2021年2月9日火曜日

膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み

Leïla Slimani "Le parfum des fleurs la nuit"

レイラ・スリマニ『花々の香り・夜』

来ならば、かの三巻大河小説(第一巻『他人の国』2020年)の第二巻めの執筆に没頭していたであろう頃、たぶん筆が止まってしまったのだと想像する。スリマニの母方の祖母(アルザス出身のフランス人)に始まる三代の女たちと、モロッコの独立などを挟む(ほとんど誰によっても書かれていない)民衆史を独自の女性視点でロマネスクに描く試みであった。ちょっと前に進めない状態に陥ったのかもしれない。
 そこへ、三部作の出版社ガリマールではない別の出版社ストックの女性編集者から、ヴェネツィアのコンテンポラリーアートのミュージアム内にひとりで夜間滞在してその体験記を書いてくれないか、という依頼が来る。大運河沿いに17世紀に建立されたパラッツォ・グラッシと税関として使用された建物を現代フランスの大富豪フランソワ・ピノーが買取り、2006年、安藤忠雄の設計でピノーのコンテンポラリー・アート所蔵品を展示するミュージアムに改造したプンタ・デッラ・ドガーナ
 気乗りのしなかった企画であり、コンテンポラリーアートなどまるで門外漢であり尻込みしていたのに、スリマニはウイの返事を出してしまう。自分でもこの理由についてはうまく説明できない。たぶん何かを変えたかったのであろう。それほど行き詰まっていたのかもしれない。しかしこの企画は転地して気分を変えるという性格のものではない。閉じられた空間に一夜幽閉されに行くのだから。わざわざ閉じ込められに、ということは作家という職業ではままあることである。外部との連絡方法をすべて絶って自宅や別宅や山の上ホテルに籠るというのは原稿を仕上げるにはこうしないと、という苦行環境づくりである。作家であることはつらい孤独なことである。そういうことを今度のスリマニの本はポロポロとこぼしているのである。
 この本はレイラ・スリマニが初めて主語「私 = Je」で書いている、とテレラマ2021年1月20日号の記事にあった。 初めて極私的に「私」を語るスリマニがそこにいる。時は2019年4月、まだコロナウィルス禍など言葉でもなかった頃、ヴェネツィアは世界中からの観光客でにぎわっている。『ヨーゼフ・メンゲレの蒸発』(2017年ルノードー賞)の作家で友人のオリヴィエ・ギューズはスリマニを "Toi, tu es l'Arabe comme qu'on l'aime"(きみはみんなが好むようなアラブ女)と評したが、彼女は公然とタバコを吸い、豚肉を食し、アルコールをたしなむ。この夕刻も彼女はレストランのテラスでかなり濃厚な食事(メインにミラノ風カツレツ)とワインをいただき、仕上げにタバコを吸ってからかのプンタ・デッラ・ドガーナに向かうのだが、この重すぎた食事で気分が悪くなってくる。そして通用門から入り、守衛に案内されて簡易ベッドのある小さな部屋に通される。タバコ吸ったらバレるだろうか ー そんなことを気にする当代一の気鋭の作家であった。一夜の幽閉が始まる。
 編集側の意図としてはこのユニークなミュージアムと向き合う作家という出会いにこそ重点を置いてほしかったのかもしれないが、作家はその意図を十分に与しながら建物と陳列アートに立ち向かっていくものの、時を待たずに誰もいない深夜のミュージアムで出会ってしまうのは自分自身なのである。151ページある本編は111ページめからトーンが一変し、スリマニはスリマニを語り始める。この閉鎖された空間での孤独は、無実の罪で投獄されていた亡き父のことを思わぬわけにはいかないのだ。
 父オトマン・スリマニ(1941 - 2004)は貧しい家から身を起こし、奨学金を得てフランスで経済学を学び、モロッコ帰国後王国上級公務員として様々な要職(仏語ウィキペディアによるとフットボール・ナショナルチームの監督として、1976年アフリカカップに優勝している)につき、大学教授、政府通商省長官を経て、CIH不動産銀行の頭取(1979 - 1993)となっている。2001年にこの銀行をめぐる大規模な不正事件が発覚し、モロッコの大スキャンダルとなったが、事件に関与したとされる当時の重役たちが国外逃亡したにも関わらずオトマン・スリマニはモロッコに残り堂々と取り調べに応じた。2003年には数ヶ月に渡ってサレ刑務所に収監された。釈放されたのちオトマンはガンを発症し、2004年に62歳で亡くなっている。そしてその不正事件裁判の決着は2010年につき、オトマンへの嫌疑はすべて晴れ無罪となり名誉回復された。どれほど無念であったことか。
 レイラ・スリマニが作家になったのはこの父のことが第一のきっかけとなっているとこの本で告白している。それは真実を暴露して父の恨みを晴らすことではない。たしかにスリマニ家は醜聞にさらされ、人々から国賊のそしりを受け、暗い日々を過ごさなければならなかった。若いレイラにもこの理不尽は理解できたが、レイラが理解できなかったのはこの父親は抵抗することなく多くを語らない男だったこと。その謎は父が死んだことで謎のままで止まっている。
 フランス語で高等教育を受けた(当時は)希少なアラブ人のひとりで、家庭内はフランス語を話していた。ラバト(モロッコ首都)でも特異な家庭であったろうが、このフランス語(+フランス文化)環境が作家レイラ・スリマニを生む土台であったことは間違いない。言わば欧米の映画・文学・音楽をたしなむブルジョワであった。学校で浮いた子供であったことは容易に想像できる(なぜレイラがアラブ語をきちんと習得できなかったのかは別の箇所で触れる)。たいへんな読書家であった父は読んだ本を書机の床にブロック塀のように積み上げて行き、まるで自分の周りに壁を築くようであった。残された数少ない少女レイラと父とのツーショット写真に一枚だけ書斎で撮られたものがあり、そこに写っていた本がポール・オースターの『ムーン・パレス』(仏語訳)だった。ローティーンだったレイラは背伸びして父の文学世界に近づきたくて(父の気をひきたくて)この本を読み始めたが半分まで読んでこの本を紛失してしまう(彼女は未だにこの本を読み終えていない)というエピソードが綴られている。
 回想しても会話の記憶は少ない。レイラは本当に父親のことをよく知らないのだ。だから作家として(よく知らない)父の過去を修復するフィクションなど書けるわけがないのである。幽閉された深夜のミュージアムの中で、近づいてこない父を寄せようとしている、というわけではないのだ。そのことを彼女はこう書いている。
 父のことを考えるのは気乗りのすることではない。なぜだかはよくわからない。 私には常に一種のためらい、距離のようなものがあり、この考えに全面的に浸り込むことなど一度もなかったし、それに心を任せてしまうことを自分に禁じていた。なにしろ私はそれを欲していないのだ。たったひとりでいても、私は父がいなくて寂しいと繰り返し熱い涙を流すことなどまったくなかった。父にはなにか謎めいたものがあり、私と父の関係には中途半端で終わってしまったなにかがある。言われなかった言葉、起こらなかった体験。父は私の家族であったが、私にとっては家族的ではなかった。私にはたぶん父を手に入れること、父をうまくやりこめること、父を味方につけること、父を友だちにすることという目標があったのだ。だが私がそれを実現する前に父は死んでしまった。正直な話、私は父のことを考えるのは好きではない、なぜならこの考え自体にたくさんの空虚があるからだ。私にはひとつとしてはっきりした記憶、ひとつの会話や遊びや食事も呼び戻すことができない。この考えにはおおきな穴が開いていて、父と私を分ける深い溝がある。
 奇妙なことに、私が父のことを書けば書くほど、父がほんとうに実在したという印象は薄れていく。言葉は父に命を吹き込むかわりに、父を架空の人物に変えてしまい、父に背いてしまう。私が父の記憶を呼び戻そうとすることは苦痛である。それは子供の頃膝小僧を傷つけてできたかさぶたを掻き剥がしたことに似ている。それは痛いことだったが、私は傷口から再び血が出るの見てある種奇妙な快感を味わっていた。父について書くことはまさにこのことと似ている。人がものを書くのは痛みから解放されたいからだとは私は思わない。私の小説は私が体験した不正な事象を克服していくものだとは思わない。 むしろ逆に作家というものはその苦痛や悪夢に不器用にしがみついているものだ、そこから治癒快復することほど怖いものはない。
(p 123 - 124)

 父の記憶の痛みは、作家レイラ・スリマニがなぜ書くのかという根源的な問いまで深夜のミュージアムに呼び寄せてしまう。父が与えてくれたフランス語、自国の中での「異邦人性」(これはまさに『他人の国』のテーマであった)、それらは今日のレイラ・スリマニの独自の文学性の土台である。メランコリックな内省体験となってしまったこのミュージアムの一夜に、幽霊・亡霊は現れることはなかったが、スリマニの「私」が見える150ページ随筆が残った。読者は、ずいぶんと距離が縮まったぞ、と思うに違いない。

Leïla Slimani "Le parfu, des fleurs la nuit"
Stock刊 2021年1月20日、150ページ、18ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2021年1月20日、国営テレビFrance 5「ラ・グランド・リブレーリー」でヴェネツィアのミュージアムでの一夜を語るレイラ・スリマニ



★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★
 
追記(2021年2月9日)

レイラ・スリマニはモロッコ生れ(国籍はモロッコとフランスの二重)のフランス語表現の作家である。第一小説『鬼の庭で』(2014年)と第二小説『やさしい歌』(2016年ゴンクール賞)でフランスを舞台にしたフランス人主人公の作品を発表して、フランスおよび世界的な評価を受けるようになった。そこにモロッコという作者のアイデンティティーが見えないのはどうなのか、という奇妙な難癖をつけるムキが出てくる。亡命作家ではないのに、明確なテリトリーを持っていないように見えるのだろう。この本の中でも、ヴェネツィアというオリエント/ビザンチン/バルカンと西欧の混じり合う港に、スリマニ自身のマグレブと西欧の混じり具合に似たものを思うくだりがある。フランス語は上に書いたように、父親からやってきたものであろうが、スリマニは学校でアラブ語を習得することに抵抗があったことが、この本で明かされている。これがモロッコという(国家でも宗教でもない)テリトリーへの「背信」という契機をはらんでしまう、という興味深い考察が以下に引用する箇所でなされている。

私はこの言語(フランス語)を話す。この言語は歴史的「戦利品」であり、私の父はこれを学校で学んだ数少ないアラブ人のひとりだった。私たちは家庭でフランス語を話し、家庭外の規則とは必ずしも一致しない規則に従って生活していた。エテル・アドナン(註:レバノンの詩人/ヴィジュアルアーチスト)と同じように、私もアラブ語を神話的言語のように崇めているが、アラブ語は私にとって極私的な悲しみであり、恥辱であり、欠けたものだった。私はその最も繊細なニュアンスまで知りたいと夢見ていたし、その秘密を自分のものにしたいと思っていた。子供の頃学校でアラブ語を学んだが、その女性教師はその講義時間の大部分をコーランの教育に割いた。彼女は生徒が質問をすることとその教えを問い直すことを許さなかった。私がアラブ語を完全に習得することができなかったのは多分この教育法のせいだった。その女教師はアルビノで両足が紫色になるほど窮屈な靴を履いていたが、ある日甲高い声でこう断言した:「ムスリムでない者は天国には行けない。すべての不信心者は地獄の炎の中で果てることになる。」 このことは私をおおいに困惑させた。私はまぶたが涙でいっぱいになったことを覚えている。私は祖母や叔母や私たちの友人たちが悪魔の手にかかって果てると考えてしまった。でも私は何も言わなかった。私はこの女の凶暴さを知っていて、沈黙を守るべきだということをよく理解していた。私が生きていた国では、ウルトラな狂信者たちの前では言いなりになるべし、いざこざは起こすべからず、危険を冒すべからずと教えられた。反動主義が脅威を増し、社会の中で盲信主義が網を張っている時には、人々は自らを偽るようになる。内縁関係にあることや、同性愛者であることなど言ってはいけない。ラマダンをしなかったことを白状してはいけない。酒の瓶は隠すべし。黒いビニール袋にしっかり包装して自分の家から数キロ離れたところに夜捨てに行くべし。やっかいにも口が正直な子供たちにこそ警戒しなければならない。私の両親は何時間もかけて私の口が押し黙らなければならないことを説明したものだ。私はこれを心底嫌った。私は自分の臆病と彼らの言う真理への服従に憎悪した。(サルマン)ラシュディーが教えてくれたのは、背信することの可能性を考慮することなしに、また子供時代から隠されつづけてきたこれらの事実を語ることなしには、文章を書くことなど不可能なのだ、ということ。
(p135 - 136)

私はこれをイスラムの問題とは思わない。イスラムをよりどころとする人々が作ってしまった通俗的で教条的な世の習いの問題であると思うし、植民地支配から開けたばかりの社会が旧体制とラジカルに異なった社会へ変容するためのプロセスでもあったと思っている。私はこれが本当に怖い。「宗教の名」のもとに”問題起こすべからず”を、民間で共同監視する環境。これを報告し、告発し、抵抗するのも文学である。レイラ・スリマニはネットとSNSの世界では恒常的に極右勢力から("反日”ならぬ)”反モロッコ”レッテルの攻撃に晒されている。私がレイラ・スリマニを信頼するのはこの点においてもである。

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