、きみも自由であった方がいい、などと方便を言い、またはっきりと自分とラシェルの社会階層の違いは超えられないとも言うのだった。自由な関係でいようと言いながら、自分の家や社会的地位を理由に貧乏人とは結婚できないと。ラシェルはそれが理解できないのだが、愛がいつかはそれを凌駕するものという希望(幻想)を抱いて、「受け入れる」「耐える」「待つ」女になっていくのである。それは十数年も続くことになる。
激しい愛の数ヶ月の後、フィリップはストラズブールに異動になる。旅立つ前の最後の夜、ー ナレーションがこんなディテールを語るのだよ ー 「それまで膣外射精をしていたフィリップが最後の夜に中に出してもいいかとラシェルに問い、ラシェルはいいと答えた」(いかにもアンゴ小説的だが、この部分は映画での創作だと思う)。 で、シャトールーにひとり残されたラシェルは懐妊したことを知る...。
知らされたフィリップは急に連絡が稀になり、このことを喜んでいるのかその逆なのかも判然としない。不安のうちに女児シャンタル(原作小説では"クリスティーヌ”) を出産、出生届には「父不詳」と。その後もフィリップはごくごく稀にラシェルに会いにやってくるだが、子の認知を求めるラシェルにフィリップは「考えておく」と茶を濁す。さらにしばらくして「結婚しない」を公言していたフィリップは、家柄の良いドイツ人女性と(家族・親族の祝福を得て)結婚するのである。自分は幸福であり、この結婚に満足している、なぜなら「ドイツ女性と日本女性ほど夫によく尽くすものは世界にないのだから」などとラシェルの前でしゃあしゃあと言ってしまう。その上その舌の根が乾かぬうちに「おまえとの関係は違う、それは特別なものだ」とラシェルとの情愛関係の継続を請うのである。
ヴォージュ地方ジェラルメ湖畔での密会ヴァカンス、幼いシャンタルとママンとパパ、こういう刹那の「家族」幸福を描かせては、映画は小説より数倍も雄弁なのであるな。
月日は経ち、再三の子供認知願いを断ってきたフィリップは、シャンタルが12歳の時ついに折れて認知し、おまけにシャンタルの養育費を負担し娘の教育をバックアップしたい、と。数年振りに再会した父娘。聡明な少女となったシャンタルは、(十数年前に母ラシェルが魅了されたように)フィリップの教養インテリジェンスに魅了され、毎週末のように美術館・書店・劇場などに連れ出してくれる父に嬉々としてついていくようになる。この12歳から16歳までのシャンタルを演じるエステル・レスキュールという新人(少女)女優、すばらしい。知的で情緒不安定で激しやすい(クリスティーヌ・アンゴ的)少女像を完璧に体現。役どころとしては、14歳の頃から父親から近親相姦(肛門性交)を受け続けるのに、苦悩しながらそれを隠している、という極端に難しい演技。事情が明らかにされないまま、ラシェルはラシェルでフィリップと(教養教育という名目で)逢瀬を重ねるシャンタルに嫉妬し、地獄的な(想像上の)三角関係に悩み精神疾患を起こしてしまう。気晴らしのために入会した市民サークルの中で親しくなったムラートのアマチュア・カメラマンのフランク(演ガエル・カミリンディ = 作家/ラッパーのガエル・ファイユ同様、幼少の頃ルアンダ大虐殺を逃れていた経歴あり)にほのかな思いを寄せるラシェルだったが、そのフランクも娘シャンタルの交際相手となってしまう。最重要の秘密であったシャンタルとフィリップの近親相姦の事実も、ラシェルは(親しい友人としての)フランクから聞かされ、フランクはラシェルにシャンタルをフィリップに会わせてはいけないと嘆願する。それを聞いたラシェルは動顚してしまうが、ラシェルは母として言うべきことを告げに、深夜シャンタルの部屋に入って行ったにも関わらず何も言えないのである(この何も言わなかったということに関して後にシャンタルはラシェルはずっと恨むことになる)。その何も言えなかった夜にラシェルは高熱で倒れ、救急で病院に収容され、10日間病院で苦しむのであった...。
映画はそれから年月が飛び、大人となったシャンタル(演ジェニー・ベト。フランスでは女優としてよりもロック系女性ヴォーカリストとしての方が知られているかも)が、ことあるごとに母親ラシェルと感情的に対立し、遂には別居(娘が母親を追い出す)してしまう。この母親に対して全く笑顔を見せることがなく怨念すら抱く役どころを演じるジェニー・ベトという女優、怒ってばかりの一本調子で感心しない。(アンゴ的)インテリジェンスがほとんど感じられない。少女役の女優の好演に比べて本当に残念。 そして映画はこの母と娘の過去にまつわる確執と、どんなに議論しても埒が明かない(終わりのない)ダイアローグに長時間が費やされる。これが本当に長い。この映画に悔やまれる最大の点は、この終部の意味のない長さであり、最後に現れる母と娘の不可能な和解はこんなに引き延ばされる必要はない。
20代の地方都市女性から、80代のすべてに対して防御的な老婆までをひとりで演じきったヴィルジニー・エフィラの演技は素晴らしい。脱帽ものである。映画はエフィラの怪演がすべてを救っている。これまでの作品で名女優とは誰も評価できなかったこのベルギー出身の41歳の女性は、この映画で真の大女優になった(と私は思う)。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『ある不可能な愛』予告編
(↓)トリオ・ロス・パンチョスによる「ある恋の物語、なんて素晴らしい!
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