2021年1月25日月曜日

クーシュネール警報

Camille Kouchner "La Familia Grande"
カミーユ・クーシュネール『ラ・ファミリア・グランデ』

2021年1月20日現在、フランスの書籍売上の1位(ずっと1位だったゴンクール賞エルヴェ・ル・テリエ『異状』を破った)。2020年1月に発表され、30数年前に著者が14歳の時に有名文芸作家から受けたペドフィリア犯罪を告発する手記本として社会現象的ベストセラーとなったヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』のちょうど1年後、カミーユ・クーシュネール(1975年生れ、現在45歳)の本書は同じように30数年前、14歳だった著者の双子弟が義父から受けた近親相姦犯罪を告発するもの。この二つの書には影響関係があり、クーシュネールはスプリンゴラ『合意』の勇気に大きく感化されたことを告白していて、それがなければ私はこの本を書けなかったろう、と。
 スプリンゴラとクーシュネールに共通するものとしてサン・ジェルマン・デ・プレというバックボーンがある。これはフランスの出版界、文学・思想界、アカデミズムなどの中心というメタファーであるが、本書中で高名な法学者であるクーシュネールの義父が何度か鼻歌で歌うジュリエット・グレコの"Il n'y a plus d'après à Saint-Gerimain-des-Près(サン・ジェルマン・デ・プレのあとには何もない)という歌が象徴するような、知の最前線としてのパリ左岸に属する人々のスノビスムである。

 クーシュネールの本は著名人オンパレードである。まずこの著者カミーユ・クーシュネールであるが、”フレンチ・ドクター”と呼ばれた人道的医療活動「国境なき医師団」「世界の医師団」の設立者ベルナール・クーシュネール(1939 - )の娘である。この父は政治家となり、2000年代には大統領にふさわしい人物像人気投票1位にもなるのだが、2007年には左派から寝返ってサルコジ新政府の外務大臣に就任する。カミーユはベルナール・クーシュネールの最初の妻エヴリーヌ・ピジエ(1941 - 2017)との間に生まれた3人の子のひとりであり、兄弟は兄(この本では仮名で「コラン」となっている)とカミーユと双子で生まれた弟(この本では仮名「ヴィクトール」)である。本書でもキーパーソンのひとりとして登場する女優のマリー=フランス・ピジエ(1944 - 2011)はエヴリーヌの妹で、カミーユには叔母にあたる。
 共に左翼の闘士であったベルナールとエヴリーヌは1964年に共産主義学生同盟が主催したキューバ革命支援滞在中に知り合うが、本書ではフランス代表団のリーダー格のベルナールの尽力で革命指導者フィデル・カストロとの直接の面談が許されることになり、グループでの面談のあと、カストロの指名でエヴリーヌひとりがその場に残り、それから4年間にわたってエヴリーヌはカストロと愛人関係を持つというエピソードがある(←写真カストロとエヴリーヌ・ピジエ)。そのキューバ滞在後にベルナールとエヴリーヌは1970年に結婚し、3人の子の誕生を見て、1984年に離婚している。カミーユのこの本では、世界の戦地や飢餓地に飛び回って人道的医療活動をするこの父は子供たちにとっては「不在の父」であったし、母エヴリーヌにとっては世界各地に愛人がいる不貞の夫であった。
 次いでエヴリーヌと恋仲になるのが、彼女より9歳年下の政治学者・憲法学者・政治家(1997年から2004年まで社会党選出の欧州議会議員)のオリヴィエ・デュアメル(1950 - )(→近影写真)であり、1987年に正式に結婚し、カミーユと二人の兄弟には義父となる。しかしこの本ではこの名前は一度も登場せず「義父」とだけ記されている。
 メディアの報道では、このオリヴィエ・デュアメルによる当時未成年だった義理の息子(本書ではヴィクトールという仮名になっているカミーユの双子弟)への性行為に関する暴露告発がこの本の主眼のように言われているが、そればかりに集約されるものでは全くないのだ。
 カミーユが証言しているのはあるユートピアの建設からその崩壊までのストーリーである。そのユートピアの中心人物が「義父」とエヴリーヌ・ピジエであり、その場所は南仏プロヴァンス地方ヴァール県の海浜保養地サナリー・シュル・メールである。1980年代半ばからこのサナリーの「義父」の別荘で夏のヴァカンスを過ごすことになるのだが、「義父」はその別荘をどんどん拡張し、エヴリーヌと3人の子供、エヴリーヌの母親のポーラ・ピジエ、妹のマリー=フランス・ピジエだけでなく、大人子供老人数十人が共同生活をする、プール、ペタンク、テニスなどの施設を持った大きなヴィラに改造する。そこに毎夏集まってくる友人家族たちは、エヴリーヌと「義父」同様の現役の左翼の闘士たちばかり。集まれば始まってしまう討論・議論、音楽とダンス、アルコール、(ライト)ドラッグ、ほとんど全裸のプールサイド....。南仏の陽光の下で繰り広げられるこの活気とインテリジェンスに満ちた名調子の討論の応酬を少女カミーユは、夢の国の出来事のように見ていた。この個性の強い左翼人たちをやんちゃな享楽人に変身させ、喜びあふれる共同体を作り上げていったのが「義父」その人だった。カミーユをはじめエヴリーヌの子3人はみな「義父」のことが大好きだった。それは不在の父だったベルナール・クーシュネールに欠けているものすべてをこの「義父」が持っていたからだった。とりわけ「義父」がもたらす知的刺激にカミーユは魅了されていた。そしてこのユートピアは"大家族 = ラ・ファミリア・グランデ”と呼ばれたのである。
 時は1980年代、81年に社会党フランソワ・ミッテランが大統領に当選して以来、社会の中枢部で「左側」の人間たちが重要なポジションを占めていった。彼らは資本主義を倒すのではなく、その中で権力と影響力を増大させるにとどまり、政権を維持することが「目的」になってしまった。この頃から「ゴーシュ・キャヴィア(Gauche Caviar)」と揶揄される特権的左派ブルジョワが幅を利かせるようになる。この本ではそういう記述はないが、一般的な目からすればオリヴィエ・デュアメルなど大企業や放送局のトップなどと血縁関係のあるボンボンの学者であり、ゴーシュ・キャヴィアの典型と言える存在だった。だから、カミーユ・クーシュネールがこの本の前半で描いた夢のようなサナリー・シュル・メールのユートピアは、とりもなおさずゴーシュ・キャヴィアの理想郷だったと考えられるのである。
 エヴリーヌ・ピジエは法学教授であり著述家でもあったが、とりわけごりごりのフェミニストであった。この本に現れる彼女の戯画的にドグマティックなフェミ思想は、パンティーを履かないこと、出産しても授乳しないこと、など。しかしカミーユは母親を愛していたし、フェミニストとして厚く尊敬もしていた。エヴリーヌのフェミ思想の源流はその母ポーラ・ピジエ(1922-1988)であった。マリリン・モンローと極似した美女であったこの女性は、夫ジョルジュとの間に3人の子供(長男ジル、長女エヴリーヌ、次女マリー=フランス)を宿したが、極右主義者で第二次大戦中ペタン政権の高官であり、戦後も戦犯追求の手から逃れニュー・カレドニア島で裕福に暮らしていた夫ジョルジュ・ピジエと離婚・再婚・再離婚して決別している。ポーラの人生を180度変えてしまったのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書『第二の性』(1949年)であり、女性の自由、解放、自立は彼女自身が実践したことだった。それは夫と別れ無一物で幼い子供3人を連れてニュー・カレドニアからニースに至り、無学な彼女がタイピスト見習いから始めて最後にはその会社の会計責任者となるというキャリアも証明している。自由、自由、自由、その言葉をポーラは子供たちに繰り返し、孫のカミーユもそれを聞いて育った。かのサナリー・シュル・メールのヴァカンス共同体でもポーラは最大の敬意を集める年長者であった。
 ラ・ファミリア・グランデの崩壊の最大の原因のひとつは、1988年のポーラの自殺だった。自殺するわけのない強い女性と思われていたポーラは68歳で投薬自殺した。その2年前、エヴリーヌと突然連絡を取ってきた父親ジョルジュは、その面会後しばらくして銃で自殺している。父の自殺には動揺は少なかったものの、ポーラの死の衝撃はエヴリーヌの精神状態を大きく破綻させ、それは長引きエヴリーヌ自身の死まで続くのである。

 カミーユの中ではラ・ファミリア・グランデの崩壊は既に始まっていた。14歳の時に双子弟から「義父」による性行為のことを聞かされた時から彼女の中ですべては変わった。弟ヴィクトールはこのことを誰にも明かさない欲しいと言った。「義父」がヴィクトールにその沈黙を強要したことでもあった。「義父」はこれは恥ずべきことであり、これが世に知れたら俺は自殺するしかない、と脅しもした。それが何ヶ月あるいは何年続いた関係だったのかカミーユは知らない。ヴィクトールは誰にも明かさないことが(「義父」を最愛の人とする)母エヴリーヌを守ることであり、愛するサナリーの共同体を守ることだと信じ、カミーユに約束させた。
 カミーユたちは「義父」との接触を避けるようになり、エヴリーヌは精神を衰弱させ、ラ・ファミリア・グランデはしぼんでしまう。月日は流れ、子供たちは学業を終え、カップルとなり家庭を築き、子供を育てる。そしてヴィクトールの子(男の子)があの年齢”14歳”に達するに至り、カミーユはそのことに言いようのない恐怖を感じ、「義父」に絶対にその孫に近づかせてはいけない、そのためにはエヴリーヌにすべてを話さなければならないと決断するのである。エヴリーヌは子供たちの言うことを理解したら、必ずや「義父」と別れるはずである、と思っていた。ところが、エヴリーヌはそのことを知り、夫がそのことを認めたうえで、なおも夫を擁護する側に回るのである。この本の中で最も残酷な母エヴリーヌの声が166ページめに現れる。
ヴィクトールに彼女は義父はそれを否定していないと言った。「彼が後悔していること知ってるでしょ。彼はずっと自分を責め続けている。でも彼だってよく考えてのことだったの。おまえもう15歳にもなっていたんだから。その上ソドミー(肛門性交)はなかったのよ。フェラチオだけよ。それは全然違うことでしょ。」
私にはこんな非難の言葉を放った。「おまえたちはどうやって私を騙し続けてこれたわけ?第一におまえよ、カミーユ、おまえが私に警告するべきだったはず。おまえたちがどれほど私の男を好きだったのかはよく知ってる。だから私はすぐにおまえたちが私から彼を奪おうとしたんだってことがわかったわ。被害者は私の方だわ。」
 3人の子供たち、とくにカミーユとヴィクトールの双子とエヴリーヌの間の溝はいよいよ深まり、その対立はエヴリーヌの死(2017年)まで和解することがなかった。
 そのエヴリーヌの死(急性ガンによる病死)の前に、2011年のもうひとつの死がエヴリーヌに衝撃を与える。2007年にヴィクトールの秘密が告白されてから、積極的にカミーユとヴィクトールを支持し、エヴリーヌに夫(オリヴィエ・デュアメル)との離別を強く進言していたのが妹のスター女優マリー=フランス・ピジエだった。生れてからずっと仲違いなどしたことのなかった姉妹は初めて激しい対立状態となった。そしてその和解を見ないまま、2011年4月24日、サナリー・シュル・メールから遠くないトゥーロンのマリー=フランスの別荘のプールの底に、椅子に繋がれた状態のマリー=フランスの死体が発見される。法医学鑑定で多くのアルコールや薬物の摂取が認められ、自殺と推定されたが、その死の謎は今日も論議を残したままである。しかしエヴリーヌにとって父と母に続くこの身内の「自殺」は、子供たちの「離反」(決して離反ではないのだが)に加えて致命的な責め苦となる...。

 世の中はことさらにオリヴィエ・デュアメルのペドフィリア/近親相姦犯罪について騒ぐのであるが、それはそれで大変な事件であると認めつつも、私はこの本の極めてロマネスクな女たちのドラマに心打たれる。カミーユ・クーシュネールは和解することなく死んだ母エヴリーヌ・ピジエを鎮魂するためにこの本を書いたとしか思えない。
 たしかに"インセスト”(近親相姦)は告白/告発することが非常に難しいことであることはよく理解できる。その告発は必然的に家庭・家族を破壊してしまうものだから。フランスでは子供の10人にひとりが近親相姦の被害者である、という数字も上がっている。重大な問題であり、この本を契機に "#MeTooIncest"というハッシュタグも生まれたし、メディア上で議論の輪は広がっている。
 渦中の人オリヴィエ・デュアメルの失墜は日々メディアが喧しく伝えるところであるが、現行法では時効となっているこのインセスト/ペドフィリア犯罪に関して検察側の再審査の動きもある。共和国大統領エマニュエル・マクロンもインセスト問題告発に国として支援する制度化を提案している。一冊の本は(昨年のヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』と同じように)世を大きく動かすことになっている。それはそれでおおいにやってください。
 だが、私はそれよりも80年代の驕れる左翼の幻想と(この本で本当に素晴らしく描かれている)ユートピアの解体の方が強烈に印象深かった。エヴリーヌとマリー=フランスのピジエ姉妹のフェミニストとしての生きざまと二人の確執は、もっと詳しく知りたくなった。特にマリー=フランス・ピジエという作品にも監督にも恵まれなかったスター女優の謎の死については文献を当たるにします。刺激が多く、教えられることが多い一冊であった。

Camillle Kouchner "La Familia Grande"
Seuil刊 2021年1月7日、210ページ、18ユーロ

カストール爺の採点:★★
★★☆

(↓)2021年1月13日、TVフランス5「グランド・リブレーリー」で自著『ラ・ファミリア・グランデ』について語るカミーユ・クーシュネール
YouTubeで見るをクリックしてください)

0 件のコメント: