レイラ・スリマニ『鬼の庭で』
Leïla Slimani "Dans le jardin de l'ogre"
2016年度ゴンクール賞を獲得した『やさしい歌』の作家レイラ・スリマニが2014年に発表した彼女の第1作めの小説です。私は当然『やさしい歌』に圧倒的に魅了されたがために、緊急にこの第1作を手にしてしまったのですが、しかし何という筆力でしょう。1行1行ごとに鞭打たれるような激しさが秘められています。
主題は簡単ではありません。性依存症の女性の話です。 この病気はプロ・ゴルファーのタイガー・ウッズや仏政治家ドミニク・ストロース=カーンの事件があった時から一般に認知されるようになりましたが、それまでは「異常性欲」「淫乱」「変態」といったフツーの人間の悲しい性(さが)の延長のような扱いだったと思います。ある種誰でも持ってるダークサイドのような軽い認識。それはインターネット時代に一挙に氾濫するようになった性情報とポルノグラフィーによって、私にもあなたにもある興味と興奮が、なあんだ、みんなそうなんじゃん、という誤った「理解」ですね。性依存症はそんなレベルではない。
女性の場合、性欲過多のような蔑称の言い方は「ビッチ」(英)、「サロップ」(仏)、 「痴女」(日)です。どれもひどい言葉です。だから、この小説は読者の側に性依存症という認識がなければ、これは「サロップの物語」としてしか読まれないのです。
アデルは医師であるリシャールと結婚し、男児(リュシアン)をもうけ、国際時事週刊誌のジャーナリストとして働いています。パリ暮らしと病院勤めにうんざりしているリシャールは、地方(ノルマンディーに目を付けている物件がある)に大きな家を持って家族でゆっくり暮らしたいと考えています。アデルはそれに賛成も反対もしません(つまり、反対なのですが、その理由は言えない)。
小説はアデルがその性衝動をやっとのことで1週間抑えられた、というイントロで始まります。パリ市を縦断して走り回り、水ばかりを飲み、早寝早起きをして、必死にそのことを考えまいとしますが、1週間目で炸裂して、ある男のところに転がり込んでいく。この抗いようのない性衝動に対応するために、アデルは身内の者は誰も知らない第二の携帯電話があり、何十というセフレの名前がリストされた鍵付きのアドレス張がある。このアデルの裏の顔は絶対に暴かれてはならないのだけれど、その危うさを時々無防備に露呈させて、同じ社のジャーナリスト仲間のパーティーなどの深夜に酔ったふりをして若い新米記者を誘惑してしまう。済んでしまえば、よくあることで、「昨日は飲みすぎたわね、ごめんなさい、なかったことにしましょう」で了解できればいいのですが、ウヴだったりセンチメンタルだったりする男はそうでは済まなくなる場合があります。しつこく「次いつ会える?」とか「僕ときみはこのままで済むわけがない」とか言い出す輩が厄介です。
というわけでアデルは経験から、口が堅く、情緒に薄く、急な欲求にも対応可能な男たちをセレクトして関係を保っています。しかし作家の描き方は、この性衝動は快楽原則とはやや異なっているように思えます。アデルにとって必要なのは、とにかく男が挿入して機械的に運動を繰り返してくれること、それだけが重要なのです。その間アデルは目を開けて天井の隅の汚れや、壁紙の柄の連続性などを観察している。これが済めば1日2日は我慢できるという充足感だけなのです。
小説の前半は、不器用に子育てと職業(国際時事ジャーナリスト)をかろうじてこなして、いつ夫に発覚するかもわからないリスクを冒しながら、発作的に訪れる性衝動の充足のために奔走するというアデルの二重生活が描かれます。夫リシャールとは愛情関係にあるのか、というと、アデルは頼れるのはこの男しかいないというレベル。しかし秘密は守られなければこの薄氷の夫婦/家族は崩壊してしまう。リシャールはある種伝統的カトリック系とも思える家族の絆や、家庭の充実を重んじ、優秀な医師としての信望を得て、豊かな自然の中の田舎医師として生きていきたい。もう一人二人子供が欲しい。良き夫良き父親として家族建設をリードしていく家父長タイプ。性欲は淡白で、若い頃から男たちのその種の冒険やジョークに眉をひそめてきた(しかし小説の後半でリシャールが若い娘にグラっと揺れるエピソードあり)。
アデルが隠れながら繰り返す男刈りの相手の一人として現れるのが、リシャールの親しい同僚である医師のグザヴィエです。妻のフランソワーズと共にリシャール/アデル夫婦との夕食の席の背後で、アデルはグザヴィエを誘惑してしまう。二人のダブル不倫はやがてパリ13区に逢瀬専用の部屋を持つほどエスカレートしていく。ここがアデルの闇の世界の崩壊の始まりです。
さらにリシャールがスクーター事故を起こして脚部を壊し、緊急入院、手術、リハビリという長期間に及ぶイレギュラーな日々が始まります。アデルは甲斐甲斐しくリシャールを看病して支えますが、その間にも性衝動はやってきて、隠れた行動をやめるわけにはいかない。体に自由が利かなくなったリシャールは観察眼が鋭くなり、疑惑が湧いてきます。そしていち早くその関係に気づいたフランソワーズが、リシャールにグザヴィエとアデルの密通のことを明かします。 リシャールはアデルの不在中に子のリュシアンがたまたま見つけたアデルの「第二の携帯」、そして秘密のアドレス帳を探り当て...。
アデルとリシャールの関係はここで壊れるはずでした。
ここからがこの小説のエモーショナルなところで、あらゆる名前の疑惑をかけられたアデル、世にもおぞましい「サロップ」の正体が暴かれてしまったアデルが、リシャールに許しを請います。"Il est plus fort que moi"(それは私よりも強い=私の理性ではコントロールできない)と。リシャールは許せる心などありません。それは家族の体面を死守すること、家に汚名がかぶさってはならぬ、という田舎保守的なリシャールの理念が、この受け入れがたい屈辱をリシャールに受けさせたのかもしれません。
リシャールは予定どおりノルマンディーの田舎に大きな敷地の家を購入し、近隣の町の診療院に席を得て、リュシアンとアデルを連れてパリから引っ越します。アデルは今や専業主婦です。すなわち収入ゼロ。金銭を厳格にリシャールにコントロールされ、外出や移動などの自由を制限され、半ば幽閉状態で家事と育児をしています。リシャールも医師ですから、アデルの性依存症は病気であるという認識ができます。心理医療士によるカウンセリングや食餌療法 などで、この依存症から脱する試みをします。アデルはリシャールに許しを請いた時から、リシャールが強いるあらゆる条件を受け入れる覚悟がありました。なぜならばアデルはリシャールを本当に愛していたことに気づいたからです。
月日は流れ、都会から隔てられてストイックに衝動の沈静化を得ようとしたアデルとリシャールの努力は少しずつ実を結んでいっているように見えます。許されない妻にリシャールは少しずつ許しを返していく。アデルはこれを蘇生への最後のチャンスと思い、耐えていく...。アデルとリシャールの間に雪解けが見えた頃、リシャールは200ユーロの現金を与えて、パリへの一泊旅行を許します。しかし、悪魔は再びそのスキを見逃さないのです....。
帰宅予定に帰ってこなかったアデル、連絡不能になったアデル、翌日もまたその翌日も戻ってこないアデル、待ち続けるリシャール...。
ぎゅ〜っと胸締め付けられるエンディングです。作者はここで不確かな未来形文体でアデルの蘇生と、忍耐による愛の勝利を描こうとするのですが、本当に不確かなのです。おぞましいほど狂おしく耐え忍びの極限まで強いる忍耐の愛、アデル、その闘いはまだ終わっていないんだ、と。わおっ!
Leïla Slimani "Dans le jardin de l'ogre"
単行本発表 2014年(Gallimard刊)
文庫本刊行 2016年11月 (Folio) 230頁 7,10ユーロ
カストール爺の採点:★★★★★
(↓自作『鬼の庭で』を紹介するレイラ・スリマニ)
0 件のコメント:
コメントを投稿