2021年2月28日日曜日

ジャーマネ一代男

Francois Ravard "Rappels - Mémoires d'un manager"
フランソワ・ラヴァール『ラペル:あるジャーマネの回想録』
 
"5人目のテレフォヌ"と言われた男フランソワ・ラヴァール(1957 - )は1976年から10年間、フランスのトップロックバンド、テレフォヌのジャーマネを務め、その後も音楽と映画のプロデューサーとして、レ・リタ・ミツコのアルバム『ザ・ノー・コンプレンド』、ジャン=ピエール・モッキーの2本の映画、セルジュ・ゲンズブールの最後の映画『スタン・ザ・フラッシャー』を制作、そして1994年から26年間にわたってマリアンヌ・フェイスフルのジャーマネでもある。
 フランスではとにかくテレフォヌが破格の人気バンドであったから、この本への興味というのはそのバンドの内部から捉えた行状記という点に集中すると思うが、熱心なファンではない私やあなたには、この本の前半はそれほどのめり込める内容はない。ただ、フランスの特殊な事情はとてもよく見えてくる。まず日本でも同じ頃(1970年代)に同じような問いがあり「日本語によるロックは可能か?」に、いわゆる「洋楽」側の人たちは非常に冷ややかだった。アプリオリに本物のロックは英米なのである。テレフォヌはフランス語ロックでメジャーデビューした稀有なバンドのひとつだったが、レコード会社(パテ・マルコーニ)はやる気がなく、このバンドの将来など知ったこっちゃないという態度だった。 これはパテの担当ディレクター、フィリップ・コンスタンタン(1944 - 1998。テレフォヌの他に、レ・リタ・ミツコ、キャルト・ド・セジュール、ステファン・エシェール、モリ・カンテなどの発掘者として知られることになる)のバックアップがあっても事情は変わらない。私は業界内部の人間として1980年代後半からこのパテ・マルコーニほかフランスのレコード会社に出入りしていたが、このフランスの大手レコード会社のやる気のなさ、というのはよく感じていた。長波ラジオ(FM以前)の歌番組感覚、主流販売媒体がカセットテープ、ヴァリエテ/シャンソン/アコーディオン...。この人たちにロック革命はゆっくりとしかやってこなかった。このやる気のない旧体制の会社と心中しないために、バンドは制作・楽曲管理・プロモなどを自分たちの管理下に置くよう独立会社を作ってレコード会社と会社対会社の交渉ができるようにする。テレフォヌ・ミュージックはこうして出来上がり、ラヴァールが代表者+バンドメンバー4人で構成された。こういうシステムは英国ではずいぶん前から広まっていたのだが、フランスでは最初。ましてや"マネージャー”というアーチストの渉外全般を扱うプロなどフランスにはいなかった。ラヴァールはフランスで前例のないロックバンドジャーマネとして、誰も教えてくれないショービジネスのジャングルで手探りでジャーマネ業を学び、ビートルズやローリング・ストーンズの歴史的ジャーマネと同じほど重要なものに昇格させていくのである。
 独立の広告業者を父親に持ち、学校とソリが合わず不登校になった少年フランソワは、学校に行かなくてもいいから英語を覚えて来いとロンドンに留学させられる。15歳で70年代ロックカルチャーのど真ん中に飛び込み、世界各地から集まったヒッピーたちと不法占拠家屋で共同生活をし、都市ボヘミアンとロックの青春(いいなぁ...)。パリに帰り、唯一興味のあった映画を学ぶため一念発起して独学でバカロレアを取得しパリ大学ヴァンセンヌ校映画科に編入、そこでオリーヴ(オリヴィエ・コードロン 1955 - 2005)と邂逅。大学キャンパスでギグしていたパンクバンドのヴォーカリスト/ギタリストだったオリーヴがラヴァールに引き合わせたのはリセ以来の親友で時々一緒にギグもしていたジャン=ルイ・オーベール(1955 - )だった。この3人が波長が合ってしまって、ひとつアパルトマンに同居して、音楽創造したり、ドラッグをきめたり、パリのアンダーグラウンド・シーンでのやんちゃを繰り返すのだが、チケット買う金がないので外タレのロックコンサートにはすべてホールの屋根から忍び込むという冒険譚はじつに素敵だ。20歳になるかならないかの頃だもの。で、オーベールが時々参加していたバンド"セモリナ”のドラマーのリシャール・コランカ(1953 - )が、1976年11月12日、パリ14区の500人キャパのホール"アメリカン・センター”(その場所は現在フォンダシオン・カルティエ=カルティエ現代美術財団になっている)でのコンサートの契約をとりつけたのだが、コンサートの3週間前にバンドが喧嘩別れ解散をしてしまう。コランカがキャンセルはもったいないと言うので、ラヴァールとオーベールとコランカが人選して間に合わせで立ち上げたバンド4人:ジャン=ルイ・オーベール(ギター/ヴォーカル)、リシャール・コランカ(ドラムス)、オーベールのリセ友でジャック・イジュランのバンドでプロデビュー済みのルイ・ベルティニャック(リードギター、1955 - )、ベルティニャックがその加入の必須条件としてつきつけた当時の恋人コリンヌ・マリエノー(ベース、1952 - )、これが未来のスターロックバンドの始まりだった。バンド名も決まっておらず「11月12日にロックコンサート」とだけ書いたチラシ/ポスターをパリ中に配ったが、当日蓋を開けてみたら超満員大盛況。テレフォヌという名は(当時)最も簡便で効果的な伝達ツールという点に着目したオーベールが、ロックによるメッセンジャーたらんという思いから提案し、全員の賛意を得た。4人+ジャーマネの5人、これがすべてを共有し、ギャラ報酬も5等分で分ける。アメリカン・センターのギグの評判はたちまち業界に広がり、様々なコンタクトやオファーが飛び込んでくるのをさばくのがジャーマネの仕事。19歳の若造は海千山千のショービズ猛者たちにもまれながらもバンドの独立を絶対的に保持する姿勢を崩さず...。まあこれは一種のサクセスストーリーなので全体の筆致は自画自賛ぽい。
 さて前述のようにこのバンドに全く期待をかけていなかったレコード会社パテ・マルコーニと契約し、1977年、ロンドン、エデン・スタジオで録音したファーストアルバム『アンナ』(→写真は当時まだ無名だったジャン=バチスト・モンディーノ)を発表。ここからテレフォヌの快進撃が始まり、1984年の5枚目のスタジオアルバム『Un autre monde(別の世界)』までミリオンヒットに次ぐミリオンヒット、ツアーはスタジアム級という急成長を遂げる。まあ、フランスにいないとよく見えない現象ではあるので詳しくは書かない。(↓デビュー時1977年にパリ地下鉄営団とのタイアップで行われた地下鉄ナシオン駅構内でのライヴ動画、曲は「イジアフォヌ (Hygiaphone)」)
 さて、このデビューアルバム『アンナ』のジャケでも(↑)の動画でもそうなのだが、このバンドで否応なく目立ってしまうのが、凄腕女性ベーシスト、コリンヌ・マリエノーの存在である。稀である。こういうのはあの時代世界を見渡しても、トーキング・ヘッズのティナ・ウェイマスぐらいしかいない。日本語の「紅一点」とはマッチョな環境の中でのチャームポイントのように捉えられるが、バンドはそれを際立たせようとしたわけではない。このラヴァールの回想録の中でコリンヌの位置は微妙である。テレフォヌは1986年に解散するが、その29年後2015年にレ・ザンシュ(Les Insus)と名乗ってコリンヌを除く3人で再結成されている(バンドとしての決定はすべて5人の合議に基づくという縛りから"テレフォヌ”と名乗れない)。テレフォヌのファンたちにとってはコリンヌは一番のやっかい者という印象があるが、この本はそれを証言するような記述が多い。1977 - 78年の冬、ローリング・ストーンズがわが町ブーローニュ・ビヤンクールのパテ・マルコーニのスタジオでアルバム『サム・ガールズ』の録音が行われ、その滞在中にテレフォヌのメンバーとちょっとした交流があったのだが、ジャン=ルイとラヴァールにキース・リチャーズがこんなことを言っている。
「なんだって? おまえたちのバンドには女がいるのか? ギタリストとカップルだって?! 覚悟しろよ、野郎ども、面倒なことになるぜ」(p72)
(←1979年セカンドアルバム『毒を吐き出せ(Crache ton venin)』のヌード仕掛けジャケ。ジャン=バチスト・モンディーノ)
これが未来を暗示するキースならではの啓示的な一言なのだ、というトーンがこの本にはある。それは直接的に「女はやっかいである」という性差別思考だとは言わないが、後年5人の亀裂が表面化する時、まとめ役のジャーマネであるラヴァールと悉く対立していくのがコリンヌだった。上で述べたようにテレフォヌ結成時にベルティニャックと恋仲であり、ベルティニャックが強引にバンドに引き込んだ経緯があるが、そのベルティニャックとの関係も永続的なものであるはずがなく、その破局後コリンヌは一時的であるにせよジャン=ルイ、次いでリシャールとも関係を持つのである。バンドの中が穏やかならざるものであったことは間違いない。年齢も関係しているかもしれない。コリンヌは最年長であり、最年少のラヴァールと5歳違う。バンドは結成以来、原始共産制のようにすべての収入を5等分分配することにしていた。また楽曲はほぼ全曲がジャン=ルイ・オーベールの作詞作曲であったにも関わらず、バンドの共同創作として著作権登録し、(これに限ってはラヴァールを除外して)著作権収入は4等分分配された。リーダーのないメンバー同等の共同創造(クレアシオン・コレクティヴ)、これに最もこだわったのがコリンヌだった。インタヴューは一人で受けず必ず4人で。
 成功の数々の果てにいよいよバンドの亀裂が深まった頃の1984年、テレフォヌは日本に行き、武道館にジ・アラームの前座として2回登場している。友人の谷理佐は新宿ルイードでのギグを見たと言っていたが、そのことは本書では触れられていない。相撲観戦や黒澤明『乱』の撮影に立ち会うなど盛り沢山のスケジュールをこなしたが、その中で日本のテレビ出演でライヴ演奏するという機会があった。ところがその収録ヴィデオを見たコリンヌが激怒する。ほぼジャン=ルイしか映っていない。これは何だ!われわれは「ジャン=ルイ・オーベールとそのグループ」ではない。テレフォヌというバンドである。テレビ局に対して猛烈な抗議を行うのだが、生放送だったのでどうしようもない。これがコリンヌをよく象徴するものであるが、これに関してはコリンヌが圧倒的に正しい。
 1986年テレフォヌは二つに分裂し、一方は”Aubert n Ko”(オーベールとコランカ)、他方は"Les Visiteurs"(ベルティニャックとマリエノー)となる。その後もラヴァールが代表者としてテレフォヌの楽曲管理をしていた5人の会社テレフォヌ・ミュージックの経営をめぐって、ラヴァールとコリンヌ・マリエノーは衝突し、ついには会社を売却する結末となる。有名バンドの解散はどこも巨大な金の取り合いとエゴの衝突というのが相場だが、このバンドではそれに加えてこのジャーマネと女性ベーシストの確執が大きな要因になっている、と読ませる本なんだね、これは。30と数年経った今でも、これは未解決の問題であり、3人(+ジャーマネ)で復活したバンドが"テレフォヌ”を名乗れず、コリンヌは頑なに再加入を否定する(または否定されてる)のは、既にこの本で言い訳されている。そしてそのフシにはどこか言外に「しかたないじゃん、女なんだから」というニュアンスが透けて見えるのだよ。絶対に言ってはいけないことなのだけど。
さて、本書の前半はテレフォヌの栄枯盛衰で閉じられ、後半には映画プロデューサーとして、貧乏多作映画作家ジャン=ピエール・モッキー(1933 - 2019)との(めちゃくちゃに消耗する厳しいものだったが充実した)2本の映画制作に続いて、セルジュ・ゲンズブール(1928 - 1991)の生涯最後の映画『スタン・ザ・フラッシャー』(1990年)の制作、というたいへん興味深い章がある。 退職した英文学教授が、世間からも妻からも見放され、老いと性的減退に怯えながら、個人授業の(ロリータ)女生徒たちに”露出”するというシナリオで、当時は大映画監督にして大映画プロデューサーだったクロード・ベリ(1934 - 2009)を主演男優に選んだ。この章ではゲンズブールがどうのこうのよりも、クロード・ベリがいかに身勝手で最低の男であったかに多くが割かれていて、ゲンズブールも覇気に欠けていた様子が窺われる。映画監督の経歴としてはそれまでの4作ことごとく興行的には失敗しているが、本人は高踏的な作家主義映画であろうという意思はなく、人が入り話題になる映画を作ろうと思っている。だから毎回人が入らないことに深く消沈している。そしてこの映画も同じ末路となる。1990年3月に封切られ、2週間で上映館から姿を消したこの映画の悪評が死を早めたのかもしれない。手術で体が弱り、アルコールは絶ったが、タバコはやめられない。おまけにバンブーとの関係も悪化した。生気を失った状態のゲンズブールにラヴァールは時々会いに行ったり電話で話したりしたが、それでも次のプロジェクトがあり、ニュー・オルリンズでブルースのアルバムを制作する、と語っていたそうだ(1991年3月2日ゲンズブールは他界する)。
 後世にこの映画が語られるとすれば、女優エロディー・ブシェーズ(1973 - )を発掘した映画であるということ。ゲンズブールはこの女優の将来を確信していて、この映画のサントラ曲を作って彼女に歌わせると言っていたが、実現されていない。それからゲンズブールは彼女の「ブシェーズ」という姓を"どうもいただけない"と嫌っており、映画のエンドロールには「エロディー」としか表記されていない。

(←マリアンヌ・フェイスフルとフランソワ・ラヴァール、2005年)
 本書の第三部の約60ページは1990年代から四半世紀にわたってラヴァールがジャーマネとなるマリアンヌ・フェイスフル(1946 - )に割かれている。言うまでもなく60年代のロック・アイコンであり、当時も今もローリング・ストーンズと太いパイプで繋がっている”歴史的”女性である。私はロック史の重要人物として敬意を表することはあっても、音楽アーチストとして惹かれたことはなく、1枚のアルバムも持っていない。むしろ苦手。というわけで、破天荒な行状と(金がないのに)金のことを頓着せず豪遊する貴族のような気位の高さと根っからのジャンキーであることだけ、よくわかったとしておく。10歳年下のラヴァールとは10年間ほどプライヴェートでもカップルの関係にあった。

 最終章は、ロック人間の宿命であるかのように、セックスとドラッグ(+アルコール)とロックンロールで体をボロボロにしたフランソワ・ラヴァールが超悪性のC型肝炎となり、肝臓移植以外生存の道はない、と。生死の境をさまよいながら、天はラヴァールを見放さず、移植手術が成功し、激励にやってきたあの旧友3人が、俺たちまたバンドやるぜ、というものすごいニュースを持ってくるし...。めでたしめでたしで回想録を閉じるのでありました。
 
 リアルタイムでフランスの音楽業界にいた私としては、めちゃくちゃよく知ってる部分もあるが、大方は雲の上のショービジネスの話で、テレフォヌのファンやゲンズブール研究家、ローリング・ストーンズマニアには読んでおいても悪くない一冊ではなかろうか。登場する交友関係者で興味深いのは前述のフィリップ・コンスタンタン、作詞家・作家のエチエンヌ・ロダ=ジル、そしてピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ。間接的だが私にも非常に重要な影響のあった3人であった。
 おしまいになったが、書名の"Rappels"(ラペル)とは、さまざまな意味があり、まず電話(テレフォヌ)では返信・コールバックのこと、コンサートではアンコールのこと、会計用語では請求書未支払いに対するリマインダー(再請求)のこと、一般的にはメモ書きなどの備忘録のこと。ジャーマネやってれば、みんな重要な意味を持つ言葉であろう。優れたタイトルだと思います。
 
Francois Ravard "Rappels - Mémoire d'un manager"
Harper Collins 刊 2021年1月、300ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓ハーパー・コリンズ社による本書のプロモーションヴィデオ)


(↓レ・ザンシュ Les Insus 2017年 アコーロテル・アレナ=旧ベルシーでのライブ「イジアフォヌ」)


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